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第七章 白樺の町・ベルケナ・逃走

白樺の道を歩き続けて、夜が明けるころには、木の幹が左右どこまでも続いていた。

 フリーダは、眠っていないはずだった。

 フルセアを出てから、彼女は一度も弱音を吐かなかった。歩幅も乱さず、渡し舟でもらったパンを半分ずつ食べ、私の修繕鞄から預かった布袋も、ずっと丁寧に持っていた。

 それでも、時々だけ、背後を振り返る。

 川はもう見えない。追手の灯りも、朝の霧の向こうに消えている。

 「少し休む?」

 私が訊くと、フリーダは首を横に振った。

 「大丈夫よ。ベルケナまで行きましょう」

 「大丈夫って言う人ほど、だいたい大丈夫じゃないんだよ」

 「わたしは、本当に大丈夫」

 「ほら」

 何が、ほら、なのか自分でも分からなかった。けれどフリーダは、少しだけ口元をゆるめた。

 昨日、彼女は「一人で決めないようにする」と言った。

 だから私は、無理に足を止めさせなかった。代わりに、彼女の歩幅が半歩だけ小さくなったとき、黙って隣へ並んだ。


 ベルケナは、白樺の森の中にできた町だった。

 家々の壁にも、屋根を支える柱にも、白い樹皮が使われている。細い木の幹を何本も束ねたような見張り台が町の中央に立ち、その周りを、朝市のための屋台が囲んでいた。

 町の入口にある石の標識には、白樺の葉をかたどった紋が刻まれている。

 けれど、昼近くになっても、町はどこか眠たそうだった。市場の荷は少なく、通りを歩く人も、皆急ぎ足で家へ戻っていく。戦争が終わったばかりの町には、まだ「知らない旅人を迎える」という当たり前が戻っていないのだと思う。

 私たちが見つけた宿は、町のはずれにあった。

 白い板壁に、黒い文字で《白枝亭》と書かれている。入口の上には、青い硝子をはめ込んだ小さな旅灯が吊られていたが、片側の金具が外れ、灯りは消えたままだった。

 扉を押すと、香草のスープと乾いた薪の匂いがした。

 「お客さん?」

 帳場の奥から出てきたのは、背の低い、恰幅のいい女性だった。灰色が混じる金髪を頭の上でひとつにまとめ、厚手の前掛けには小麦粉と煤がついている。こちらを見る目は鋭いのに、声はひどく落ち着いていた。

