第二巻 第七章 星見の町・アストレア・夜道
フェルヴィを出た翌日の午後、山道の先に、空へ向けて白い円盤を掲げた町が見えた。
アストレアは、山の斜面を段々に削って作られている。屋根はどれも低く、風を避けるように石で押さえられていた。そのいちばん高い場所には、夜空を映すための大きな鏡と、細い塔が何本も立っている。
「星見の町ね」
ロッテが、帽子のつばを押さえながら言った。
「昼なのに、星を見るの?」
「昼は鏡や望遠筒の手入れ。夜が本番なんじゃない?」
「合理的だわ」
「フリーダの合理的は、たまに不安になる」
町の入口には、木の掲示板があった。薬草の入荷、夜市の中止、屋根修理の募集。その一番上に、新しい紙が貼られている。
黒い髪の女。長杖。危険な広域魔法を使う者。
わたしの手配書だった。
通りかかった人が、その紙を見てから、わたしを見た。
息が、少しだけ浅くなる。
「ロッテ」
「うん」
「この町を通るのは、やめましょう」
「まだ宿も取ってないよ」
「だからよ」
ロッテは掲示板を見上げた。紙の端が風で鳴っている。フェルヴィで二人で選んだ南回りの道は、この町から東の谷へ抜ける。ここを避ければ、北の関所に近い街道へ戻るか、さらに二日、山道を引き返すしかない。
「追手が来るなら、どこかで分かる。ここにだけ迷惑をかけるわけじゃない」
「迷惑をかけない場所を探す方が、難しいわ」
「うん。だから、勝手に一人で決めない」
昨夜、言われたばかりの言葉だった。
わたしは頷いた。
「分かったわ。まず、町の人に訊きましょう」
掲示板の横にある小さな詰所には、栗色の短髪をした女性がいた。革の手袋を外しながら、帳面へ何かを書き込んでいる。
ロッテが修繕士の札を見せると、女性は目を丸くした。
「修繕士? 今、ちょうど探していたところです」
「リーゼロッテ・ベッカーです。こちらはフリーダ」
「道番のハンナ・クレーメルです」
彼女は名乗ってから、わたしの杖と手配書を見比べた。
隠そうとしても、意味はない。
「手配書の方ですか」
「似ていると言われたら、否定はできません」
ハンナさんは、困ったように眉を寄せた。
「町として、かくまうとは言えません。今朝も、王都の騎士が通るかもしれないと連絡が来ています」
「当然です」
「でも、何も聞かずに引き渡すとも言えない。あの紙だけで、誰かの人生を決めるのは嫌です」
彼女は机の上に広げた地図を、指で叩いた。
「修繕を受けてくれるなら、依頼があります。夜道を直してほしいんです」
地図には、アストレアから東の谷へ抜ける細い道が描かれていた。途中に、小さな星の印がいくつも並んでいる。
「星渡りの小径。山の尾根に沿った古い道です。夜灯の魔脈が切れて、二年前から閉じたままなんです」
「昼のうちに通れないのですか」
「崖が近くて。日が落ちると、夜灯の光で足元を確かめながら通る道だったんです」
「今は、東の谷から薬を運ぶ人も、町から診療所へ行く人も、二日遠回りしてる」
詰所の奥から、小さな声がした。
「お姉ちゃん、エミも行く」
帳面の陰から、十歳くらいの女の子が顔を出した。ハンナさんと同じ栗色の髪を、左右で短く結んでいる。
「駄目。エミは詰所にいて」
「星渡りの小径、まだ一回も歩いたことない」
「危ない道だから閉じてるの」
「直ったら、危なくないでしょ」
「夜に山へ出るのは、大人の仕事」
エミちゃんは唇を結んだ。
わたしには、その顔がよく分かった。役に立ちたいと言っているのに、危ないからという正しい言葉で、何も任せてもらえない顔だ。
ロッテが、地図を覗き込む。
「魔脈の切れ方によるけど、見てからでもいい?」
「お願いします。材料は用意してあります」
ハンナさんは、少し迷ってから言った。
「ただし、町の外へ出るまで、あなた方のことは誰にも言いません。でも追手が来て訊かれたら、嘘はつけない」
「それで構いません」
わたしは答えた。
かくまわれることと、助けてもらうことは違う。その線を、彼女ははっきり引いてくれている。
