第二巻 第六章 羽根便の町・フェルヴィ・追手の手紙
ゼーリアを出て三日目、丘の上に、白い羽根を何枚も重ねたような塔が見えた。
近づくと、それは巨大な風車だった。細い木の骨組みに、鳥の翼を思わせる白い羽根板が取りつけられている。塔の周りには小屋が並び、その軒先には小さな筒を足へ結んだ伝書鳥たちが止まっていた。
風が吹くたび、羽根板が回り、町の上へ細い笛の音が広がる。
「フェルヴィね」
ロッテが言った。
「鳥の町かしら」
「羽根便の町。伝書鳥と風の魔法で、山向こうまで手紙を届けるんだと思う」
「便利そうね」
「フリーダは、手紙を書いたことある?」
急に訊かれて、少し考えた。
「……短い報告書なら」
「それは手紙じゃない」
「宛名は書くわ」
「そこから教えることになりそう」
ロッテは笑った。
わたしは、回る羽根板を見上げた。
故郷を出たあと、クララへ何通か書いた。王都で受けた依頼のこと。食堂のパンが硬すぎたこと。帰ったら、杖の持ち手をどうするか相談したいこと。
返事は、いつも先に届いた。
今はもう、どこへ書けばよいのか分からない。
けれど、返事が先に届くたびに、わたしは帰れると思っていた。
* * *
間章 最後の手紙
五年前の春。アイゼルクの町外れにあった鍛冶場の裏庭では、まだ雪の残る土から、小さな草が出始めていた。
朝のうちに降った雨が、屋根の縁から細い雫になって落ちている。クララは火を落とした炉の前で、黒い杖身を膝へ置き、持ち手へ革を巻いていた。
銀色の星座を沈め込んだ、まだ新しい《夜星の杖》。
わたしが王都の依頼を受けると決めたのは、その杖を仕上げてもらってから三日後のことだった。
「また、きつく巻きすぎではないかしら」
わたしが言うと、クララは革紐を歯で引き、結び目を確かめた。
「フリーデの手が滑るよりはいい」
「手は滑らないわ」
「じゃあ、魔力が滑る」
「魔力も滑らないと思う」
「杖に手を置いて三秒で光らせる人の言葉は、あまり信用してないの」
クララは顔を上げ、笑った。煤のついた頬に、朝の白い光が当たる。
わたしは、言い返す言葉を考えて、それから杖を見た。
先端の茶褐色の魔導石には、細い銀の枠が嵌められている。魔力を増幅するための枠ではない。内側で膨らみすぎた力を、持ち手と術式へゆっくり逃がすためのものだと、クララは何度も説明してくれた。
「強くする杖じゃないのよね」
「うん」
「帰ってこられるようにする杖」
「そう」
言いながら、クララは少し照れたように目を逸らした。
その言葉を、後になって何度も思い出した。けれど、あの朝のわたしは、それが特別に重い言葉だとは思わなかった。
クララはいつも、わたしが帰ることを当然のように話したからだ。
鍛冶場の入口脇には、王都から届いた依頼書が置かれていた。
北東の峡谷に残る魔王軍の転移路を断ち、山越えの帰還路を開く。戦場そのものからは遠いが、黒い結界の核が七つ、峡谷のあちこちへ埋められているという。核を一つ壊すごとに、次の場所が現れる仕組みらしい。
王都の書記は、少なくともひと月と書いていた。
わたしなら、他の魔法使いより早く終えられる。そう言われた。断れば、別の部隊が何倍もの時間をかけることになる、とも。
「行かなくても、よいのではないかしら」
わたしは依頼書を見ながら言った。
「わたしの代わりに、誰かが行くのでしょう」
「行かない理由が、フリーデにあるなら行かなくていいよ」
「クララを置いて行きたくないの」
「私を理由にしないで」
声は強くなかった。
クララは革紐を結び終え、杖を両手で持って立ち上がる。わたしの前へ来て、いつものように、杖を渡すときだけ少し真面目な顔をした。
「フリーデは、あの峡谷を開けたいんでしょう」
「ええ。でも」
「できるから行くんじゃないよ」
クララは言った。
「行きたいと思ってるから行くんでしょ。帰れなくなる仕事なら、私も止める。でも、帰るつもりで行くなら、行っておいで」
わたしは杖を受け取った。
作りたての革は、まだ少し硬い。けれど手の形を覚えるように、掌へ馴染んだ。
「ひと月もかかるかもしれないわ」
「じゃあ、手紙を書く」
「依頼の途中で?」
「依頼の途中だから」
クララはすぐに答えた。
「無事に着いた。今日は何を食べた。誰と揉めた。眠れてる。そういうのを書いて。戦果と怪我の数だけはだめ」
「書けるかしら」
「書けなかったら、帰ってきてから話して」
「それでは手紙の意味がないわ」
「じゃあ、書いて」
あまりに簡単に言われて、少し笑ってしまった。
クララは、わたしが笑うと安心したように、杖の革へ最後の指を滑らせた。
「帰ってきたら、次は二人で使うものを考えよう」
「二人で?」
「うん。フリーデが派手に壊して、私があとから怒りながら直すものじゃなくて」
「わたしは、そんなに壊してはいないと思うのだけれど」
「昨日、鍛冶場の窓を一枚」
「それは、魔力の流れを確かめただけよ」
「うん。窓は、よく確かめられてた」
ふくれたふりをして杖を持ち直すと、クララは笑った。
その笑い方も、雨の匂いも、革を引く細い音も、今ならあまりに細かく覚えている。
忘れないために覚えているのではない。忘れようとしても、そこだけは勝手に残った。
出発の前の晩、クララは作業台の上へ、二つの湯呑みを置いた。
鍛冶場の隅に、小さな湯沸かしを置いたのは彼女だった。火花が飛ぶ場所でお茶を飲むのは危ないと言ったら、クララは「火のそばで飲むから、冷めない」と笑った。
その日の湯は、鉄の匂いが少しした。
「王都の人は、フリーデに何を頼むの?」
クララが訊いた。
「結界の核を壊して、道を開くこと」
