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第二巻 第八章 薔薇の町・ロゼンカ・返事

アストレアの夜道を越えて四日目、谷間に薔薇の町があった。

 ロゼンカの家々は、白い石壁に赤い屋根を載せている。その窓辺から、道の脇から、橋の手すりから、薔薇があふれるように咲いていた。濃い赤、淡い桃色、夕暮れの空に似た紫。風が通るたび、甘い香りが町じゅうを巡る。

 「ここは、いい匂いね」

 ロッテが言った。

 「花が多いからかしら」

 「たぶん、それだけじゃない。香料を作る町って聞いたことがある」

 市場の中央には、花びらを山ほど積んだ大きな籠が並んでいた。商人たちが、籠の横で小さな硝子瓶を売っている。瓶の栓を開けるたび、蜂蜜、雨、若い葉、温めたパンのような匂いが、少しずつ混ざって届いた。

 けれど市場の奥では、人だかりができている。

 石造りの噴水の前で、年配の男性と、茶色い三つ編みの女の子が言い合っていた。

 「だから、北の畑へ水を回すと言ってるだろう」

 「そしたら、南の苗が枯れる!」

 「今年は市場を開かなきゃならん。咲いている花を先に守る」

 「来年の花はどうするの?」

 男性は答えず、噴水の脇へ積まれた木箱を蹴らないように、足を止めた。

 ロッテは看板を見つけ、そちらへ向かう。

 《香り水路・修繕士求む》と書かれていた。

 「依頼だね」

 「今の方たちかしら」

 「たぶん。訊いてみよう」

 年配の男性は、ゴットフリート・ヴァルツと名乗った。ロゼンカの香料組合で、水路と蒸留所を預かっているそうだ。女の子は、彼の孫娘のソフィだった。

 「戦争中に、谷の上流へ仮設の貯水池を作ったんです」

 ソフィちゃんが説明する。

 「避難してきた人たちの畑へ水を回すために。今も、そっちへ流れが残ってる」

 「残すべきだろう」

 ゴットフリートさんが言う。

 「でも、水路の古い弁が壊れた。北の畑と南の苗床へ、同時には水を送れない」

 「市場を開くなら、北の畑へ送らなきゃ。咲いた薔薇を摘んで、香料を売れば、町にお金が入る」

 「南の苗が育たなければ、来年は何も売れない」

 ソフィちゃんは、噴水の縁に置かれた小さな鉢を抱えた。

 そこには、まだ蕾だけの白い薔薇が一本、植えられている。

 「お母さんが残した苗なの。戦争のあとでも育つように作ったんだって」

 ゴットフリートさんの顔が、少しだけ揺れた。

 「分かっている。だが、今咲いている花だって、誰かが守ってきたものだ」

 「どっちかを枯らすのは、嫌」

 ロッテが、噴水の裏側へ回った。

 「水路を見せてもらえますか。壊れた弁が一つなら、流れを二つに分ける方法があるかもしれない」

 「そんなことが?」

 「水の量が足りれば。材料も見てからです」

 わたしは、石畳の下から聞こえる水音へ耳を澄ませた。

 遠くで流れがぶつかる、低い音がする。

 「わたしも、お手伝いできます」

 ゴットフリートさんはわたしを見た。

 手配書は、この町の入口にも貼られていた。彼はたぶん、気づいている。

 「……高い出力の魔法を使う方ですか」

 「ええ。ただ、影響する範囲は、ロッテや現場の方と先に確かめてから使います」

 ロッテが、横目でわたしを見る。

 「言えるようになったね」

 「約束したもの」

 ゴットフリートさんは、入口の手配書がある方を一度だけ見た。

 「紙は見た。だが、紙一枚で孫の畑と町の水を見捨てる気はない。頼めるなら、頼みたい」

 ソフィちゃんは、わたしの杖を見てから、小さく頷いた。

 「じゃあ、苗を枯らさないで」

 「ええ。約束するわ」


 香り水路は、町の地下を巡っていた。

 雨水と山の湧き水を、花畑と蒸留所へ分けるための石の水路である。昔は水に混じった花びらが、町の噴水まで流れてきたらしい。

 今は、分岐の手前にある古い鉄の弁が、半分だけ崩れていた。

 ロッテが屈み込み、石の隙間から光の糸を入れる。