 「二人です。部屋、空いていますか」

 「二人とも、立って寝るつもりなら満室。寝台で寝たいなら、二部屋あるよ」

 その返事に、私は思わず笑いそうになった。

 「寝台でお願いします」

 「よろしい」

 女性は帳場の下から鍵を二つ出しかけて、そこでフリーダの黒い杖に目を留めた。

 わずかな沈黙が落ちる。

 フリーダの指先が、杖を握り直した。

 「宿帳には、名前を書かなければなりませんか」

 彼女は丁寧に訊いた。

 女性は、しばらくフリーダの顔を見たあと、鍵を二つとも帳場へ置いた。

 「眠れそうにない顔の人に、まず名前を訊く宿屋じゃないよ」

 それから、私たちの泥のついた靴を見下ろす。

 「支払いは明日でいい。湯と、スープと、部屋。必要なのはそれでしょ」

 「……ありがとうございます」

 フリーダの声が、少しだけ掠れた。

 「私はグレタ。この宿の女主人。あんたたちは、今日だけなら、うちの客」

 グレタさんは、そこでやっと笑った。

 「客に必要なのは、名前より先に、あったかいものだよ」

 私は鍵を受け取った。

 その重さが、急にありがたく感じた。

 「私はリーゼロッテ・ベッカー。修繕魔法使いです。こっちはフリーダ」

 「修繕士?」

 グレタさんの視線が、入口の上の旅灯へ移った。

 「だったら、ひとつ頼みたいことがある。食事のあとで構わないから、あれを見てくれないかね」

 「旅灯?」

 「昨日の風で金具が外れた。灯りの魔力線まで切れたみたいでね」

 彼女は言葉を切り、あまり明るくない宿の入口を見た。

 「直しても、今夜つけるかは、まだ決めてないんだけど」

 それがただの修繕依頼ではないことは、すぐに分かった。

 「見てみます」

 私が答えると、グレタさんは肩の力を抜いた。

 「頼りにしてるよ、ロッテ」


 湯を使わせてもらったあと、私たちは宿の小さな食堂で昼食を取った。

 窓の外では、白樺の葉が風に揺れている。テーブルには濃いスープと黒パン、それから、フルセアでもらった燻製魚を薄く切ったものが並んでいた。

 フリーダは最初、食べるのを遠慮していた。

 「二人分も、いただいてよろしいのかしら」

 「二人で来たんだから二人分出すよ」

 グレタさんは、鍋をかき混ぜながら言う。

 「あと、食べない客は困る。料理人の腕が悪いみたいになる」

 「美味しいわ」

 フリーダは慌てたように答え、それからスープを一口飲んだ。

 「とても」

 「なら、もう少し食べな」

 「ええ」

 グレタさんは満足そうに頷き、焼きたてのパンをもう一枚置いた。

 私は隣で目を丸くした。

 「フリーダ、断る練習、また失敗してる」

 「いただけるものを、むやみに断る方が失礼かと思って」

 「パンは一枚ずつで失礼じゃないよ」

 「そうなの?」

 フリーダは本気で困った顔をした。

 グレタさんが、堪えきれないように笑う。

 「その子には、今は多めに出しておきな。食べる理由を考えながら食べてる」

 その言葉に、フリーダの手が止まった。

 私は何も言わず、パンを半分に割って彼女の皿へ置いた。

 「これは、私が食べきれない分」

 「ロッテが?」

 「うん。だから、助けると思って食べて」

 フリーダは少し迷ってから、その半分を受け取った。

 「では、手伝うわ」

 「そうして」

 グレタさんは、鍋の蓋を閉めた。

 その音が、静かな食堂によく響いた。


 食後、旅灯を下ろすために、グレタさんが物置から脚立を持ち出した。

 「私が上ります」

 フリーダが言う。

 「背が高いから、脚立は要らないかもしれないわ」

 「使って」

 私はすぐに言った。

 「旅灯を取るために、壁を登らないで」

 「登るつもりはなかったわ」

 「本当に?」

 「……少しだけ、考えたかもしれない」

 「やっぱり」

 グレタさんが、脚立を両手で持ったまま笑った。

 「宿の壁は、魔物用には作ってないからね」

 フリーダは素直に脚立へ上り、私は下でその脚を押さえた。彼女が外れた金具へ手を伸ばすと、旅灯の硝子の中から、切れた魔力線が見えた。

 細い銅線に沿って、薄青い光が途中で消えている。

 「金具が外れたときに、線も引っ張られたんだ」

 私は指先から糸を出し、切れ目をなぞった。

 「硝子は割れてない。銅線を替えて、金具を締め直せば直るよ」

 「材料はあります」

 グレタさんは、すぐに小さな箱を持ってきた。中には短い銅線と、古い釘、何度も使われた金具が整然と入っている。

 「こういうのだけは、捨てられなくてね」

 「捨てなくて正解です」

 私は古い線を外し、新しい銅線をつなぐ。フリーダは、私が頼んだ角度のまま旅灯を持っていた。腕が疲れないのか、ずっと同じ高さで、ぴたりとも動かない。

 「もう少し、右」

 「これくらい?」

 「うん、そこで止めて」

 「分かったわ」

 戦場を覆う結界を出した人が、硝子灯を支えるために息を潜めている。

 それが、少しだけ可笑しくて、少しだけ嬉しかった。

 最後の継ぎ目へ糸を結ぶと、青い光が硝子の奥で小さく灯った。

 昼間の光に負けて、はっきりとは見えない。それでも、消えていた旅灯はもう壊れていなかった。

 フリーダが脚立から下りる。

 「これで、夜には点きます」

 「ありがとう」

 グレタさんは旅灯を見上げ、けれど、すぐには火を入れなかった。

 「直ったなら、今晩はつけるかね」

 その声は、私たちに訊いているようで、本人へ言い聞かせているようにも聞こえた。


 日が沈むころ、食堂の窓は橙色の光で満ちていた。

 グレタさんは夕食の皿を洗い終えると、入口の前へ椅子を出して座った。直した旅灯は、まだ暗いままだ。

 私は食後の布を畳んでいて、フリーダは店の隅で、濡れた上着の裾を乾かしていた。彼女は小さな火の魔法を使わず、暖炉のそばへきちんと干している。出会ったばかりのころのフリーダなら、たぶん一瞬で乾かそうとしていた。