「それだけ?」
「それだけよ」
「フリーデは、もっと何か背負っていく顔をしてる」
わたしは湯呑みを見た。
依頼書には、作戦の細かな数字が並んでいた。兵の数。荷馬の数。閉じ込められている部隊の数。誰かの帰る時間を、わたしが早められるという数字。
「わたしが行けば、早く終わるのですって」
「うん」
「早く終わるなら、行くべきでしょう」
クララはしばらく何も言わなかった。
それから、湯呑みの縁を指先でなぞる。
「行くべきかどうかは、フリーデが決めていいよ」
「でも、できるのに行かないのは」
「悪いことだと思う?」
「……少し」
「私はそうは思わない」
その言葉に、すぐには頷けなかった。
わたしの魔法は、できることが少ない代わりに、一度に大きなものを壊せる。誰かが困っている場所で、それを使わない理由を見つける方が難しかった。
クララは、わたしの黙った横顔を見て、少し声をやわらかくした。
「行くなら、帰ることまで含めて依頼だよ。終わったら次の依頼を受けるんじゃなくて、まずここへ戻る」
「ええ」
「それを忘れそうになったら、手紙に書く」
「帰ることを?」
「今日はちゃんと帰るつもりです、って」
おかしくて、今度は声を出して笑った。
クララは満足そうに湯呑みを持ち上げた。
「それなら、毎日書けるわ」
「毎日は大げさ」
「クララが書けと言うのなら」
「週に二回でいい」
「では、週に二回」
約束を、わたしたちはその程度の軽さで交わした。
だからこそ、守れなかったことが、あとからひどく重くなった。
出発の朝、クララは玄関まで見送ってくれた。
旅鞄には替えの外套、乾いたパン、地図、王都から渡された結界核の位置図。杖は背中へ斜めに背負っている。わたしはすぐにでも歩き出せたのに、クララは戸口から動かなかった。
「一つだけ、約束して」
「何かしら」
「無理なときは、無理って書くこと」
「それは約束できるわ」
「本当に?」
「ええ。クララが、書けと言ったもの」
「そこじゃないんだけど」
クララは困ったように眉を寄せ、それからわたしの外套の襟を整えた。
「誰かを助けるために、フリーデが一人で消えないこと」
「消えないわ」
「帰ってくる?」
「帰ってくる」
そのとき、クララがわたしの額へ唇を触れた。
ほんの一瞬だった。けれど、わたしはしばらく玄関を出られなかった。
「行ってらっしゃい、フリーデ」
「行ってきます、クララ」
あの返事を、わたしは五年たっても、まだ続けている。
最初の手紙は、王都を出て八日目に書いた。
峡谷へ向かう前の駐屯地には、煮込みすぎて豆の形を失ったスープと、石のように硬い黒パンが出た。わたしは便箋へ《食堂のパンは、アイゼルクの炉で焼いた靴底より硬いと思います》と書いた。
クララが靴を鍛冶場へ入れたことは一度もない。それでも、ほかに比べるものが浮かばなかった。
返事は、わたしの手紙を預ける前の夕方に届いた。
伝令兵が山鳩の筒から便箋を抜き、宛名を呼んだとき、わたしは本当に自分の耳を疑った。
《フリーデへ。そっちのパンはきっと硬いと思って、歯が欠けないように干し果実を入れておいたよ。杖の持ち手はどう? 痛かったら我慢しないで。帰ってきたら直すから。》
手紙の端には、小さな鍋の絵と、その横に丸いパンが描かれていた。
クララの絵は、鍛冶の図面ほど正確ではない。鍋の取っ手は片方しかなく、パンは石にも見えた。
それでも、便箋を開いたとき、わたしは初めて、彼女のいる鍛冶場の朝をはっきり想像できた。
「恋人からですか」
隣にいた若い兵が訊いた。
わたしは驚いて、手紙を胸元へ寄せた。
「そう、です」
「いいですね」
彼はそれだけ言って、自分の家族宛ての便りを丁寧に畳んだ。
わたしは夜、焚き火から少し離れた場所で返事を書いた。
《干し果実は助かりました。鍋の絵は、鍋に見えました。パンは、少しだけ負けました。》
それから、書き足す。
《眠れています。明日、最初の核を壊します。帰ったら、鍋の取っ手を両方つける練習をしてください。》
自分で読み返して、これは報告書に近いと思った。
けれど便箋を畳んでいると、少し離れたところでクララが笑っているような気がした。
最初の核は、峡谷の入口にある崩れた見張り塔の地下に埋められていた。
黒い石のまわりには、細い魔脈が何本も伸び、山肌のあちこちへ潜っている。兵たちは石を掘り出そうとしたが、触れた道具から黒い霧が湧き、近づけなかった。
わたしは杖を掲げ、《灼光槍》を使った。
白い光は塔の石壁を貫き、核だけを焼き切る。岩が崩れないようにと考えたけれど、そこまで細かく魔力を分けることはできなかった。光が消えたあと、入口の半分は埋まり、兵たちは二日かけて迂回路を作ることになった。
「十分です」
指揮をしていた騎士が言った。
「この核が消えたなら、次の位置図が読めます」
十分、と言われても、わたしには崩れた石の方が先に見えた。
誰も下敷きにならなかった。けれど、もっと上手くできたのではないかと思う。
その晩、クララへ書いた手紙には、核を壊したことだけを書いた。見張り塔のことも、掘り出せなかったことも書かなかった。
翌朝、返事が届いた。
《フリーデへ。鍛冶場の窓、二枚目を替えたよ。今度は外れないようにした。だから帰ってきたら、魔法の流れを確かめてもいい。でも、室内で撃つのはなし。》
末尾に、太い線で《なし》と書かれていた。
わたしは便箋を読んでから、もう一度位置図を見た。次の核は、さらに峡谷の奥にある。
誰かが「準備はよろしいですか」と訊くまで、出発の号令を待たせてしまった。
その夜、焚き火のそばで、さっきの若い兵が笑った。
「帰ったら怒られますね」
