第八章 灯台の町・リヒナ・本当の名前
ベルケナを出てから、私は一度も、手配書に書かれていた名前を口にしなかった。
紙は修繕鞄のいちばん奥に入っている。釘や糸玉の下に隠しても、そこにあることだけは、ずっと分かった。
フリーデリケ・ヴァイス。
《落星の魔女》。
その名前を知ったあとでも、隣を歩く人は同じだった。
長い黒髪を外套の中へ入れ、黒い杖を布で包み、私より少し大きい歩幅を、わざわざ小さくして合わせてくれる。道端で休むときには、私の水筒が空に近いことに先に気づいて、黙って川の水を汲みに行く。
だから余計に、名前だけが遠かった。
私は、紙に書かれた人と、フリーダを、どう重ねればいいのかまだ分からない。
海が見えたのは、ベルケナを出て二日目の午後だった。
高い坂を越えた先に、灰青色の水面が広がっている。崖の上には白い灯台が立ち、その足元から港町が斜面に沿って下りていた。
リヒナ。
潮の匂いと、網を繕う人たちの声と、カモメの鳴き声が混じる町だった。
港には、半分だけ帆を下ろした漁船が何艘も並んでいる。けれど、沖へ出ている船は少ないらしい。海を見上げる人たちの顔には、晴れ間を喜ぶより、雲の向こうを警戒する色があった。
フリーダは、灯台の方を見た。
「灯りが消えているわ」
昼間なのに、彼女の言葉が気になった。
灯台の頂には、硝子の筒が見える。そこにあるはずの光の魔導石は、薄曇りの中でも眠ったように暗かった。
港へ下りると、漁網を畳んでいた老人が、私の修繕鞄に気づいた。
「修繕士さんかい」
「そうです。リーゼロッテ・ベッカー」
「なら、ちょうどいい。マリナが灯台で唸ってる。灯りを直せる人を待ってたんだ」
「灯台守の方ですか」
「そう。あの人の機嫌が悪いと、海の方が静かに見える」
老人は、冗談なのか本気なのか分からない顔で、崖の上を指した。
「今日は北から風が変わる。帰る漁船がある前に、見てやってくれ」
私はフリーダを見る。
彼女は少しだけ頷いた。
「行きましょう」
灯台の扉を叩くと、中から大きな音がした。
何かが転がり、それから、低い声で「今行く」と返ってくる。
開いた扉の向こうにいたのは、三十代半ばくらいの女性だった。褐色の髪を短く切り、袖を肘までまくり上げた作業着の上に、青い防水外套を羽織っている。片方の頬には煤がつき、手には小さな歯車が握られていた。
「修繕士?」
「リーゼロッテです。港で、灯台の灯りが壊れたと聞きました」
「ロッテ、ね。私はマリナ。来てくれて助かる」
マリナさんは、すぐに私の手を取ろうとして、油のついた手に気づき、慌てて引っ込めた。
「今は、手を振るだけにしておく」
「それで大丈夫です」
「助かる」
彼女は私たちを中へ招き入れた。
螺旋階段の中心には、太い鎖と滑車が通っている。壁には海図と、潮の高さを書き込んだ板が何枚も掛けられていた。
「上です。魔導灯の芯が割れた。予備はあるけど、入れ替えたら、前と同じ光にはならない」
「上まで見せてください」
階段へ向かうと、フリーダが鎖の横に積まれた真鍮の重りを見た。
「これは、上へ運びましょうか」
「駄目」
マリナさんと私の声が、ぴたりと重なった。
フリーダが瞬きをする。
「これは灯台の灯りを回す重り。持ち上げたら、今度は灯台ごと止まるよ」
マリナさんが言う。
「そうなのね」
「手伝いたいなら、階段を上がってきて。今日はそれだけで十分」
「ええ」
フリーダは真剣に頷いた。
私は、少しだけ笑いを噛み殺しながら、その後ろを上った。
灯室は、海と空に囲まれていた。
丸い硝子窓の向こうに、港の屋根と、遠い水平線が見える。中央には、腰の高さほどの大きな魔導灯が据えられていた。青白い魔導石を、何枚もの反射鏡が囲んでいる。灯りをつければ、鏡がゆっくり回り、海の上へ一定の間隔で光を送る仕組みだ。
