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第二巻 第五章 湖上書庫の町・ゼーリア・次の航路

アイゼルクを出て四日目、道の向こうに湖が見えた。

 山々のあいだへ広がる水面は、磨いた鏡のように空を映している。湖畔には白い壁の家が並び、そのあいだを細い水路が縫っていた。

 町の名はゼーリア。

 湖へ張り出した桟橋の先に、二階建ての大きな舟がつながれている。白く塗られた船体の側面には翼を広げた鳥が描かれ、その下に《湖上書庫・白鷺号》と書かれていた。

 ただし、舟はひどく傾いていた。

 右側の甲板が水面すれすれまで沈み、左側だけが妙に高い。窓の内側では、本棚が斜めになったまま縄で壁へ固定されている。桟橋には《当分のあいだ休航》という札が下がっていた。

 「図書館が、舟に乗ってる」

 私が言うと、隣を歩くフリーデが足を止めた。

 町の中ではフリーダと呼ぶ。けれど、今は周囲に人がいない。

 「本を運ぶための舟なのかしら」

 「たぶんね。あの傾き方だと、今日は一冊も運べなさそうだけど」

 フリーデは《夜星の杖》を持ち直した。

 アイゼルクを出てから、彼女は以前より静かだった。黙り込んでいるわけではない。食事もするし、道を間違えれば教えてくれる。それでも、ときどき杖の銀色の模様を見て、遠い場所へ耳を澄ませるような顔をする。

 クララさんのことを、私はまだそれ以上訊いていない。

 嫉妬しているわけではなかった。

 あの杖を作った人がフリーデの帰ることを願い、フリーデが今もその人を大切にしている。その事実を、消したいとは思わない。

 怖いのは、もっと別のことだった。

 私の修繕が終わり、フリーデが一人でも力を扱えるようになったとき、隣にいる理由が残るのか。

 考えていることを見抜かれたくなくて、私は休航の札を指した。

 「見ていこうか」

 「ええ」

 白鷺号の甲板には、二人の女性がいた。

 一人は、灰色がかった金髪を長く編んだ背の高い女性で、傾いた本棚から本を一冊ずつ木箱へ移している。もう一人は、日に焼けた頬にそばかすのある女性で、船縁から水中を覗き込んでいた。