「ええ。たぶん」
「楽しみですね」
楽しみ、という言葉は少し不思議だった。
クララに怒られることは、困ることでしかないと思っていた。けれど、誰かが帰ってくることを前提に怒ってくれるのなら、それはたしかに、悪いことではないのかもしれない。
七つの核は、同じようには壊せなかった。
二つ目は谷底の水に沈み、三つ目は廃坑の奥で黒い結界に守られていた。四つ目を壊したときには、霧のなかから出てきた魔獣が兵たちを襲った。
わたしは《天蓋結界》を広げ、近づくものを止めた。透明な壁が山道を塞ぎ、魔獣は届かない。
それでも、狭い谷では結界の端が岩を削り、避難していた荷馬の一頭が転んだ。
大きく使えば、守れる。
大きく使うほど、守れないものも増える。
分かってはいた。けれど、兵たちが前にいる場所では、ためらう方が怖かった。
わたしの魔法が足りなければ、死ぬ人がいる。戦争のあいだ、そのことを何度も見た。だから、わたしはいつも届くところまで力を出した。
クララへ書く手紙には、魔獣のことを書かなかった。
代わりに、谷で拾った白い石が、鍛冶に使えるかどうかを訊いた。
《使えないと思う。たぶんただの石。でも、フリーデが持って帰ってきたなら、棚に飾るくらいはできるよ。》
返事を読んで、わたしは白い石を鞄の底へ入れた。
飾るための石を持ち帰るなど、兵たちには少し可笑しかったかもしれない。それでも、その石は最後まで捨てられなかった。
遠征が二十日を越えたころ、クララの手紙は少し短くなった。
文の端にあった鍋や釘の絵も、なくなった。
《フリーデへ。夜はまだ冷えるから、外套の留め具を閉めて。町の東の道で、見慣れない魔物を見たという人がいる。でも、見回りの人が増えたから大丈夫。あなたはそちらを終わらせて、帰ってきて。》
大丈夫、という言葉を、わたしはそのまま信じた。
故郷には鍛冶屋も、魔法を使える人も、町を守るための小さな結界もあった。大きな戦線から外れた町だ。魔王幹部がわざわざ来るような場所ではないと思っていた。
その頃には、五つ目の核を壊していた。
残り二つ。あと少しで帰れると、皆が言った。
わたしもそう思った。次の便には、帰る日を書こうと決めた。
六つ目の核は、峡谷のいちばん狭い場所にあった。
黒い石が岩壁の両側へ根を伸ばし、道そのものを閉じている。大きな魔法で一息に消せば、山肌が崩れる。けれど、小さく切り離す方法を、わたしは知らなかった。
「上から落とせますか」
騎士が訊いた。
「岩が落ちれば、下にいる者が」
「退かせます。時間はかかりますが」
わたしは、結界の向こうに見える黒い核を見た。
早く終わらせたい。早く帰りたい。そう思ったからこそ、急いで撃つことが怖かった。
「退避を終えてください」
わたしは答えた。
「わたしは、崩れる範囲をもっと狭くします」
その日の夕方まで、わたしは谷の上に立ち、何度も術式を書き直した。
杖の先に生まれる光を細くしようとすると、途中で形が乱れる。細くした火は、どこへ届かせるのかをわたしに訊いてくるようだった。
答えられないまま、何度も消した。
日が暮れたころ、見張りの兵が山鳩を抱えて走ってきた。
鳥の足には、細い筒が一つ結ばれている。
「フリーデリケ殿。王都からの便です」
封は王都のものではなかった。
小さな鍛冶槌の印。クララが、手紙の端へいつも押していた印だ。
《フリーデへ。昨日、あなたからの白い石が届いた。棚に置いたよ。窓のそばがいいと思う。次に手紙が来るころには、鍛冶場の裏の草ももう少し伸びてるかな。帰ってきたら見て。》
それが、クララから受け取った最後の手紙だった。
翌朝、わたしは六つ目の核を壊した。
谷の上から光を落とし、黒い根だけを焼き切った。岩は少し崩れたが、道は残った。兵たちが歓声を上げた。
わたしは返事を書こうとした。
《白い石は、飾れましたか。あと一つで帰れます。草を見る前に、窓も見ます。》
けれど、途中で筆が止まった。
昨日届いた手紙には、日付が書かれていなかった。クララはいつも、便りの最後に日付を入れる人だった。
疲れて忘れたのだと思った。あるいは、急いで書いたのだと。
その違和感を、わたしは自分で小さく畳んだ。
最後の核は、峡谷の北端にある古い関所の地下にあった。
そこを壊せば、転移路は閉じる。遠征は終わる。けれど、黒い結界はこれまでよりずっと厚く、外側からの攻撃をすべて別の場所へ逃がしていた。
わたしの魔法を一度に注げば壊せる。代わりに、数日はまともに杖を持てなくなるほど消耗する。
「明日まで待てば、補助の術者が来ます」
騎士が言った。
「でも、関所の向こうには帰還部隊が残っているのでしょう」
「はい。魔王軍の残党が動けば、道が閉じます」
わたしは、鞄のなかの返事を思い出した。
草が伸びる前に帰る、と書けなかったことを思い出した。
「今夜、終わらせます」
杖を掲げると、銀の星座が暗い関所を照らした。
クララが作った杖の持ち手が、掌へ食い込む。帰るために作った杖で、帰る日を遠ざけるような魔法を使う。
矛盾していると思った。
それでも、関所の向こうにいる人たちの顔を、わたしは知らなかった。
知らないから、置いていけなかった。
光は地下の核へ届いた。
黒い結界が割れ、関所の石壁が白く浮かび上がる。魔力が引いていく感覚に、膝から力が抜けた。
誰かがわたしの名を呼び、杖を支えようとした。わたしは手を振って断る。
「大丈夫です」
そう言った。
大丈夫でなければ、帰れないと思った。
その夜、わたしは熱を出した。
魔力を使い切ったあとの熱は、怪我とは違う。身体の内側にあったものが急に空になり、残った器だけが冷えないように震える。眠れば戻ると、軍の治療師は言った。