けれど、魔導石の表面には、縦に深い亀裂が入っていた。
「昨日の夜、雷が近くへ落ちたんですか」
私は訊いた。
「いいや。あれは、戦争中の傷だ」
マリナさんは、魔導石へ触れないように手を伸ばした。
「魔王軍の飛び獣が、灯りへ寄ってきたことがあった。町を隠すために、私が魔導灯を止めた。石が熱を逃がせず、割れた」
「それから、ずっとこのまま?」
「割れたままでも、弱い光なら出せた。漁船が沖へ出ない時期もあったしね」
マリナさんは、胸ポケットから、布に包んだ新しい魔導石を取り出した。
「予備の《青潮石》は、ずっとあった。入れ替えれば、灯りは直る。でも、この石を外したら、昔からここにあった光がなくなる気がして」
古い石は、割れていても、まだ微かな青を閉じ込めている。
使えなくなったから手放すことと、忘れることは、同じではない。
私は何度もそう言ってきた。けれど、実際に手放すかどうかは、直す側が決めてよいことではない。
「新しい石だけに替える必要はありません」
私は言った。
「古い石の割れていない部分を、土台の魔力環に残せます。新しい石が灯りを作って、古い石は、今までの光を覚えている部分として」
「そんなことができるのか」
「できます。ただし、前と同じではないです」
マリナさんは、窓の外を見た。
沖には、まだ戻らない船が三艘ある。灰色の雲の下に、帆だけが小さく見えた。
「前と同じにしたいわけじゃない」
彼女は言った。
「同じじゃなくなったことを、私が認めたくないだけだ」
フリーダが、魔導石を静かに見ていた。
「変わった灯りでも、帰る場所を示せるなら、それでよいのではないかしら」
その声は、マリナさんへ向けているようで、誰か別の人へ話しているようにも聞こえた。
マリナさんは、しばらく黙った。
「よし」
やがて、彼女は新しい青潮石を私へ渡した。
「直してくれ。今夜、船を帰す光にする」
修理を始めてすぐ、私は困ったことに気づいた。
古い魔導石の欠片を土台へ残すには、鏡の回転軸をいったん外さなければならない。けれど、長年動いてきた真鍮の輪は潮風で固くなり、手工具だけでは外れなかった。
「油を足しても、びくともしない」
マリナさんが歯を食いしばる。
「回転軸の下に、錆びた留め具がある。そこだけ外せれば」
フリーダが、灯りの土台を覗き込んだ。
「その留め具は、私の魔法で動かせますか」
「動かせる?」
「地脈操作ほど大きなものではありません。金具にだけ、少し力をかけます」
彼女は、私の顔を見た。
前なら、もう杖を向けていたかもしれない。
今は、待っている。
「うん。ここからここまでだけ」
私は留め具の周りに、黄緑の糸で小さな輪を作った。
「鏡には触れないで。軸を半歩もずらさない」
「分かったわ」
フリーダの杖の先に、控えめな白い光が集まる。
留め具が、きし、と短く鳴った。
錆の内側へ魔力が入り、固まっていた金属だけがゆっくり緩む。鏡は揺れない。軸も、土台も、そのままだ。
マリナさんが、驚いた顔で留め具を回す。
今度は、するりと外れた。
「……これだけ?」
「これだけよ」
フリーダは言った。
「すごい」
「ロッテが、届く場所を教えてくれたから」
私は、急に耳が熱くなった。
「うん。今の、すごくよかった」
「褒めているの?」
「かなり」
フリーダは少し考えてから、満足そうに頷いた。
マリナさんは留め具を手に持ったまま、声を上げて笑った。
「灯台の修理で、こんなやり取りを見るとは思わなかった」
夕方になる前に、古い石は慎重に取り外された。
