第六章 渡し舟の町・フルセア・追手
グロツィアを発って五日目、わたしたちは大きな川へ行き着いた。二日前に通った宿場では、ようやく王都からの布告が掲示されていた。黒髪と黒い杖を持つ魔法使いを見つけた者は知らせること――似顔絵は粗かったが、ロッテと相談して、大きな街道を外れたこの川沿いの道を選んだ。
フルセアは、その川の西岸に沿って細長く広がる町だった。低い石造りの家々のあいだを、水夫たちの通る細い路地が走っている。岸には魚を干す棚と、荷を積んだ小舟と、川向こうへ渡るための小さな桟橋が並んでいた。
町へ着いて最初に聞いたのは、川の音ではなく、二人の言い争う声だった。
渡し舟が、一艘だけ桟橋の脇で斜めに傾いている。船首から伸びた太い綱は川の中ほどでたるみ、反対岸の杭まで届いていなかった。舟のそばでは、赤茶の髪を後ろで固く結んだ女性と、年の近そうな青年が向かい合っている。
「だから、直ったら売るって言ってるでしょう」
「勝手に決めるなよ。父さんの舟だぞ」
「父さんの舟だからよ」
女性は、そう言ってから唇を噛んだ。
わたしたちに気づいたのは、青年の方が先だった。日に焼けた顔に、疲れたような警戒が浮かぶ。
「修繕士のリーゼロッテ・ベッカーさんですか」
「そうだよ。こっちは、フリーダ・リンデン」
ロッテがわたしを紹介する。
「こんにちは。渡し舟の依頼を受けたフリーダです」
わたしが頭を下げると、女性は慌てて両手を腰から離した。
「ヨナです。船頭をしていました。こっちは弟のカイ」
「していました、じゃない。今も船頭だ」
「舟が動かないのに?」
「動かせるようにするために、呼んだんだろ」
ロッテが、修繕鞄の留め具を確かめながら二人のあいだへ入った。
「うん。仲がいいかどうかは、今は置いておこう。まず、どこが壊れたの?」
ヨナさんは、少し気まずそうに川を見た。
「渡し綱です。去年、上流の堰が壊れて、大水が来ました。岸の錨が土に埋まって、綱も魔力の流れも切れたんです」
この町の渡し舟は、船首と船尾から出した二本の綱を、両岸の大きな錨へつないで動く仕組みらしい。綱の中には、流れに逆らって舟を安定させるための細い術式が編み込まれている。人が棹を押すだけでも渡れるが、増水したときや荷が重いときには、その術式がなければ舟が横へ流される。
「向こう岸には診療所と市場があるんです」
カイさんが言った。
「橋は、もっと下流まで行かないとない。舟が止まってから、皆、半日かけて遠回りしている」
「直せそう?」
ロッテは、わたしへではなく、壊れた綱へ尋ねるように言った。
彼女の指先から、黄緑色の細い糸がほどける。糸は桟橋の板の隙間を通り、舟の船首をなぞり、濁った川の中へ沈んでいった。しばらくして、ロッテは眉を寄せる。
「綱の術式は直せる。けど、西岸の錨が、川底の岩に噛まれてるね。これを動かさないと、新しい綱を張ってもまた切れる」
「引き抜けないの?」
「人の手で引くには重すぎる。無理に引いたら、錨ごと岸が崩れる」
ロッテはわたしを振り返った。
「フリーダ。地面だけ、動かせる?」
《地脈操作》は、町の水路や灯りを走る魔脈を直す術ではない。土の下へ魔力を押し込み、石ごと地面を動かす戦場の術だ。名前は似ていても、触るものが違う。
わたしは川岸の地形と、糸が示す錨の位置を見た。水面からは見えないけれど、地中の石の形なら、魔力を通せば分かる。
「できます。ただ、川底の石をまとめて動かします。岸には近づけない方がいいでしょう」
「それなら大丈夫。私が、動かしていいところを結ぶ」
ロッテはすぐに、桟橋から十歩ほど離れた地面へ木杭を打った。さらに、川沿いの柳の根元と、舟を繋いだ柱の外側に、小さな石を置いていく。
「この三つより川側だけ。錨の鉄環に食い込んでる石を、下流へ半歩ずらす。土を持ち上げるんじゃなくて、石だけ」
