第五章 鐘楼の町・グロツィア・復興祭
町に着く前から、鐘の音は聞こえなかった。わたしは修繕鞄の革紐を握り直し、フリーダと並んで石壁の門をくぐった。
グロツィアは、低い石壁に囲まれた小さな町だった。中央の鐘楼には大小七つの鐘が吊られ、風が吹くたびにそれぞれがほんの少し揺れる。けれど、どの鐘も沈黙したままだ。石畳の広場には色布の屋台が並び、花飾りを運ぶ人や、長机を拭く人がせわしなく行き来している。
お祭りの準備だと、すぐに分かった。
ただ、楽しそうな顔をしている人は、まだあまりいなかった。
「修繕魔法使いのリーゼロッテさんですか!」
屋台の間から、大きな籠を抱えた女性が駆け寄ってきた。焦げ茶色の髪を太い三つ編みにまとめ、腕まくりした袖からは小麦粉が舞っている。
「私はベアーテ・シュトルツ。復興祭の取りまとめをしてます。来てくれて助かりました」
「ロッテでいいよ。依頼は鐘の修繕、で合ってる?」
「はい。一番大きい鐘です。今日の日暮れに鳴らせなかったら、祭りを始められません」
「今日?」
隣にいたフリーダが、鐘楼を見上げた。
「急ぎの依頼だったのね」
「はい。お願いします」
フリーダの声は、町の大人へ向けるときだけ少し柔らかく整う。最初はよそ行きに聞こえたその話し方にも、私はもう慣れていた。
ベアーテさんは一度だけ鐘楼を見た。
「魔王が倒れてから、初めての復興祭なんです。ずっと中止していましたから。今年こそは、町の人たちに、もう一度ここで食べて笑ってほしくて」
「その気持ちは分かるよ。鐘はどこが悪いの?」
「上に案内します」
鐘楼の階段は狭く、長年の靴跡で中央だけがすり減っていた。上へ行くほど石壁に開いた窓が大きくなり、広場の準備が小さく見えてくる。
最上階には、町を見下ろすほど大きな青銅の鐘が吊られていた。鐘の脇腹には、ひびが一本走っている。打ち金は紐で固定され、動かないようにされていた。
「《帰り鐘》って呼ばれてます」
ベアーテさんが言った。
「畑から帰る時刻も、旅人が門をくぐる時刻も知らせる鐘です。昔から、祭りの最初はこれを鳴らす決まりで」
私は鐘の下へ潜り、指先から黄緑の糸を伸ばした。ひびの表面をなぞると、見えないところにまで裂け目が続いている。青銅の中を走っていた魔力の筋も、途中でちぎれていた。
「これは、戦争のときに?」
「魔王軍の飛竜が、鐘楼の上をかすめました。鐘自体は落ちなかったんですけど、音が変になって。それから、怖くて鳴らせなくなりました」
私は小さく息を吐いた。
「直せるよ。ただ、ひびを継ぐための鐘の金属がいる。できれば、この町の古い鐘と同じ配合の青銅が」
鐘は、形だけ元に戻しても同じ音にはならない。長いあいだ鳴ってきた金属には、その町の風や湿り気、鳴らされる時刻の癖まで染みついている。別の町の青銅を足せば、ひびは閉じても、帰り鐘の音はよそ者になる。
私の継ぎ手は、壊れたものが持っていたつながりを探す魔法だ。だから、元からこの町にあった欠片が必要だった。
フリーダは鐘を見上げたまま、静かに頷いた。
「帰ってくるための鐘なら、この町のものを使うべきね」
その言い方が妙にまっすぐで、私は一瞬だけ返事に困った。
「あります」
ベアーテさんはすぐ答えた。
「倉庫に、壊れた時告げ鐘の欠片が残っています。持ってきます」
「重いよ。倉庫の場所だけ教えて。私たちで運ぶから、ベアーテさんは祭りの準備を続けて」
「でも」
「ベアーテさんが止まったら、広場全体が止まりそう」
そう言うと、彼女は少し驚いた顔をした。すぐに笑って、「それは困りますね」と頷く。
階段を下りる途中、フリーダが私の修繕鞄へ目を向けた。
「倉庫から戻るとき、青銅の欠片はわたしが持つわ」
「手が空いたら、お願いする」
「魔法は使わないわ」
「まだ何も言ってない」
「昨日、車輪を浮かべたとき、ロッテがそういう顔をしたから」
私は思わず笑った。
フリーダは、誰かの仕事を勝手に奪わないように気をつけるようになっている。まだ少しぎこちないけれど、聞いてくれることが嬉しかった。