割れていない青い欠片を、土台の内側にある細い環へ納める。新しい青潮石は中心へ据え、魔力が流れる道を、私の糸で一本ずつ縫い直していく。
窓の外では、空の色がゆっくり暗くなり始めた。
そのとき、階下から扉を叩く音が響いた。
すぐ後に、低い男の声がする。
「灯台守マリナ・エルンスト。王都からの使いだ」
フリーダの顔から、血の気が引いた。
私も、息を止めた。
マリナさんが窓から下を覗く。港の道に、灰色の外套を着た男が立っていた。フルセアでわたしたちを追ってきた騎士団の先頭にいた人だ。あのときと同じ、短く刈った金髪が見える。
「ここに、黒髪の魔法使いが来ていないか」
階下から、男の声が続いた。
「修繕士リーゼロッテ・ベッカーにも用がある」
「知ってる人?」
マリナさんが、小声で訊く。
「……追手です」
フリーダが答えた。
その一言で、灯室の空気が変わった。
彼女は杖を取った。けれど、すぐに私の方を見る。
「ロッテ。どうすれば」
昨日までなら、逃げ道も結界も、きっと一人で決めていた。
私は胸の奥の怖さを飲み込み、修繕鞄の口を閉じた。
「私が話す」
「危ないわ」
「分かってる。でも、これは私が決める」
フリーダは、何か言いかけてやめた。
そして、ゆっくり頷いた。
灯台の外へ出ると、海風が外套を強く引いた。
灰色の男は、私を見ると馬から下りた。剣は持っていない。部下も連れていないようだった。
「リーゼロッテ・ベッカー」
「そうです」
「私はエーリヒ・フォークト。フルセアで会った」
「覚えてます」
「なら早い。黒髪の魔法使いは、ここへ来ていないか」
「なぜ、ここだと分かったんですか」
「フルセアから白樺の街道へ向かったという報せと、ベルケナの宿が海沿いの道を案内したという話がある。私はその報せを追って、一人で来た」
その問いに、手配書の重さが、また鞄の底から伝わる。
銀貨二百枚。
それだけあれば、何か月も仕事を選べる。壊れた靴を替え、足りない材料を買い、次の町で依頼がなくても困らない。
そう考えた自分に、少しだけ腹が立った。
私は、役に立てなければ、誰かのそばにいてはいけないと思ってきた。
ならば、王都に役立つ情報を渡せば、ちゃんとした修繕士として、もっと安全に生きられるのかもしれない。
でも、それでフリーダを引き渡したあと、私は何を直せるのだろう。
「見ていません」
私は言った。
エーリヒさんは、私の顔をしばらく見た。
「彼女は危険な魔法使いだ」
「知っています」
「そうか」
その返事が、少し意外そうだった。
「それでも、情報を渡す気はありません」
私は一度、彼の腰にある文書袋を見た。
「捕まえるなら、どうして一人で来たんですか」
エーリヒさんは少し黙った。
「評議会の特別捕縛令は持っている。だが、国王の封印がある正式な令状ではない。この港で部隊を使い、灯台の人や帰る船まで巻き込んで網を張ることを、私は命令されたとは思っていない」
風が、灯台の白い壁を撫でた。
エーリヒさんの目が、細くなる。
「これは反逆への加担と見なされるかもしれない」
「かもしれない、ではなく、そう言われるでしょうね」
自分でも、声が震えていないことに驚いた。
「それでも、私はあの人を報奨金で売りません」
「何を知っている」
「全部は知りません」
私は答えた。
「でも、フルセアで町を守るところを見ました。逃げるための結界だったのに、誰も傷つけなかった。私が知っているのは、それです」
エーリヒさんは、遠い海を見た。
「王都にも、彼女が生きて戻るべきだと思っている者はいる」
「手配書は、そう読めませんでした」
「……そうだな」
彼は否定しなかった。
「私が受けている国王の命は、生け捕りだ。だが、評議会の文書が先へ行く。止められないことが、正しいわけではない」