眠れば、明日には帰れる。
そう思って、わたしは何度も目を閉じた。
夜明け前、天幕の外で馬の蹄が止まった。
誰かが低い声で話し、すぐに、さっきの騎士が布をめくった。
「フリーデリケ殿。故郷から、急ぎの報せが来ています」
その言葉を聞いたとき、まず思ったのは、クララの最後の手紙に日付がなかったことだった。
次に、東の道で見慣れない魔物が出たという文を思い出した。
騎士は、泥と煤で汚れた便箋を差し出した。
字は知らない人のものだった。王都の中継所が、北の関所へ回したという。
《アイゼルク東区、魔王軍の襲撃を受く。避難路が断たれ、町外れの鍛冶場へ住民が集結。援軍を乞う。》
日付は、四日前だった。
「これは、いつ届いたのですか」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「中継路が黒い霧で閉じていました。昨夜、核が消えたことで――」
「四日前です」
「はい」
騎士は、続きを言えなかった。
わたしは寝台から起き上がった。足が床につくと、視界が一度傾く。杖を掴み、外へ出ようとした。
「今の状態で《渡空》は危険です」
「帰ります」
「こちらからも援軍を出します。あと半日、休めば」
「半日は、いつ終わるのですか」
自分でも、ひどい言い方だと思った。
けれど、もう誰かがわたしへ「大丈夫」と言うのを待てなかった。
騎士は唇を結び、わたしの前へ地図を広げた。
峡谷からアイゼルクまで、普通なら馬で六日。魔力が戻れば、わたしの《渡空》なら一日半で行ける。けれど、今のまま高く飛べば、途中で落ちる。山を越えられず、救援の手も届かない場所で倒れるかもしれない。
「一時間ごとに降ります」
わたしは言った。
「少しずつなら」
「それでも、危険です」
「危険でない道は、もうありません」
騎士は目を伏せた。
誰かが止めるなら、クララの名前を出してほしかった。帰ってくる約束をした人がいる、と。けれど、その人は、便箋のどこにも書かれていない。
わたしは天幕の外へ出た。
朝の山は白く、関所の石壁には、昨夜わたしが消した結界の煤がまだ残っていた。七つの核を壊して開いた道を、帰還部隊がゆっくり通り始めている。
その人たちは、家へ帰る。
わたしも帰るために、杖を掲げた。
最初の《渡空》は、ひどく低かった。
足元から起こした風が山道の砂を巻き上げ、わたしの身体を半ば引きずるように前へ運ぶ。いつものように雲の高さまで上がれない。谷を一つ越えるごとに降りて、膝に手をつき、吐き気が去るのを待った。
何度も、遠くの空に黒い煙が見えた。
それがどこの町のものか、分からない。
分からないたび、違えばよいと思った。
違ってほしいと願うことしかできない自分が、怖かった。
二日目の夕方、アイゼルクの鉄を打つ音は聞こえなかった。
町へ続く坂を上ると、屋根のあいだから黒い煙が細く上がっている。火はもう大きく燃えていない。燃えるものが、残っていないように見えた。
石畳には割れた樽、折れた荷車、踏み潰されたパンが散っている。東区の家々は、壁だけを残して黒くなっていた。
「クララ!」
呼んだ。
返事はなかった。
町の中には、誰もいないように見えた。
けれど、鍛冶場の裏手にある古い鉱石置き場で、布を被った人たちが身を寄せていた。子どもを抱えた女性、腕に包帯を巻いた老人、顔を煤だらけにした若者。
そのなかから、隣の工房で働いていたエルナさんが出てきた。
彼女の右の眉には、血の乾いた跡があった。
「フリーデちゃん」
わたしの名前を呼んだ途端、エルナさんの顔が崩れた。
「遅くなって、ごめんなさい」
わたしは、何を尋ねるより先に言ってしまった。
「クララは、どこですか」
エルナさんは答えなかった。
代わりに、抱えていた小さな男の子の背中を撫でた。その子は、わたしを見ると、手に握っていた金属片を差し出した。
星の形に打たれた、小さな留め具だった。
「クララさんが、これを渡してくれた」
子どもは、かすれた声で言った。
「おかあさんの手と、離れないようにって」
わたしは金属片を受け取れなかった。
エルナさんが、代わりにその子の指を包む。
「幹部が来たのは、夜明け前でした」
彼女は言った。
「黒い獣を何頭も連れて、東の門から。町を壊すためじゃなかった。炉と、魔脈を探していた」
魔王軍は、鍛冶場の町から鉄と術式を奪うために来たのだ。
東の壁を崩し、逃げる人の前へ黒い火を置いた。火は木を焼くだけでなく、触れた石の中へ潜り、道を塞いだという。
「西の鉱山道へ逃げることになりました。でも、古い排水路の鉄戸が歪んでいて、開かなかったの」
エルナさんの声は、途中で何度も止まった。
「クララが、あの子の鍛冶魔法で開けると言った。皆に先に行けって」
わたしは、鍛冶場の方を見た。
屋根は半分落ち、入口の上には黒い火の跡が残っている。けれど、炉の側だけが、妙に形を保っていた。
「鉄戸を開けたあと、どうしたのですか」
エルナさんは目を閉じた。
「黒い火が、排水路まで追ってきた。クララは、炉から熱した梁を持ってきて、入口へ渡したの。あの人は……ずっと、鉄をつなげていた」
「一人で?」
「私たちが出るまでって」
子どもが、小さく言った。
「クララさん、フリーデさんの杖は、フリーデさんを帰す杖だから、ここにはないって言ってた」
胸の奥が、音もなく冷えた。
「だから、わたしの手で、帰る道を作るんだって」
それは、クララの言葉だった。
わたしのために杖を作った人が、自分には杖がないからと、何もできなかったわけではない。
彼女は自分の得意なものだけで、誰かの帰る道を作ろうとした。
