第二章 水車の町・ミュレア・偽名
王都を出てからの三日間、私はほとんど魔法を使わなかった。
昼は人の多い街道を避け、夜は林の陰で眠った。火打ち石は持っていたけれど、使えなかった。小さな火を一つ灯すだけのつもりで、灼光槍ほどの炎を出してしまうかもしれない。追手に居場所を知らせるのも、山火事を起こすのも、どちらも困る。
食べたのは、王都を出る前に鞄へ押し込んだ黒パンと干し肉だけだった。魔法を使えば、速く遠くへ行ける。けれど《渡空》は空に道を描き、短距離転移は光を残す。逃げるための力は、隠れるためには向いていない。
三日目の夕方、私は初めて、見知らぬ町の門をくぐった。
水車の町ミュレア。
門の上には、羽根を八枚つけた大きな木の車輪が掲げられていた。けれど、その半分は欠け、夕陽を受けて傾いている。門番は眠そうな顔で私を一度見ただけで、入市税として銅貨を二枚受け取った。
王都の手配は、主要な街道の関所から先に届く。水路沿いの小さな町まで似顔絵が回るには、まだ一日か二日かかるのだろう。
その視線が、私の顔に長く留まらなかったことに、少しだけ安心した。
黒髪は外套の中へまとめて隠している。杖の先端にある魔導石も、灰色の布で包んだ。王都から飛び立った伝令紙には、もう私の顔が描かれているはずだったけれど、似顔絵だけで人を見つけるのは、きっと簡単ではない。
そう思わなければ、歩けなかった。
町の中央には、細い川が流れていた。川沿いには低い石造りの家が並び、そのいくつかに大きな水車が取りつけられている。どの水車もゆっくり回っていたが、いちばん奥の一軒だけは止まっていた。
止まった水車の前には、麻袋を抱えた人が二、三人立っていた。袋の口から覗く麦粒はまだ挽かれていない。店の軒下には、昨日までに焼いたのだろう平たいパンが少し残っているだけで、子どもを連れた母親が、次に焼けるのはいつかと店の人へ聞いていた。
水車が一つ止まっただけで、町の夕食が少しずつ後ろへずれる。戦場では、壊れた城壁がどこを守れなくするかばかり考えていた。けれどここでは、軸が一本折れることが、明日の朝に買えるパンの数まで変えるらしい。
川の匂いには、湿った木と挽きたての粉が混じっていた。そのあたたかい匂いを、わたしは空腹のせいだけではなく、妙に懐かしく思った。
止まった水車の前に、茶色い髪の女の子がいた。
年頃は私とそう変わらないように見える。癖のある短い髪が、作業のたびにあちこち跳ねていた。薄茶の作業着の袖を肘までまくり、足元には工具箱と革の道具袋が広げられている。
彼女は水車の下へ潜り込み、何かを引っ張っていた。
「そこ、あと少し――っ」
ばきん、と鈍い音がした。
水車の内側から、細い木の棒が飛び出した。
「ああもう! そこで折れる!?」
女の子は勢いよく身を起こし、額についた髪を払った。そのとき初めて、私に気づいたらしい。
少し大きな目が、外套の私と、包んだ杖を順番に見た。
「……見世物じゃないんだけど」
「ごめんなさい。手伝えることがあるかしらと思って」
彼女は一瞬、怪訝そうに眉を寄せた。
「手伝えるって、あなたが?」
「ええ」
「水車の修理、したことある?」
「ありませんわ」
「じゃあ、何が手伝えるの」
「力仕事なら」
私が答えると、彼女は止まった水車を見上げた。
水車は人の背より二回りほど大きい。水を受ける羽根の一部が外れ、中心の軸も歪んでいる。普通なら、数人がかりで外して運ぶものだろう。
「持ち上げられる?」
「たぶん」
「たぶん?」
「失礼。持ち上げられますわ」
彼女は、口元だけで笑った。
「言い切ったね。じゃあ、その辺の支え棒を取って。軸を直すあいだ、車輪が動かないようにしてほしいの」
私は言われたとおり、壁際に立てかけられていた太い木材を持ち上げた。人の腕ほどある太さだったけれど、重さは大したことがない。
女の子は私の手元を見て、少しだけ目を丸くした。
「……魔法使い?」
「少しだけ」
「その杖で?」
「そうよ」