「分かったわ」
「魔力弾はなし」
「使いませんよ」
「念のため言っただけ」
「水に穴を開けることはできないもの」
「そこを真面目に返されると、私が変なことを言ったみたいになる」
ヨナさんが、わずかに吹き出した。カイさんも口元を隠している。
わたしは杖を川へ向けた。
黒い杖身の銀の模様が、昼の光の中でかすかに白くなる。土の中へ魔力を沈めると、錨の鉄環を抱え込んだ大きな石が見えた。水に削られた丸い石だ。錨を外せば、綱は使える。けれど、石を砕けば川底が崩れて、流れが変わる。
だから、砕かない。
地中の石の層に沿って、石の下だけを押す。
川面が、錨のある場所で一度だけ大きく盛り上がった。濁った水がゆっくり左右へ分かれ、その下から黒い石の縁が現れる。石は、ロッテが置いた目印の方へ、音もなく半歩ぶん滑った。
鉄環が外れ、ぴん、と綱の残りが張る。
「今です」
ロッテの声が飛んだ。
ヨナさんとカイさんが、同時に綱を引く。わたしも二人の横に立ち、濡れた麻縄を手で掴んだ。
「フリーダさん、手を貸してくれるんですか」
カイさんが驚いたように言った。
「手で引けるものは、手で引いた方がよいとロッテに教わりました」
「教えた覚えはないけど、その判断は正しい!」
ロッテが、橋脚のように踏ん張りながら答える。
四人で引くと、錨はゆっくり川底から持ち上がった。水を吸った綱は重かったけれど、切れたり、急に跳ねたりはしなかった。わたしは力を入れすぎないよう、呼吸に合わせて腕を引いた。
それでも、錨が岸へ上がった瞬間、カイさんの足が一歩前へよろけた。
わたしは綱を止めた。
「大丈夫ですか」
「……はい。いや、すごいですね。今、全然引っ張られてない感じだった」
「フリーダは、たぶん半分も力を出してないよ」
「ロッテ」
「安心して。全力で引かれたら、舟が川の向こうまで飛ぶから」
「飛ばしません」
「その言い方が、飛ばせる人の言い方なんだってば」
今度は、ヨナさんが声を上げて笑った。
笑うと、彼女はカイさんとよく似た目をしていた。
錨を洗い、ひびの入った金具を取り替えるあいだ、ロッテはずっと川辺に座り込んでいた。
古い渡し綱の中から、切れずに残った術式を一本ずつ拾い上げ、新しい麻縄へつなぐ。彼女の光の糸は、陽射しの中では淡い草の葉の色に見えた。わたしは頼まれた木材を運び、舟底の板を固定するための釘を打った。
釘を打つ作業なら、魔法を使わなくてもできる。
けれど、まっすぐ打ち込むだけのことが、戦闘の術式より簡単だとは言い切れなかった。わたしが一本目の釘を少し曲げると、ロッテは手元を見ないまま言った。
「フリーダ、叩く前に息を吐いて」
「魔法みたいに?」
「魔法ほど難しくないよ」
言われた通りにすると、二本目はきれいに入った。
「できたわ」
「うん。すごいすごい」
「子ども扱いではないかしら」
「褒めたらすぐ確認するの、ちょっと面白い」
わたしが答えに迷っていると、カイさんが向こうから新しい滑車を抱えてきた。
「これで最後です。町の鍛冶屋に急いで作ってもらいました」
ヨナさんは、舟の船尾で濡れた板を拭いている。二人は同じ舟にいるのに、互いの方を見なかった。
「この舟は、普段はどちらが操っていたんですか」
わたしが尋ねると、カイさんの手が止まった。
「父さんと、俺です」
ヨナさんが、こちらへ背を向けたまま言う。
「私は、もう舟を降りていたの」
「降りたんじゃない。父さんが姉さんを降ろしたんだ」
「同じことでしょう」
「違う」
その一言だけ、カイさんの声は低かった。
ロッテは作業の手を止めず、けれど聞こえないふりもしなかった。
「直す前に、ひとつだけ確認していい?」
「何ですか」
「この舟、直ったら本当に売るの?」
ヨナさんはしばらく返事をしなかった。