星渡りの小径の入口は、町の裏手にあった。
石畳の細い道が、尾根に沿って東へ伸びている。道の両側には、腰ほどの高さの石柱が並び、それぞれの先端に、星形の硝子灯がついていた。
けれど半分以上が消え、硝子には灰色の膜が張っている。足元の崖から吹き上がる風が、灯のない柱を鳴らした。
ロッテは一つ目の柱の蓋を外した。
「魔脈が切れたんじゃない。途中の導線が、戦争のときに掘った避難壕で傷んでる」
「直せるかしら」
「直せる。ただ、夜灯は一つずつ光らせる魔法じゃないんだ。町の鏡塔で集めた星の光を、全部の柱に回してる」
「夜まで待つ必要があるのね」
「うん。今のうちに道を開ける。フリーダは、ここの崩れた石を動かせる?」
示された場所には、道を塞ぐほどの岩が二つ落ちていた。
「もちろん」
わたしは杖を構えた。地面の下へ魔力を通し、岩の重さを持ち上げる。
岩は音もなく浮き、崖から離れた場所へ滑っていった。
「すごい」
エミちゃんが、いつのまにか後ろに立っていた。
ハンナさんが振り返る。
「エミ」
「石を運ぶ人が足りないって、言った」
「石は、今、足りてるけど」
ロッテが吹き出した。
「じゃあ、別の仕事をお願いしよう。エミ、この灯の硝子、曇ってるでしょう」
「うん」
「乾いた布で磨いてくれる? 割れてるのは触らないで、私に教えて」
エミちゃんの目が明るくなる。
「できる」
「できるね」
ハンナさんは止めかけた手を下ろした。
「……崖側へは行かないこと。灯の中身は開けないこと」
「分かってる」
エミちゃんは布を抱え、最初の硝子灯へ走っていった。
その背中を見て、ハンナさんは小さく息を吐く。
「父が亡くなってから、あの子に何もさせたくなくて」
「道番だったのですか」
「ええ。戦争の避難のとき、最後までこの道を見ていました。帰ってきたのは、道を閉めるための鍵だけでした」
彼女は腰の鍵束を握った。
「エミまで失ったら、私は何も守れないと思って」
わたしは、すぐには返せなかった。
守るために一人で残る、と決めた夜のことを思い出していた。
ロッテが静かに言う。
「何もしないで待つのも、怖いですからね」
ハンナさんは、鍵束を見下ろしたまま頷いた。
日が傾くまでに、ロッテは傷んだ導線を何本も掘り出した。
細い金属線は土の中で千切れ、避難壕の古い杭に絡んでいる。ハンナさんは新しい線を渡し、エミちゃんは曇りの取れた硝子灯に、小さな印をつけていった。
道そのものにも、二年分の置き去りが残っていた。雨で崩れた小石、風に折れた低木、誰かが急いで閉めたときに打ちつけた古い板。ハンナさんは鍵束から細い鍵を選び、灯柱の根元にある点検箱を一つずつ開けていく。
「父が、全部に番号をつけていたんです」
蓋の内側には、かすれた字で〈第一灯・橋側〉〈第二灯・谷側〉と書かれていた。
「壊れたとき、夜でも迷わないようにって」
エミちゃんはその字を指でなぞったあと、手を拭いてから小さな帳面へ同じ番号を書いた。
「私、次から硝子の係になる」
「勝手に決めない」
ハンナさんは言ったが、声はさっきほど硬くなかった。
「まず、今日の確認が終わってから」
「じゃあ、確認が終わったら訊く」
「それなら、いい」
崖側へ落ちかけていた石の板は、わたしが魔法を使わずに持ち上げた。ハンナさんと町の青年が下から支え、ロッテは板の下に木のくさびを差し込む。
「そこまでで大丈夫」
ロッテが言う。
「置くわよ」
「うん。手を挟まないでね」
石を下ろすと、くさびがきちんと重みを受けた。魔法で片づければ一瞬だったかもしれない。けれど、次に石が緩んだとき、ここにいる人が同じように直せる形にしておく方が、夜道には合っている。
作業を見ていたエミちゃんが、真面目な顔で言った。
「灯だけじゃなくて、足元も直すんだね」
「灯がついても、歩く道がなければ困るでしょう」
ロッテが答える。
「だから、見えるところだけじゃなくて、下も見る」