「じゃあ、最初に言ってよ」
「聞かれなかったもの」
女の子は何か言いかけて、飲み込んだ。代わりに、水車の軸を指さす。
「いいから、そこに支えて。私は壊れたところをつなぐから」
彼女が腰の革袋から、小さな銀色の針を取り出した。
針の先に、淡い黄緑の光がともる。彼女が空中で手を引くと、光は細い糸になって、折れた木材の断面へ伸びた。
ひびの奥へ、糸が潜り込む。
まるで、木の中に残っていた形を、一つずつ縫い合わせるみたいだった。
「……きれい」
思わず声に出た。
女の子は、作業の手を止めないまま言う。
「継ぎ手っていう魔法。今してるのは仮継ぎ。今日一日、無理なく動けるようにつなぐだけ」
黄緑の糸が、折れた軸の内側で小さく脈打った。
「本当に直すときは、木材を足して本継ぎにする。魔法だけで、壊れる前より都合よくはできないから」
彼女の糸は、折れた木を新しく作るものではない。残っている木目と、そこへ足した木片とを、もう一度つながる形へ戻している。魔法が何でもしてくれるのではなく、そこにあるものが、どうすれば持ちこたえられるかを探しているのだ。
「それでも、とても素敵な魔法だわ」
「そう?」
「ええ。壊れたものが、元の場所へ戻りたがっているように見えるもの」
女の子の手が、ほんの少しだけ止まった。
それから彼女は、照れ隠しみたいに鼻を鳴らした。
「褒めても、値引きはしないよ」
「依頼料をいただくつもりなの?」
「あなた、仕事を手伝うって言ったんでしょ。なら、夕飯くらいは出す」
「それなら、お願いしますわ」
自分の返事が早すぎたことに気づいたのは、女の子が笑ったあとだった。
王都を出てから、固いパンと川の水しか口にしていない。空腹だったのだと思う。
恥ずかしくなって目をそらすと、水車小屋の中から、若い女の子が顔を出した。金色の三つ編みを肩へ垂らし、両手には粉のついた布巾を持っている。
「ロッテ、どう?」
「軸は直った。新しい羽根をつけて、回るか試すだけ」
ロッテと呼ばれた女の子は、私の方を向いた。
「そこの、ええと……」
名を聞かれて、喉の奥が冷えた。
フリーデリケ・ヴァイス。
その名を告げれば、この町のどこかに届く伝令紙と、私の顔が結びつくかもしれない。
けれど、黙れば不自然だ。
「フリー……」
危うく本当の名を言うところだった。
口に出しかけた音が、ひどく遠いものに思えた。私は一度だけ息を吸う。
「フリーダ・リンデンよ」
嘘は、思ったより静かに口から出た。
「フリーダ」
ロッテは一度だけ繰り返した。
「私はリーゼロッテ・ベッカー。ロッテでいいよ。こっちはエルゼ。この水車小屋の娘」
「よろしくお願いしますわ、ロッテさん。エルゼさん」
「さん、はいいって。私たち、そんな立派な人じゃないから」
「けれど、初対面ですもの」
「初対面の人に水車を支えさせてる時点で、もうだいぶ距離近いと思う」
ロッテの言葉に、エルゼがくすくす笑った。
私は、何がおかしいのかよく分からなかった。
水車の羽根を取りつけ終えるころには、日が川の向こうへ沈みかけていた。
ロッテは新しく削った木片を軸の傷へ当て、黄緑の糸を何度も往復させた。仮継ぎの光の上に木が馴染み、継ぎ目の奥へ沈んでいく。
「これで本継ぎ。今日だけじゃなく、ちゃんと回る」
ロッテは最後の革紐を結び、工具袋を閉じた。軸はまっすぐ、きれいに収まっている。
「よし。フリーダ、試してみよう」
「どうすればいいの?」
「川の流れを、少しだけこっちへ寄せて。水車が回れば充分」
「ええ。分かったわ」
私は布をほどき、《夜星の杖》の先端を川へ向けた。
水を動かす魔法は、戦場で使ったことがある。敵の進軍路をぬかるませ、火勢を押し返し、川岸一帯を飲み込むように流れを変える。ひとつの水車だけを回すために、使ったことは一度もない。
川面の上へ、小さな円を描く。
細い流れが水路へ生まれた。水車の羽根が、ゆっくりと水を受ける。
「うん、そのくらい。そのまま――」
ロッテの声が、途中で止まった。
