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第三章 林檎の村・アプルナ・壊れた荷車

ロッテと旅を始めた翌朝、わたしは自分の鞄の紐を結ぶだけで十分ほどかかった。

 水車小屋の裏庭には、朝露を受けた石畳が広がっている。ロッテは肩から下げる修繕鞄を開き、工具を一本ずつ布へ包み直していた。細い針、予備の金具、糸玉、薬草の束。旅に必要なものは、すべてその鞄と背中の小さな荷袋に入るらしい。

 荷車はない。

 わたしたちは、次の町まで自分の足で歩く。

 「それだけ?」

 ロッテが、わたしの鞄を見た。

 中には外套と杖の布、替えの下着一組、それからエルゼさんにもらった黒パンが入っている。

 「ほかに必要なものがあるかしら」

 「着替えは?」

 「一組ありますわ」

 「雨が降ったら?」

 「乾かします」

 ロッテは手を止めた。

 「昨日の水車みたいに?」

 「あれは、少し回しすぎただけよ」

 「粉屋を白く塗り替えるのを、少しって言うんだ」

 彼女は自分の荷袋から、薄いシャツを二枚取り出した。干した草の匂いがする。

 「これは貸し。破いたり燃やしたり、魔法で乾かそうとして風に飛ばしたりしたら、ちゃんと弁償して」

 「シャツを飛ばすつもりはないわ」

 「そういう人が一番飛ばすんだよ」

 わたしは受け取ったシャツを見た。

 誰かが、自分のために予備を用意してくれることに慣れていない。礼を言うまで、少し時間がかかった。

 「ありがとう、ロッテ」

 ロッテは修繕鞄の口を閉じながら、ちらりとわたしを見た。

 「どういたしまして。じゃ、行こうか。フリーダ」

 偽名を呼ばれても、昨日ほど胸は痛まなかった。

 村を出る前、わたしはロッテの肩から鞄を受け取ろうとした。

 工具まで入った鞄は、見た目よりずっと重い。

 「持ちましょうか」

 「何を?」

 「その鞄を」

 「大丈夫。自分の仕事の鞄だから」

 「けれど、重いでしょう」

 「重いよ」

 ロッテはあっさり頷いた。

 「でも、必要になったときに自分で出せるところにある方がいい。フリーダが手伝いたいなら、町で頼むね」

 断られたのに、嫌な気持ちはしなかった。

 持つか、持たないかを、ロッテが自分で決めたからだと思う。

 「分かったわ」

 「うん。あと、疲れたらちゃんと言って」

 「疲れないと思うけれど」

 「そこは、疲れたら言うって約束して」

 ロッテは昨日から、ときどき変な約束をさせる。

 けれど、言われるまま頷くと、彼女は少し安心したように歩き出した。

 アプルナは、ミュレアから半日ほど北へ歩いたところにある、小さな林檎の村だった。

 なだらかな丘に沿って果樹園が広がり、枝には赤い実が鈴のように揺れている。収穫の時期らしく、道端には籠を抱えた人が多かった。林檎を積んだ荷車が、村と市場を行き来している。

