第二巻 第三章 星痕の町・シュテルナ・咲かない畑
ブリュガルを出て六日目、道の先に、草の生えていない円が見えた。
最初は、大きな池が干上がった跡かと思った。
けれど近づくほど、それが水のない土地だと分かる。直径は百五十歩ほど。周りには麦畑と、背の低い果樹が広がっているのに、円の内側だけは白っぽい土がむき出しだった。草も、苔も、虫の影さえない。
地面には、夜の空を閉じ込めたような細い亀裂が走っている。
ロッテが、歩みを止めた。
「これが、星痕」
わたしは返事ができなかった。
《星落とし》が地上へ届いた跡。
魔法の構造ごと、そこにあったものを消した土地。長い年月が経っても、術式も植物も根づかない。
魔王を倒した夜、わたしが作ったものだ。
あのときは、遠くから光を見ていることしかできなかった人たちにも、いまは畑と家がある。暮らしが戻ろうとしている。
けれど、円の内側だけは、戦争が終わったことを知らないままだった。
「フリーダ」
ロッテの声に、ようやく顔を上げる。
「大丈夫?」
「ええ」
口にした言葉は、あまり大丈夫ではなかった。
ロッテは星痕の縁まで近づき、靴先で土の境目を確かめた。外側の土は、昨夜の露を少し含んでいる。けれど白い円の内側へ棒切れを差し入れると、先端は硬い石を叩いたような乾いた音を立てた。
「同じ雨が降っても、ここだけ違うんだね」
彼女は呟いた。
わたしは、返事の代わりに杖の布袋を握った。
《星落とし》は、魔王城に残っていた大きな術式を消すための魔法だった。そこへ土や建物や、誰かの暮らしがあるかどうかを、あとから選び分けることはできない。だからこそ、あの夜には城の中へ誰も残さないと決めた。
それでも、光が届いた先の土地まで、何も失っていないとは言えない。
ロッテは棒切れをそっと外側の土へ戻した。
「入らない方がいいね。中が危ないからじゃなくて、ここが嫌だと言ってるものを、無理に踏まない方がいい」
その言い方に、わたしは少し驚いた。
星痕を土地の意志のように扱うのは、正しい説明ではない。けれど、直せないものを前にして、何も感じないふりをするよりは、ずっとましに思えた。
ロッテは、星痕を見たあと、わたしの顔を見た。何か気づいたのかもしれない。
けれど、それ以上は訊かなかった。
「町は、あそこだね」
彼女は、円の向こうに見える家並みを指した。
「行こう」
シュテルナは、星痕の外縁に沿って作られた小さな町だった。ここの人たちは、ここが《星落とし》の跡だとは知っていても、それを使った魔法使いの顔までは知らない。戦時の記録には「王都の大魔法」としか残されず、外套へ髪を隠し、杖を布で包んだわたしを、誰も紙に描かれた《落星の魔女》と結びつけなかった。
家の壁には白い石灰が塗られ、窓辺には青い布が掛けられている。畑へ向かう道は、星痕を避けるように大きく弧を描いていた。
町の入口にある掲示板には、《星痕の中へ入らないこと》と、子ども向けの丸い字で書かれた板が下がっている。
「中へ入ると、どうなるの?」
ロッテが通りがかった女性へ訊いた。
女性は、水桶を持ったまま星痕の方を見た。
「何も起きないよ。だから怖いんだ」
彼女は答えた。
「火もつかない。魔法も働かない。種を蒔いても、翌朝には土の上へ転がってる」
「種が、根づかない?」
「ええ。あの土地だけ、世界の外に置いていかれたみたいでね」
女性は、私たちの修繕鞄と杖を見比べた。
「修繕士さん?」
「そうです。リーゼロッテ・ベッカー」
「私はエルナ。畑をやってる」
女性は、もう一度星痕を見た。
「できないと分かってるんだけど、頼めることがあるの」
ロッテはすぐに頷かなかった。
「まず、聞かせて」
「うちの畑へ行く水路が、あの星痕の下を通ってた。いまは遠回りの仮水路を使ってるけど、毎日、誰かが水門を開け閉めしないといけない。畑を温める魔脈も、そこで切れたまま」
エルナさんは、乾いた指で地図を描くように空をなぞった。
「星痕を直せとは言わない。あれの外を、新しく水が通れるようにしてほしい」
「見てみます」
ロッテは答えた。
「材料と、人手があれば」
エルナさんの表情が少し明るくなる。
「人手なら、娘がいちばん先に来るよ」
その言葉どおり、畑の向こうから、小さな女の子が走ってきた。
