第一章 白塔の王都・ヴァルディア・褒賞
魔王を倒した日、空には星が落ちた。
そう言う人がいる。
実際には、星ではない。広い戦場に散っていた魔力を夜空の一点へ集め、押し固め、地上へ落とした禁呪――《星落とし》だ。
魔法は、自分の内側にある魔力へ、術式という形を与えて起こす。火を灯す形。傷を塞ぐ形。石を動かす形。術者によって、組みやすい形も、安定して保てる大きさも違う。杖は魔力そのものを生むものではない。手から離れた術式が乱れないよう、力の通る道をつくるためのものだ。
私が得意だったのは、いつも遠くまで届く、大きな形だった。
落ちた場所では、石の城壁も、魔王の結界も、そこへ織り込まれていた魔法の形そのものも消える。魔王城は一息で白い光に呑まれ、その跡には、草も術式も根づかない不毛の《星痕》だけが残った。
あれを使うと決めたとき、私は一人だった。
誰も私に並べなかったからではない。《星落とし》の下には、味方の結界も、救援の魔法も残せない。助けに来た人まで、守るべきものと一緒に消してしまう。
だから私は、魔王城を囲んでいた遠征軍へ退いてほしいと頼んだ。避難路を守ってほしい、これ以上は近づかないでほしい、と。
彼らは私を置いて逃げたのではない。私が、そうしてほしいと言ったのだ。
最後の合図を出すまで、遠征軍の結界は城を半円に囲んでいた。白い幕の外では負傷者を運ぶ荷車が何台も動き、治療師たちが自分の杖より先に、担架の端を掴んでいた。誰かがこちらを呼ぶ声がした。戦闘の音と風に消されて、言葉までは聞こえなかった。
わたしは返事の代わりに、結界の外へ向けて手を上げた。
近づかないでほしい。待っていてほしい。生きて、ここから離れてほしい。
そう願うための合図だった。
魔王城の上には、黒い雲のような結界が渦巻いていた。あれを破れば、城の中で拘束されていた魔力が一度に外へ溢れる。遠征軍の結界を残したままでは、味方の壁ごと呑み込む。
《星落とし》の落下点に術者は残れない。わたしは城壁の外の岩棚に刻んだ術式から、城の中心だけを標にしていた。だから、最後の一枚が畳まれたのを見てから、わたしは杖を空へ向けた。
逃げる人たちの背中が、遠くの丘へ小さく散っていく。
その一人ひとりが、安全な距離へ届くまで待てば、魔王はまた別の術を放つかもしれない。急がなければならない。けれど、早すぎて誰かを置き去りにもできない。
わたしは数を数えた。十では足りず、二十でも足りず、目で追えなくなってから、さらに三つ。
それから《星落とし》を落とした。
遠くの丘で、最後までこちらを向いていた人影を覚えている。けれど光が落ちたあとは、あの丘も人影も、白い残像の向こうにしか残らなかった。
夜が昼のように白くなり、地面が揺れた。
《夜星の杖》の先端にある茶褐色の魔導石には、その晩から細い亀裂が残っている。私の魔力も数週間、眠ったように動かなかった。
それ以来、私は《星落とし》を使っていない。
あの日から四十三日後。私は、白塔の王都ヴァルディアの大謁見の間に立っていた。
高い天井には、幾重もの半円を描く金の装飾がある。壁を埋める窓から春の陽が射し込み、磨かれた白い床へ色の薄い影を落としていた。魔王城の煤と血の匂いが、まだ指先に残っているような気がするのに、ここには花と香油の匂いしかしない。
私の正面には、王の玉座と、その少し下に置かれた王子の椅子があった。
左右には貴族と騎士、魔導院の人たち。そのいちばん端に、私より少し年下に見える書記の女の子がいた。淡い栗色の髪をきっちり結い、膝の上の記録板へ目を落としている。板の端には、エッダと小さく記されていた。羽ペンを持つ手だけが、ひどく強張っていた。
私は彼女に少しだけ微笑んだ。
すると、エッダは驚いたように目を上げ、慌てて頭を下げた。