 「すみません」

 声をかけると、二人が同時に振り向く。

 「掲示板の休航札を見ました。修繕士です」

 「修繕士?」

 長い髪の女性が、抱えていた本を落としかけた。

 そばかすの女性が片手で受け止める。

 「ヒルデ。本から先に手を離す癖、直した方がいいよ」

 「あなたが受け止めるから、直らないの」

 「私のせいにされた」

 そう言いながら、そばかすの女性は本を木箱へ置いた。

 「私はリタ。この舟の船頭。こっちは司書のヒルデ」

 「リーゼロッテ・ベッカーです。こちらはフリーダ」

 フリーデは丁寧に頭を下げた。

 「こんにちは」

 ヒルデさんは修繕鞄を見たあと、ほっとしたように息を吐いた。

 「お願いできますか。三日前から船体の右側が沈み始めて、魔法舵も動かないんです」

 「まず見せてください。直せるかは、それから」

 「直さなくていいよ」

 リタさんが言った。

 ヒルデさんの表情が固まる。

 「リタ」

 「町の道はもう直った。西岸にも来月には新しい書庫ができる。白鷺号の仕事は終わりだって、評議員たちも言ってる」

 「西岸の奥には、道がまだ通っていない入り江が三つあります」

 「そこへだって、いつか道はできる」

 「いつかまで、本を待たせるの?」

 二人のあいだへ、湖からの風が抜けた。

 リタさんは船縁に手を置いたまま、水面を見ている。ヒルデさんは口を結び、それ以上言わなかった。

 私は傾いた甲板を見回した。

 修繕を始める前に、持ち主たちが何を残したいのかを決めなければならない。

 けれど、そのとき、桟橋の方から小さな声がした。

 「ヒルデさん!」

 赤い帽子をかぶった女の子が、薄い本を胸に抱えて走ってくる。

 「ミア、桟橋は走らないで」

 ヒルデさんが慌てて舟を降りた。

 ミアと呼ばれた子は、本を差し出す。表紙には、緑色の竜と小さな魔法使いが描かれていた。

 「返しに来たの。次のお話、持ってきた?」

 「ごめんなさい。舟が動かなくて、まだ西の入り江へ行けないの」

 「いつ動く?」

 ヒルデさんは答えられなかった。

 リタさんが目を伏せる。

 ミアは傾いた白鷺号と、私たちの修繕鞄を見比べた。

 「直す人?」

 「うん。まだ、どこまで直せるか見てるところ」

 私が言うと、ミアは真剣な顔で頷いた。

 「竜の三巻も、直して」

 「本は壊れてるの?」

 「二巻の最後で、続くって書いてあった」

 「それは修繕じゃなくて、続きを運ぶ仕事だね」

 「じゃあ、舟も直して」

 ずいぶん筋の通った依頼だった。

 白鷺号の船底には、五本の魔法骨材が通っていた。

 浮力を均等に分けるための骨組みで、普段なら船体の重さを湖面全体へ逃がしている。右側の二本だけが暗く濁り、船尾へ続く魔法舵の術式も途中で切れていた。

 私は指先から糸を伸ばす。

 黄緑の光が船底を走り、壊れた場所の手前で細かく震えた。

 「右舷の骨材が二本折れてる。船体そのものにも水が入ってるね」

 ヒルデさんが青ざめる。

 「本は全部、陸へ移した方がいいですか」

 「修理するなら、重い本から半分くらい。全部空にすると、今度は左側が浮きすぎる」

 リタさんは船底を覗き込み、低く息を吐いた。

 「三日前の夜、東から大きな波が来た。桟橋へぶつかったときだ」

 「骨材を交換するには、右側を水から上げる必要があります」

 私が言うと、フリーデが舟の横へ立った。

 「わたしが上げましょうか」

 「舟を空へ上げるのはなし」

 「水面から少しだけよ」

 「フリーダの少しは、雲の下まで含むでしょう」

 「今日は含まないわ」

 ヒルデさんが、どちらを信じればよいのか分からない顔をしている。

 私は船体へ三本の糸を結び、持ち上げる終点を水面の上へ置いた。

 「この線まで。指二本ぶん」

 「分かったわ」

 フリーデが杖を向ける。

 白い光が舟の右側を包み、沈んでいた船縁がゆっくり持ち上がった。

 指二本ぶん。

 そこで、ぴたりと止まる。

 ヒルデさんは驚いていたが、私は少しだけ得意になった。

 「今のは百点」

 「まあ」

 フリーデの口元がわずかに緩む。

 その顔を見られただけで、自分の仕事が一つ増えたような気がした。

 船底を開くと、折れた骨材のほかに、古い修理跡がいくつも見つかった。

 新しい木、古い木、別の舟から切り出した板。白鷺号は、戦争のあいだに何度も継ぎ足されていた。

 「この板、荷運び舟のものだ」

 リタさんが言う。

 「北岸が焼けた冬に、薬を運ぶため急いで足した」

 「こっちは?」

 「漁師の小舟。避難してきた子どもを乗せるのに、棚を増やした」

 ヒルデさんが、古い傷の一つを撫でる。

 「本だけを運んでいたわけではないんです。薬、手紙、毛布。戦争が終わってから、ようやく本だけの舟に戻れた」

 「最初から図書舟だったの?」

 私が訊くと、リタさんが首を振った。

 「もとは物資運搬用の平たい舟。北岸の学校が焼けたとき、ヒルデが残った本を勝手に積み始めた」

 「勝手ではありません。先生から預かりました」

 「積めるだけ積んで、舟を沈めかけた」

 「あなたが、まだ載ると言ったんでしょう」

 「本が水より重いとは思わなかった」

 「普通は知っています」

 二人は顔を見合わせたあと、同時に少し笑った。

 船底の古い板には、同じ形の木は一枚もなかった。

 それでも、板と板のあいだには、何度も光の糸が通されている。どの板をいつ誰が持ってきたのか、今ではもう分からない。けれど、ここへ足されたから白鷺号は沈まずに残った。

 指先で木目をなぞると、遠い町の鐘の音を思い出した。


 * * *


 それは、私が一人で受けた最初の大きな依頼だった。

 修繕士になる前の私は、壊れたものを見ると、すぐ手を伸ばす子どもだった。

 椅子の脚がぐらつけば布を巻き、雨漏りを見つければ鍋を置く。直ったかどうかより、何もしないで壊れたまま置いておくのが嫌だった。

 それを見たエーファ先生が、私を旅の修繕所へ置いてくれた。

 先生は背が低く、いつも厚い丸眼鏡をかけていた。修繕鞄より大きな荷物を持つのが嫌いで、工具の数を数えながら歩く人だった。

 「ロッテ、釘を百本持つより、足りない釘を町で買える方がいいよ」

 「でも、足りなかったら困るでしょう」

 「そのときは、誰かに訊くんだよ」

 先生の答えは、大抵そうだった。

 足りない材料があれば、町の鍛冶屋に訊く。壊れた理由が分からなければ、最後に使った人へ訊く。直したあとに使い方が分からなければ、明日それを使う人へ訊く。

 私は最初、そのたびに遠回りだと思っていた。

 《継ぎ手》は、木と木、石と石、途切れた魔脈をつなぐ魔法だ。正しい場所へ糸を入れれば、欠けた部分は驚くほど素直に寄り添う。

 だから私は、魔法さえ上手になれば、答えもすぐ見つかると思っていた。

 先生は、そんな私の手元を見てよく言った。

 「糸は物をつなげる。でも、何と何をつなぐかまでは決めてくれない」

 当時の私は、分かったふりをして頷いていた。

 旅の修繕所では、戦争の間に壊れたものをたくさん見た。

 窓のない学校。水を汲めない井戸。片方の車輪を失った荷車。名前のない墓標へ続く、雨で崩れた道。

 先生は依頼の札を読む前に、必ず町の広場を一度歩いた。

 「壊れているのは、札に書いてあるものだけじゃないからね」

 そう言って、誰かの家の前で話し込み、帰るころには予定にない小さな仕事を一つ増やしている。

 私は、先生の鞄を持ちながら不思議だった。

 「頼まれてないのに、どうして直すの?」

 「頼まれてないから、勝手には直さないよ。今、訊いたでしょう」

 「でも、さっきの人は『大したことない』って」

 「大したことないと言う人ほど、訊かれるのを待ってるときがある」

 先生は笑った。

 「まあ、違ったら違ったでいい。断られたら、手を引けばいいんだ」

 私は、その「手を引けばいい」が苦手だった。

 できることがあるのに、しないで帰るのは、失敗したのと同じに思えた。

 二年ほど一緒に歩いたあと、先生は急に、朝食の席で言った。

 「ロッテ、次の依頼は一人で行きな」

 「え?」

 「メルテンの鐘楼。大きい仕事だけど、町の人もいる。あんたなら、物は直せる」

 「先生は?」

 「私は西の村で、頑固な水門を相手にする。あっちは私の昔からの負け仲間だから」

 「一人で決めていいの?」

 先生は丸眼鏡の奥で目を細めた。

 「一人で全部決めるんじゃない。町の人に訊きな」

 そのとき渡されたのが、今も私が使っている修繕鞄だった。

 以前の鞄より、糸玉を入れる場所が一つ多い。内側の蓋には、先生の小さな字で《直したあとは、誰のものになるかを見ること》と書かれている。

 最初は、格好いい言葉だと思った。

 本当の意味を知ったのは、メルテンでだった。

 まだ、修繕鞄が今よりずっと軽かったころ。

 中には糸玉と小さな金槌、欠けた魔導石を磨くための紙やすり、それから師匠が作った《継ぎ手》の印板が一枚だけ入っていた。

 当時の私は、その鞄さえ肩に掛けていれば、どこへでも行けると思っていた。

 北の丘にある鐘楼の町、メルテン。

 春になると、町の外れから白い石の花が咲き、朝には鐘楼の影が市場の端まで伸びる町だった。私はその鐘楼の鐘を直すために呼ばれた。

 戦争の避難警報に使われていた大鐘は、最後の年に綱が切れ、床を割って落ちたらしい。鐘そのものは砕けなかったが、鳴らす仕組みは歪み、鐘楼の上の風受けも半分ほど失われていた。