 「きれいな村ね」

 「春は花がすごいんだよ」

 ロッテは何気なく言った。

 「来年、まだ一緒に旅してたら見られるかも」

 まだ一緒に旅している。

 その言葉を、わたしはうまく受け取れなかった。遠い約束のように聞こえて、叶わないものを先に数える自分が嫌だった。

 「……そうね」

 ロッテは返事を急かさなかった。

 果樹園の脇で立ち止まり、道端の小さな籠から林檎を一つ取る。籠には炭で「旅人へ」と書かれていた。傷のないところを袖で拭き、半分に割って、片方をこちらへ差し出した。

 「食べる?」

 「いただいてよいの?」

 「落ちてるから。持ち主に見つかったら、あとで謝ろう」

 少しだけ困る冗談の言い方だった。

 わたしは受け取り、口に入れた。酸味のあとから、甘い汁が広がる。

 「おいしいわ」

 「でしょ」

 ロッテは、自分の半分をかじりながら笑った。

 来年の花を見られるかどうかは、まだ分からない。

 けれど、今ここで同じ林檎を食べていることは、たしかだった。

 村の入り口で、子どもが一人、わたしたちへ手を振った。首には林檎の形をした赤い飾りが下がっている。

 「修繕屋さん!」

 駆け寄ってきたのは、七つか八つほどの男の子だった。

 「おばあちゃんのところ、こっち! 車が壊れちゃったの!」

 彼はロッテの袖を引っ張ろうとして、肩の修繕鞄に手が届かず、すぐにこちらを見上げた。

 「ぼく、トビア。おばあちゃんはヘルタ」

 「じゃあトビア、道を頼むね」

 果樹園の奥へ進むと、一台の荷車が畑の脇に傾いて止まっていた。片方の車輪が外れ、荷台の下には林檎がいくつも転がっている。

 荷車のそばに、白髪をきっちり結った女の人が立っていた。腕を組み、壊れた車輪を睨んでいる。

 「修繕屋さん?」

 「リーゼロッテ・ベッカーです。ロッテでいいよ。こっちは手伝いのフリーダ」

 ヘルタさんは、わたしの顔から杖までを遠慮なく眺めた。

 「ずいぶん背の高い助手だね」

 「力仕事が得意なの」

 「そう」

 それだけ言って、ヘルタさんは車輪の横へしゃがんだ。

 「留め具が折れた。明日の朝までに市場へ林檎を運ばなきゃならない」

 「収穫祭の準備ですか?」

 「売る分を運んで、その帰りに、今朝から市場にいる息子の家族を乗せて戻る」

 トビアが車輪へ近づき、外れた金具を拾った。

 「お父さんも来る?」

 ヘルタさんの口元が固くなった。

 「市場まで、乗せていくかもしれないね」

 ロッテはそれ以上聞かず、車輪を調べ始めた。軸の金具が折れ、木の輪にも大きなひびが走っている。

 「留め具は作り直せる。けど、車輪は木を削って合わせないと」

 「そんな時間はないよ」

 「なら、ここで直すしかないね。フリーダ、荷台を支えてくれる?」

 「ええ」

 わたしは杖を地面へ立て、荷車の下に浮遊の術式を置いた。

 荷台が、指二本分ほど静かに持ち上がる。

 ロッテは一度だけわたしを見た。

 「今のは、ちょうどいい」

 その一言が、思ったより嬉しかった。

 ロッテは折れた留め具を外し、革袋から細い金属片を取り出した。黄緑の光の糸が金属と木のひびへ入り込み、かすかな音を立てながら形をつないでいく。

 わたしなら、車輪ごと新しいものへ変えようとしたかもしれない。けれどロッテは、今あるものの中から、まだ使える部分を探している。

 「フリーダ。そこ、あと少し上げて」

 「分かったわ」

 少しだけ上げるつもりだった。

 荷台は、わたしの頭より高いところまで浮かび上がった。

 「高い高い高い!」

 ロッテが両手を上げる。

 「下げて! 車輪をつけられない!」

 「今、下げるわ」

 術式を戻す。荷台はゆっくり下がったが、傾いたまま隣の林檎の木へ寄りかけた。

 荷台の端が枝をかすめ、枝がしなる。赤い実が三つだけ落ちてきた。