その声には、怒りよりも、疲れがあった。
私は、少しだけ息を吐いた。
「なら、これ以上、町の人を怖がらせないでください」
「それは約束する」
エーリヒさんは馬へ手をかけた。
「次に会ったとき、同じ返事では済まないかもしれない」
「そのときも、自分で決めます」
彼は一度だけ頷き、港の道を戻っていった。
灰色の外套が、町の屋根の向こうへ消えるまで、私はその場を動けなかった。
灯室へ戻ると、フリーダが窓のそばに立っていた。
彼女は、何も言わなかった。
マリナさんは、こちらの顔を交互に見てから、わざとらしく工具箱を鳴らした。
「私は灯台守だからね。海の外で起きたことは、海の外のことにしておく」
それから、新しい青潮石を指さす。
「今は、帰る船の光を作ろう」
その言い方がありがたかった。
私は頷き、最後の糸を結んだ。
けれど、魔導灯はまだ光らない。
新しい青潮石を目覚めさせるには、初めに大きな魔力がいる。灯台の蓄えだけでは、今夜の船が帰るまでに足りない。
マリナさんが唇を噛む。
「沖の船は、あと一刻で岩場へ近づく。これでは間に合わない」
フリーダが、静かに杖を持ち上げた。
「わたしが、魔力を入れます」
「でも、灯台の鏡は繊細だよ」
マリナさんが言う。
「下手に流せば、光が散って港の目をくらませる」
「だから、ロッテに結んでもらうわ」
フリーダは、こちらを見た。
その声には、怖さよりも信頼があった。
私は窓の外を見渡した。
沖の暗くなり始めた海。船が帰ってくる航路。港の手前にある、二つの黒い岩礁。そのさらに外に、古い航路標が小さく立っている。
「灯りの終点は、あの航路標と同じ沖合まで」
私は言った。
「港を囲むその距離の線を終点にして。そこまで光が届けば、船は岩を避けて港に入れる。広げすぎないで」
フリーダは、ゆっくり頷いた。
「ええ」
私は魔導灯の鏡へ糸を結び、中心の青潮石から、航路標を通る沖合の円弧へ向けて細い光の道を描いた。
それは、魔力を小さくする術ではない。
届くべき場所を、ここだと決める術だ。
フリーダの杖から、白い魔力が流れ出る。
量は、私がこれまで修繕に使ってきたものより、ずっと大きい。青潮石が受け止め、反射鏡がその光を海へ返す。古い石の欠片も、土台の内側で淡く青く光った。
灯台の頂から、一筋の白い光が沖へ伸びる。
光は航路標と同じ距離で止まり、そこから先へは行かない。
波の上に、帰るための道だけが浮かんだ。
「灯った」
マリナさんが、かすれた声で言った。
彼女は自分の手で、回転用の重りを外した。
鏡が、ゆっくり回り始める。
白い光が海を掃き、少し間を置いて、また港の外へ向かう。遠くの船が、その光を見つけたのが分かった。帆の向きが変わり、岩礁から外れる。
港の下で、待っていた人たちの声が上がる。
マリナさんは、目元を手の甲で拭った。
「前と同じ光じゃない」
「ええ」
私は答えた。
「でも、帰れる光です」
彼女は笑った。
「そうだね。今度は、私の灯りだ」
船が港へ入るころ、海はすっかり夜になっていた。
マリナさんは、私たちへ温かい茶と、塩気の強い焼き菓子を出してくれた。港の人たちが、灯台の下から何度も手を振っている。
フリーダは、湯気の立つ杯を両手で包み、少しだけ疲れた顔で、その光景を見ていた。
「マリナさん」
彼女が言う。
「灯りが戻ってよかったわ」
「うん。二人がいなければ、今夜は船を入れられなかった」
「いいえ。灯りをつけると決めたのは、マリナさんでしょう」
マリナさんは、一瞬だけ驚き、それから笑った。
「そういうことを、真面目な顔で言うんだね」
「本当のことです」
「それも知ってる」