 町の人たちは、戦争が終わったからこそ、また朝と夕方に鐘を鳴らしたいと言った。

 私は、その言葉を疑わなかった。

 「リーゼロッテ・ベッカーさん?」

 鐘楼の前で声をかけてきたのは、深い青の外套を着た町長だった。

 年齢は五十を少し越えているように見えた。右手の指が二本だけ動かず、左手で何度も外套の前を撫でている。

 「はい。ロッテでいいです」

 「私はオトー・クライン。この町の鐘楼を預かっている」

 彼は高い塔を見上げた。

 「前と同じ音に戻せるか」

 「見てみないと分かりません。でも、鐘が割れていないなら」

 私は鞄を軽く叩いた。

 「できるだけ、前と同じにします」

 その答えを聞いたオトーさんは、少しだけ安心したように見えた。

 鐘楼の入口には、年の近い女の子がいた。

 煤けた金髪を後ろでまとめ、膝へ木の板を置いて、紙へ何かを描いている。

 「孫のユーディトです」

 オトーさんが紹介すると、女の子は板を抱えて立ち上がった。

 「修繕士さん、鐘は鳴る?」

 「直せたらね」

 「朝にも?」

 「うん」

 「夜も?」

 私は少し迷った。

 「夜は、何のために鳴らすの?」

 ユーディトちゃんは、すぐには答えなかった。

 代わりに、祖父の手を見た。動かない二本の指を。

 「前は、夜に鳴ると、みんな急いで家へ帰った」

 「そうだったな」

 オトーさんが言った。

 「空襲の知らせだった」

 その声は、鐘楼の石壁よりも冷たかった。

 私はようやく、塔の入口に掛けられた古い札へ気づいた。

 《警鐘の音を聞いた者は、北の地下室へ避難すること》。

 文字は掠れているのに、誰も外していなかった。

 鐘を元どおりに直すことが、誰にとっても良いことだと、私は勝手に決めていた。

 鐘楼の中は、埃と古い金属の匂いがした。

 落ちた鐘は一階の床に横たえられ、鐘を吊るすための太い梁は途中で裂けている。綱を通す輪は錆び、風受けの歯車には、避難の最中に挟まったらしい赤い布が絡んでいた。

 《継ぎ手》の糸を伸ばすと、梁の傷と鐘の内側の細い亀裂が、私の手の中へゆっくり伝わってきた。

 直せる。

 直してしまえる。

 だからこそ、何を直すのかを先に訊かなければならなかったのだと思う。

 でも、あのころの私は、早く「できます」と言いたかった。

 「鐘を、朝と夕方に鳴るものへ戻しましょう」

 私は、作業に入る前、そう言った。

 オトーさんは一度だけ頷いた。

 ユーディトちゃんは、自分の板へ何かを書き足した。

 それが何の絵だったのか、私はまだ見ていなかった。

 翌日から、私は鐘楼の梁を少しずつ起こした。

 町の大工たちが裂けた木を外し、新しい梁を削る。私は《継ぎ手》の糸を古い石壁と新しい木へ通し、重さが一点へ集まらないように結んだ。鐘を持ち上げるときには、町の人が八人、縄を引いた。

 「せーの」

 掛け声に合わせて、鐘は床を離れる。

 金属の塊が空中で少し揺れ、皆の手に力が入った。

 「止めて」

 私が言う。

 糸を張った先で、鐘を支える梁の高さがぴたりと揃う。

 「今、上げます」

 古い鐘は、ゆっくり元の場所へ戻った。

 そのとき、塔の外に集まっていた人たちから拍手が起こった。

 私は照れながら手を振った。修繕は、ここからが大事なのに。

 昼休み、ユーディトちゃんは階段の途中へ座り、持ってきたパンを二つに割った。

 「半分、食べる?」

 「いいの?」

 「おじいちゃんが、修繕士さんはいっぱい食べる人だって」

 「それは、どこから聞いたのかな」

 「分かんない。でも、梁を持ち上げる人は、お腹が空くでしょう」

 理屈が通っているので、一つ受け取った。

 パンには硬い木の実が入っていて、噛むと少し甘かった。

 「さっきの板、何を描いていたの?」

 私が訊くと、ユーディトちゃんは板を胸へ抱えた。

 「鐘楼の絵」

 「見せて」

 彼女は少し迷ってから、板を差し出した。

 そこには塔と、鐘と、広場に並ぶ小さな屋台が描かれていた。塔のてっぺんには、鐘よりずっと小さい風車がついている。鐘の下には太い線が引かれ、その横に小さな文字で《夜は鳴らさない》と書いてあった。