 「壊れたのは弁だけじゃないね。避難用の水路を残したせいで、こっちの圧が足りない」

 ゴットフリートさんが、暗い地下道の壁を撫でた。

 「仮設は、戦争が終わったら外すつもりだった」

 「外さなかったのね」

 「外せなかった。あの畑にいた人たちも、もう“避難してきた人”ではない。この町で暮らしている」

 「だったら、残してよかったんじゃない?」

 ソフィちゃんが言う。

 「その分、町の水が苦しくなった」

 「苦しいから、誰かを元に戻すの?」

 その問いに、ゴットフリートさんは口を閉じた。

 ロッテは水路図を広げ、指先で二つの流れをなぞる。

 「元に戻すんじゃなくて、今の町に合わせればいい。古い弁を一つ直すだけじゃなく、新しい分岐を作りましょう」

 「新しい分岐?」

 「南の苗床へは細く長く。北の畑へは、花を摘む前の時間だけ多く。蒸留所も、順番を変えれば回せる」

 「そんな細かい流れ、魔法でできるの?」

 「魔法だけではできません。弁を作る人と、毎日開け閉めする人が必要です」

 ソフィちゃんがすぐに言った。

 「わたし、毎日見る」

 「朝は早いぞ」

 「起きる」

 「冬は寒い」

 「上着を着る」

 ゴットフリートさんが、少しだけ笑った。

 「お前は、私より頑固だな」

 「おじいちゃんに似たんだよ」

 ロッテも笑いながら、わたしへ手を伸ばす。

 「フリーダ。右の壁の向こうに、古い空洞がある。そこだけ地面を掘り広げられる?」

 「どのくらい?」

 「人が二人、並んで通れるくらい。ここから、赤い印まで」

 ロッテが壁に灯した印は、短い。けれど、地下道の石を押しのけるには十分な範囲だった。

 「分かったわ」

 わたしは杖を壁へ向けた。

 《地脈操作》は、地面をひっくり返すための魔法だ。けれど今は、ロッテが赤い線の外へ、止まるための糸を張っている。

 石が低く唸る。

 壁の内側だけが、土の匂いを立てながら少しずつ後ろへ下がった。

 砕けた石は崩れず、ロッテが示した場所へ、きれいに積まれていく。

 「止めて」

 「ええ」

 杖を下ろす。

 そこには、新しい分岐を通すための空間ができていた。

 ロッテは、しばらく壁とわたしの顔を見比べた。

 「今の、すごくよかった」

 「本当?」

 「本当。石を山にしなかった」

 「石は、もう山にあったわ」

 「そういう意味じゃないの」

 ソフィちゃんが、声を立てて笑った。


 午後から、町の鍛冶屋が新しい弁の枠を作り、畑の人たちが石を運んだ。

 ロッテは金属線を継ぎ、ゴットフリートさんは古い帳面を開いて、水を回す時間を書き直していく。

 ソフィちゃんは鉢の白い薔薇を地下道の入口に置き、皆の足に踏まれないよう見張っていた。

 「それ、ここに置いて大丈夫?」

 わたしが訊く。

 「見てないと、枯れる気がする」

 「ずっと見ていなくても、育つこともあるわ」

 ソフィちゃんは、薔薇の蕾を見た。

 「フリーダさんも、そうだった?」

 言葉が詰まった。

 ロッテが、手を止めずに答える。

 「フリーダは、見てないと大きな穴を空けそう」

 「ロッテ」

 「でも、今はちゃんと一人でできることも増えてるよ」

 わたしは、反論しなかった。

 ソフィちゃんは真剣な顔で考えたあと、鉢を壁際の棚へ移した。

 「じゃあ、少しだけ見ない」

 「うん。それでいいと思う」

 ロッテが言う。

 夕方には、新しい分岐が形になった。

 ロッテの糸が弁の内側を一周し、水の通る順番を整える。ゴットフリートさんが、ゆっくりと取っ手を回した。

 最初は、南の苗床へ向かう細い流れ。

 次に、北の畑へ向かう太い流れ。

 地下道の奥で、水が二つの道へ分かれていく音がした。

 ゴットフリートさんは、すぐに弁を回し切らなかった。柄へ手を置いたまま、北側の見張りに合図を送る。返事の鐘が一度鳴り、今度は南の苗床から、子どもの声が返った。

 「水、来た!」

