第四章 風見鶏の町・ヴィルネン・魔力弾
ヴィルネンは、風の通り道に作られた町だった。
なだらかな丘の斜面に灰色の屋根が段々と連なり、どの家の軒先にも、小さな羽根や板が取りつけられている。町の中央にある時計塔だけは、そのどれより高く、塔の頂には翼を広げた大きな雄鶏の風見鶏が立っていた。
ただし今、その雄鶏は太い綱で辛うじて台座へ留められ、ひどく傾いていた。片方の羽根はひしゃげ、尾の先も欠けている。
「ずいぶん頑張ってるわね」
わたしは杖を肩へかけ直し、塔を見上げた。
「風見鶏が?」
「ええ。あの姿勢のまま、まだ落ちていないもの」
隣を歩くロッテは、肩から下げた修繕鞄を軽く叩いた。
「落ちる前に直して、っていう依頼なんだけどね。水車の町で頼まれたんだ」
「荷を運ぶ人にとって、方角を知るものなのね」
「たぶん、それだけじゃないよ」
ロッテは塔の下を行き交う人々へ目を向けた。誰もが、用事の途中に一度は風見鶏を見上げていく。崩れかけたものがそこにあると、町全体が少しだけ呼吸を浅くしているように見えた。
時計塔の前には、油で黒くなった手を前掛けで拭う壮年の男性と、その後ろに隠れるように立つ女の子がいた。
「修繕魔法使いのリーゼロッテさんですね。私は時計師のヨアヒム・ホルンです」
男性は深く頭を下げた。
「リーゼロッテ・ベッカーです。ロッテでいいよ。こっちは手伝いのフリーダ」
「フリーダ・リンデンです。よろしくお願いします」
女の子が、父親の影から顔を出した。赤茶色の髪を二つに編み、胸には小さな木の道具を提げている。片方は笛の吹き口、もう片方はラッパのように広がっていた。
「ティルダ・ホルンです」
「こんにちは、ティルダ」
「こんにちは」
彼女はわたしを見上げ、少し考えてから言った。
「すごく背が高い」
「そうかしら」
「塔よりは低いけど」
「比較として正確よ」
ロッテが小さく吹き出す。ヨアヒムさんは困ったように眉を下げたが、ティルダは気にした様子もなく、胸の道具を握った。
「風聞き笛。こっちを耳に当てると、風穴の音がよく聞こえるの」
「風を読むためのものなのね」
「うん。鶏が北を向いて、笛が高い音を出すときは、南の峠に行っちゃだめ」
ヨアヒムさんが塔を見上げた。
「谷を抜ける風は急に向きを変えます。農夫も荷運びの者も、あの風見鶏と塔の鐘を見て、峠を越えるか決めるんです」
ちょうどそのとき、広場の端で二台の荷車が止まった。御者たちは荷の布を押さえながら、傾いた雄鶏と空の雲を交互に見ている。峠へ向かう荷なら、風が強くなる前に出たいのだろう。けれど、風見鶏がどちらを向いているかも、塔の笛が何を告げているかも、今は当てにできない。
町の人は皆、風そのものを怖がっているのではなかった。いつ出るか、いつ戻るかを決める目印が失われていることを怖がっている。
わたしは荷車の方を見てから、塔へ視線を戻した。
「直せば、皆さんが自分で決められるようになるのね」
「うん。だから、急ぐけど急ぎすぎないで直そう」
「今は、上げない方がいいと思う」
ティルダが言った。
「風が、まだ落ち着いてないから」
「上へ戻すのは、直してからにしよう」
ロッテはすぐに頷いた。
「まず中の仕組みを見せてもらっていい?」
時計塔の扉を開けると、古い木と油、それから濡れた石の匂いが流れてきた。太い歯車が何枚も組み合わさり、振り子が規則正しく時を刻んでいる。上へ続く螺旋階段の壁には、細い風穴が開いていた。
風はその穴を通るたび、笛を吹くような高い音を残していく。塔の上で風見鶏が回れば、歯車が鐘の仕組みへ伝わるのだと、足元の金属の振動で分かった。
ティルダは一段目に足をかけ、父親の顔を見た。
「中までなら、いい?」
「私の見えるところまでだ」
「うん」
彼女は少しだけ口を結び、それでも軽い足取りで階段を上った。
塔の中腹で、ロッテが足を止めた。風見鶏へ続く歯車の脇に、黒い毛の塊がいくつも張りついている。鼠ほどの獣に薄い膜の翼があり、金属の軸を齧っていた。
「風喰い鼠だ」
ヨアヒムさんの声が低くなる。
「嵐で巣が壊れて、入り込んだんでしょう。魔力を含んだ油を食べるんです」