 「夜は、鳴らさないの?」

 「うん」

 「でも、朝と夕方には鳴らしたい?」

 「朝は、市場が始まるから。夕方は、皆が帰る時間が分かるから」

 「前と同じ音じゃない方がいいのかな」

 ユーディトちゃんは、パンの残りを見た。

 「前の音は、おじいちゃんが聞くと、急いで窓を閉める音になる」

 返事ができなかった。

 「でも、鐘が鳴らないと、町がずっと止まってるみたい」

 彼女は、絵の空いたところへ小さな鳥を描いた。

 「だから、違う音ならいいと思う」

 その日の夕方、私はオトーさんへ尋ねた。

 「鐘を前と同じに鳴らす必要は、ありますか」

 彼は、塔の外で新しい梁を見上げていた。

 「朝と夕方に鳴れば、それでいい」

 「夜は」

 オトーさんの手が、外套の留め具へ触れた。

 「夜には、鳴らさない方がいい」

 「では、大鐘は残して、鳴らす仕組みを変えませんか。朝と夕方だけ、小さな鐘を風車で鳴らす。大鐘は、町の皆が必要だと決めたときにだけ、手で鳴らせるようにする」

 「大鐘を、鳴らさない?」

 「壊れたままにはしません。いつか、皆が別の音を聞きたいと思ったときに、選べるように直します」

 オトーさんは、長いこと黙っていた。

 やがて、広場の方を見た。市場を開くための屋台が、少しずつ運ばれている。鐘が直ったら、再開しようと決めていたらしい。

 「私が、前と同じにしろと言った」

 「はい」

 「だが、前と同じでは、孫が夜に眠れないかもしれない」

 「ユーディトちゃんは、違う音ならいいと言っていました」

 「そうか」

 彼は目を閉じた。

 「なら、そうしてくれ」

 翌朝、私は鐘を降ろしてしまった。

 直したばかりのものを、また外すのは少し怖かった。早く結果を出したい気持ちが、手の奥で小さく騒いでいる。

 それでも、鐘楼の広場へ集まった人たちへ、私は説明した。

 「大鐘は、壊れたところを直します。ただ、これまでどおりには鳴らしません。朝と夕方のための小鐘を、ここの風車につなげます」

 一人の男性が、腕を組んだ。

 「鐘を直す依頼だったはずだ」

 「直します」

 「なら、なぜ余計なものを足す」

 私は、すぐには答えられなかった。

 師匠なら、ここでなんと言うだろうと思った。師匠はいつも、依頼主の言葉を最後まで聞けと言った。でも、町の依頼主は一人ではない。

 「鐘が鳴ることで、朝に市場が開ける人もいます」

 私は言った。

 「でも、同じ鐘を聞くと、夜の避難を思い出す人もいる。直すことが、皆さんを前と同じ場所へ戻すことではないなら、皆さんが使える形を一緒に決めたいです」

 広場は、すぐには静かにならなかった。

 市場の人は早く鐘を戻したいと言い、戦争で家を失った人は、大鐘を外してほしいと言った。誰かが「どちらかに決めろ」と言うたび、私は鞄の中の糸玉を握った。

 修繕士は、壊れたものの答えを知っている人ではない。

 そのことを、あのとき初めてちゃんと考えた。

 ユーディトちゃんが、私の横へ来た。

 彼女は昨日の板を両手で持ち、皆に見えるよう高く上げる。

 「大鐘は、残してほしい」

 小さな声だったのに、広場は少し静かになった。

 「でも、夜は鳴らさないで。新しい小さい鐘を、朝に鳴らして。そしたら、おじいちゃんも窓を閉めなくていい」

 オトーさんは、孫の隣に立った。

 動かない右手ではなく、左手で、彼女の肩を抱いた。

 「大鐘は、町が自分で鳴らすものにしよう」

 彼は言った。

 「誰かが危ないと言ったから、皆が逃げるためのものではない。皆が集まりたいときに、皆で決めて鳴らす」

 最初に腕を組んでいた男性が、しばらく空を見た。

 それから、息を吐く。

 「市場の鐘が必要なら、小さい方でもいい」

 「風車で鳴らすなら、朝番の人がいなくてもいいね」

 別の女性が言った。

 「夕方の分も、時間を決めればいい」

 話は、ようやく修繕の話になった。

 誰が綱を織るか。小鐘をどの高さへ吊るすか。風が強すぎる日は、どう止めるか。

 私は、皆が出した言葉を紙へ書いた。

 それまでの私は、図面に自分の答えだけを書いていた。

 あの日の図面には、町の人たちの字が何度も重なった。

 小鐘は、使われなくなった礼拝所の戸口にあったものを譲ってもらった。

 音は大鐘より軽く、朝の鳥の声に近かった。私は風車の回転をゆっくり伝える歯車を作り、夕方には止めるための留め具もつけた。

 大鐘の方は、梁と綱を直した。ただし、綱の先は広場にある小さな箱へ収め、箱を開ける鍵は町の役場と市場と学校で一つずつ持つことにした。

 一人が勝手に鳴らせない代わりに、誰か一人の判断だけで町の音を決めないための仕組みだった。

 「鍵が三つもいるの?」

 ユーディトちゃんが訊く。

 「うん。大事な音だから」

 「三人が喧嘩したら?」

 「話すしかないね」

 「面倒」

 「面倒だね」

 彼女は少し考えたあと、頷いた。

 「でも、勝手に鳴るよりいい」

 修理が終わった朝、町の広場には人が集まった。

 私は鐘楼の中で、最後の糸を外す。風車が一度だけ小さく回り、屋根の上の羽根が東の風を受けた。

 やがて、小鐘が鳴った。

 高くはない。急かす音でもない。

 澄んだ音が、白い石の花が咲く通りをゆっくり渡っていく。

 市場の人たちが屋台の布を開き、パン屋が最初の籠を並べた。子どもたちは耳を澄ませたあと、遅れて笑った。