短い銀茶の髪を二つに結び、袖口まで泥をつけている。胸には、青い野花を一輪だけ刺していた。
「お母さん、修繕士さん来たの?」
「来たわ。ティナ、走らない」
ティナと呼ばれた子は、私たちの前で止まった。
「星痕、直せる?」
ロッテは一度、私を見た。
「水路を直しに来たんだ」
「星痕は?」
「それは、まだ見ないと分からない」
ロッテの答えは優しかった。
けれど、星痕の中を流れる魔力がないことを、わたしは知っている。
何があっても、あれは戻らない。
ティナは星痕の白い土を見た。
「ここに、花を咲かせたいの」
「花?」
「戦争が終わったから。皆が、咲くって言ってた」
エルナさんの顔が、少し曇った。
「ティナ」
「だって、あそこだけ咲かない」
ティナは、胸の青い花を指で押さえた。
「私が毎日、水をあげたら咲くかもしれないよ」
わたしは、星痕の端へ目を向けた。
外側の土には、小さな草が生えている。内側へ一歩入ったところで、その緑はきっぱりと途切れていた。
「ティナ」
声をかけると、彼女は私を見た。
「花を咲かせたい気持ちは、よく分かるわ」
言葉が少し固すぎた気がして、わたしは言い直した。
「でも、あの中には、今は種を植えない方がいいと思う」
「どうして?」
答えを選ぶあいだ、喉が痛んだ。
「種が悪いわけじゃないの。あの土が、今は種を受け取れないだけよ」
ティナは、すぐには泣かなかった。
けれど、刺していた青い花を握りしめ、小さく頷いた。
水路は、町の北にある小さな貯水池から畑へ伸びていた。
かつては星痕の真ん中を横切っていたらしい。いまはその手前で途切れ、仮設の木樋が大きく迂回している。水が畑へ届くまでに時間がかかり、太陽が沈むころには、魔脈へ回す分がほとんど残らない。
ロッテは、地面へ糸を伸ばした。
「星痕の中は、やっぱり何もつながらない」
黄緑の糸が、白い土の手前でふっと消える。
「私の糸も、中では結べない」
「無理なの?」
ティナが訊いた。
ロッテは、しゃがんで目線を合わせた。
「中を直すのは、無理」
はっきり言う声だった。
「でも、水を畑へ届ける道は、別のところに作れるよ」
エルナさんが、星痕の東側を指した。
「そこは少し低いけど、土が固い。水を回すなら、あの端を通るしかない」
「畑の一部を、道にすることになります」
ロッテが言う。
「麦を、今年は植えられなくなる」
エルナさんは迷った。
水路を作れば、残りの畑は助かる。けれど、祖父の代から育ててきた一角を掘り返すことになる。
ティナが、母の服の裾を掴んだ。
「お花の場所にしてもいい?」
「ここを?」
「星痕の中じゃなくて、そと。水路の横なら、お水が来るでしょう」
エルナさんは、娘と、まだ青い麦の畑を見た。
「麦より、花がいいの?」
「皆が、星痕のところまで来たとき、白い土だけ見ないでいいように」
その言葉に、胸が詰まった。
星痕を消すことはできない。
でも、その周りに何を作るかは、まだ選べる。
エルナさんは、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、今年はここを花畑にする」
「本当?」
「本当。ただし、水路作りは手伝うこと」
「手伝う!」
ティナは両手を上げた。
ロッテが笑う。
「材料が決まったね」
けれど、エルナさんはすぐには畑の端から動かなかった。
まだ若い麦の穂を、指先でそっと撫でる。
「ここはね、私が初めて一人で種を撒いた畑なの」
「そうなの?」
「張り切って撒きすぎて、秋には麦がみんな倒れた。母に叱られて、しばらく畑へ来たくなかったわ」
話しながら、エルナさんは少し笑った。
「でも次の年には、土を休ませて、畝の幅を変えて、また撒いた。畑は毎年同じじゃないの。だから、ここを水路と花のために変えることも、たぶん間違いじゃない」
ティナが、母の手へ自分の小さな手を重ねた。
「お母さんも、青い花を植えてね」
「もちろん。最初の一粒は、私が植える」
エルナさんは顔を上げ、ロッテへ言った。
「明日の朝までに、古い石と道具を集める。町の人にも話しておくわ」
「じゃあ、私たちは水の高さを測る」
ロッテが頷く。
わたしも、畑の端に打たれた一本の杭を見た。
星痕を消せなくても、水が通る場所を選ぶことはできる。
町の人たちは、翌朝から集まった。