倉庫にあった青銅の欠片は、鐘の縁から落ちたというだけあって、両手で抱えても重かった。私は軽い欠片と工具を持ち、フリーダは大きな一枚を布で包んで胸へ抱える。彼女は何でもない顔をしていたが、狭い階段で鐘の欠片を壁へ当てないように、一段ずつ慎重に足を置いている。
広場の端に設けられた小さな鍛冶場へ戻ると、火床を確かめた。薪は湿り、火打ち石は欠けている。復興祭の屋台用に積んだ薪も、まだほとんど火が入っていなかった。
「火床、使える?」
フリーダが後ろから尋ねた。
「使えるけど、火を安定させるまで少しかかるかな」
「必要なのは、この坩堝だけ?」
「うん。まずは青銅を溶かせる火。ほかの屋台の火は、屋台の人が自分でつけるよ」
フリーダは黒い杖を火床へ向けかけて、それからこちらを見た。
「どこまで届かせればいい?」
「坩堝の底から、青銅が赤くなるまで。私が手を上げたら止めて」
「分かったわ」
杖の先に、白い火が灯った。火は坩堝の下だけを包み、湿った薪へゆっくり移る。最初は頼りない音だったが、青銅の欠片が赤くなりはじめるころには、火床の中で安定した。
「今でいい?」
「うん。そこまで」
フリーダが魔力を止める。火は残った薪へ移り、魔法が消えたあとも、鍛冶場の人の手で育てられる火になった。
わたしは息を吐いた。
「ちょうどよかった」
「本当に?」
「本当。今日は、屋台を一斉に燃やさなくても大丈夫だったね」
「それは前の町の話でしょう」
「前の町の話だから言ってるの」
フリーダは少しだけ困った顔をした。それでも、頼まれるまで鍛冶場の脇に立ち、火床の様子を一緒に見ている。
青銅を溶かすには、これで十分だった。
古い時告げ鐘の欠片は、ゆっくり赤くなり、やがて坩堝の中でとろりと溶けた。私は壊れた部分を削り、鐘のひびへ入れるための細い溝を作る。
手元の作業に集中していると、誰かが横へ水差しを置いた。
フリーダだった。
「飲んで。ロッテは朝から何も口にしていないでしょう」
「覚えてたの?」
「さっき、林檎を半分しか食べていなかったもの」
答えになっているようで、少しだけずれている。
けれど水を飲むと、冷たさが喉に落ちて、肩の力が抜けた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
フリーダは、今度は私の返事を待たずに、鐘楼の方へ視線を向けた。
そのとき、屋台の奥から大きな声がした。
「フリーダさん! 旗を結ぶ手が足りない!」
呼んだのは、さっき串焼きを焼いていた青年だった。広場を横切る綱に、祭りの小旗を結びつけているらしい。
フリーダはすぐにそちらへ向かいかけて、私の顔を見た。
「魔法は使わないわ」
「誰もそこまでは言ってないよ」
「でも、使わない方がいい顔をしているもの」
否定できなかった。
フリーダは背の高さを生かして、脚立も使わずに綱へ手を伸ばした。旗を一枚ずつ結んでいく。ただし、指先は戦闘用の術式を組むときよりも真剣だった。
十分後、旗はきれいに並んでいた。その代わり、フリーダの黒髪には、赤い布切れが一枚だけ結ばれている。
「できたわ」
満足そうに戻ってきた彼女へ、私は赤い布を指さした。
「それ、旗じゃなくてフリーダに結んである」
「まあ」
「動かないで」
手を伸ばしてほどくと、フリーダは驚くほど素直にかがんだ。
近い距離で見ると、彼女の耳が少し赤い。赤い布を髪から外すために指を添えただけなのに、私まで妙に落ち着かなくなる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
声が少しだけ変になった気がして、私はすぐ坩堝の方へ戻った。
青銅がちょうどよく溶けたころ、鐘楼の上から風が強く吹き抜けた。
ひびへ金属を流し込むには、鐘をわずかに傾ける必要がある。けれど、いま吊られている帰り鐘は大きすぎる。綱をゆるめれば、古い梁まで一緒に軋むだろう。
「フリーダ」
「なに?」
「鐘を持ち上げることはできる?」