 グレタさんが、ふいに言った。

 「前はね、あの灯りをつけると、部屋が空いてるって意味だったんだ」

 私は手を止めた。

 「戦争の最中は、ずっと灯りをつけていた。避難してきた人が、森の道で迷わないように。空いてる部屋がなくなっても、椅子でも床でも寝てもらった」

 フリーダは、静かに彼女の方を見ている。

 「ある晩、もう一人だけ、と頼まれたことがあった。子どもを連れた人でね。私も、その子を中へ入れたかった。でも、宿の中は泣いてる人と眠れない人でいっぱいで、火を焚く薪も足りなかった」

 グレタさんは、両手を膝の上で組んだ。

 「私は、その夜に灯りを消した。道の先まで行けば、別の町があるって言ってね」

 「その人は」

 フリーダの声は、とても小さかった。

 「次の日、隣の集落の小屋で休めたと聞いたよ。生きていた」

 グレタさんは答えた。

 「それでも、私はずっと、あの灯りをつけられなかった。宿屋なのに、入れてあげられなかった人がいたから」

 窓の外では、誰かが夕飯を知らせる笛を吹いた。遠くの家の扉が閉まる音がする。

 「でも、今朝、あんたたちが来た」

 グレタさんは、こちらを見た。

 「名前を訊くより、先に湯とスープがいる人だった。ああ、こういう日に灯りをつけるんだって、やっと思えたんだよ」

 彼女は立ち上がり、入口の横にある小さな留め具へ手を伸ばした。

 「直したのはロッテ。でも、つけるのは私」

 留め具が押される。

 青い硝子の内側で、やわらかな灯りがともった。

 白い板壁と、入口までの石畳が、夜の中へ細長く照らし出される。灯りは遠くまで届かない。けれど、この扉の前に立つ人なら、ここが開いていると分かるには十分だった。

 「きれいね」

 フリーダが言った。

 「そうでしょう」

 グレタさんは、少しだけ得意そうに答えた。

 「直せば、また使えるものは多い。でも、使うかどうかは、人が決めなきゃいけないの」

 私の胸に、その言葉が残った。

 フリーダも、何かを考えるように、旅灯を見ていた。


 夜半に目が覚めると、隣の部屋からは物音がしなかった。

 寝台の上でしばらく目を閉じていたけれど、眠気は戻ってこない。フリーダが無事に眠れているならいいと思った。けれど、昨日の結界を張ったあとから、彼女の顔色はずっと白かった。

 私はそっと部屋を出た。

 階段を下りると、入口の旅灯が窓から見えた。青い光の下に、黒い髪の人影が立っている。

 フリーダだった。

 外套を羽織り、杖を手にしている。今にも、ひとりで外へ出そうな格好だった。

 「どこへ行くの」

 私が声をかけると、彼女は肩を揺らした。

 「起こしてしまったのね。ごめんなさい」

 「謝るのはあと。どこへ行くの?」

 フリーダは、入口の外を見た。

 「追手が、この町まで来る前に離れようと思って」

 「一人で?」

 「ロッテは、ここに残って」

 私は、息を吐いた。

 昨日の白樺の道で交わした言葉が、まだ耳に残っている。

 「フリーダ。昨日、何て言った?」

 彼女はすぐには答えなかった。

 「一人で決めない、と」

 「そう」

 「でも、この町には関係がないわ」

 「関係ない人を、グレタさんは泊めてくれたの?」

 「……」

 「私も、関係ないなら、ここまで来てない」

 言い過ぎたかと思った。

 けれどフリーダは怒らなかった。旅灯の青い光が、彼女の横顔の輪郭だけを淡く照らしている。

 「危険なのよ」

 「知ってる」

 「ロッテには、何も話していない」

 「それも知ってる」

 「それでも、わたしのそばにいるの?」

 声が、少しだけ震えていた。

 私は答えを急がなかった。

 知らないことが多すぎる。王都の人がなぜ彼女を追うのか。フリーダがどんな魔法を使い、どんなものを背負っているのか。昨日、町を守ったあの結界が、彼女にとってどれほど重いものなのか。