私のような人間に笑いかけられても、困るだけでしょうに。
けれど、そのときの私は、何かをしてあげたかったのだと思う。誰もが私を見ているこの部屋で、たった一人だけ、私を英雄として眺めていない人がいるように見えたから。
王が立ち上がった。
年老いてはいるが、背筋はまっすぐだった。戦争のあいだ、何度も遠征軍を王都から送り出した人だと聞いている。私の故郷へ、援軍が間に合わなかったときも、この人は王だった。
「フリーデリケ・ヴァイス」
呼ばれた名に、背筋が自然と伸びる。
「そなたは、我が国を長く覆った脅威を退けた。多くの兵が果たせなかったことを、そなたは成し遂げた」
謁見の間に拍手が広がった。
私は頭を下げた。長い黒髪が肩から滑り、床へ届きそうになる。拍手の音は大きいのに、なぜか遠かった。
この人たちは、私が何を倒したかを知っている。
何を失ったかは、知らない。
「その功績に報いるため、王家は褒賞を授ける」
王がそう言ったとき、王子が静かに玉座から降りた。
私と同じくらいの年頃に見える人だった。金に近い茶の髪を後ろへ流し、儀礼用の青い上着を着ている。困ったように眉を寄せていることに気づいて、私は少しだけ意外に思った。
彼は私の前まで来ると、小さな箱を侍従から受け取った。
箱の中には、銀の指輪が二つ並んでいた。
どちらにも、王家の白塔をかたどった紋章が刻まれている。
「フリーデリケ殿」
王子の声は、思ったより低く、やわらかかった。
「私、第二王子エドガー・ヴァルディアとの婚約を受けていただきたい」
拍手は止んだ。
今度の沈黙は、さっきのものより近かった。
私は指輪を見た。それから王子の顔を見た。
彼は急かさなかった。ただ、こちらがうなずくのを待っているようだった。
私には、考えるべきことがひとつしかなかった。
「申し訳ありません」
声が思ったよりよく通った。
「わたしは、女の子が好きなので」
かすかな音がした。
端にいたエッダが、羽ペンを落とした音だった。
誰かが息を呑んだ。誰かが咳払いをした。王子は一度だけ瞬きをして、それから本当に少しだけ、困ったように笑った。
「そのことは、問題にしません」
「……問題ではないのですか?」
思わず聞き返してしまった。
「ええ。この婚姻に、夫婦らしい関係を求めるつもりはありません」
王子は指輪の箱を持ったまま言った。
「あなたには、これまでどおり魔法使いとしての務めを果たしていただく。王家はあなたの身分と安全を保証します」
私は少し安心しかけた。
それから、安心すべきことではないと気づいた。
「その安全は、どのようなものですか」
王子の顔から、わずかな笑みが消えた。
王がゆっくり口を開く。
「戦後の国には、そなたの力を求める者が多い。貴族も、他国も、ギルドもだ。王家に迎えることは、そなたを守ることでもある」
「王家に入らなければ、守られないのですか?」
「そうではない。だが、今の情勢では――」
「では、どこまでが婚約なのでしょう」
私は王子の手にある箱を指さした。
「指輪をいただき、式を挙げ、皆さまの前で王家に属すると誓う。それだけでしょうか」
王子は答えなかった。
代わりに、王の隣に立っていた灰色の法衣の男が前へ出た。魔導院長のオルフェン卿だった。戦争中、何度か作戦会議で顔を合わせたことがある。
「婚姻契約には、王家とフリーデリケ殿の間に、魔力の安全保障を結ぶ条項がございます」
「安全保障」
「大魔法の行使には、王家の承認を要するということです。もちろん、民を守るための魔法まで妨げるものではありません」
私は箱の中の指輪を、もう一度見た。
銀の表面に彫られた白塔の紋章。その根元には、細い線が何重にも折り重なっている。装飾ではない。術式を読める者なら、誰でも気づく形だった。