水車は一度大きく軋み、二度目には勢いを増し、三度目には見えなくなるほど回り始めた。
「フリーダ!」
「ええ。回っているわ」
「回りすぎ!」
水を止めようとして、私は指先をこわばらせた。小さな流れを小さく止める。その加減だけが分からない。
水車小屋の中から、ごう、と低い音がした。
次の瞬間、石臼の下に置かれた受け箱から、白いものが噴き出した。
挽きたての小麦粉だった。
一袋ぶんほどの粉が夕陽を受けて、雪のように空へ舞い上がる。屋根の上へ、川の上へ、通りを歩いていた犬の背中へ降り積もる。
エルゼの悲鳴が聞こえた。
「止めて、止めて、止めて!」
ロッテも叫んでいた。
私は慌てて術式を閉じた。水流は元に戻り、水車はようやく減速する。
粉の雲だけが、しばらく町の中央をゆっくり流れていた。
沈黙の中で、川岸の鳥が一羽、白い羽根を震わせた。
ロッテは頭から粉をかぶっていた。茶色の髪が、見事に白くなっている。
私も同じだった。外套の肩も、髪も、頬も白い。
「……初雪みたいで、きれいね」
言うと、ロッテは両手で顔を覆った。
「小麦粉だよ!」
「ええ、分かっているわ」
「分かってる人は、挽いたばかりの粉を空にしないの!」
エルゼは水車小屋から出てきて、しばらく呆然と辺りを見渡した。
私は謝るべきだと思った。修繕どころか、粉を無駄にしてしまったかもしれない。
「ごめんなさい。わたしが片づけるわ」
「待って」
エルゼは、足元へ積もった粉を指でつまんだ。
それを見て、急に笑い出した。
「水車、ちゃんと回った」
「エルゼ?」
「今年はじめての粉だよ。ちゃんと挽けてる」
ロッテがゆっくり水車を見た。
回転はもう落ち着き、羽根は一定の速さで水を受けている。中から、石臼が穀物を砕く規則正しい音が聞こえた。
「……直ったね」
ロッテの声には、まだ少しだけ怒りが残っていた。
「ええ。よかったわ」
「次からは、私が止めるまで魔法を足さないこと」
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切って!」
エルゼがまた笑った。通りにいた人たちも、白くなった私たちを見て、ぽつぽつと笑い始める。
誰も私を《落星の魔女》とは呼ばなかった。
ただ、水車を直しすぎた、少し変わった旅人として見ている。
そのことが、胸の奥へぬるい湯のように広がった。
粉を掃き集めるあいだ、町の人たちはいつの間にか箒と布を持って集まっていた。犬の背中を払う人、屋根に積もった粉を棒で落とす人、窓の隙間へ入る前に布を当てる人。
わたしも箒を借りた。長い柄を両手で持ち、石畳の粉を一か所へ寄せる。魔法で風を起こせば早いかもしれない、と一瞬考えたが、ロッテの顔を見てやめた。あの白い雲をもう一度飛ばすのは、きっと手伝いではない。
「そこ、川へ流さないでね」
ロッテが言う。
「粉が水に入ると、せきのところで固まるから」
「では、どこへ?」
「この箱へ。乾いてる分は、鶏の餌にできるってエルゼが」
エルゼは、水車小屋の陰から古い木箱を引っ張り出していた。粉だらけのまま、指先で中身を確かめる。
「床に落ちた分はパンにはできないけど、捨てなくていいよ。鶏が喜ぶ」
「ごめんなさい」
わたしが言うと、彼女は箒を動かしながらこちらを見た。
「次は、水路の外へ粉を飛ばさないでくれたら、それでいい」
「次がある前提なの?」
ロッテが訊く。
「水車を直せる人なら、あるでしょ」
エルゼはあっさり答えた。
その言葉が、わたしには少し意外だった。一度失敗したから、次から来てはいけないとは思わないのだろうか。
箒の先で粉を集めていると、小さな女の子が、白くなったわたしの外套へ指を伸ばした。
「お姉さん、雪の人みたい」
「小麦粉の人よ」
ロッテが代わりに答える。
「違いが、あまり分からないわ」
「食べられるか、溶けるか」
女の子は真剣に考え、それから自分の箒を動かし始めた。