エミちゃんは帳面へ、〈第三灯・石板、くさび〉と書き加えた。
「これで、全部」
エミちゃんが最後の柱を指した。
「えらいわ」
「フリーダさん、夜灯がついたら一番に見てもいい?」
「ええ。わたしも一緒に見たいわ」
「本当?」
「ええ」
ロッテが、隣で咳払いをした。
「まず安全の確認。見るのはその後」
「分かっているわ」
「分かってる人の顔じゃないんだよなあ」
日没が近づくと、鏡塔の白い円盤がゆっくり空へ向いた。
町の人が数人、遠くからこちらを見守っている。夜の道が二年ぶりに開くと聞いて、様子を見に来たのだろう。
星が一つ、藍色の空に浮かんだ。
ロッテは導線のつなぎ目へ、細い光の糸を這わせる。
「フリーダ。鏡塔から最初の柱まで、魔力を通せる?」
「できるわ」
「強さは要らない。灯が届くところまで」
「……ロッテが、終点を作ってくれるのね」
「うん」
わたしは杖の先を、鏡塔の光へ向けた。
《灼光槍》は、敵を貫くための魔法だ。けれど今は、ロッテが道の上に、細い終点をいくつも置いている。
光は空を裂かず、地面の下へ静かに落ちた。
一つ目の硝子灯が、青白く灯る。
次の灯。さらに次の灯。
星を写したような光が、尾根の向こうまで順に走った。
「ついた!」
エミちゃんが跳ねた。
けれど、最後の灯が急に白く膨らんだ。
「ロッテ」
「出力が、ちょっと余った!」
「少しではないわね」
最後の星灯は、夜の山を昼のように照らしている。
遠くの町から、誰かの声が飛んだ。
「星が見えないぞー!」
ロッテが頭を抱えた。
「ごめんなさい! 今、直します!」
フリーデは一度、杖を下げて最後の灯だけを見た。
「灯が届く先は、ここだけね」
「うん、そこだけ!」
フリーデが先に余った光を細く戻し、ロッテが糸を握り直して最後の柱へ収める。
眩しさが落ち着くと、夜道には淡い青の星が、等間隔に並んだ。
山の上に、もう一つ小さな空ができたようだった。
エミちゃんは、その道を見上げて息を呑んでいる。
「きれい」
「ええ」
わたしも答えた。
ハンナさんは、妹の肩へ手を置いた。
「一番に見せてあげたかったの」
「じゃあ、最初に歩いていい?」
「私と一緒なら」
エミちゃんが勢いよく頷く。
町の方から、杖をついた老人がゆっくり歩いてきた。
彼は夜道を見上げて、片手で目元を覆う。
「本当に灯ったのか」
「ユルゲンさん」
ハンナさんが駆け寄った。
老人は、灯の列を何度も確かめるように眺めた。
「東の谷の診療所へ行く道だ。うちの婆さんは、あの遠回りをすると一日でへとへとになる」
「まだ、通行確認が終わっていません」
「分かってる。今夜は行かん。ただ、明日から使えるのかと思ってな」
その声には、頼みごとをする遠慮があった。
戦争が終わったあとも、遠回りしなければならない人がいる。わたしは、目の前の灯を見た。何かを倒すためではなく、誰かが診療所へ行くために続く光だった。
「最初の確認は、三つ目の標まででよいかしら」
わたしが訊く。
ロッテが頷く。
「道幅も、灯の具合も確認できる。崖側へ寄らなければ大丈夫」
ハンナさんは、妹と老人と、集まり始めた町の人を見回した。
「エミは私の左。ユルゲンさんは私の後ろ。走らないこと、灯から外れないこと」
「はい、道番さん」
エミちゃんが、わざと大人びた声で言う。
「返事は一回でいいの」
「はーい」
ロッテが口元を隠して笑った。
ハンナさんは困ったように眉を下げたが、今度はエミちゃんの手を払わなかった。
小さな一行で、星渡りの小径へ入る。
一つ目の灯の下に立つと、道の表面に埋め込まれた細かな白い石が光を返した。二つ目の灯の下では、崖の向こうに、東の谷の家々が見えた。遠くの窓にも灯があり、こちらの道と呼び合っているようだった。
「父さんはね」
エミちゃんが、歩きながら言った。
「この道の灯は、迷わないためじゃないって言ってた」
ハンナさんが妹を見る。
「何て言ってたの?」
「帰るところが、ちゃんと見えるための灯だって」
エミちゃんは、三つ目の標を指した。