「先に追い出さないとね」
ロッテは鞄から細い金具を取り出した。黄緑の糸がその先からほどけ、一番手前の鼠の翼へ伸びる。
「歯車を固定してから、糸で捕まえる。フリーダはティルダを下へ――」
甲高い鳴き声が、塔の内側を震わせた。一匹が軸を深く噛み、歯車が嫌な音を立てて半回転する。欠けた歯が、金属片を散らした。
ヨアヒムさんが顔色を変えた。
「まずい。あの軸が外れたら、上の台座ごと落ちる」
もう一匹は階段の手すりを跳び、ティルダの顔めがけて飛んだ。
ティルダが息を呑む。
わたしは考えるより先に、杖を向けていた。
「魔力弾」
青白い光が弾け、鼠の胴を貫く。落ちた獣の向こうで、弾は止まらなかった。
石壁に触れた瞬間、その部分だけが音もなく消えた。
大人が両腕を広げたまま通れそうな、完璧な円い穴。午後の光と、外の風が塔へ一気に流れ込む。
残りの鼠たちは鳴き交わし、風穴から逃げていった。
けれど、穴を抜けた余剰の魔力は風に煽られ、穴の縁をすべるように塔の外壁を駆け上がった。
熱を帯びた光が台座を縛っていた綱を焼き切り、広場の洗濯物を白い鳥のように舞い上げる。
「……あら」
雄鶏は空へ跳ね上がり、一度だけ風を受けてくるりと回った。
そのまま広場の端にある池へ、大きな水しぶきを上げて落ちた。
ロッテが両手で頭を抱えた。
「風見鶏が落ちてるよ!」
「ごめんなさい。風見鶏、飛ばしちゃった」
ティルダの目がまん丸になっている。わたしは姿勢を正した。
「壁にも穴を開けてしまったわ。洗濯物も、あとで必ずお返しします」
「うん。まずは雄鶏を池から出そう。あんたは謝るのも、引き上げるのも、ちゃんと手伝って」
「承知したわ」
池へ駆け寄る町の人たちに混じり、わたしは水の中へ杖を伸ばした。だが、ロッテがすぐに袖をつかんだ。
「待って。今度は魔法で引っ張らない」
「けれど、とても重いわ」
「重いから、みんなでやるの。池の縁まで寄せるだけなら、手と綱で足りる」
彼女の声に責める響きはなかった。だからこそ、わたしは少し戸惑った。
ロッテはヨアヒムさんと相談し、近くの荷車小屋から太い綱と滑車を借りてきた。わたしは水へ膝まで入り、沈んだ翼へ綱を通す。冷たい泥水がローブを重くしたが、片手で持ち上げるよりずっと確かな作業だった。
「フリーダ、そこを押さえて」
「ここ?」
「うん。引っ張るのは、合図してから」
何人もの手が綱を握る。ロッテが滑車の位置を確かめ、ティルダが岸で両手を上げた。
「いち、に、さん!」
綱が張った。雄鶏のくちばしが水面を割り、次に片翼が現れる。わたしも力を込めた。腕の筋肉が震え、靴が泥へ沈む。それでも、金属の重みが少しずつ岸へ移っていく感触は、魔法よりも分かりやすかった。
「上がった!」
歓声と一緒に、雄鶏は池の縁へ横たわった。
「できたわ」
息を整えながら言うと、ロッテは泥のついたわたしの袖を見て、笑った。
「できたね。濡れたけど」
「……魔法を使わない方が、服は濡れるのね」
「それはそう」
ティルダが声をあげて笑った。その笑いにつられて、わたしも少しだけ笑っていた。
風見鶏を池から引き上げ、広場に飛ばされた洗濯物を集め、持ち主へ謝り終えたころには、日が西へ傾いていた。
幸い、風見鶏の割れは少なかった。ヨアヒムさんが鍛冶場で新しい留め具を打ち、ロッテはひしゃげた羽根へ黄緑の糸を走らせている。糸は金属の継ぎ目に入り、壊れた形を、少しずつ元の形へ結び直していった。
鍛冶場の戸口には、峠へ荷を運ぶ人や畑から戻った農夫が、代わる代わる様子を見に来ていた。誰も急かさない。ただ、風見鶏が戻るのを待っている。その静かな期待が、わたしには、叱られるより少し苦しかった。
わたしは濡れたローブの裾を絞りながら、鍛冶場の隅に座っていた。
「わたしは、戦いのための魔法しか上手に使えないの」
ロッテは手を止めずに、こちらを見た。
「知ってる。だから塔の中で使うなって言ったの」
「一般的な魔力弾なら、あのくらいで済むはずだったわ」
「フリーダのは、一般的じゃないから」