 ぽす、ぽす、とロッテの頭と肩へ林檎が当たった。

 「痛っ」

 「大丈夫?」

 「大丈夫じゃない。林檎が降ってきてる!」

 わたしは浮遊を解いた。荷台は元の位置へ戻り、足元には林檎が散らばった。

 「収穫には便利そうね」

 ロッテは、片手に落ちてきた林檎を持ったまま、ゆっくりわたしを見上げた。

 「便利な収穫は、持ち主が許可したときだけだよ」

 「そうなの?」

 「そうなの」

 ヘルタさんは、しばらく何も言わなかった。

 わたしは怒られると思った。けれど彼女は地面の林檎を一つ拾い、袖で軽く拭いた。

 「まあ、落ちたのは今年いちばん甘い木だからね」

 それを半分に割り、わたしとロッテへ片方ずつ渡してくれた。

 「食べな。直してもらってるあいだくらい、腹を満たしておきな」

 林檎は、さっき食べたものより驚くほど甘かった。果汁が指を伝う。

 ロッテが隣で小さく笑う。

 「わざと落としてもいいかも」

 「わざとではないわ」

 「余計に心配なんだけど」

 昼を過ぎるころ、ヘルタさんはわたしたちへ麦茶と冷えたパンを出してくれた。

 水を張った桶へ林檎を浮かべ、トビアがそれを一つずつ磨いている。ロッテは木を削って新しい留め具を作り、わたしは荷台を支える術式を、今度こそ同じ高さで保っていた。

 同じ高さを保つだけなのに、腕より先の感覚をずっと見張っていなければならない。荷台がわずかに沈むと、ロッテは削る手を止めずに「あと指半分」と言う。上がりすぎると、車輪の穴と軸の位置がずれる。

 わたしは息を吐き、杖から送る魔力を少しずつほどいた。大きな結界なら、最初に形を作れば力はその中を巡る。けれど今は、荷車の重みが変わるたびに、魔力の終わる場所も少しずつ変わる。

 「今、いい?」

 「うん。そのまま」

 ロッテの声が聞こえるたび、うまくできているのかではなく、次に何をすればいいかが分かる。それだけで、魔法を使う手の震えが少し静かになった。

 トビアは桶から林檎を取り出すと、綺麗なものと傷のあるものを分けていく。

 「これは市場。こっちは煮るやつ」

 「どうして分かるの?」と聞くと、彼は得意そうに胸を張った。

 「おばあちゃんが、捨てる林檎はないって言うから」

 壊れた荷車と、傷のある林檎と、今ロッテが削っている木片。どれも、すぐ新しく替えるのではなく、まだ使える場所を探している。

 わたしは荷台を支えたまま、少しだけその考え方を真似してみたいと思った。

 「フリーダは、ずっと旅してたの?」

 トビアが聞いた。

 「いいえ。旅人になったばかりよ」

 「怖くない?」

 「怖いこともあるわ」

 「じゃあ、なんで行くの?」

 答えがすぐには出なかった。

 行く場所がないから、とは言えない。

 ロッテが代わりに、木を削る手を止めずに答える。

 「怖いからって、ずっと同じ場所にいられるわけじゃない人もいるんだよ」

 ヘルタさんは遠くの畑を見ていた。

 「あたしの息子も、そうだった」

 彼女は急に言った。

 「戦争が始まってすぐ、町の工房へ行きたいと言った。果樹園なんか守っていても仕方ないってね。あたしは、先祖からの畑を捨てるのかと怒鳴った」

 トビアは手を止めない。何度か聞いた話なのだろう。

 「息子は出ていった。戦争が終わって、嫁さんと子どもを連れて戻ってきたけど……あたしは、最初に言うべきことを間違えたままなんだよ」

 「何を言ったの?」

 トビアが無邪気に聞く。

 ヘルタさんは笑った。けれど、目元だけが少し寂しそうだった。

 「帰ってきたのか、じゃない。勝手に戻るな、って」

 ロッテの手が止まった。

 わたしには、その言葉の重さが分かった。帰ってくるなと言われる前に、帰る場所をなくしたことがある。だから、何も言わずに待ってくれる人がいることの方が、ずっと難しい。