 それでも、今ここで一人にしていいとは思えなかった。

 「今夜はいるよ」

 私は言った。

 「明日のことは、明日一緒に決める」

 フリーダの手から、少しだけ力が抜けた。

 「それで、いいのかしら」

 「よくはない。眠ってない人が出ていこうとしてるのは、かなりよくない」

 「まあ」

 「部屋へ戻ろう。明日の私たちには、寝た私たちが必要」

 フリーダは、ほんの少し迷ってから頷いた。

 「分かったわ」

 彼女が階段へ向かうのを見届けてから、私は旅灯を見上げた。

 誰かを迎えるための灯りは、誰かを無理に留めるためのものではない。

 それでも、今夜ここへ帰ってくる場所を作ることはできるのだと思った。


 翌朝、町の中央で、金属の板を叩く音がした。

 朝食のパンを切っていたグレタさんが、手を止める。

 「役場の使いだね」

 窓の外には、灰色の制服を着た若い役人が立っていた。丸めた紙を何本も腕に抱え、町の掲示板へ一枚ずつ貼りつけている。近くにいた人たちが集まり、低い声で話し始めた。

 フリーダは、階段の途中で足を止めた。

 「ロッテ」

 「ここにいて」

 私は言い、すぐ入口を出た。

 嫌な予感は、紙を見た瞬間に形になった。

 太い黒字で、こう書かれている。

 『王命による特別捕縛令』

 その下には、名前があった。

 フリーデリケ・ヴァイス。

 通称、《落星の魔女》。

 紙の中央には、粗い墨絵で描かれた彼女の顔がある。長い黒髪。高い背。黒い長杖。似顔絵は少し不器用だったけれど、それでも、宿の二階にいるフリーダを見たあとでは、見間違えようがなかった。