「だから、向こうへ行く人にも、帰ってくる人にもいるんだって」
ハンナさんはしばらく黙っていた。
それから、妹の結んだ髪をそっと直した。
「覚えていたのね」
「ハンナお姉ちゃんが、忘れたふりするから」
「してないわ」
「してた」
ロッテが、わたしの耳元へ小さく言う。
「姉妹の喧嘩は、だいたい本当のことを言う」
「覚えておくわ」
「フリーデは、使わないでよ」
「どうして?」
「今度、私に本当のことを言われたら困るから」
ロッテは少し笑った。
わたしも、たぶん笑ったのだと思う。
そのとき、町の入口の方から馬の蹄が聞こえた。日が落ちる前から西の尾根に見えていた三つの影が、ようやく町へ下りてきたのだ。
夜灯の上を、三つの影が動く。
ハンナさんの顔が固くなった。
「騎士です」
ロッテが、すぐにわたしの横へ来た。
「フリーデ」
「ええ」
「私たちがいると、言っていい」
「ロッテ」
「この町に嘘をつかせない。決めたでしょ」
ハンナさんは、鍵束を握ったまま、わたしたちと灯の道を見た。
「小径は今、正式に開通確認中です。誰でも通れる道です」
「ハンナさん」
「かくまってはいません。道番として、通行者の安全を見るだけです」
彼女の声は震えていた。けれど、鍵束をしまわなかった。
蹄の音が止まる。
黒い外套の騎士が、詰所の方から歩いてきた。
「長い黒髪の魔法使いを見なかったか」
ハンナさんは、夜道の入口に立ったまま答えた。
「通行の方なら、こちらにいます」
騎士の視線が、わたしへ向く。
腰の剣へ手がかかった。
「フリーダ・リンデン。抵抗すれば、処断も許可されている」
その言葉を聞くと、不思議なくらい頭が冷えた。
わたしは杖を上げない。
代わりに、ロッテの方を見た。
「どこまで届かせればいい?」
ロッテは一瞬だけ目を見開き、すぐに夜道の先を指した。
「あの三つ目の標まで。そこから先は谷へ降りられる」
「分かったわ」
騎士たちが剣を抜く。
わたしは杖を地面へ向けた。
《地脈操作》の術式が、足元の石畳に広がる。
道そのものを壊す力ではない。ロッテが灯の柱と柱の間に結んだ、三つ目の標まで。
低い地鳴りとともに、石畳の崖側が持ち上がった。
土と岩が、わたしたちと騎士の間に高い壁を作る。誰も押し潰さない。剣も届かない。ただ、越えるには時間がかかる壁だ。
「今です」
ハンナさんが叫んだ。
エミちゃんの手を引き、彼女は夜道の脇へ避ける。
わたしとロッテは、青い灯の列へ踏み出した。
背後で、騎士の怒鳴り声がした。
けれど、追いつく前に、わたしたちは三つ目の標を越える。
ロッテの糸が、そこで光を結んだ。
土壁がこれ以上伸びないように。夜灯が、ここから先を照らすように。
わたしは振り返らなかった。
谷へ下る途中、ロッテが息を切らしながら笑った。
「ちゃんと訊いた」
「ええ」
「しかも、岩壁で人を飛ばさなかった」
「褒められているのかしら」
「かなり褒めてる」
青い灯の下で、彼女の頬は少し赤かった。
わたしは、さっき彼女が指した三つ目の標を思い出す。
そこまで、と言われたから、そこまで届かせた。力を止めるためではなく、進むために。
「ロッテ」
「なに?」
「これからも、訊いていいかしら」
彼女は歩みを止めた。
「何を?」
「どこまでにすればいいか。わたしが、何を一人で決めない方がいいか」
ロッテはしばらく、何も言わなかった。
それから、わたしの手首ではなく、杖を持っていない方の手を掴んだ。
「うん。私も訊く」
「何を?」
「一緒に行っていいかって」
「それは、いつでもいいわ」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
ロッテは笑わなかった。ただ、手を離さずに歩き出す。
背後の山には、二年ぶりに灯った夜道が、星の列のように続いていた。
あの道は誰かを隠すための道ではない。
それでも今夜、わたしたちはそこを通って、次の場所へ進むことができた。