川向こうの白い建物を見ている。そこが診療所なのだろう。ちょうど今も、薬箱を抱えた老人が渡し場の前で足を止め、遠い橋の方を見てため息をついた。
「売ります」
ヨナさんは言った。
「もう誰も、ここで働かなくていいように」
「俺は働く」
「カイ」
「姉さんが怖いのは分かる。でも、俺まで舟を降ろす理由にはならない」
ヨナさんの手から、雑巾が落ちた。
「怖いわよ」
彼女は初めて、弟の方をまっすぐ見た。
「父さんが、最後の舟を出すと言ったとき、私は止められなかった。川向こうに取り残された人がいるって聞いて、あの人は迷わなかった。カイ、あんたも乗るって言ったでしょう」
カイさんは何も言わない。
「私は、あんたを岸に引き戻した。父さんは一人で行った。帰ってこなかった」
流れの音だけが、急に大きくなったように聞こえた。
「だから私は、あんたに舟へ乗ってほしくない。もう一人、川に持っていかれるくらいなら、舟なんてなくなった方がいい」
「それを、今まで一度も言わなかった」
「言ったら、父さんを置いてきたことを、本当に認めるみたいだった」
「姉さんだけじゃない。俺も、あのとき岸に残った」
カイさんの目が、赤くなっていた。
「ずっと、父さんの代わりにならなきゃと思ってた。でも、一人で乗って、父さんの代わりをするのも、もう違う気がしてる」
ロッテが、静かに滑車を置いた。
「この舟は、一人でも動かせるよ。でも、増水した川では、前と後ろに一人ずついた方が安全。私が直せるのは、二人で動かせる舟まで」
誰が乗るか、何のために乗るかまでは、光の糸では決められない。
それが、ロッテの言葉の続きだった。
わたしは、直したばかりの錨へ目を落とした。壊れたものを元の場所へ戻せば、すべてが前と同じになるわけではない。それを、わたしは何度も見てきた。
「ヨナさん」
わたしは言った。
「舟を降りたい気持ちを、間違いだとは思いません。でも、カイさんの行く場所を決めることも、きっとできないのでしょう」
ヨナさんは、少し苦しそうに息を吐いた。
「分かっています」
「でしたら、一度だけ渡ってみてはどうですか。売るかどうかは、そのあとで決めても遅くはありません」
カイさんが、舟を見た。
ヨナさんも、同じ方を見た。
しばらくして、彼女は落ちた雑巾を拾い、舟底の最後の水滴を拭った。
「試すだけよ」
「うん」
「父さんの代わりをするんじゃない。あんたは船尾。私は船首」
「分かってる」
「分かってない顔をしてる」
「今から分かる」
その言い方が少し可笑しくて、ロッテが小さく笑った。
夕方の光が川を横切るころ、渡し舟は初めて岸を離れた。
舟にはヨナさんとカイさんのほか、向こう岸へ薬を取りに行きたいという老人と、買い物袋を抱えた母子が乗った。最初、ヨナさんは船首の綱を引く手に力を込めすぎ、カイさんは反対側から急ぎすぎた。
「右、引きすぎ!」
「姉さんこそ、舟首を上へ向けるな!」
「川が曲がってるのよ!」
「舟を曲げればいいだろ!」
「二人とも、喧嘩しながら操作しないで!」
桟橋からロッテが叫ぶ。
舟はほんの少し蛇行したあと、川の真ん中で落ち着いた。二人が同時に口を閉じ、同時に綱を緩めたからだった。
流れに沿って、舟がまっすぐ進む。
舟底の術式が、淡い青い線になって水面へ浮かんだ。新しい綱の中を、ロッテがつないだ魔力が静かに走っている。
反対岸へ着くと、老人が先に船から降りた。
「やっと、渡れた」
彼は何度も頷き、それからヨナさんとカイさんへ言った。
「お前たちの父親がいたころも、この舟はよく揺れた。けど、着かなかったことは一度もなかった」
ヨナさんは返事をしなかった。
ただ、手に持っていた綱をカイさんへ渡そうとして、途中で止めた。
カイさんも手を伸ばしかけて、同じように止める。
結局、二人は一緒に綱を持ったまま、こちらの岸へ舟を返した。