命令。
制限。
服従。
最後の一行だけ、ひどく小さく刻まれている。
王命により、魔力の行使を停止できる。
指輪をはめれば、私の魔法は王家のものになる。
「これは、わたしを守るためのものではありませんわ」
誰かが低く名前を呼んだ。王子だった。
「フリーデリケ殿」
「これは結婚ではなく、所有の契約でしょう」
「違います」
王子の声が、初めて強くなった。
「あなたを兵器にするためのものではない。あなたほどの力が、誰の管理も受けずにあることを、皆が恐れているのです。私は――」
彼はそこで言葉を止めた。
私がじっと見返していたからかもしれない。
「私は、あなたが次に狙われることを防ぎたい」
「そのために、わたしの人生を決めるのですか?」
問いに、返事はなかった。
王も、王子も、オルフェン卿も黙っていた。
私は長杖を握り直した。黒い杖身に刻まれた銀の星座が、掌の熱でわずかに光る。先端の魔導石を走る亀裂だけが、昼の光を鈍く返していた。
「お断りいたします」
私がそう言った直後、扉の外で靴音が重なった。
謁見の間の大扉が開き、白い鎧の魔導騎士たちが入ってくる。王家の近衛ではなく、魔導院の監察隊だった。
先頭の女騎士が、私に一礼した。
「フリーデリケ・ヴァイス殿。王家との安全保障契約を拒否された以上、戦時非常法の『危険な魔力を一時的に隔離できる』という条項に基づき、しばらく身柄をお預かりします」
「待て」
王の声が飛んだ。
女騎士は顔を上げない。
「陛下、これは評議会の決定です。大魔法使いの所在を確保せず、王都の安全を――」
「話し合う。武器を向けるな」
王子も言った。
けれど、誰も騎士の前へ立たなかった。王も王子も、止めるための次の言葉を命じなかった。
騎士たちの手にある杖の先端へ、青い拘束術式が浮かぶ。私を傷つけるためではない。けれど、私の魔力を縛るためのものだ。
それが分かった瞬間、胸の奥で何かが冷えた。
まただ、と思った。
皆、私の力の外側に立って、どう扱うかを決める。
「フリーデリケ殿。抵抗はなさらないでください」
王子が言った。
その声には、命令する響きよりも、願う響きがあった。
だから余計に、私は悲しくなった。
「申し訳ありません」
私は杖を床へ軽く打ちつけた。
「それは、できませんわ」
床に小さな魔法陣が広がる。拘束術式が私へ届くより先に、透明な膜が私を包んだ。
天蓋結界の、もっとも小さな形。
それでも、結界が押し広がる力に騎士たちは数歩よろめき、飾られていた花瓶が倒れた。割れた音に、エッダが記録板を抱えて身を縮める。
私は結界の内側から、彼女へ目を向けた。怖がらせてしまったことを謝りたかった。
けれど、私には花瓶だけを避けて結界を広げるような、やさしい魔法は使えない。
「転移を止めろ!」
オルフェン卿の声が響く。
私は杖の先で、空中に二つ目の術式を書いた。
短距離転移は、目に見える場所へしか飛べない。だから、まずは謁見の間の高窓の外。白塔の回廊まで。
光が足元からせり上がった。
王子の顔が、最後に見えた。
彼は私を責めてはいなかった。ただ、手を伸ばしかけて、何もできずに立っていた。
次の瞬間、私の足は冷たい石の回廊を踏んでいた。
王都の鐘が鳴り始めたのは、私が白塔の回廊を駆け出したころだった。
避難の鐘ではない。けれど、その響きは耳に覚えがある。誰かを探し、誰かを閉じ込めるときの鐘だ。
塔の窓から、白い鳥のような伝令紙が何枚も飛び立っていく。ほどなくして王都じゅうに、私の名が届くだろう。
落星の魔女。フリーデリケ・ヴァイス。王家の褒賞を拒み、国を脅かした反逆者。
黒い外套の裾を片手で持ち上げ、私は走った。