皆で掃いているうちに、粉の雲は少しずつ町の地面から消えていった。失敗を元どおりにはできない。けれど、あとをどう片づけるかを、誰かと一緒に考えることはできる。
ロッテは水路のそばへしゃがみ込んだ。彼女は銀の針を水面へかざし、細い黄緑の糸を、せきと水車の軸のあいだへ渡した。
「これは、結び留め。次に流れを足すなら、行き先をひとつ決めるの」
「流れを弱くするのではなく?」
「うん。フリーダの魔法を小さくするのは、たぶん難しい。だったら、ここまで、って終わりを作る方が早い」
「私の糸は、力を出すためのものじゃない。大きな力がどこで止まるかを、先に結んでおくの」
糸が水の中へ沈み、せきの影に小さな結び目だけが残った。
大きな力を、細く切るのではなく、届く場所だけをつくる。
私はそのやり方を、少しだけ覚えておこうと思った。
夕食は、水車小屋の奥にある小さな食堂でいただいた。
エルゼが焼いた黒パンと豆の煮込み、それから、少しだけ焦げた玉ねぎのスープ。私は二杯目のスープを遠慮なくいただいた。
ロッテは向かいの席で、まだ髪の根元に残った粉を指で払っている。
「フリーダは、どこへ行く途中なの?」
スプーンを止めた。
嘘は、名乗ったときより難しかった。
「まだ、決めていないわ」
「旅人なのに?」
「旅人になったばかりなの」
ロッテは私を見た。探るような目ではなかった。ただ、言葉の続きを待っている目だった。
私は続きを言えなかった。
「そっか」
彼女はそれだけ言って、パンをちぎった。
「じゃあ、よかったら、次の町まで一緒に来ない?」
「……一緒に?」
「私は修繕の依頼を受けて歩いてる。大きい物を直すとき、手が足りないことが多いんだ」
「わたしがいると、ロッテの仕事がなくなるかもしれないわ」
口にしたあとで、部屋が少し静かになった。
ロッテは首をかしげた。
「なんで?」
「わたしが、できないことまで魔法で片づけようとして、あなたの邪魔になるかもしれないわ」
「今の水車みたいに?」
「……壊す方が、得意かもしれないけれど」
「だったら、できないところは私に任せて」
ロッテはあっさり言った。
「私は、あなたに私の仕事を取られたくないんじゃない。手伝ってくれる人がいたら、今まで断ってた依頼も受けられるなって思っただけ」
「けれど、わたしは毎回うまく手伝えるとは限らないわ」
粉だらけの水車小屋が、すぐに頭へ浮かんだ。
ロッテは笑った。
「それなら、その日は一緒に歩けばいいよ。修繕は私がする。危ないときだけ、できることを頼む」
その言い方が、あまりにも普通だった。
必要だから来てほしい。けれど、私一人で全部やれとは言わない。
そんな誘い方を、私は知らなかった。
「報酬は、宿代と食事の取り分。どう?」
ロッテは、私の返事を急かさない。
私はスープの湯気を見た。窓の外では、水車がさっきよりずっと静かに回っている。
この町を出れば、また私は一人だ。
その方が安全だと、何度も自分に言い聞かせてきた。
けれど、誰かの隣を歩くことが、少しだけ怖くなく思えた。
「よろしくお願いしますわ」
ロッテの顔が明るくなった。
「ほんと? じゃあ決まり。明日の朝、出発ね」
「ええ」
「あと、ロッテさんはいらない。ロッテでいいよ」
「……では、ロッテ」
初めて、その名を呼んだ。
ロッテは満足そうにうなずいた。
「うん。よろしく、フリーダ」
偽名なのに、その呼び方は不思議と悪くなかった。
その夜、私は水車小屋の屋根裏に敷いてもらった寝台へ横になった。
下では水車が静かに回り、粉を挽く音が一定の間隔で響いている。王都の鐘とは違う。誰かを捕らえるためではなく、明日のパンを作るための音だ。
眠りにつく前、ロッテが梯子の下から顔を出した。
「フリーダ。明日、早いよ」
「ええ」
「……来てくれて、助かった」
それだけ言って、彼女は返事を待たずに下りていった。
私は暗い天井を見つめたまま、しばらく目を閉じられなかった。
助かった、と言われたのは久しぶりだった。強すぎて困ると言われるより、ずっと静かで、ずっと怖い言葉だった。