「皆が排水路へ入ったあと、魔王の幹部が鍛冶場へ来た」
エルナさんは続けた。
「クララは、鉄戸を閉じるように言った。でも、閉じたらクララが」
その先を、彼女は言えなかった。
わたしにも、聞けなかった。
「わたしが、行きます」
声は震えていなかった。
震えていないことが、かえって恐ろしかった。
鍛冶場の入口には、熱で曲がった鉄板が斜めに落ちていた。わたしは《渡空》を小さく使い、崩れた石を飛び越える。これくらいの魔法でも、息が詰まるほど難しい。
中は、炉の火が落ちたあとよりずっと暗かった。
煤と、濡れた鉄の匂いがする。
金床の前に、黒い魔力が細い鎖のように絡みついていた。
鎖は、炉の床へ打ち込まれた何本もの鉄杭に留められている。杭のひとつひとつには、クララの打った星の印があった。
黒い火はまだ生きていて、杭を外せば、排水路の方へ流れ出すのが分かる。
その鎖のそばに、クララはいた。
倒れた鉄板にもたれ、片手を最後の杭へ伸ばしている。外套は煤で黒く、肩には深い傷があった。目は閉じている。
呼んでも、返事はなかった。
「クララ」
近づいて、膝をついた。
彼女の指先へ触れると、もう温かくなかった。
鍛冶場のどこかで、まだ金属が冷えていく音がした。
わたしは、何をすればよいのか分からなかった。
大きな魔法なら知っている。敵を遠ざける結界も、岩を貫く光も、黒い核を消すための火も使える。
けれど、クララの手を温めるための魔法を、わたしは知らなかった。
「帰ってきたわ」
やっと言えた。
遅すぎる返事だった。
クララの胸元には、薄い金属の筒が残っていた。指でつまむと、中から小さく折られた便箋が出てくる。
宛名は、まだ書かれていなかった。
《今日、裏庭の草が伸びていました。白い石の隣に、二人で使うものの設計帳を置きます。帰ってきたら、見て。》
途中で、文章は終わっていた。
次の便に入れるつもりだったのだと思う。
わたしは、その便を受け取れなかった。
炉の奥で、黒い鎖が一度、大きく鳴った。
クララが残した鉄杭が、わずかに曲がる。
わたしは便箋を胸元へしまい、杖を持ち上げた。
「もう、誰も通しません」
それが誰へ向けた言葉だったのか、分からない。
黒い鎖へ《灼光槍》を撃った。
白い光は炉の床を貫き、クララの打った杭を避けることなどできなかった。床も、金床の片側も、魔王軍の残した火もまとめて砕けた。
壊れた鍛冶場に、白い光だけが残る。
光が消えたあと、黒い鎖はなくなっていた。
クララが繋いだ帰る道だけは、崩れずに残った。
翌朝、町の人たちは、古い排水路から一人ずつ戻ってきた。
夜のあいだに魔王軍の姿は消えていた。幹部は、町を完全に占領することより、別の場所へ兵を進めることを選んだらしい。残ったのは焼けた家と、壊された炉と、戻ってきても元の暮らしを始められない人たちだった。
エルナさんは、クララの遺した鉄杭を見て言った。
「怖かったはずなのにね。あの子、手が震えてた」
その言葉で、わたしは初めて思い出した。
クララは、火が大きく鳴るとき、少しだけ目を細める。知らない依頼を受ける前には、工具の数を二度数える。わたしが危ない場所へ行くときには、平気な顔をして、玄関の戸が閉まってから息を吐く。
怖くない人ではなかった。
怖いまま、あの場所に残ったのだ。
わたしはクララを、町の共同墓地の端へ埋めた。
墓石を切る人がいなかったので、折れていない鉄の板へ、名前だけを彫った。クララ・アイゼン。
わたしはその下に、何か書き足すべきだったのかもしれない。恋人だったこと。鍛冶師だったこと。誰かの帰る道を残したこと。
けれど、どれもクララのすべてではなかった。
結局、名前の下には何も書けなかった。
軍から来た使いの者は、町の復旧を支えると言った。
わたしはうなずいた。使いの者が帰ったあと、また次の部隊から、残る結界を壊してほしいという依頼が来た。
断れば、別の誰かが危ない場所へ行く。
行けば、誰かの帰りを遅らせる。
それでも、わたしは行った。
あの鍛冶場の前で、クララへ何を返せばよいか分からなかったからだ。
だから、敵を退けるための魔法ばかりを使った。狭いところで人を避けるより、遠くからまとめて消す方を選んだ。もう二度と、町へ黒い火を入れさせないために。
それが正しかったのか、今も分からない。
クララが遺した最後の便箋は、五年間、夜星の杖の布袋へ入れてある。
わたしは一度も返事を書かなかった。
宛先がなくなったからではない。書けば、五年前の朝からずっと返していないことを、便箋の上ではっきり認めることになるからだ。
* * *
「フリーダ?」
ロッテの声で、白い羽根板の回る音が戻ってきた。
町の上には、もう煙ではなく、風を切る笛の音が流れている。
わたしは、自分が羽根塔の前に立っていることを、少し遅れて思い出した。
「ええ。行きましょう」
町の中央にある羽根塔は、近くで見ると半分ほど止まっていた。
六枚ある羽根板のうち、一枚が根元から外れ、塔の下へ斜めに垂れている。風が来るたび、残った五枚が不揃いに回り、軸のあたりから苦しそうな音がした。
塔の足元では、藍色の髪を首の後ろで束ねた女性が、鳥かごの前で腕を組んでいる。その隣には、短い栗色の髪の女の子がいて、封のされた手紙を何通も抱えていた。
「すみません」
ロッテが声をかける。
女性は、すぐにこちらへ向いた。
「旅の人? 塔は危ないから、近づかない方がいいよ」
「修繕士です。掲示板の依頼を見ました」
女の子が、抱えていた手紙を落としかけた。
「本当に?」
女性は娘らしいその子を横目で見てから、深く頭を下げた。