「ええ。どのくらい?」
「指一本分」
フリーダは、一度だけ鐘を見上げた。
「指一本分でよいのね」
「うん。私が止めてと言うまで、それより上げないで」
「分かったわ」
返事は真面目だった。
私は坩堝の取っ手を布で包み、鐘楼の階段を上る。フリーダは先に立ち、狭い踊り場で誰かとすれ違うたび、身体を壁へ寄せて道を作ってくれた。
最上階へ着くと、彼女は杖を床へ軽くついた。
「行くわ」
白い魔法陣が、鐘の下へ広がる。
大きな青銅の塊が、音もなく、ほんのわずか持ち上がった。吊り綱が張り、梁のきしみが止まる。
「そこで」
私が言うと、フリーダはすぐに魔力を止めた。
鐘は指一本分だけ浮き、彼女の魔法に支えられたまま静かに揺れている。
「ロッテ、今で大丈夫?」
「うん」
ひびの周りへ細い糸を通し、裂け目の奥まで開く。溶けた青銅を少しずつ流し込むと、町にあった古い金属が、帰り鐘の中で赤く光った。
熱が足りなければ、継ぎ目は残る。強すぎれば、鐘の響きを支えてきた内側の筋まで傷める。
「フリーダ。火を、ここだけに当てられる?」
指で示したのは、鐘の脇腹に作った小さな溝だった。
フリーダはすぐに杖を上げかけて、それからこちらを見た。
「どのくらい?」
「糸が三回光るまで」
「三回」
杖の先に、白い火が生まれた。
火はひびの縁だけをなぞり、青銅を柔らかくする。わたしの糸が一度、二度、三度と光ったところで、フリーダはぴたりと火を消した。
余熱が残る鐘へ、黄緑の糸を沈める。
途切れていた魔力の筋が、ゆっくりとつながった。
「できた?」
フリーダが小声で訊いた。
「あと少し。鐘の中の音を確かめないと」
階段の下から、ベアーテさんが小さな木槌を持って上がってきた。
彼女の後ろには、鐘楼の近所に住むらしい白髪の男性もいる。
「この人が、戦争の前まで鐘を鳴らしていたんです」
ベアーテさんが紹介した。
男性は鐘を見上げ、ひびの跡へ手を触れずに近づける。
「昔の音は、覚えてますか」
私が訊くと、彼は少し笑った。
「覚えてるよ。腹に響く音だ。急がせるためじゃなく、帰る人の足を少し軽くする音だった」
彼は木槌を受け取り、鐘の縁をそっと叩いた。
低い音が、鐘楼の内側へ広がる。
けれど途中で、かすかに震えが途切れた。金属がまだ、古い傷を思い出しているようだった。
私は目を閉じ、糸の先へ意識を沈める。
どこが鳴れずにいるのかを探す。フリーダは、何も言わずに杖を下ろし、私が開けた手のすぐ横へ自分の手を置いた。
触れてはいない。
けれど、鐘の振動が床を伝うたび、指先の距離が少しだけ近づく。
「ロッテ」
「うん」
「待てばいい?」
わたしは顔を上げた。
焦って大きな力を足すのではなく、待つことをフリーダが自分から選んでいる。
「うん。今は、待って」
もう一度、老人が鐘を叩く。
今度は、途切れなかった。
低く丸い音が、塔の窓を抜け、広場へゆっくり落ちていく。
ベアーテさんが、目を閉じたまま息を吐いた。
私は、鐘の表面から糸をほどいた。
「直ったよ」
フリーダが、ほっとしたように笑った。
その顔を見ると、私まで、今日の仕事が終わったような気がした。
鐘のひびを継ぎ終えたあとも、ベアーテさんは広場を走り回っていた。
席の数を数え、花飾りを結び直し、焼き上がったパンを並べ、足りない皿を探している。彼女が通るたびに、誰かが「あれはどこ?」と呼び止めた。
「ベアーテさん、少し座ったら?」
私は鐘楼の下で声をかけた。
「まだです。鐘を鳴らす人を決めなくては」
彼女は答えながら、手にしていた祭りの進行表を握り直した。
「決まってないの?」
「例年なら、鐘守の家の者が最初の綱を引きます。でも、鐘守だった弟は戦争で亡くなりました。次は私の番だと言われているんですけど」
彼女の言葉が、そこで止まった。
広場では、フリーダが子どもたちに囲まれていた。火をつけた本人へ、焼きたての串焼きを渡そうとしているらしい。フリーダは困ったように断ろうとして、結局、両手に三本の串を持っていた。