戻ってきた舟を迎えた人たちが拍手をした。大げさな拍手ではなかった。市場へ行ける、薬を取りに行ける、明日からまた渡れる。そのための、暮らしの中の拍手だった。
ヨナさんは、岸へ降りるとカイさんへ顔を向けた。
「売る話は、今日のところはなし」
「今日のところ、って何だよ」
「明日もちゃんと舟を動かせたら、明日もなし」
「ずいぶん長い決め方だな」
「急に決めると、ろくなことにならないでしょう」
「それは、そうかも」
カイさんは、少しだけ笑った。
ロッテがわたしの隣で、修繕鞄の口を閉じる。
「直したのは舟だけだよ」
「ええ」
「でも、舟が直ったから、話せたこともある」
「ロッテの魔法は、そういう魔法なのね」
彼女は一度、きょとんとした顔をしてから、照れたように肩をすくめた。
「まあ、そうだったらいいな」
拍手がまだ川辺に残っているうちに、馬の蹄の音が聞こえた。
最初は、急ぎの旅人が来たのだと思った。
けれど、その音は一頭ではなかった。固い地面を、同じ速さで複数の馬が叩いている。町の外れの道から、灰色の外套をまとった騎馬の一団が現れた。胸元には、王都の役人が使う銀の紋章がある。
わたしの指が、杖を握る。
ロッテが、その動きに気づいた。
「フリーダ?」
答えるより先に、騎馬の先頭にいた男が馬を止めた。四十代ほどの、短く刈った金髪に風の跡が残る人だった。抜いた剣は持っていない。けれど、彼の左右にいる騎士たちは、馬上から細い金属杭を取り出していた。
「この町に、黒髪で黒い杖を持つ魔法使いが来たと聞いた」
男の声は、よく通った。
「王都より、身柄を預かる命が出ている。該当する者は、抵抗せず前へ出ろ」
町の人たちが、ざわめいた。
カイさんが一歩前へ出ようとしたので、ヨナさんがその袖を掴む。ロッテはわたしの斜め前に立った。
「私が行きます」
わたしはそう言い、ロッテの肩へ触れて、少しだけ後ろへ下がってもらった。
「私はフリーダ・リンデンです。何の件でしょうか」
「名を確かめるために来たのではない」
男はわたしの杖を見た。
「我々は、王都の命令で動いている。あなたを傷つけるつもりはない。どうか、町から離れて話をさせてほしい」
口調には、威圧よりも疲労があった。
それでも、騎士たちが持つ杭の先には、封じの術式が組まれている。高出力の魔法使いを押さえるための、複数人で張る網だ。彼らはわたしを恐れている。そして恐れるからこそ、この狭い川辺でそれを使うつもりなのだ。
「その術式を、町の中で展開するのですか」
「抵抗がなければ、使わない」
「では、杭をしまってください」
男は返事をしなかった。
代わりに、彼の後ろの若い騎士が小声で言う。
「隊長、対象が術を起こす前に、封じを」
「待て」
男は制した。
けれど、一度走り始めた術式は止まりにくい。すでに地面へ打ち込まれた二本の杭から、鈍い銀色の線が伸びていた。線は桟橋の端を横切り、渡し綱の術式へ近づいている。
ロッテの修繕した光が、かすかに震えた。
「それ、舟の術式まで止めるよ」
ロッテが言った。
「町の人が川にいるときに切れたら、どうするの」
男の顔が強張る。
「全員、舟から降ろせ」
「今、向こう岸へ渡る人もいるの」
ヨナさんが叫んだ。彼女は舟の綱を握ったまま、引かなかった。
「この町の人に、これ以上待てって言うんですか」
男は、ヨナさんへ返す言葉を持たなかった。
わたしは一度だけ、夜星の杖の先を見た。茶褐色の魔導石に走る細い亀裂が、夕暮れの光を受けて暗く沈んでいる。
町を巻き込まないために、離れるべきだ。
そう考えることには、慣れている。
けれど、いま離れれば、彼らの封じの網がこの渡し場を通る。直ったばかりの舟も、やっと動き始めたヨナさんとカイさんも、また岸へ縛りつけられる。
ロッテが、わたしの方を見た。
「フリーダ。できる?」