 細い水路を通った水が、苗床の黒い土へ染み込んでいく。北の畑では、まだ蕾を摘まない薔薇の根元へ、太い流れが届いた。

 「同時に来てる」

 ソフィちゃんは、信じられないように両方の方角を見た。

 「少しずつだからね」

 ロッテが言う。

 「北へ全部送る日もあるし、南を優先する日もある。毎日、空と土を見て決めるんだよ」

 「誰が決めるの?」

 「まず、見ている人が話す。だから当番表がいる」

 ゴットフリートさんは帳面へ、今日の水量と空の色を書き込んだ。ソフィちゃんはその横で、苗床の葉が少し起きたことを、丸い字で書く。

 それはまだ、薔薇を守る仕組みの最初の一行だった。けれど、決めた人だけが分かる仕組みではなくなっていた。

 「流れた」

 ソフィちゃんが息を呑む。

 「明日の朝、苗床を見てから、北の畑へ多く回す」

 ゴットフリートさんは、帳面の空いた欄へ、ソフィちゃんへペンを渡した。

 「お前の名前で、当番を書け」

 「わたしの?」

 「水を見たいんだろう」

 ソフィちゃんは、慎重に自分の名前を書いた。

 その字の横に、ゴットフリートさんは小さく、自分の名前を並べた。

 「二人で見る」

 「うん」

 ソフィちゃんは、今度はすぐに答えた。

 その直後、地下道の天井から、水滴が一つ落ちた。

 ロッテが顔を上げる。

 「雨?」

 地上から、誰かが叫ぶ声がした。

 次の瞬間、地下道の入口へ、冷たい風が吹き込んできた。山の上で降り始めた雨が、石の水路へ一気に流れ込んだらしい。

 新しい弁の向こうで、水の音が太くなる。

 「上流の貯水池が溢れてる!」

 畑の人が駆け込んできた。

 「北の畑へ流れたら、摘む前の薔薇が倒れる!」

 ゴットフリートさんが帳面を抱えたまま立ち上がる。

 「避難水路を開けろ」

 「でも、南の苗床へ泥水が入る」

 ソフィちゃんが青くなった。

 ロッテは、二つの弁と、まだ繋いだばかりの導線を見た。

 「古い避難水路を全部開けたら苗が駄目になる。でも、新しい分岐だけでは水量が多すぎる」

 「どこまで受ければいい?」

 わたしが訊いた。

 ロッテは一度、目を閉じた。次に目を開けたときには、入口から地下道の奥まで、いくつもの青い印が並んでいる。

 「地上の噴水まで。水を上へ逃がして、北の畑へは流さない。南の苗床の前で、私が泥を落とす」

 「分かったわ」

 わたしたちは地上へ走った。


 雨は、町の石畳を白く叩いていた。

 噴水の水位は縁まで上がり、香りの水路から溢れた水が市場へ広がりかけている。籠に積まれた花びらは、皆が屋根の下へ運び込んでいた。

 わたしは噴水の横に立ち、杖を空へ掲げた。

 「皆さん、噴水から離れてください」

 《天蓋結界》を展開する。

 大きな半球の結界が、町の空を覆った。雨を止めるためではない。雨水と水路の濁流を、ロッテが示した噴水の中央へ落とすための、広い傾斜を作る。

 結界の内側で、雨は一斉に向きを変えた。

 水は噴水へ集まり、白い泡を立てて跳ねる。

 「ロッテ」

 「今!」

 ロッテの糸が、噴水の底から地下道へ走る。

 赤茶けた泥だけが、古い避難水路へ押し出される。透明になった水は、新しい分岐を通り、南の苗床へ細く流れ始めた。

 ゴットフリートさんが、地下道の取っ手を二つ同時に回す。

 「北の畑は止めた! 苗床の流れは残ってる!」

 雨が弱くなるまで、わたしは結界を保った。

 大きな結界を長く張るのは、戦場以来だった。けれど今日は、その下で人が走り、籠を運び、弁を回している。

 一人で守っているのではない。

 ロッテが水の流れを見ながら、わたしに親指を立てた。

 「あと少し。無理しないで」

 「ええ」

 その言葉に頷けた。

 やがて雨脚が落ち着くと、ロッテは糸を解いた。わたしも結界を空へ散らす。

 噴水の中には、流されてきた薔薇の花びらが、淡い渦を作っていた。

 ソフィちゃんが、濡れた髪のまま、鉢の白い薔薇を抱えている。

 「折れてない」

 「よかったわ」