 本文には、王命への反逆と逃走の罪、そして、発見した者には銀貨二百枚を支払うことが書かれている。

 最後の一文だけ、筆跡まで尖って見えた。

 『対象は極めて危険な魔法使いである。単独で対峙せず、速やかに所在を報告せよ』

 「落星の魔女って」

 市場の人が、息を呑む。

 「魔王を倒した、あの?」

 「こんな近くにいるわけがない」

 「王に逆らったって、何をしたんだ」

 私は、紙から目を離せなかった。

 水車を回しすぎて町を小麦粉だらけにした人。

 林檎の荷車を直そうとして、私に何度も確かめた人。

 風見鶏を落として、子どもへごめんなさいと言った人。

 パンをもらうと、何枚まで受け取ってよいのか本気で悩んだ人。

 そして昨日、町と渡し舟を守るために、空を丸ごと覆った人。

 それらが、紙に書かれた《落星の魔女》へ、ひとつずつ重なっていく。

 胸の奥が、冷たい水を飲み込んだようになった。

 私が知らなかったことは、王都の小さな揉め事なんかではなかった。

 この世界で一番強い魔法使い。

 魔王を、一人で倒した人。

 私の隣で、フリーダと名乗っていた人。

 「宿にも一枚」

 役人が近づいてきた。

 「通りの宿と店には、皆貼るようにと言われています」

 私は振り返った。

 グレタさんが、入口の前に立っていた。彼女は役人から紙を受け取ると、内容を一度だけ読んだ。

 それから、紙をきれいに畳んだ。

 「掲示板に貼る分で足りるだろう。うちは宿屋だから、客の寝台へ紙を貼る趣味はないよ」

 「でも、通達では」

 「貼ったよ。帳場の引き出しにね」

 グレタさんはにっこり笑った。

 「見たい客には見せる。あんたも、宿の中をいちいち確認するほど暇じゃないだろう」

 役人は困った顔をした。

 「いや、まあ……」

 「あと、二百枚も出すなら、先に役場の屋根を直しな。雨漏りしてるって聞いてるよ」

 周りで、誰かが吹き出した。

 役人は反論できず、次の店へ向かった。

 グレタさんは、畳んだ紙を私へ差し出す。

 「これが、あんたの連れの人?」

 「……たぶん」

 「たぶん、ね」

 「昨日までの私は、何も知らなかったんです」

 そう言うと、グレタさんは少しだけ目を細めた。

 「知らないことと、見ていなかったことは違うよ」

 私は紙を受け取った。

 「ロッテ。あんたは、その子が昨日、何をしたか見たんだろう」

 町の人を守った。

 舟を直す時間を守った。

 そして、逃げるための結界なのに、誰も傷つけなかった。

 「見ました」

 「なら、あとは自分で考えな」

 グレタさんは、紙を押しつけるようには渡さなかった。

 ただ、選ぶのは私だと言った。


 宿へ戻ると、フリーダは帳場の前に立っていた。

 彼女は、私の手にある紙を見ている。驚いてはいなかった。ずっと前から、それが来ると知っていた顔だった。

 「見たのね」

 「うん」

 フリーダは一度、目を伏せた。

 「ごめんなさい」

 その謝り方が、風見鶏を落としたときと同じだったことに、胸が痛くなった。

 「フリーダ、私は」

 何を言えばよいのか、まだ分からない。

 騙された、と言うのは違う気がした。彼女は嘘をついた。けれど、私が訊かなかったことも多い。聞かないと決めたのは、私自身だった。

 知らなかったことを責めるより先に、今の彼女がまた一人で出ていこうとしていることの方が、ずっと怖かった。

 フリーダは、静かに外套の留め具を閉じた。

 「ここを出ます。グレタさんへは、私からお詫びをします」

 「待って」

 私の声が、思ったより強く出た。

 フリーダが顔を上げる。

 「まだ、何も決めてない」

 「ロッテ」

 「私は、紙を読んだばかりだから。フリーダが誰なのか、頭の中が追いついてない」

 言葉にすると、少しだけ息ができた。

 「でも、今すぐ一人で出ていくのは駄目」

 フリーダの唇が、かすかに震えた。

 「危険よ」

 「知ってる」

 「私は、《落星の魔女》なの」

 その呼び名を、彼女の口から聞くと、紙の上の字よりずっと重かった。

 「うん」

 私は紙を折りたたみ、鞄の奥へしまった。

 「でも、今の私が知ってるのは、フリーダがフリーダだってこと」

 それ以上は、まだ言えない。

 フリーダの本当の名前を口にするのも、彼女の過去をすべて分かったような顔をするのも、今の私には違うと思った。

 「次の町へ行こう」

 私は言った。

 「海沿いのリヒナ。人の出入りが多いし、追手が来ても、ここより逃げ道がある」

 グレタさんが、帳場の奥から地図を持ってきた。

 「白樺の森を抜けたら、海への街道へ出る。リヒナには、戦争中に避難客を融通し合った宿の女主人がいる。事情は知らせない。ただ、今夜までに着く旅人へ寝台を一つ用意してくれる人だよ」

 「グレタさん」

 フリーダが言った。

 「ご迷惑をおかけします」

 「まだ迷惑をかけられた覚えはないね」

 グレタさんは、きっぱり答えた。

 「ただし、次に来るときは、朝食を二枚だけで足りるようにしな」

 フリーダが、戸惑ったように瞬く。

 「努力します」

 「そこは、できるって言いな」

 「できるように、努力します」

 グレタさんは笑い、入口の旅灯を見上げた。

 青い灯りは、朝の中でもまだ小さく残っている。

 「扉を開けるかどうかは私が決める。あんたたちが、ここを通ったことまで消すつもりはないよ」

 私は、宿の外へ出た。

 白樺の葉が風に揺れ、朝の光が細かく地面へ落ちている。

 フリーダが隣へ来た。

 昨日までと同じ黒い杖。同じ長い髪。同じ、少し疲れた横顔。

 なのに、私はもう、彼女が誰なのか知っている。

 知らないことも、まだたくさん残っている。

 それでも、私は歩き出した。

 フリーダは少し遅れて、私の隣へ並んだ。

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