「弟さんが、鐘守だったんだ」
「ええ。祭りが大好きな子でした。戦争が終わったら、真っ先にこの鐘を鳴らすって言っていたんです」
ベアーテさんは進行表の端を折る。
「昔は、弟が進行表を作る係で。食べ物の屋台は必ず七つ、最後に鐘を三回鳴らす。毎年、同じことをしつこく書いていたんです」
「今年の進行表も?」
「同じ順番です。変えたら、弟がいた祭りまでなくなる気がして」
彼女は苦笑した。
「でも、今年は子どもが増えたし、屋台も五つしかない。前と同じにしようとして、余計に苦しくなっていました」
「だから私が鳴らしたら、あの子の場所を取るような気がして。祭りをやると言い出したのも私なのに、おかしいですよね」
「おかしくないよ」
私は言った。
修繕魔法ができるから、壊れたものを見つけると手を伸ばす。私はそれを好きで続けている。それでも、ときどき思う。直したあと、そこに私がいなくても困らないなら、最初からいなくても同じなのではないかと。
ベアーテさんの顔にある迷いは、私が見たくないものと少し似ていた。
「直すのと、元通りにするのは違うんだ」
「え?」
「鐘が鳴るようになっても、弟さんが帰るわけじゃない。でも、鳴らしたい人が鳴らせるようにはなる。誰かの代わりじゃなくて、ベアーテさんが鳴らしたいなら、鳴らせばいいと思う」
言ってから、少し言いすぎたと思った。
けれどベアーテさんは怒らなかった。折り目だらけの進行表を見て、それから広場を見渡す。
「私が、鳴らしたいのか」
「うん」
「……鳴らしたいです。弟がいなくても、みんなに帰ってきてほしいから」
その声は、最初に会ったときよりずっと小さかった。けれど、聞き取るには十分だった。
そこへフリーダが串焼きを三本持ったまま近づいてきた。
「ロッテ。これは、三本もいただいてよかったのかしら」
「どうして三本も受け取ったの」
「断ろうとしたら、もう一本増えたの」
「フリーダは座ってて。食べて。何もしないで」
「それは、手伝いになっているの?」
「今の私には、かなり助かる」
フリーダは真剣に頷き、鐘楼の階段へ腰を下ろした。
座りながら、三本のうち一本をこちらへ差し出してくる。
「ロッテの分」
「一人二本ずつでいいよ」
「ロッテは朝から何も食べていないでしょう」
さっき自分が言われたことを、そのまま返されてしまった。
私は一本を受け取った。
「覚えてたの?」
「見えていたもの」
やはり、少しだけ答えになっていない。
でも、串焼きは温かかった。
日が落ちるころ、広場は人で埋まった。
屋台の火は穏やかに燃え、香草の煮込みと焼きたてのパンの匂いが混じっている。色布のあいだに吊るした魔法灯も、順番に灯り始めた。
私は鐘楼の最上階で、最後の継ぎ目を確かめていた。ひびを縫った黄緑の糸は、青銅の中へゆっくり沈み、もう外からは見えない。
「大丈夫?」
背後からフリーダが覗き込んだ。
「大丈夫。あとは鳴らしてみるだけ」
「今回は、わたしは何もしない方がいいかしら」
「うん。何もしないで」
「分かったわ」
素直に返されると、少しだけ心配になる。
階下から、ベアーテさんが綱を持って上がってきた。祭り用の赤い上着ではなく、普段の小麦粉のついたエプロンのままだった。彼女の後ろには、屋台の人たちと子どもたちが続いている。
「皆さんの前で鳴らすものだと思っていたけど」
ベアーテさんは綱を見上げた。
「今日は、皆で鳴らしてもいいでしょうか」
答えを待つより早く、下から歓声が返った。
大人たちが綱を握り、子どもたちがその後ろに並ぶ。ベアーテさんは一番前ではなく、真ん中に立った。
「帰り鐘なんです」
彼女は言った。
「帰ってきた人も、これから帰る人も。今日ここにいる人も、いない人も。みんなのために鳴らします」
綱が引かれた。
鐘の打ち金が動き、青銅の内側を叩く。
低くて、丸い音が町じゅうへ広がった。
鐘楼の窓を抜け、石壁を越え、遠くの畑へまっすぐ飛んでいく。途中で欠けたり、濁ったりしない。何度も何度も、やさしい音が夕暮れを揺らした。