「私はザビーネ。この羽根便を預かってる。こっちは娘のネレ」
「リーゼロッテ・ベッカーです。こちらはフリーダ」
「こんにちは」
わたしも頭を下げる。
ネレさんは、すぐに手紙を一通差し出した。
「これ、北の村へ送るはずだったんです。五日も止まってる」
封蝋には、小さな花の模様がある。
「塔が直れば、すぐ送れる?」
「まず、見てみましょう」
ロッテが答えた。
ザビーネさんは、困ったように息を吐く。
「急ぎの連絡を優先しているから、個人的な手紙は後回しにしてるの。塔が止まってから、薬の注文や村からの報せだけでもいっぱいで」
「個人的な手紙も、大事だよ」
ネレさんが言った。
「大事じゃないと言ってない」
「でも、お母さんは『待てる手紙』って言う」
「待てる手紙は、待てる」
「待ってる人がいるかもしれないのに」
二人の声が、止まった羽根板の下でぶつかった。
ザビーネさんは、鳥かごの扉を閉めた。
「修繕士さん。塔を見てもらえますか」
「もちろん」
ロッテは短く答えた。
羽根塔の中には、風を導くための魔導石と、鳥たちが出入りする細い管が何本も通っていた。
ロッテは床へ膝をつき、軸の根元から糸を伸ばす。
「外れた羽根板が、風導の輪を引っ張って歪めてる。塔の中の魔脈も切れてるね」
「羽根板を戻せばいいのかしら」
わたしが訊く。
「それだけじゃ駄目。上の留め具が割れてる。新しい金具をつけて、輪の形も戻さないと」
ネレさんが塔の上を見上げた。
「一番上まで、登るんですか」
「登れる人がいれば」
「わたしが行きましょうか」
ネレさんはすぐに言った。
ザビーネさんが振り向く。
「駄目よ。あそこは風が強い」
「毎日、伝書鳥の巣箱を見に上がってる」
「今日は壊れた羽根板がある」
「だから、待ってるだけじゃ直らない」
ロッテは二人を見てから、わたしへ目を向けた。
「フリーダ。上まで行ける?」
「ええ」
「鳥を巻き込まない高さで。羽根板は、私が印をつけたところへ戻して」
「分かったわ」
ネレさんが、わたしの杖を見た。
「飛ぶんですか」
「少しだけ」
ロッテが、すぐに言う。
「少しじゃない高さだけどね。皆、塔から離れて」
わたしは《渡空》を使った。
足元の風が、円を描くように広がる。地面から離れ、白い羽根板の横を抜け、塔の上へ上がっていく。
止まっていた伝書鳥たちが、驚いて一斉に飛び立った。
けれどロッテの糸が、鳥かごの上に淡く光る。風の流れが塔の外へ逃がされ、鳥たちは遠くへ散らず、町の屋根へ降りていった。
塔の最上部には、折れた留め具と、風導の輪がある。
地上のロッテが、青い印を二つ灯した。
「羽根板は、右へ半歩! そこから押し込んで!」
「ええ」
外れた羽根板は、大人が何人いても持てないほど大きい。
わたしは両手をかざし、風をまとった板をゆっくり持ち上げた。ロッテの印へ合わせ、割れた根元を軸の脇へ運ぶ。
「そこ!」
新しい金具を、下から滑車で引き上げたネレさんが叫んだ。
ザビーネさんは、地上で縄を支えている。
母と娘は互いを見ずに、同じ縄を握っていた。
わたしが羽根板を固定すると、ネレさんの金具が穴へ収まった。
ロッテの糸が、歪んだ風導の輪を一周する。
白い羽根板が一度だけ震え、ゆっくりと回り始めた。
けれど、塔の内側からはまだ乾いた擦れる音がした。
「羽根板は戻った。でも、便を飛ばす風路が二つ、ずれてる」
ロッテが塔の内側を見上げる。
「フリーダ、上の輪を少しだけ左へ。私が下から継ぐから」
「ええ」
わたしは輪の脇へ手を添えた。ほんの指二本分、ロッテの光る糸が示した方へ動かす。強く押せば、輪ごと外れてしまう。だから息を止めて、風が馴染むのを待った。
地上で、ネレさんが小さな風向き板を抱えている。
「お母さん、見て。西の風、戻ってきた」
ザビーネさんは縄から手を離さないまま、娘の横へ立った。
「試運転は、短い便だけよ」
「うん。私が鳥を選ぶ」
ネレさんは頷き、鳥かごの留め具を慎重に開けた。
ロッテの糸が最後の風路を閉じたとき、塔の中を通る風の音が、笛のように細く澄んだ。
その瞬間、肩へ小さな重みが落ちた。
灰色の伝書鳥が、わたしの肩に止まっている。足の筒には、赤い封蝋の手紙が結ばれていた。
「フリーダ! 鳥が止まってる!」
ロッテが地上から言う。
「ええ。分かっているわ」
「動かないでね。驚かせないで」
「わたしは、動いていないけれど」
鳥は首を傾げ、なぜか杖の銀の模様をつついた。
「そこもつつかないでほしいわ」
けれど鳥は聞かなかった。
塔の下へ戻ると、ネレさんが赤い封蝋の手紙を受け取った。
宛名を見た途端、彼女の顔から笑みが消える。
「フリーダ・リンデン様」
ロッテが、こちらを見た。
わたしは手紙を受け取った。
封蝋には、王都の公印ではなく、見覚えのある細い羽根ペンの印が押されている。
エッダさんのものだった。
「知っている人からですか」
ザビーネさんが訊く。
「ええ。少し、確認させてください」
手紙を開く。
中には、短い便箋と、折り畳まれた写しが入っていた。
便箋には、整った細い文字で書かれている。
《フリーデリケ様。評議会が、戦時非常法に基づく新たな拘束令を準備しています。王の生け捕り命令は残っていますが、評議会は“抵抗時の即時処断”を付記しようとしています。私は止められません。どうか、北の関所を使わないでください。》
指先が冷えた。
写しには、評議会の印と、わたしの特徴が並んでいる。黒い長髪。長杖。広域魔法を使う女。
フリーダ・リンデンという名前まで、そこにあった。
エッダさんの文字は、命令ではなかった。間に合ううちに、ここから離れて、と書いている。