古い仮水路の板を外し、石を運び、土を掘る。水路は星痕の端を大きく弧を描き、新しい畑の方へ向かう予定だった。
二つ目の曲がり角を掘り始めたところで、鍬の先が硬いものに当たった。
土を払うと、地中から黒い石の柱が現れた。以前の水門を支えていた石らしく、片側には水位を測るための細い刻みが残っている。
「これ、動かせる?」
エルナさんが訊いた。
「壊す必要はないよ」
ロッテは柱の周りへ糸を走らせた。
「二歩ぶんだけ外へずらせば、水路は曲げられる。石に残ってる魔力もまだ安定してるから、花畑の入口に置けば、水位を見られる目印になる」
「でも、こんなに重いもの」
「ロッテの線までなら、動かせます」
わたしが言うと、近くにいた人たちが縄を柱へ巻きつけた。わたしが持ち上げるあいだ、倒れないよう支えるためだという。
ロッテは青い糸で、石の止める場所を地面へ描いた。
「ここで止めて。少しでも越えたら、土手が狭くなる」
「分かったわ」
杖を向けると、土が深いところで低く鳴った。
石柱はゆっくり浮き、皆が張った縄に支えられながら、わずかに横へ動く。ロッテの青い線の手前で、わたしは魔法を止めた。
「そこ!」
柱が地面へ静かに下りる。
ティナが、ほっと息を吐いた。
「お花を見る石になった」
「水も見る石よ」
エルナさんが言う。
「花を踏まないように、水門を見に来るための石」
町の人たちが、柱の周りに手を叩いて土を固め始めた。
わたしは、土を掘る人たちの横で、石を置く場所を確かめた。
エルナさんが持ってきた石は、昔の水路に使われていたものだという。
「これも、星痕の中にあったの?」
わたしが訊くと、彼女は首を振った。
「外側に残ってたの。壊れた水路を撤去するとき、捨てるのは惜しくて」
「使ってもよろしいですか」
「そのために持ってきたんだよ」
ロッテが、石の表面を撫でた。
「古い石と新しい水路、ちゃんとつなげられる」
彼女の糸が、石の欠けた部分を一つずつ継いでいく。
わたしは、星痕の端の地形を見た。
水を回すには、三つの大きな岩を少しだけ動かす必要がある。谷を埋めるほどの仕事ではない。けれど、岩を崩せば新しい水路が星痕へ流れ込み、白い土を削ってしまう。
「ロッテ」
「うん」
「水が星痕へ入らないように、端へ土手を作るわ」
「できる?」
「大きく作れば、安定する」
「じゃあ、土手の終点はあの二本の杭まで。水路側を少し高くして」
ロッテは、地面へ青い印を置いた。
「花畑に水があふれないくらい」
「分かった」
杖をかざす。
土の下で、眠っていた石と砂がゆっくり動いた。
星痕の白い円を傷つけないよう、外縁に沿って低い土手が盛り上がる。水路へ向かう側には、緩やかな傾斜ができた。
土手の上を、ティナが走ろうとした。
「待って」
ロッテがすぐに止める。
「まだ固まってないよ」
「でも、道みたい」
「道じゃない。水が行かないようにする土手」
「じゃあ、花が咲いたら道にしていい?」
ロッテはティナの隣へしゃがんだ。
「花を踏まない道なら、いいかも」
「約束!」
ティナは、今度は走らずに、土手の端を慎重に歩いた。
わたしはその背中を見て、少しだけ笑った。
午後になると、新しい水路へ水が流れ始めた。
石の間を通った水は、星痕を避けて畑へ向かう。ロッテが魔脈の流れを縫い直すと、水路の底に埋めた小さな魔導石が柔らかく灯った。
畑の土から、冷たさが少しずつ抜けていく。
エルナさんは、水路の先へ手を入れた。
「温かい」
「今夜から、根へ熱が戻ります」
ロッテが答える。
「水門は、夕方に閉めてください。花畑へ回す分は、朝だけで十分です」
「分かった」
エルナさんは、何度も頷いた。
ティナは、花の種が入った小さな袋を両手で持っている。
「もう植えていい?」
「まだ土が落ち着いてないから、明日」
ロッテが言う。
「でも、種を置く場所は決めてもいいよ」
ティナは、土手の外側へ小さな棒を立て始めた。
青い花。黄色い花。白い花。
それぞれの種を植える場所を、丁寧に分けていく。
「一番内側には、何を植えるの?」
わたしが訊くと、ティナは少し考えた。
「青い花」
「どうして?」
「空の色だから。白い土の上にも、空はあるでしょう」
わたしは、何も言えなかった。
ただ、星痕の中の白い地面と、その上に広がる青い空を見た。