 オトーさんは鐘楼の下で、孫の手を取っていた。

 窓を閉める人は、一人もいなかった。

 「直ったね」

 ユーディトちゃんが言った。

 私は、すぐには頷けなかった。

 大鐘は前と同じようには鳴らない。風車も、梁も、綱の行き先も違う。

 「うん」

 それでも、私は答えた。

 「今の町で使えるようになった」

 ユーディトちゃんは、少し得意そうに笑った。

 「最初から、そう言えばよかったのに」

 十歳の子どもに言われると、反論できない。

 「そうだね」

 その日の夕方、オトーさんは修繕代と、次の町までの道順を書いた紙を渡してくれた。

 「南の村に、壊れた水門があるらしい」

 「私が行ってもいいんですか」

 「修繕士だろう」

 「はい」

 「なら、行けるところへ行きなさい」

 それは親切な言葉だった。

 私は、そう受け取った。

 直った町に、修繕士が長くいる理由はない。次の依頼があれば、次へ行く。それが旅のやり方だと、私は思った。

 ユーディトちゃんは、鐘楼の階段からこちらへ手を振った。

 「また鐘を見に来てね」

 「うん。時間が合えば」

 そう答えた。

 けれど、その翌朝、私は市場が始まる前に町を出た。

 小鐘が鳴るのを、聞かなかった。

 その後、メルテンから何度か手紙が届いた。

 春の終わりに、大鐘を町の祭りで一度だけ鳴らしたこと。三つの鍵を持つ人たちが、きちんと相談したこと。ユーディトちゃんが、鐘楼の壁に新しい絵を描いたこと。

 私は返事を書いた。よかったね、と。

 でも、次の年の祭りには行かなかった。

 次の町にも、その次の町にも、直すものがあったから。

 メルテンを出て十日ほどしたころ、エーファ先生と合流した。

 先生は西の村の水門を直し終え、私の報告書を食堂の机で読んだ。私は、鐘の梁を替えたこと、小鐘を増やしたこと、大鐘の鍵を三つにしたことを、図面つきで全部書いていた。

 先生は最後まで黙って読み、紙を揃えると、鞄へしまった。

 「いい仕事をしたね」

 胸の奥が、あたたかくなった。

 「うん」

 「鐘を元に戻さなかった」

 「戻したら、困る人がいたから」

 「それを、あんたは聞けた」

 褒められたくて、私は勢いよく頷いた。

 先生は湯呑みを持ち上げ、少しだけ飲んでから訊く。

 「市場の最初の朝は、見たのかい」

 「見てない。次の依頼があったから」

 「祭りは?」

 「まだ先でしょう」

 「そう」

 先生は、それ以上何も言わなかった。

 その沈黙が気になって、私は自分から訊いた。

 「何か、駄目だった?」

 「駄目じゃないよ。修繕士が次へ行くのも、悪いことじゃない」

 「じゃあ」

 「ロッテは、直し終わると、誰かに『もういていいよ』と言われる前に出ていくね」

 箸を持つ手が止まった。

 「いていいか、分からないから」

 「訊いた?」

 「……訊いてない」

 先生は笑わなかった。

 「直したあとは、誰のものになるかを見ること。鞄に書いたでしょう」

 「見たよ。町の人のものになった」

 「そうだね。でも、町の人のものになったあと、修繕士がそこにいてはいけないとは書かなかった」

 私は、返事ができなかった。

 先生は、怒らずに続けた。

 「残るか、出るかは、あんたが決めていい。けれど、必要とされているかどうかだけで決めるのは、少し寂しい決め方だよ」

 「修繕士は、必要なところへ行くものでしょう」

 「そうだよ。でもロッテは、修繕士だけではないでしょう」

 その言葉は、すぐには分からなかった。

 だから私は、次の朝も、次の依頼の町へ向かった。

 先生の鞄を持ち、先生が言ったことを、分かったふりをしたまま。

 そのあと、先生は旅をやめて、小さな修繕所を開いた。

 何度か手紙をくれた。急ぎではないけれど、近くを通るなら寄りなさい、と書いてあった。

 私は返事を書いた。今は遠い町にいること。次は南へ行くこと。困っている人がいること。

 寄らなかった。

 行きたいと思っていなかったわけではない。

 ただ、急ぎでないことを、自分の予定に入れるのが下手だった。

 町を出ることは、いつの間にか、次へ進むことと同じ意味になっていた。

 役に立つあいだだけ、その場所へいていい。

 直し終えたら、次へ行く。

 それは誰かに言われた決まりではなかった。

 私が、自分でそうしてしまっただけだった。


 「ロッテ?」

 フリーデの声で、私は白鷺号の船底へ戻った。

 手のひらには、古い板のざらつきが残っている。

 「大丈夫?」

 「うん。ちょっと、昔のことを思い出してた」

 フリーデは、私が触れていた継ぎ目を見た。

 「この舟も、前と同じ形には戻らないのね」

 「戻さなくていいと思う」

 言ってから、少し驚いた。

 以前の私なら、戻せるなら戻した方がいいと答えたかもしれない。

 「ヒルデさんとリタさんが、これから何に使いたいかを決めればいい」

 フリーデは、ゆっくり頷いた。

 「ロッテらしいわ」

 それだけで、過去の自分に見つかった気がした。

 ヒルデさんは、継ぎ足された棚へ目を向けていた。

 「役に立たない物語を運ぶ余裕があるのか、と言われたこともありました。でも、最初に舟を待っていたのは、薬を受け取る大人ではなく、続きを読みたかった子どもたちだったんです」