それだけで、五年前に届かなかった便りとは違うものだと分かってしまう。
「ロッテ」
呼ぶと、彼女はすぐに横へ来た。
何も訊かず、ただ便箋を見た。
「……次は、前みたいな追手じゃないね」
「ええ」
ザビーネさんたちは少し離れた場所で、こちらを見ている。
わたしが何者かを説明しなければならないのかもしれない。
その前に、塔の入口から男の声がした。
「説明は、私からします」
振り返る。
灰色の外套を着た長身の男性が立っていた。王都の騎士服は着ていない。けれど、姿勢と腰の剣だけで、誰なのか分かる。
エーリヒ隊長だった。
「あなたは」
ロッテの声が硬くなる。
「お久しぶりです、リーゼロッテさん」
彼はわたしを見る。
「フリーダ・リンデンさん」
その偽名を、ひどく丁寧に呼んだ。
「手紙は、私が羽根便へ預けました。王都から直接届けば、評議会に追われる可能性があったので」
「どうして、フェルヴィだと分かったのですか」
「ゼーリアから北を避けるなら、山向こうへ知らせを出せる場所はここになる。羽根便が止まっているとも聞いた。あなた方なら、困っている塔を通り過ぎないだろうと考えました」
「追っているのは、あなたではないのですか」
わたしが訊く。
「本来なら、そうです」
エーリヒさんは否定しなかった。
「王は生け捕りを望んでいます。ですが、それはあなたの自由を認めるという意味ではない。評議会はさらに悪い結末を望んでいる」
「それを止めるために、ここへ?」
「止められなかった者として、せめて知らせに来ました」
彼の声には、言い訳をする響きがなかった。
「王は、まだ止めないのですか」
わたしが訊くと、エーリヒさんは目を伏せた。
「生け捕りを望む命令だけを残し、評議会の動きを許している。止めていないのと同じです」
その答えは、聞きたかったものではない。
けれど、都合のよい嘘よりは、ずっとましだった。
「エッダさんは、この写しを持ち出すために危険を冒したのでしょう」
「はい。あなたへ届く道を探してほしいと、私に頼みました」
「どうして、あなたが」
「第八騎士団は、あなたを王都へ連れ戻す任務でした。私はその命令を果たせなかった」
エーリヒさんは、真っ直ぐこちらを見た。
「だからといって、許されるとは思っていません。ただ、あなたが処断されるための道案内はしたくない」
ロッテが、わたしの前へ半歩だけ出た。
「じゃあ、追手の行き先は?」
「北の関所と、主要な街道です。今夜のうちに、あなた方がここにいたという報告は上げません」
「それであなたは」
「報告を遅らせた責任は、私が負います」
「この町の人には、あなたが誰かを知らせていません。今も、報告するつもりはありません。ただ、次の部隊は違います。あなたを守るためではなく、処断するために動きます」
わたしは写しを握りしめた。
ロッテが、わたしの袖を掴んだ。
エーリヒさんはそれを見てから、ザビーネさんへ小さく頭を下げた。
「羽根便をお借りしました。依頼の邪魔をして、申し訳ありません」
「……手紙を運ぶのが、私たちの仕事です」
ザビーネさんは答えた。
ネレさんが、抱えていた個人宛ての手紙を見た。
その目から、さっきまでの勢いが消えている。
エーリヒさんが町を出たあと、羽根塔の下には、手紙の山だけが残った。
ネレさんは、一通ずつ宛名を確かめている。
「お母さん」
「なに」
「やっぱり、急がない手紙も送ろう」
ザビーネさんは、すぐに答えなかった。
彼女は羽根塔の壁際にある、古びた木箱を開けた。
中には、誰にも渡されなかったらしい、黄ばんだ封筒が一通だけ残っている。
「戦争が始まる前に、私が後回しにした手紙よ」
ネレさんが、母の手元を見た。
「誰から?」
「昔の友人。山向こうで小さな店を始めたから、見に来てって書いてあった」
ザビーネさんは、封筒を開かないまま、ゆっくり撫でる。
「急ぎではないと思った。次の便でいい、その次でもいい。そうしているうちに道が閉じて、その町は戦場になった」
「その人は?」
「今も分からない」
風が羽根板を回す音だけが、塔の中に残る。
「私は、個人的な手紙を軽いと思ったわけじゃない。軽くないからこそ、届かなかったときのことを考えるのが怖かったの」
ネレさんは、しばらく黙っていた。
それから、母の手にある封筒を指した。
「それも、送れる?」
「宛先の町は、もうない」
「じゃあ、ここに置いたまま?」
ザビーネさんの指が、少し震えた。
「……いいえ。今度は、私が持っていく」
彼女は封筒を胸の内ポケットへしまった。
「待てると思っていたら、待てなくなることもある」
ネレさんは、赤い封蝋のない手紙を持ち上げた。
「届くのが遅くても、受け取るかどうかは、宛先の人が決めていい」
ザビーネさんは、娘の手紙を見た。
「……そうね」
彼女は鳥かごの扉を開けた。
「でも、全部を一度には飛ばせない。まず、行き先ごとに分ける。雨雲が来る前に西の便。次に北の便」
「はい」
ネレさんの返事は、先ほどより落ち着いていた。
親子は机を挟み、手紙を仕分け始める。
花の封蝋。子どもの丸い字。商人の注文書。病気の祖父へ宛てた短い便り。
急ぎでないからと、軽くしてよいものは一つもなかった。
ロッテは、残った風導の輪を最後まで継いでいる。
わたしは塔の外で、もう一度回り始めた白い羽根板を見上げた。
それは手紙を遠くへ運ぶために回る。
誰かを待たせないためだけでなく、誰かに届くかどうかを、その人自身が決められるように。
最後の輪が光ると、ネレさんは鳥かごを一つずつ開けた。
伝書鳥たちは足の筒を鳴らし、塔の上へ集まる。ザビーネさんが風向きを確かめ、腕を上げた。