その意味を、わたしはすぐに理解した。
小さな結界ではない。町と川辺を丸ごと覆うほどの、大きな結界なら、わたしは間違えない。
「ロッテ。守る範囲を、決めて」
ロッテの目が、ほんの一瞬だけ丸くなった。
それから彼女は、迷わず走った。桟橋の北端にある柳の根元へ、修繕鞄から青い糸玉を取り出して結ぶ。南側の水門の石柱へ、もう一本。川の上には、ヨナさんが渡し舟の船首へ持っていた予備の杭を立て、カイさんが反対岸の杭へ合図を送った。
ロッテの黄緑の糸が、四つの目印を結んでいく。
「フリーダ、町の外れまで! 北は柳、南は水門、川は向こうの杭まで! そこを終点にして!」
「ええ、分かっているわ」
わたしは杖を空へ向けた。
杖の先から放たれた白い光は、まっすぐ高く昇った。途中で弾けることなく、見えない天井へ届くまで細い線を伸ばす。
次の瞬間、四つの目印から、同じ色の光が立ち上がった。
柳の根元から。水門の石柱から。川の両岸の杭から。
光は空でゆるやかに曲がり、町と渡し場を覆う大きな半球になった。透明な結界の表面には、夕方の雲と、川を飛ぶ鳥の影がそのまま映っている。
《天蓋結界》。
戦場でなら、隊列も砦もまとめて覆うための魔法だ。
大きく広げれば、わたしは正確に扱える。けれど、これまではどこまで守ればいいのか、自分で決めるしかなかった。
ロッテの糸が、結界の足元を縫い留めていた。
ここまで。
町の人がいるところまで。
舟が渡り、戻ってこられる場所まで。
彼女が示した終点へ、わたしの魔力は迷わず届いた。
銀色の封じの線が結界へ触れた。網は表面を走ろうとしたが、丸い壁に沿って外側へ逸れ、やがて地面の上でほどけて消えた。桟橋の板も、渡し綱も、誰一人として押されない。
結界の外で、騎士たちが馬を下げた。
先頭の男は剣を抜かなかった。代わりに、部下たちへ短く命じる。
「杭を抜け。町へは入るな」
「ですが、隊長」
「今は住民の安全を優先する」
彼はわたしを見た。
「逃げれば、次はもっと大きな隊が来る」
「そうでしょうね」
「命令は、生け捕りだ」
わたしは、彼の言葉をすぐには信じなかった。
けれど、彼が一度も結界へ攻撃を命じなかったことは分かった。
「でしたら、町の人を怖がらせる方法はおやめください」
男の眉が、わずかに動いた。
「……その言葉は、上へ伝える」
「今だよ!」
ヨナさんの声が、結界の内側に響いた。
彼女はすでに舟へ飛び乗っている。カイさんが反対側の綱を張り、向こう岸へ渡る人たちを呼び込んでいた。
「町の人から先に渡す! 急ぐ人は乗って!」
「二人も乗って」
カイさんが、わたしたちへ手を伸ばす。
「反対岸からなら、白樺の町へ向かう道に出られる。馬なら回り込めるが、今すぐじゃない」
「私たちのために、舟を使う必要はありません」
わたしが言うと、ヨナさんは船首の綱を握り直した。
「必要があるわ。今日、この舟は人を渡すために直したんでしょう」
「それに」
カイさんが続ける。
「一人で乗る舟じゃないって、さっき決めたばかりだ」
舟には、診療所へ向かう老人と、小さな子を抱いた母親、それから明日の市場へ行くという若者が乗っていた。誰も、わたしたちへ降りろとは言わない。
ヨナさんが、ロッテへ顎をしゃくる。
「修繕士さん。舟の術式は大丈夫?」
ロッテは結界の端を確かめ、それから自分の糸を渡し綱へ一本だけ結んだ。
「大丈夫。結界の中だけなら、綱も守られる。二人とも、いつものようにやって」
「いつものようには、まだ無理だ」
カイさんが言う。
「じゃあ、今日のように」
ロッテは答えた。
ヨナさんとカイさんは、同時に頷いた。
わたしとロッテが舟へ乗ると、舟はゆっくり岸を離れた。
結界の内側は不思議なほど静かだった。外では馬が動き、鎧が鳴っているはずなのに、川の流れと、舟底を叩く水の音だけが近い。