 「そのときから、ヒルデは返却期限に厳しい」

 「次の子が待っていますから」

 「だから、もう終わりでいい」

 リタさんが言った。

 「私は戦争中に船頭になった。道が壊れて、他に運べる人がいなかったから。道が戻ったなら、私がここにいる理由もない」

 ヒルデさんの手が止まる。

 私は折れた骨材から目を離せなかった。

 役に立てなくなった場所に、残ってよいと思ったことがない。

 私たち修繕士は、そういうものだとずっと思っていた。直せる場所へ行き、直したら荷物をまとめる。誰かに追い出される前に、自分から次の町の依頼札を探す。

 「リタ」

 ヒルデさんが、静かに呼んだ。

 「私は、あなたに戦争の荷物を運んでほしいわけじゃない」

 「じゃあ、何を運ぶの」

 「本よ。ミアが待っている三巻も、西の入り江の子どもたちが頼んだ図鑑も」

 「道ができたら、それも終わる」

 「終わったら、次に読みたい本を一緒に選んで」

 リタさんが、ようやくヒルデさんを見る。

 「それは船頭の仕事じゃない」

 「知っています」

 ヒルデさんは、両手を握りしめた。

 「私は、あなたとこの舟を続けたいんです。舟が必要だからあなたにいてほしいんじゃない。あなたがいる舟を、まだ続けたい」

 しばらく、誰も話さなかった。

 湖が船底を小さく叩いている。

 リタさんは片手で顔を覆った。

 「そういうことを、皆の前で言う?」

 「二人きりだと言えないので」

 「もっと悪い」

 「ごめんなさい」

 「謝るところでもない」

 リタさんは耳まで赤くしたまま、私へ向き直った。

 「修繕士さん。この舟、直せる?」

 私は、右舷の船体と、ヒルデさんが置いた本の箱、それから西の湖面を見た。

 「材料と、湖の道を知っている船頭がいれば」

 「道なら、私が知ってる」

 「では、直せます」

 ヒルデさんが、長く止めていた息を吐いた。

 修理は翌朝から始まった。

 町の人たちが本を運び、船大工が新しい骨材を削る。ミアは返却した本を抱えたまま、何度も作業を見に来た。

 「これは、どこに置く?」

 フリーデが本の箱を持ち上げる。

 「児童書は二階。大きさじゃなくて、背表紙の印で分けて」

 ヒルデさんが答えた。

 フリーデは箱の中を見た。

 「大きい順ではないのですね」

 「大きい順に並べたら、物語も図鑑も混ざります」

 「壁としては、安定すると思ったのだけれど」

 「本棚を城壁にしないで!」

 思わず声が出た。

 ミアが笑い、フリーデは真面目な顔で頷く。

 「では、印で分けるわ」

 彼女は本を一冊ずつ確かめ、今度は間違えずに箱へ入れていった。

 私は船体の内側に、古い板と新しい骨材の位置を書き込んだ。

 新しいものへ全て替えれば、船はきれいになる。けれど戦争の冬に薬を運んだ板も、子どもを乗せるために増やした棚も、今の白鷺号を支えてきたものだ。

 「こっちの板は残します」

 船大工の男性が、ひびの走った木を見て言う。

 「見た目は悪いですよ」

 「見た目を揃えるために外すと、左の浮力が変わる。それに、この板があるから、今の船底の形が保ててる」

 「じゃあ、どうするんです」

 「傷の両側へ、新しい木を添える。古い板は残したまま、重さだけを分ける」

 私は《継ぎ手》を手の中でほどいた。

 黄緑の糸が、古い木目のくぼみと、新しい木の柔らかい表面を行き来する。

 「前と同じ舟に戻すんじゃありません」

 言いながら、誰に向けた言葉か分からなくなった。

 「今の舟が、次の湖を渡れるようにします」

 船大工は、少しだけ笑った。

 「修繕士さんの言うことは、木より手間がかかるな」

 「木は、話し合ってくれませんから」

 「それは助かる」

 本を運び終えると、フリーデは舟の右側へ移った。

 私が船縁と水面のあいだへ三本の糸を張り、昨日と同じ高さを示す。

 「骨材を一本ずつ外すよ。そのあいだ、ここから動かさないで」

 「ええ。任せて」

 白い光が船体を支える。

 船大工が古い骨材を抜くたび、舟の重さが光へ移った。それでも右側は沈まず、指二本ぶんの高さを保っている。

 以前なら、フリーデは自分だけで舟全体を持ち上げていただろう。

 今は、私の合図を待ち、必要な場所だけを支えてくれる。

 「一本目、入った。次は奥」

 「こちらね」

 「うん。そのまま」

 私の糸と彼女の光が、同じ船体の重さを受けていた。

 フリーデは、ときどき私の方を見た。褒めてほしいわけではない顔をしているのに、私は合図のたびにちゃんと言った。

 「今のままでいい」

 「次は、少し左」

 「止めて。百点」

 最後の一言で、彼女の口元が少し緩む。

 それを見るたび、私は直している舟の外側に、もう一つ別のものがある気がした。

 誰かの力が、誰かを壊さずに届く場所。

 それもまた、直している途中なのかもしれない。

 リタさんは新しい魔法舵の位置を決め、湖の浅瀬と風向きを図面へ書き込んだ。

 ヒルデさんは、書庫を半分に減らす代わりに、窓際へ長椅子を置く案を出した。

 「舟の中で読めるようにしたいんです」

 「本が減るよ」

 リタさんが言う。

 「同じ本を何冊も積むのをやめます」

 「竜の三巻は二冊にして」

 ミアがすぐに口を挟んだ。

 「一冊では駄目なの?」

 「皆が読むから」

 ヒルデさんは図面の端へ《竜の三巻・二冊》と書き足した。

 白鷺号は、壊れる前とまったく同じ舟には戻らない。

 荷物を運ぶ舟から、湖の上で本を読む舟へ変わっていく。

 その変化を、私は以前のように「直りきっていない」とは思わなかった。

 午後、空の色が急に暗くなった。

 湖の東から冷たい風が吹き、桟橋へつないだ縄が大きく張る。

 「ゼーリアの夕立だ!」

 リタさんが叫ぶ。

 船大工たちが道具を抱え、陸へ走る。私はまだ船底にいて、最後の骨材へ糸を通している途中だった。

 波が船体へぶつかった。

 古い係留縄が一本、乾いた音を立てて切れる。

 白鷺号が桟橋から離れた。

 「ロッテ!」

 フリーデの声がする。

 次の瞬間、船底の周りへ透明な結界が広がった。フリーデは本を濡らさないよう、船縁から上までをきっちり閉じたらしい。降り始めた雨と波しぶきが、見えない壁へ当たり、左右へ流れていく。