あの夜、わたしは空から星を落とした。
今は、その空の色の花を、誰かが周りへ植えようとしている。
夕食には、エルナさんが麦のパンと、根菜の煮込みを出してくれた。
ティナは、明日の花畑の図を何枚も描き、ロッテへ見せている。
「この青いのが、内側。こっちは黄色。白いのは一番外」
「いいね。水路の近くに黄色を置くなら、背の低い種類がいいかも」
「どうして?」
「水門を見に行くときに、花が隠れないから」
「じゃあ、そうする!」
ロッテは楽しそうに、図の端へ小さな印を書き足した。
わたしは、少し離れたところで二人を見ていた。
ロッテは、できないことを隠さなかった。
星痕を直せないと、はっきり言った。
それでも、できることを探し、ティナの花畑を一緒に考えている。
「フリーダさん」
エルナさんが、静かに呼んだ。
「今日は、本当にありがとう」
「いえ。水路を作ったのは、皆さんです」
「それでも」
彼女は、星痕の方を見た。
「昔は、あれを見るたびに、全部が終わったと思ってた。でも、終わらなかった。終わらなかったから、次の畑を作らなきゃいけないんだね」
わたしは、杯を持つ手に力が入る。
「……そう、だと思います」
「明日、花が咲くわけじゃない。でも、植えるなら、ここでいい」
エルナさんは、そう言って笑った。
翌朝、水路の脇の土は、夜のうちにゆっくりと落ち着いていた。
町の人たちは畑へ出る前に、花畑の端へ集まっている。ティナは、昨日立てた小さな棒のそばで、種の袋を抱えていた。
「青いのは、ここから」
彼女は星痕の端から少し離れた場所を指す。
「白い土の中じゃなくて、ちゃんと土があるところ」
「うん」
わたしは頷いた。
ティナから小さな木のへらを受け取り、柔らかい土へ浅い穴を作る。魔法は使わなかった。
穴に青い種を一粒置くと、ティナが両手で土を戻した。
「これで咲く?」
「水と日があれば、きっと」
「フリーダさんの魔法じゃ、早く咲かせられない?」
少しだけ困ってから、わたしは正直に答えた。
「わたしの魔法は、こういうことにはあまり上手ではないの」
ティナは驚いた顔をしたあと、へらを握り直した。
「じゃあ、私が毎日見る」
「それが一番よ」
次の穴には、エルナさんが黄色い種を植えた。
その次にはロッテが白い種を植える。ロッテは種の間隔を測ってから置き、ティナに「近すぎると、あとでけんかするからね」と説明した。
「花もけんかするの?」
「根っこがね」
「じゃあ、仲良くできるくらい離す」
ティナは真剣な顔で、最後の青い種を置いた。
やがて町の人たちも、畑へ向かう前に一粒ずつ種を植えていった。
誰が最初に名づけたのか、花畑は《そらぎわ》と呼ばれることになった。星痕の白い土のすぐそばで、空を見上げられる場所だからだという。
わたしは、その名前を心の中で何度か繰り返した。
夜、借りた部屋の窓からは、星痕の縁が見えた。
月の光を受けた白い土は、昼よりもいっそう冷たく見える。
ロッテは、窓辺に置いた花の種の袋を眺めていた。ティナが「フリーダにも」と渡してくれた、余った青い花の種だ。
「ロッテ」
「うん」
「今日、直せないものがあると言ってくれてありがとう」
ロッテは振り返った。
「フリーダ」
「無理に直せると言わなかったでしょう」
「嘘をついて直せることになるなら、そっちの方がひどいよ」
「ええ」
「でも、できないって言うの、苦手なんだ」
ロッテは小さく笑った。
「役に立てないみたいで」
わたしは、窓の外を見た。
「ロッテは、今日、役に立っていたわ」
「水路は直せたからね」
「水路だけではないわ」
ティナの青い花。エルナさんが選んだ新しい畑。そこへ向かう水の道。
それを言葉にするには、まだ少し時間がかかった。
「ロッテが、直せないものの外に、次を作ってくれた」
ロッテは、しばらく黙っていた。
「それ、褒めてる?」
「とても」
彼女は、種の袋を大事そうに握った。
「……そっか」
「ロッテ」
「なに?」
「花が咲くころ、またここへ来てもいいかしら」
ロッテは、驚いた顔をしてから、笑った。
「うん。フリーデと見に来たい」
その名前が、部屋の中だけで静かに響く。
わたしは、窓の外の白い土地を見た。
星痕は消えない。
けれど、その外側には、まだ種を植えられる土がある。