ロッテはわたしの隣に立ち、結界の光を見上げていた。
「すごいね」
「大きな方が、扱いやすいの」
「知ってる。でも、それだけじゃない」
ロッテの手が、わたしの袖に触れた。
「ちゃんと、町の端で止まってる」
言葉にされると、胸の奥にあった力が、少しだけ形を変えたように思えた。
わたしは、守るためなら遠くまで届かせなければならないと思っていた。
けれど、届く場所を誰かと決めることは、力を足りなくすることではない。
舟が反対岸へ着くと、結界の外側にいた騎士たちはまだ西岸に残っていた。町の人たちが先に降り、ヨナさんとカイさんはすぐ舟を返した。
「また来ます」
ロッテが言う。
「来なくていい。舟が壊れたときだけ来て」
ヨナさんは、照れ隠しのように言った。
「それだと、また壊れてほしいみたい」
カイさんが笑う。
「じゃあ、壊れなくても寄って。市場の燻製魚は、向こう岸よりこっちの方がうまいから」
「覚えておくわ」
わたしが答えると、ヨナさんは短く頷いた。
舟が川の真ん中へ戻ったところで、天蓋結界は役目を終えた。
四つの目印からほどけた光が、空に残った薄い線をゆっくり消していく。町は夕暮れの川辺へ戻り、渡し舟だけが、前よりまっすぐに行き来していた。
反対岸の道には、白樺の若木が並んでいた。
月が昇り始めたころ、わたしたちは川を背にして歩き出した。ロッテの修繕鞄はいつもより重そうだった。わたしは持とうかと考えたけれど、彼女はわたしが口を開く前に肩紐を持ち直した。
「自分で持てるよ」
「そう」
「でも、半分だけなら持ってくれてもいい」
「では、半分だけ」
鞄の中から釘と糸玉の入った布袋を受け取る。手に持てば大した重さではない。けれど、ロッテが自分から渡してくれたことが、なぜか嬉しかった。
しばらくは、二人とも黙って歩いた。
川の向こうに、騎士たちの灯りが小さく見える。追手は、まだあの町を離れていない。
「ロッテ」
「うん」
「次の町まで、一緒に来る必要はありません」
言ってから、足を止めた。
ロッテも止まった。白樺の幹に月の光が細く落ちている。
「今日の人たちは、私を探していた。これからも、あなたの仕事を危険に巻き込むかもしれない」
「かも、じゃないね。もう巻き込まれてる」
「そうね」
「だから、フリーダに一人で行けって言われると思ってた」
ロッテの声は軽く言おうとしていて、少しだけ固かった。
「私は、その方がよいと思うわ」
「私は思わない」
すぐに返ってきた言葉に、わたしは顔を上げた。
ロッテは困ったように笑っていた。けれど、その目は逸らさない。
「話せないことがあるなら、今は聞かない。名前のことも、王都の人が何を言ってたのかも。私が勝手に知ろうとするのは違うと思うから」
胸が、わずかに痛んだ。
「でも、私の行き先まで一人で決めないで」
彼女は言った。
「ここにいるのは、頼まれたからじゃない。私がフリーダと歩くって決めたからだよ」
わたしは、すぐに言葉を返せなかった。
これまで、誰かが離れていく前には、いつも理由があった。わたしが強すぎるから。役目が終わったから。もう必要ではないから。
ロッテは、そのどれも口にしなかった。
ただ、自分で決めると言った。
「……分かったわ」
ようやく、そう答える。
「一人で決めないようにする」
ロッテは一度だけ瞬きをして、それから、少し安心したように笑った。
「うん。それでいい」
「ただし、危険なときは止めて」
「そこは任せて。フリーダは、危ないときほど大丈夫って言うから」
「言っているかしら」
「言ってる。かなり言ってる」
「では、気をつけるわ」
「そこは、もっと早く気をつけて」
わたしも、少しだけ笑った。
白樺の道は、夜の向こうへ続いている。
ロッテはわたしの半歩前ではなく、隣へ並んだ。
わたしはその歩幅に合わせて、次の町へ向かった。