 本の箱は濡れない。

 私も濡れない。

 ただし、結界の内側はきれいに閉じていた。声も、光の膜を越えるころには雨音へ紛れてしまう。

 「フリーダ! 少し開けて!」

 声が外へ届かない。

 フリーデが結界の向こうから、首を傾げる。

 私は両手で喉を示し、それから窓を開ける仕草をした。

 彼女は少し考え、結界の上側に丸い穴を作った。

 雨が、その穴から私の頭へだけ降ってくる。

 「そこじゃない! 横!」

 「ごめんなさい」

 今度は船縁側に細い隙間が開いた。

 「本が濡れないようにしたのだけれど」

 「私の声が届くところも必要!」

 「それは重要ね」

 「最初から重要だよ!」

 それでも、結界は波を止めている。

 白鷺号は桟橋から離れたまま、沖へ流され始めた。

 リタさんが船尾へ走り、新しい魔法舵の仮レバーを握る。

 「ロッテ、舵まで糸を通せる?」

 「あと一本!」

 船底から船尾へ、《魔脈縫合》の糸を伸ばす。揺れるたびに光が外れそうになる。

 フリーデの結界が舟の左側へ傾き、次の波を受け止めた。

 「フリーダ、そのまま東を塞いで!」

 「ええ!」

 リタさんが風を読み、舵を切る。

 「今、つないで!」

 最後の糸を結ぶ。

 魔法舵に青い光が戻り、船尾がゆっくり西へ向いた。

 ヒルデさんが残った係留縄を投げ、桟橋の船大工が受け取る。皆で引くと、白鷺号は波に逆らいながら元の場所へ戻っていった。

 舟が桟橋へ着いたころ、夕立は早くも湖の西へ抜け始めていた。

 私の髪だけが、頭のてっぺんからきれいに濡れている。

 リタさんがそれを見て、吹き出した。

 ヒルデさんも口元を押さえる。

 フリーデは申し訳なさそうに、布を差し出した。

 「ごめんなさい。穴の位置を誤ったわ」

 「次は横だからね」

 「覚えておくわ」

 「本当に?」

 「ロッテの声が届くところを残す。重要なことだもの」

 その答えがあまりにも真面目で、私は濡れた髪のまま笑ってしまった。

 「うん。重要」

 たぶん、次がある。

 そう思うと、怒る気にはなれなかった。

 雨のあと、白鷺号は丸一日かけて最後の点検をした。

 私は船底へ潜り、風で緩んだ糸を締め直す。リタさんは舵の動きを何度も試し、ヒルデさんは濡れかけた本を一冊ずつ開いて、頁の端を乾かした。

 ミアは長椅子の候補になった板へ座り、竜の三巻のための棚を指で測っている。

 「ここに二冊、入る?」

 「入るよ」

 「一冊は誰かが読んでても、もう一冊は残る?」

 「残る」

 「じゃあ、四巻も二冊いるね」

 「三巻を読んでから考えようか」

 「三巻が面白かったら、絶対いる」

 まだ見ぬ四巻のために、ミアはとても忙しそうだった。

 私は、船体の右舷に残した古い板へ、細い印をつけた。

 傷を隠すための印ではない。次に誰かが船底を開いたとき、ここには北岸の薬を運んだ舟の板が残っていると分かるようにするための印だ。

 ヒルデさんが近づいてきて、私の手元を覗き込む。

 「それは、何の印ですか」

 「板の来た場所。外すときに、理由を忘れないように」

 「残すための記録ですね」

 「そう、かな」

 「書庫も同じです。全部の本を残せないからこそ、何を残して、なぜ残したかを書きます」

 彼女は、印へそっと指を触れた。

 「この舟にも、目録が必要かもしれません」

 「船の目録?」

 「はい。『北岸の薬を運んだ板』『子どもを乗せるために増やした棚』『竜の三巻を二冊置く長椅子』」

 私は笑った。

 「最後の一つだけ、急に新しいね」

 「新しいから残します」

 ヒルデさんの言葉は、書庫の人らしく真っ直ぐだった。

 私はもう一つ、小さな印を木へ添えた。古いものの隣に、新しいものが来た日を残すための印。


 三日後、白鷺号は湖へ戻った。

 船体は水平に浮かび、魔法舵の五つの灯りが水面へ淡い色を落としている。二階の窓際には長椅子が置かれ、棚には竜の物語の三巻が二冊並んでいた。

 最初の航路は、西の三つの入り江を回る。

 リタさんが舵を取り、ヒルデさんが貸出帳を抱える。ミアは出航前から長椅子の真ん中を陣取っていた。

 「修繕士さんたちも乗って」

 ヒルデさんに言われ、私たちも甲板へ上がった。

 「もう修理は終わっていますよ」

 フリーデが言う。

 「今日は、お客さんです」

 リタさんが答える。

 「仕事じゃなくても、舟には乗れる」

 その言葉に、少しだけ足が止まった。

 修繕が終わったあと、仕事ではない理由でどこかへ残る。

 そんなことは、旅を始めてから何度もあったはずなのに、私はいつも、次の依頼を優先して思い出さないようにしていたのかもしれない。

 フリーデが、私の方を見た。

 「ロッテ?」

 「うん。乗ろう」

 白鷺号が桟橋を離れる。

 湖の風が、フリーデの長い黒髪と、私のまだ少し跳ねる髪を同じ方向へ揺らした。

 西の入り江では、子どもたちが桟橋へ集まって待っていた。竜の三巻はすぐに一冊借りられ、もう一冊も貸出帳へ名前が書かれる。

 ヒルデさんは本を渡し、リタさんは次の航路を子どもたちと相談していた。

 舟が必要だったから、二人が一緒にいるのではない。

 二人が一緒に続けたいものとして、舟の次の役目を作ったのだ。

 帰りの甲板で、フリーデと並んで湖を見た。

 周りには誰もいない。ヒルデさんとリタさんは一階で次の貸出順を話し、ミアは長椅子で竜の三巻を読んでいる。

 湖の真ん中では、陸の音が遠い。水を切る船首の音だけが、決まった間隔で聞こえていた。

 「フリーデ」

 「なに?」

 訊くつもりのなかった言葉が、口から出た。

 「もし、私が直すものがなくなったら、どうする?」

 彼女はすぐに答えなかった。

 湖面を見たあと、私へ向き直る。

 「次の町を、一緒に探すわ」

 「そこにも、直すものがなかったら?」

 「お茶を飲んでもいいし、本を読んでもいいでしょう」

 「それ、私がいなくてもできるよ」

 「ええ」

 フリーデは静かに頷いた。

 「でも、ロッテとしたいわ」

 胸の内側へ、湖の光がそのまま入ってきたようだった。

 役に立つ答えを返さなければと思うのに、何も見つからない。

 「……ずるい」

 「どうして?」