ベアーテさんの頬を涙が伝っていた。けれど彼女は、綱から手を離さなかった。
下では、誰かが拍手を始めた。すぐに広場全体が手を叩き、笛の音が重なる。
フリーダは、鐘の音を聞きながら、静かに目を伏せていた。
私は何も言わなかった。
祭りが終わったあと、広場には食べ終えた皿と、踏まれた花びらと、まだ消えない笑い声が残っていた。
ベアーテさんは、空になった鍋を抱えたまま私たちの前に立った。
「鐘も、祭りも、本当にありがとうございました」
「鐘は直したけど、祭りを始めたのはベアーテさんたちだよ」
「それでも。二人が来なかったら、私はまた準備だけして、鐘の前で立ち止まっていたと思います」
フリーダが、少し考えてから言った。
「では、間に合ってよかったです」
それはどこまでも丁寧な返事だったけれど、ベアーテさんは嬉しそうに笑った。
町の人たちが、私たちへ残りのパンや串焼きを渡してくれる。私は断ろうとしたが、フリーダが先に受け取ってしまった。
「今度は二本だけよ」
「学習したわ」
「三本から二本になっただけだよ」
「大きな進歩でしょう」
宿への帰り道、フリーダは紙袋を大切そうに抱えていた。歩きながら、その袋を私へ差し出す。
「ロッテの分」
「半分でいいよ」
「一人で食べるには多いもの」
「じゃあ、半分ずつ」
紙袋からまだ温かいパンを取り出すと、香草の匂いがした。
フリーダは自分の分をちぎり、食べる前に、なぜか少し迷ったように見えた。
「今日、ベアーテさんに言ったでしょう」
彼女が言う。
「直すのと、元通りにするのは違うって」
「うん」
「その通りね」
私は隣を歩く黒い髪を見た。フリーダは街灯の下で、私にだけ少し気を抜いた顔をしている。
「ロッテがいてくれるから、壊したあとにも、ちゃんと次があるのだと思うわ」
胸の奥が、急に熱くなった。
「それ、褒めてる?」
「とても」
「……そっか」
返事を急ぐと、声が変になりそうだった。
遠くで、帰り鐘がもう一度鳴った。祭りのためではなく、ただ、町にいる人たちへ帰る時刻を知らせる音だった。
「フリーダ」
「なに?」
「さっきの鐘、聞いてると……帰る場所がある人は、少し羨ましいなって思った」
言ってから、余計なことを言ったと思った。
旅の修繕士は、あちこちの町へ行く。帰る場所がないわけではない。ただ、仕事が終わればまた次の町へ歩くのが普通だった。
フリーダはパンを持ったまま、ゆっくり歩みを止めた。
「ロッテには、帰る場所があるのでしょう」
「あるよ。でも、いつも戻るわけじゃない」
「では、戻りたい場所が」
「うん」
私は少しだけ笑った。
「フリーダは?」
彼女の指が、杖の布袋の紐へ触れる。
答えにくい問いだったのだと、すぐに分かった。
「今は、まだ分からないわ」
その返事は、正直だった。
私はそれ以上訊かなかった。
「じゃあ、次の町を決めるときは、フリーダにも聞く」
「わたしに?」
「うん。修繕の依頼がある方へ歩くことが多いけど、寄りたい場所があれば言って。少し遠回りでも」
フリーダは、すぐには答えなかった。
街灯の明かりが、彼女の横顔を淡く照らしている。
「……今は、ロッテが行く町でよいわ」
その言葉を、約束のように受け取らないようにした。
ただ、今日、ここまで一緒に歩いてきた事実として受け取った。
「分かった」
宿の前まで来ると、フリーダが足を止めた。
昼に髪から外した赤い布切れを、いつの間にか彼女が持っている。
「これは、旗に戻した方がいいかしら」
「もう余り布だと思うよ」
フリーダは少し考え、杖の布袋の口へそれを結んだ。
黒い布の端に、細い赤が揺れる。
「では、目印にしておくわ」
「何の?」
「ロッテが、髪から取ってくれたものの」
あまりに真面目に言われて、私は何も返せなくなった。
ただ、宿の扉を開ける前に一度だけ笑った。
その夜、寝台へ入ってからも、帰り鐘の音が耳の奥に残っていた。
明日もこの人と歩くのだろうと思った。
それが少し嬉しいことを、まだ口にはしなかった。