反論できなかった。大きな結界を張ることも、火と光を槍の形に落とすこともできる。遠くへ届かせる力なら、きちんと扱える。けれど、鼠一匹だけを傷つけずに追い払うような魔法は、わたしの手からすると、細すぎる。
「それじゃ、わたしは邪魔にならないようにしていた方がいいのかしら」
言ってから、ロッテの指が止まった。黄緑の糸が、羽根の割れ目の上で小さく揺れる。
「そういう話じゃない」
「でも、あなたが範囲を決めてくれないと、わたしは壊してしまう」
「うん。だから決めるよ。でも、フリーダが壊すしかない人だとは思わない」
ロッテは鞄から小さな真鍮の針を抜き、わたしの方へ差し出した。
「これ、持ってみて」
受け取ると、針は驚くほど軽かった。
「《継ぎ手》は、壊れたものを元に戻すだけの魔法じゃないの。どこをつなぐか、どこはつながないかを決める。大きな力が来ても、受け取る場所があれば、全部を壊さずに済むことがある」
「ロッテが、受け取る場所になるの?」
「私ひとりじゃないよ。ヨアヒムさんの留め具も、ティルダの耳も、町の人の手もある。フリーダは、その中でできることを選べばいい」
彼女はわたしから針を受け取り、羽根の継ぎ目へ戻した。
「最初から一人で正解を当てなくていいんだよ」
その言葉は、胸の奥で静かに引っかかった。
わたしはいつも、一人で届く範囲を測るよう命じられてきた。届かなければもっと遠くへ、足りなければもっと強く。誰かに、終わる場所を教えてもらうことはなかった。
「壁の方はどうするの?」
ティルダが尋ねた。
ロッテは穴の縁を見上げた。
「石を積み直すより、窓にした方が早いと思う。幸い、フリーダが綺麗に丸く抜いてくれたから」
「褒められたみたいだわ」
「違うよ」
ヨアヒムさんが、棚から古い真鍮の枠と、色とりどりの硝子片を取り出した。
「昔の風鈴盤に使っていたものです。欠けて取り替えた硝子ですが、風穴の色を見るには使えます」
ティルダの指が、硝子片の上で止まる。
「朝は青。東の空が薄くて、風がまだ冷たいから。夕方は琥珀。峠から赤い砂が来る日は、赤を少しだけ」
「じゃあ、その順に並べよう」
ロッテは硝子を彼女の前へ押し出した。
ティルダは一枚ずつ選び、塔の穴へはめる順番を決めた。ロッテの糸が真鍮の枠を石壁へ結び、最後の硝子が収まると、夕日の光が塔の床へ青と琥珀の帯を落とした。緑は畑の方へ、赤は峠の方へ小さく光る。
「風の窓だ」
ティルダは小さく言った。
「綺麗ね。ティルダの見ている風が、少し分かる気がするわ」
「うん」
彼女は喜んでいたが、すぐに風聞き笛を握り直した。
「上げるなら、もう少し待った方がいい。いまは西から強いのが来てる」
ヨアヒムさんは、娘と風見鶏を見比べた。
「どのくらいだ?」
「日が、あの屋根に隠れるころ」
「分かった。ティルダの合図で戻そう」
ティルダは驚いたように父親を見た。それから、わずかに背筋を伸ばした。
日が屋根の向こうへ沈むころ、広場には町の人たちが集まっていた。
新しい留め具をつけた雄鶏は、地面の上で夕日を鈍く返している。ヨアヒムさんは塔の上へ登り、ロッテは台座の下で鞄から短い針を取り出した。
「フリーダ。持ち上げる魔法は出せる?」
「ええ。大きい方なら」
「小さくしなくていい。雄鶏と台座に、終わる場所を作るから」
ロッテは針の先で、風見鶏の胸と塔の台座へ小さな印をつけた。黄緑の光糸が、二つの印をまっすぐ結ぶ。糸は風見鶏の重みを持ち上げるものではない。けれど、大きすぎる力がどこへ届くかを、迷わせないための道しるべになる。
「《結び留め》」
糸は、風の中でも揺れなかった。
「ここが終点。フリーダは上げるだけでいいよ。着くところは、私が受け取る」
「分かったわ」
わたしは杖を掲げた。足元に白い魔法陣が広がり、雄鶏の下から、大きく安定した浮力が湧き上がる。
《渡空》は、遠くへ人を運ぶための魔法だ。今回は人を運ぶ形のまま使わず、雄鶏の下から浮力だけをかける形へ組み替える。本来は、こんな重い鉄の鳥を一丈ずつ動かすためのものではない。それでも、力を細く削る必要はなかった。ロッテの糸が、行き先を結んでくれている。