短距離転移で移れるのは、視界の届く場所だけだ。回廊の端から次の屋根へ、屋根から外壁の階段へ。光に見つかりやすい移動を、何度も繰り返すしかない。
背後から、青い拘束術式が石壁を走ってきた。
私は立ち止まらず、杖を振る。天蓋結界を、今度は回廊いっぱいに展開した。
透明な壁が追手の術を受け止め、鈍い音を立てる。結界の向こうで、魔導騎士たちは足を止めた。誰も傷つけてはいないはずだった。
けれど、壁際の旗が千切れ、壁の燭台がいくつか落ちた。
小さく静かに退路だけを塞ぐ術を、私は知らなかった。
知っているのは、敵を近づけないための結界。敵の前へ届く灼光槍。岩壁まで消し飛ばす魔力弾。渡空と、戦場を動かすための大きな魔法ばかりだ。
戦争のあいだ、力が足りずに守れなかった人がいた。二度と同じことを起こさないために、私は「足りるだけ」を確かめるより、必ず余るほど大きい力を選ぶようになった。小さく手加減する魔法を練習する時間は、いつの間にかなくなっていた。
外壁へ続く階段を下りると、すでに外門の鉄格子が閉まり始めていた。門の前では、夜番の兵たちが市民を中へ戻している。彼らはまだ、誰を追っているのか知らないらしい。
あの門を魔力弾で壊せば、門のそばにいる人を巻き込む。
空を飛べば、町じゅうに私の居場所を教える。
どちらがましか、考える暇はなかった。
私は階段の踊り場から石壁の上へ転移し、白い塔と屋根の海を見下ろした。見張り台の術者がこちらへ杖を向ける。彼女の表情は恐怖より先に、困惑だった。
私は彼女に手を振る余裕もなく、《渡空》を起こした。
足元の石が一瞬だけきしみ、身体が夜風へ放り出される。鳥のように静かに浮かぶことはできない。高く、遠く、敵の届かないところへ抜けるための魔法だ。
白い外壁を越え、堀を越え、街道の外れへ落ちるように着地した。
背後で警鐘がさらに大きくなった。見張り台から追撃の光が二本、空を走る。私は杖を振り、背中側だけに結界を張る。光は透明な面で弾かれ、夜の上空へ散った。
追われるには、あまりに目立つ逃げ方だった。
それでも、王都を壊さずに外へ出るには、これしかなかった。
城壁の外で初めて足を止めたのは、日が沈んでしばらくしてからだった。
街道を外れた雑木林の奥に、使われなくなった見張り小屋があった。戸は傾き、屋根には穴が空いていたけれど、壁があるだけでありがたかった。
私は干し肉と固いパンを食べ、革袋の水を飲んだ。火はつけなかった。
手のひらほどの火を、手のひらの中で静かに保つ。そんな生活魔法は、私には難しい。灼光槍なら夜の雲まで照らせるのに、焚き火ひとつを起こすための術式は、どうしても大きくなりすぎる。
魔力が足りないわけではない。むしろ逆だった。戦争のあいだ、私は足りない力では誰かを守れないと覚えた。届く先と守る範囲を大きく定め、そこへ必要な出力を絶対に下げない。そのやり方だけを、何度も選んできたのだ。
大きな魔法なら、輪郭が分かる。守る範囲を決め、進ませない線を引き、届かせる先を定める。それなら私は間違えない。
けれど、小さく、弱く、誰の目にも留まらない魔法は、指先で霧を縫うようで、うまくつかめなかった。
冷えたパンをかじりながら、私は自分の魔法を少しだけ恨んだ。
王都の方角から、鐘が断続的に聞こえてくる。魔王を倒したとき、誰も私を追わなかった。褒賞を断っただけで、私は国にとって恐ろしいものになった。
外套の内側で、《夜星の杖》の魔導石が冷えている。私は亀裂へ指を触れた。
「ごめんなさい」
誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。
返事の代わりに、遠い町から犬の吠える声がした。
夜明け前、私は火を使わないまま見張り小屋を出た。白塔が見えなくなる方へ、歩き出した。