彼女は、テーブルの上にある茶の葉を指さした。
「明日は、町が手配書の話でうるさくなるかもしれない。今夜は上の部屋を使いな。塔の明かりは、今夜だけじゃなく明日もつける」
「ありがとうございます」
フリーダは、深く頭を下げた。
その姿を見て、私は鞄の奥にある紙のことを思った。
紙の上の《落星の魔女》は、こんなふうに茶を冷ましながら、港へ帰る船を見送る人ではなかった。
夜が深くなってから、私は灯台の外階段を上った。
灯室のさらに上、海へ張り出した小さな見張り台に、フリーダがいた。
白い光が一定の間隔で彼女の横顔を照らし、次の瞬間には影へ沈める。
「ここにいた」
私が言うと、フリーダは振り返った。
「ロッテ。眠れないの?」
「うん。フリーダも?」
「少しだけ」
私は彼女の隣へ立った。
下にはリヒナの港があり、沖には灯台の光が伸びている。海風は冷たいのに、昼よりもずっと穏やかだった。
しばらく、何も言えなかった。
手配書を読んだときから、言わなければいけないと思っていたことがある。
でも、言葉にしたら、今までのフリーダがどこかへ消えてしまいそうで怖かった。
「フリーデリケ」
思い切って呼ぶと、彼女の肩が小さく揺れた。
「……その名前を、知ったのね」
「うん。手配書で」
「ごめんなさい」
また、彼女は謝ろうとした。
私は首を横に振る。
「謝ってほしいわけじゃない。まだ知らないことはたくさんあるし、すぐ全部を話してほしいとも思ってない」
フリーダは、海を見たまま黙っている。
「でも、私は今日、フリーダを売らないって決めた」
その言葉を言うと、胸の中にあった迷いが、少しだけ形になった。
「二百枚の銀貨のためでも、王都に役立つためでもない。私は、あの人たちにフリーダを渡さない」
「どうして」
「それを、今は全部説明できない」
私は正直に答えた。
「でも、私がここにいたいから。フリーダと、もう少し歩きたいから」
風が吹き、彼女の黒髪が頬へかかる。
フリーダは、それを払おうとして、途中で手を止めた。
「わたしが誰かに知られると、皆、いなくなると思っていたわ」
声は、灯台の光よりも小さい。
「強いから一緒にいられない、と言われたことがある。わたし一人で終わらせられるのに、自分たちは何のためにいるのか、と」
胸が痛んだ。
それは、フリーダが今まで詳しく話さなかった傷だった。
「私は、強いから一緒にいるわけじゃない」
「なら、どうして」
「一緒に歩くと、面白いから」
フリーダが、少しだけ顔を上げた。
「水車を回しすぎるし、旗を髪に結ばれるし、灯台の重りを運ぼうとするし」
「それは、褒めているのかしら」
「かなり」
彼女が、小さく笑った。
その笑い方を見て、私もようやく息を吐いた。
「未来のことまでは、約束できない」
私は言った。
「でも今日、私はここにいる。明日も、一緒に行きたいと思ってる。だから、勝手に私がいなくなるって決めないで」
フリーダは、長いあいだ何も言わなかった。
やがて、彼女の手が、私の手の甲へそっと触れた。
温かい手だった。
「……分かったわ」
「それでいい」
「ロッテ」
「うん」
「フリーデ、と呼んで」
胸の奥が、静かに鳴った。
「いいの?」
「二人だけのときなら」
私は、その言葉を大事に受け取った。
外では、彼女を守るためにフリーダと呼ぶ。けれど、二人きりのいま、この人が自分で渡してくれた名前を、私は間違えずに呼びたかった。
「フリーデ」
彼女は目を閉じた。
それから、私の手を少しだけ強く握った。
「ええ、ロッテ」
灯台の光が、もう一度、海の上をまっすぐ照らした。
帰る船にも、これから町を出る私たちにも、その光は同じように道を示していた。