わたしがするのは、空へ持ち上げることだけ。落ち着く場所を決めるのは、ロッテの仕事だ。
雄鶏は地面を離れ、塔の先端へ向けてゆっくり浮かび上がった。
「そのまま」
ロッテが言う。
「止めて!」
ティルダの声が飛んだ。
わたしはすぐに魔力を止めた。空中の雄鶏が、糸に支えられたまま揺れる。
ティルダは風聞き笛を耳に当て、塔の風穴から届く音へじっと耳を澄ませていた。
「まだ、西。待って」
広場が静かになる。わたしは、杖を下ろさなかった。
横から来た強い風が、雄鶏の羽根を叩く。胸の印から伸びた糸が弓のように張り、金属の体はそれ以上振れなかった。
以前なら、風ごと押し返して、早く終わらせようとしただろう。けれど、わたしには聞こえない音を、ティルダは聞いている。わたしには作れない継ぎ目を、ロッテは作っている。
ただ待つのではない。二人が見ているものを信じて、力を留めている。
やがてティルダが片手を上げた。
「いま。北から弱いのが来る。鶏の顔を、こっちへ」
「ええ」
わたしは浮力を増やさず、ロッテの糸が示す方へ雄鶏を向けた。柔らかな追い風が金属の翼を支え、雄鶏は最後の高さを越える。
「受け取るよ!」
ロッテの糸が台座へ張りつき、雄鶏の軸をぴたりと受け止めた。
塔の上で、ヨアヒムさんが留め具を打つ。金属を叩く音が三度響き、ロッテが糸をほどくと、風見鶏は北を向いて、それからゆっくり西へ首を巡らせた。
塔の中で歯車が噛み合い、広場の鐘が一度、澄んだ音を鳴らす。
町の人たちから歓声が上がった。
ティルダは両手を握りしめていた。階段を下りてきたヨアヒムさんが、その肩へ大きな手を置く。
「助かったよ、ティルダ」
「うん」
「明日から、風の記録を一緒につけよう。塔の中も見せる。ただし、私と一緒にだ」
ティルダの顔が、夕日に照らされたように明るくなった。
「ほんと?」
「ああ。時計だけで、町の鐘は鳴らせないからな」
ロッテがこちらへ顔を向けた。
「今回は、ちゃんと待てたね」
「ティルダが教えてくれたからよ」
「うん。それでいい」
その夜、ヨアヒムさんの家の食卓には、湯気の立つ豆の煮込みと、硬いパン、白いチーズが並んだ。わたしは空腹に気づくのが遅く、ロッテに肘で軽くつつかれてから皿へ手を伸ばした。
「フリーダ、パンを取って」
「ええ」
「自分の分も」
わたしは一瞬、手を止めた。それから、二切れ取った。
ティルダは新しい風の記録帳を抱え、今日の出来事を一行ずつ書いていた。〈西風、強い。雄鶏、落ちる。フリーダが飛ばす〉と読めたので、わたしは少し迷ってから尋ねた。
「最後のところは、〈みんなで池から出した〉にしてもらえる?」
ティルダは考え、頷く。
「うん。そっちの方が、いい」
ロッテが、卓上の琥珀色の硝子を指先で転がした。
「今日、待ってくれてありがとう」
「命令だったからではないわ」
自分で言ってから、胸の奥が少し温かくなった。
「ロッテが、待ってと言ったから待てたの。あなたが見ているなら、力を止めていても怖くないと思った」
ロッテの目が、ほんの少し丸くなった。すぐに、いつもの明るい笑顔へ戻る。
「そっか。じゃあ、これからもちゃんと言うよ。待って、って」
「ええ。わたしも、分からなければ訊くわ」
それは旅の手順についての約束だった。なのに、声に出すと、もっと長く使える約束のように思えた。
翌朝、町を出る前に、ティルダが宿までやってきた。
両手には、小さな硝子のペンダントが二つある。風の窓に使った硝子の余りを、ヨアヒムさんが枠にし、ティルダが紐を通したのだという。
「フリーダには朝の風。ロッテには夕方の風」
青い硝子と琥珀の硝子を、それぞれ差し出してくる。
「ありがとう。大切にするわ」
わたしは青い方を受け取り、ローブの内ポケットへしまった。
ロッテも琥珀を掌で透かし、笑う。
「次に来るときは、風を聞いてから魔法を使ってね」
ティルダが言った。
「約束するわ」
丘を下りる前に振り返ると、時計塔の雄鶏が朝の風を受け、静かに首を巡らせていた。
その音を聞き取れないまま、わたしはロッテの隣へ歩いた。彼女の琥珀のペンダントが、朝の光を受けてひとつ揺れた。