 「明日の荷車には、トビアたちを乗せるのね」

 わたしが言うと、ヘルタさんは不機嫌そうに眉をひそめた。

 「乗りたいなら、乗せるだけだよ」

 「では、乗りたいと言えるようにしてあげればいいわ」

 「どうやって」

 「分かりません」

 わたしが答えると、ロッテが吹き出した。

 「分からないんだ」

 「ええ。けれど、乗せるために荷車を直しているのでしょう?」

 ヘルタさんはわたしを見た。

 「だったら、明日を待たなくてもいいのではないかしら」

 ヘルタさんは長いあいだ黙っていた。やがて、トビアの磨いた林檎を一つ手に取る。

 「……市場の帰りに、菓子屋へ寄ろうか」

 トビアが顔を上げた。

 「飴、買ってくれる?」

 「一個だけだよ」

 「二個!」

 「一個半」

 「半分ってどうやって食べるの」

 ロッテが笑い、わたしもつられて少し笑った。

 そのあと、ロッテは新しい留め具を削る手元をわたしへ見せた。

 「ここ、見える?」

 「ええ。木の繊維が、斜めに走っているわ」

 「そう。ここへ金具を真っ直ぐ通すと、また割れやすい。繊維をまたぐように少し傾けて、力を二つに分ける」

 彼女の説明は、いつも具体的だった。

 力を小さくしろ、ではない。どこへ分けるか、どこで止めるかを教えてくれる。

 「ロッテは、どうして修繕士になったの?」

 わたしが訊くと、彼女は留め具を光へかざした。

 「壊れたものを見つけると、放っておけないから」

 「それだけ?」

 「それだけ、って言われると少し困るな」

 ロッテは笑ったあと、鞄の口を足で押さえる。

 「昔、家の椅子がぐらぐらしてて。大人に言ったら、座るなって言われたんだ。まあ、正しいけどね。でも、座れるようにしたら皆で使えるのにって思った」

 「ロッテが直したの?」

 「釘を打ち直したら、脚が反対側に傾いた」

 「それは、少し」

 「失敗だった」

 わたしが笑うと、ロッテは肩をすくめた。

 「でも、そのあと父が直し方を教えてくれた。壊れたから終わりじゃなくて、使う人がまた座れるようにすればいいって」

 「素敵な教えね」

 「フリーダが言うと、急に立派な話に聞こえる」

 彼女は言葉の終わりを軽くした。

 けれど、わたしには、ロッテが自分の魔法を大切にしていることが分かった。

 それを知れたことが、何となく嬉しかった。

 「フリーダは?」

 ロッテが今度は訊いた。

 「わたし?」

 「小さいころから、あんな大きな魔法を使えたの?」

 杖の柄を握る指が、少し冷える。

 故郷で、クララが作ってくれたもの。戦場で、誰かを守るために使ったもの。話すにはまだ、いろいろなことが重すぎた。

 「昔から、上手ではありませんでした」

 わたしは言った。

 「大きくすることしか、できなかったの」

 ロッテは追及しなかった。

 ただ、わたしが支えている荷台の下を覗き込む。

 「今は、ちょうどいい高さで止められてる」

 それだけだった。

 何かを知ったふりもしないし、励ます言葉も急がない。

 わたしは、浮遊の術式を崩さないよう、もう一度息を整えた。

 夕方、車輪はきれいに荷車へ戻った。

 ロッテが荷台を軽く叩く。

 「よし。今度は、ちゃんとゆっくり下ろして」

 「ええ」

 わたしは術式をほどいた。荷台は音もなく地面へ戻った。

 ロッテは車輪を一回転させ、満足そうにうなずく。

 「できたね」

 「今回は、林檎もこれ以上落としていないわ」

 「それを基準にしないで」

 そこへ、畑の向こうから若い夫婦が歩いてきた。女の人は赤ん坊を抱き、男の人は両手に小さな籠を持っている。

 トビアが先に走る。

 「お父さん!」

 ヘルタさんは立ち尽くしていた。

 息子らしい男の人も、すぐには何も言わない。二人の間に、収穫したばかりの林檎の匂いだけが流れていた。

 「荷車、直したの」