 「北の花も、倒れてないって」

 ゴットフリートさんが、孫娘の前へしゃがんだ。

 「お前の母さんなら、こうしただろうな」

 「お母さんのこと、まだ覚えてる?」

 「忘れたふりをしていただけだ」

 ソフィちゃんは少し考えてから、祖父の濡れた袖を握った。

 「じゃあ、これからは忘れたふりしないで」

 「努力する」

 その答えが少し可笑しくて、近くにいた人たちが笑った。


 市場が終わるころ、ロッテは宿の机に便箋を二枚置いた。

 「書く?」

 「何を?」

 「エッダさんに。フェルヴィで手紙をもらったでしょう」

 窓の外では、薔薇の香りが夜の空気に残っている。

 わたしは便箋を見た。

 王都を出てから、書くべきだった人へ、何通も書かなかった。届かなかったときが怖かった。返事が怖かった。どこにも届かないことを、最初から知っているような気がしていた。

 「送っても、エッダさんを危険にしないかしら」

 「名前は書かなくていい。フェルヴィのザビーネさんが、王都へ入る前に安全な宿場で渡せる便があるって教えてくれた」

 「ロッテ、いつの間に」

 「フリーデが町の外を見てたとき」

 彼女は少しだけ、得意そうに笑った。

 「返事をするかどうかは、フリーデが決めて」

 わたしは便箋を引き寄せた。

 最初の一行を書くまでに、長い時間がかかった。

 《知らせてくださって、ありがとうございました。わたしは生きています。》

 それだけでは、報告書のようだった。

 ペンを置き、もう一度書く。

 《あの日、あなたが記録していたことを、覚えています。わたしは王都へ戻りません。けれど、逃げたまま何も言わないことも、もうやめます。》

 王が生け捕りを望んでいること。評議会が処断を望んでいること。どちらも、わたしの望む生き方ではない。

 わたしは、自分の言葉でそう書いた。

 最後に、少し迷ってから一文を加える。

 《わたしを助けようとして、あなた自身を失わないでください。》

 署名はしなかった。

 でも、ロッテは便箋を見て言った。

 「フリーデの手紙だって、分かるね」

 「そうかしら」

 「うん。ちゃんと分かる」

 翌朝、ロゼンカを出る商人の便へ、手紙を預けた。

 便箋は小さな革袋に入れられ、花びらの香りがする封をされた。

 誰かに届くかどうかは、まだ分からない。

 それでも、送らないよりはよかった。


 町を出る前、ソフィちゃんが走ってきた。

 手には、白い薔薇が一輪ある。昨日まで蕾だったものが、朝の光の中で開いていた。

 「これ、フリーダさんに」

 「いただいていいの?」

 「苗は残るから。これは、咲いた分」

 わたしは、花の扱い方が分からなかった。

 ロッテが笑いながら、わたしの鞄の横紐へ小さな水筒を結びつける。

 「ここへ挿すといいよ」

 「枯らさないかしら」

 「花は咲いたら枯れるものだよ」

 ソフィちゃんが言った。

 「でも、残った苗がまた咲く」

 わたしは白い薔薇を見た。

 花弁は、朝の光を透かして、薄く金色に見えた。

 「大切にするわ」

 「うん」

 ソフィちゃんは満足そうに笑った。

 ゴットフリートさんは、噴水のそばで新しい水の当番表を見ている。ソフィちゃんの名前と、その隣にある自分の名前を、何度も確かめていた。

 「次はどこへ行くの?」

 ソフィちゃんが訊く。

 ロッテが、わたしを見る。

 昨夜までは、王都から遠ざかる道だけを考えていた。けれど鞄の横では、白い薔薇が、歩き出す前の風に揺れている。

 「トーランへ行くわ」

 わたしは答えた。

 東の大きな門の町。王都と各地の情報が行き交う場所だ。

 「そこで、これからどうするかを決めるの」

 ロッテが頷いた。

 「二人でね」

 「ええ。二人で」

 白い薔薇は、歩き出すたびに小さく揺れた。

 香りの残る町を背に、わたしたちは東の道へ進む。


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