「西の便、出します」
白い羽根板が大きく回り、塔の笛が高く鳴った。
鳥たちは一斉に西の空へ飛び出す。
花の封蝋も、子どもの丸い字も、その中にある。
ネレさんは鳥の影が見えなくなるまで空を見ていた。
夜、フェルヴィの宿で、ロッテは机の上へ王都からの手紙を置いた。
「北の関所は使えない。南は、前に私たちが通った道が多い」
「ええ」
「東へ回るなら、アストレアの方かな」
彼女は地図を広げ、次の道を指でたどる。
わたしは、その地図を見られなかった。
「ロッテ」
「うん?」
「わたし一人なら、追手を引きつけられるわ」
言った途端、ロッテの手が止まった。
「それ、今言う?」
「あなたを巻き込みたくないの」
「もう巻き込まれてるよ」
「それでも、これ以上は」
「フリーデ」
二人きりの部屋で呼ばれた本当の名前が、言葉を止めた。
ロッテは地図を閉じずに、まっすぐわたしを見る。
「私が行くか残るかは、私が決める。フリーデが危ないからって、一人で決めないで」
「でも」
「私は、役に立つから一緒にいるんじゃない」
その声は強かった。
「一緒にいたいから、歩いてる。怖くないわけじゃない。でも、怖いから置いていかれる方が嫌」
わたしは、夜星の杖の布袋へ目を落とした。
中には、クララの書きかけの便箋がある。返せなかった手紙と、帰ると約束して帰れなかった朝がある。
「クララにも、帰ると言ったわ」
「うん」
「でも、帰ったときには遅かった。だから……ロッテも、わたしのそばにいなければ、危ないことには巻き込まれないかもしれない」
ロッテはすぐには答えなかった。
地図の端を押さえていた指が、少しだけ強くなる。
「フリーデは、クララさんを助けられなかったことを、今の私を一人にする理由に使いたいの?」
その言葉は厳しかった。
けれど、責めるためではないと分かった。
「使いたいわけでは」
「じゃあ、私の話を聞いて」
ロッテは言った。
「クララさんが帰ってくるのを待っていたことと、私が危ない道を自分で選ぶことは、同じじゃない。フリーデが、あのとき行かなかったらよかったって思っていることも、今の私の道を決める理由にはならないよ」
わたしは、答えられなかった。
あの遠征を断ればよかったのか。最後の核を次の日まで待てばよかったのか。もっと早く飛べばよかったのか。
五年のあいだ、答えの出ない問いを何度も並べた。
けれど、ロッテはそのどれにも答えを出そうとはしない。
「フリーデが、今もクララさんを大切にしてるのは知ってる」
ロッテは続けた。
「私も、クララさんが残したものを大切にしたい。でも、それと、私を安全な場所へ置いていくことは別だよ」
「安全な場所に置くつもりではないわ」
「うん。フリーデは、置いていくつもりなんだよね」
言い返せなかった。
ロッテは、少しだけ困ったように笑った。
「私は物じゃないから、置いていかれる場所を決められたくない」
「……ええ」
「それに、フリーデが一人で追手を引きつけたら、私はたぶん追いかける」
「それは危ないわ」
「だから、先に一緒に道を決めよう」
その言葉は、あまりにロッテらしかった。
危なくないと言うのではない。怖くないふりをするのでもない。危ないなら、その形を二人で見て、どこを通るかを選ぶ。
「……今夜、わたしが眠ったあとに出ていくつもりだった?」
わたしは答えなかった。
それだけで、ロッテには足りたらしい。
「やっぱり」
責める声ではなかった。けれど、その静かさが苦しかった。
「わたし、フリーデが急に静かなときは分かるよ。杖の手入れをして、靴紐を結び直して、必要なものだけ鞄へ入れる。そういう顔をする」
「あなたを危険から遠ざけたかったの」
「だったら、遠ざけるかどうかも相談して。私は自分で決めたい」
ロッテは小さく息を吸った。
「それに……置いていかれたら、たぶんすごく腹が立つ」
その言い方に、思わず少しだけ笑ってしまった。
「ええ。覚えておくわ」
ロッテも少し笑ったあと、すぐに真面目な顔へ戻る。
「覚えるだけじゃだめ。出る前に、私を起こして」
「もし、起こしてもわたし一人で行った方がよいと言ったら?」
「それなら、ちゃんと聞く。喧嘩もする。でも、フリーデが消えたあとに手紙みたいなものだけ残して、私に決めさせないで」
胸の奥で、五年前の未送の便箋が、きしむように思えた。
クララは、手紙を残したいと思って書いたのではない。ただ、明日へ届く言葉を書いていただけだ。
ロッテが今わたしへ求めているのも、後悔しない言葉ではない。今、ここで、道を一緒に決めることだった。
「分かったわ」
「本当に?」
「ええ。次の道は、二人で決めましょう。今夜は南へ抜ける宿場と羽根便の継ぎ場を三つ探す。明日の朝、ザビーネさんにも、追手が来たときに知らせを回す方法を聞きましょう」
ロッテは、少しだけ息を吐いた。
「うん」
返す言葉を探した。
今度は、見つからなかったわけではない。
「ロッテ」
「なに?」
「一緒に、いてください」
ロッテの目が、少し丸くなる。
それから、机の上の地図をそっと閉じた。
「それ、依頼?」
「お願いよ」
「じゃあ、引き受けます」
彼女は笑い、地図の上からわたしの手を取った。
クララの言葉は、帰れない場所に残っている。
ロッテの言葉は、いまここから何を選ぶのか、わたしの手を止めてくれる。
同じものではない。
だから、どちらも失くさずに持っていけるのだと思った。
窓の外では、羽根塔が夜の風を受けて回っている。
伝書鳥たちは、暗い空へ一羽ずつ飛び立っていった。
わたしたちも、明日になれば次の町へ向かう。
一人で消えるためではなく、二人で道を選ぶために。