 ヘルタさんが先に言った。

 「明日、市場へ行く。帰りは……空いてるよ」

 男の人は、すぐには返事をしなかった。籠の取っ手を握り直し、ヘルタさんの顔を見た。

 「母さんが、いいなら」

 ヘルタさんは赤ん坊の頬へ触れ、それから小さく頷いた。

 「乗りな。……菓子屋にも寄るから」

 赤ん坊は眠っていて、何も知らずに小さく息をしていた。

 ロッテは報酬を受け取り、わたしの袖を引いた。

 「行こう。これ以上いると、家族の時間を邪魔しちゃう」

 果樹園を出る前、ヘルタさんがわたしを呼んだ。

 「背の高い助手さん」

 「はい」

 「次からは、林檎を落とす前に言っとくれ」

 「気をつけますわ」

 「本当に?」

 ロッテが横から聞いた。

 わたしは少し考えた。

 「……たぶん」

 「そこは言い切って!」

 トビアが笑い出し、今度はヘルタさんも声を上げた。

 村を離れるとき、振り返った果樹園には、夕陽を受けた林檎が並んでいた。

 壊れた荷車は、夕陽の中で新しい継ぎ目を光らせていた。ヘルタさんは孫の肩を抱き、さっきより少し低い声で、明日の荷の段取りを話している。

 わたしは歩き出してからも、その声をしばらく背中に聞いていた。

 村を出てしばらくすると、ロッテが足を止めた。

 肩の修繕鞄を下ろし、革紐を締め直している。最初に断られたから、わたしはすぐに手を伸ばさなかった。

 「ロッテ」

 「なに?」

 「何か、持てるものはあるかしら」

 ロッテは一度だけ目を瞬いた。

 それから、鞄の横へくくりつけていた布包みを外した。中には、途中で食べるための乾パンと、薄い毛布が入っている。

 「これなら、お願いしてもいい?」

 「ええ」

 布包みを受け取る。修繕鞄ほど重くはないけれど、ロッテが一日中持っていたものだと思うと、思ったより大切に抱えたくなった。

 「ありがとう」

 「こちらこそ」

 「こういうときは、聞いてくれるんだね」

 「ロッテのものですもの」

 「うん」

 彼女は少しだけ笑った。

 わたしも笑ったが、なぜ二人で笑っているのかは、まだよく分からない。

 「ヘルタさんは、息子さんに何を言えばいいか、分からなかったのでしょう」

 歩きながら、わたしは言った。

 「うん」

 「わたしたちが荷車を直さなければ、明日も言えなかったかしら」

 ロッテは少し考えた。

 「言えなかったかも。でも、直したから言えた、とも限らないよ」

 「どういうこと?」

 「荷車が壊れたのは、たまたま。私たちは、たまたま通りかかっただけ。ヘルタさんが口を開いたのは、ヘルタさんが自分で決めたことだから」

 ロッテの言葉は、杖の重さより長く胸に残った。直せるものと、直せないもの。その境目が、わたしにはまだ怖かった。

 「でも」

 ロッテが続けた。

 「壊れた荷車がなかったら、乗せたいって気持ちを形にするのは難しかったかもしれない。だから、直す仕事って嫌いじゃないんだ」

 ロッテは前を見たまま、気恥ずかしそうに言った。

 「誰かが何かを選ぶときに、ちょっとだけ手伝えるから」

 わたしは彼女の横顔を見た。癖のある茶色い髪の先には、まだ小麦粉がわずかに残っている。

 「ロッテの魔法は、とても大切な魔法だわ」

 「また褒めても、値引きはしないよ」

 「褒めているだけよ」

 「知ってる」

 ロッテは笑った。

 その笑い声に合わせるように、遠くで荷車の車輪が小さく軋んだ。わたしは慌てて杖へ手を伸ばしかけ、それを途中で止めた。

 「……ロッテ。車輪が鳴っているわ」

 「ただの土道だよ。次の町まで持つ」

 「本当に?」

 「本当に」

 今度はわたしが笑った。


 夕暮れが濃くなったころ、ロッテは道端の小さな石標を見つけた。

 次の宿場町まで、あと一刻半。空はまだ明るいが、林の中は早く暗くなる。

 「今日は、あの町まで行こう」

 ロッテは言った。