 「フリーデが分からないなら、今は分からなくていい」

 彼女は本当に分からない顔をしている。

 私は笑い、船縁へ置かれた彼女の手のすぐ隣へ、自分の手を置いた。

 触れてはいない。

 けれど、白鷺号が波に揺れるたび、小指の距離が少しずつ近づいた。

 「私ね」

 言いかけて、少しだけ言葉を選んだ。

 「昔、鐘楼を直したことがあるの」

 フリーデは、話の続きを急がず待った。

 「元に戻せばいいと思ってた。でも、皆が欲しかったのは、前と同じ鐘じゃなかった。前と違う朝を始める音だった」

 「ロッテが、皆で使える形を作ったのね」

 「うん。でも、できたらすぐ次の町へ行った。あの町に、もう私の仕事はなかったから」

 「それは、ロッテが決めたこと?」

 「たぶん。誰にも、帰ってと言われなかったし」

 「……ロッテ」

 フリーデの声が、ほんの少し低くなる。

 「帰ってと言われなかったから、いてはいけないと思ったの?」

 言葉にされると、急に恥ずかしかった。

 私は、水面へ目を落とした。

 「修繕士は、そういうものだと思ってた。直したら、次に困っている町へ行く。頼まれていないのに残ったら、邪魔になるかもしれない」

 「わたしは、ロッテに残ってほしいと頼まないといけないのかしら」

 「違う。違うけど」

 「では、どうしたらよい?」

 彼女は、本当に考えている。

 その顔を見ていると、欲しかった答えをこちらから差し出したくなった。

 けれど、今までの私は、そうやって誰かの都合のいい答えを待っていた。

 「私も、言わなきゃ駄目なんだと思う」

 フリーデが、少しだけ目を見開く。

 「何を?」

 「直すものがなくても、一緒にいたいって」

 湖の風が、頬を冷たく撫でた。

 言葉は言ってしまえば短いのに、ずっと鞄の底で重かった。

 「フリーデが一人で旅を続けられるようになっても、私はその隣を歩きたい。仕事があるからじゃなくて、フリーデと朝の鐘を聞いたり、舟に乗ったり、次の町でお茶を飲んだりしたい」

 彼女は、しばらく黙っていた。

 それから、私の手のすぐ隣にあった指を、そっと動かした。

 小指が触れる。

 「分かったわ」

 「うん」

 「では、わたしも言うわ。ロッテが直すものを見つけられない日でも、わたしの隣にいてください」

 喉の奥が、少し痛くなった。

 「それ、依頼?」

 「違うわ」

 フリーデは少し考え、それから言い直した。

 「お願い」

 私は笑った。

 「それなら、引き受けます」

 「報酬は、何がよいかしら」

 「次の町で、焼き菓子を二つ」

 「二つで足りる?」

 「今はそれでいい」

 「分かったわ」

 フリーデは真面目に頷いた。

 その横顔を見て、私は、直した町を出る前に鐘を聞かなかった朝のことを思い出した。

 もしあのとき、もう一日だけ残っていたら、何かが変わったかどうかは分からない。

 でも、今は違う。

 次にどこへ行くかも、いつ戻るかも、一人で決めなくていい人が隣にいる。


 その晩、ゼーリアの宿で、私は久しぶりに急ぎではない手紙を書いた。

 机の上には、ヒルデさんが余ったものだからとくれた細い便箋が一枚ある。舟の印が薄い青で刷られ、端には白鷺の羽根が描かれていた。

 宛名を書くまでに、少し時間がかかった。

 《エーファ先生へ》

 それだけで、肩のあたりが妙に固くなる。

 フリーデは向かいの寝台で、夜星の杖の布を替えていた。私が何度も書いては消す音を聞いても、急かさない。

 「誰に書いているの?」

 やっと訊かれたときには、便箋の半分が消した跡で波打っていた。

 「昔の師匠」

 「急ぎのご用事?」

 「ううん。急ぎじゃない」

 「では、急がなくてよいわ」

 「そうなんだけど」

 フリーデは、私の字がまだ何も続いていない便箋を見た。

 「書くことが難しいの?」

 「行きたいって書くのが、ちょっと」

 「会いに?」

 「うん。仕事のついでじゃなくて」

 彼女は少し考え、それから湯呑みを私の方へ押した。

 「会いたいなら、そう書けばよいのではないかしら」

 「フリーデは、簡単に言うね」

 「簡単ではないわ。わたしは、言えなかったから」

 その声に、アイゼルクの裏手で聞いたクララさんの名が、静かに重なった。

 フリーデは杖を撫でず、ただ机の灯りを見ていた。

 「だから、ロッテが言えるなら、その方がよいと思う」

 私は、消した跡だらけの便箋を裏返した。

 新しい面へ、ゆっくり書く。

 《急ぎの仕事ではありません。ただ、先生のところでお茶を飲みたいと思いました。次に近くを通るとき、寄ってもいいですか。》

 書き終えると、思ったより短かった。

 でも、次の依頼先や、修繕の内容は一つも書かなかった。

 「できた?」

 フリーデが訊く。

 「たぶん」

 「たぶんでも、送れば届くかもしれないわ」

 「届かなかったら?」

 「そのときは、次の方法を考えましょう」

 彼女の答えは、慰めではなく、いつもの実務的な提案だった。

 だから私は笑った。

 「うん。ロッテが一人で決めない方がいいことだね」

 「ええ」

 「明日、羽根便に出そう」

 「羽根便?」

 「ゼーリアにも、町の便はあるよ。白鷺号が運ぶものは本だけじゃないって、リタさんが言ってた」

 フリーデは少しだけ笑った。

 「では、明日、舟の人へ訊きましょう」


 翌朝、ヒルデさんは手紙を受け取ると、宛先を確かめ、貸出帳とは別の小さな帳面を開いた。

 「次の入り江の町に、山越えの羽根便があります。二日ほどで繋げられると思います」

 「急ぎではないので」

 私が言うと、ヒルデさんは顔を上げた。

 「急ぎでない手紙にも、届く順番があります」

 その言葉に、フェルヴィで待つことになる白い羽根塔のことを、私はまだ知らなかった。

 けれど、手紙を渡すときの指先は、以前より少し軽かった。

 届くかどうかだけでなく、送るかどうかを、自分で選べたからだと思う。

 修理の終わった舟は、そこで役目を失わなかった。

 新しい航路を選び、私たちを乗せて進んでいた。


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