 「歩けそう?」

 「ええ。ロッテは?」

 「私は大丈夫」

 「それなら、疲れたら言うと約束して」

 ロッテが、目を丸くした。

 それから、わたしが朝に言われた言葉を思い出したらしい。口元を緩める。

 「分かった。疲れたら言う」

 「本当に?」

 「本当に」

 今度は、きちんと言い切った。

 それが少しだけ嬉しかった。

 宿場町へ向かう坂道は、夕日に照らされて金色だった。

 ロッテはいつもの少し前を歩いている。急ぐときだけ振り返り、わたしが同じ場所にいることを確かめる。

 わたしは、彼女が前を向くたびに、また横へ並んだ。

 来年も一緒に旅をしているかどうかは、まだ分からない。

 けれど、次の町までは一緒に歩く。

 今は、それで十分だと思えた。

 宿場町へ着いたころには、空はすっかり紺色になっていた。

 道沿いの宿は、石造りの二階建てだった。入口の灯りに引かれて中へ入ると、主人がわたしたちの鞄と杖を見て、旅人用の小さな部屋を案内してくれた。

 「寝台は二つです。朝食は鐘のあとに」

 そう言って鍵を渡される。

 部屋には狭い寝台が二つ、窓際に小さな机が一つ、壁際に洗面桶があるだけだった。

 けれど屋根があり、扉が閉まる。わたしには、それだけで十分すぎるほどだった。

 ロッテは修繕鞄を自分の寝台の下へ置き、肩を回した。

 長いこと鞄を下げていた右肩が、少しだけ固くなっている。

 「痛むの?」

 「ううん。いつものこと」

 「では、荷物はもっと早く持たせてください」

 「さっきの布包み?」

 「それでも」

 ロッテは少し考えてから、笑った。

 「じゃあ、次からはお願いする。フリーダも、お願いしたいことがあったら言って」

 「わたしに?」

 「うん。どこへ行きたいとか、何を食べたいとか。危ないから嫌だとかでもいい」

 わたしは答えに困った。

 王都にいたころは、行き先は依頼書に書かれていた。戦場では、守る場所が地図に印されていた。自分で決める必要があることは、ほとんどなかった。

 「まだ、よく分からないわ」

 正直に言うと、ロッテは頷いた。

 「分からないなら、今はそれでいいよ。明日、朝のパンが柔らかいか固いかだけでも、選んで」

 「柔らかい方がいいわ」

 「それは即答なんだ」

 ロッテが笑う。

 その笑い方を聞くと、硬いパンを三日間かじっていたことまで、遠い話のようだった。

 夕食は、宿の一階でいただいた。煮込んだ根菜と、焼きたての丸パン。それから、林檎を薄く煮た甘い皿が小さくついている。

 ロッテは一口食べてから、こちらを見た。

 「柔らかい?」

 「とても」

 「よかった」

 それだけのやりとりなのに、わたしは少しだけ気持ちが落ち着いた。

 ロッテはわたしが無事に食べていることを、たぶん大げさに気にしてはいない。ただ、覚えていてくれた。

 部屋へ戻ると、ロッテは窓を少しだけ開けた。夜風が、林檎畑の甘い匂いを運んでくる。

 「明日はヴィルネン。風の強い町らしいよ」

 「風の町」

 「うん。屋根のものが飛ばないように、フリーダも気をつけてね」

 「わたしが飛ばす前提なのね」

 「今のところは」

 言い返そうとして、やめた。

 水車と林檎を思い出せば、反論できる材料はない。


 寝台へ入ったあとも、しばらく眠れなかった。

 すぐ隣の寝台からは、ロッテが小さく寝返りを打つ音がする。誰かと同じ部屋で休むことが、警戒ではなく、妙に静かなことなのが不思議だった。

 「ロッテ」

 暗い中で呼ぶと、すぐに返事があった。

 「起きてるよ」

 「明日のパンも、柔らかいといいわね」

 ロッテは少し黙ってから、声を殺して笑った。

 「うん。そうだね」

 それからようやく、わたしは眠った。


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