第二巻 第二章 橋の町・ブリュガル・渡れない橋
ヴァイネラを出て三日後、わたしたちは大きな谷の前で足を止めた。
谷底には、雪解け水を集めた青い川が流れている。両岸の岩場をつなぐはずの石橋は、中央の一部が崩れ、向こう側へ渡る道を失っていた。
橋の手前には荷を積んだ馬車や、畑道具を持った人たちが集まっている。橋のたもとに立てられた板には、赤い文字で《通行止め》と書かれていた。
「ここがブリュガル?」
ロッテが訊く。
橋の向こう側に見える町には、石を削って作られた屋根が並んでいた。谷を渡る風が、吊り下げられた小さな風鈴をいくつも鳴らしている。
「たぶんね」
「橋の町なのに、橋が渡れない」
「困っているでしょうね」
わたしが言うと、ロッテは修繕鞄を軽く叩いた。
「困ってる町と、修繕士がいる。これは、たぶん仕事になるよ」
そのとき、橋の手前から若い女性の声が飛んだ。
「そこの二人! 渡るなら、三日待って!」
短い亜麻色の髪を首の後ろで束ねた女性が、崩れた橋の前に立っている。革の手袋をはめ、腰には巻尺と石工用の小槌を下げていた。
「三日で直るんですか」
ロッテが訊く。
女性は、苦い顔をした。
「直したいけど、材料も人手も足りない。町の中へ戻るには、下流の浅瀬まで半日かかるし」
「修繕魔法使いなら、ここにいるよ」
ロッテは自分を指さす。
女性の目が、大きく開いた。
「本当に?」
「見るだけ見せて。直せるかは、それから」
「見て。お願い」
彼女は勢いよく頭を下げた。
「私はアーデル。橋の管理をしてる」
名乗ったあと、彼女は橋の手前の石畳にある手のひらほどの浅い窪みへ、無意識に手を置いた。毎朝、ここを確かめる癖なのだろう。けれど今日は橋が通れず、彼女はすぐに手を離した。
「リーゼロッテ・ベッカーです。こっちはフリーダ」
「こんにちは」
わたしが頭を下げると、アーデルさんは黒い杖を見て、少しだけ視線を止めた。
けれど、何も訊かなかった。
「とにかく、足元に気をつけて。落ちたら、下の川まで一直線だから」
「分かりました」
ロッテが先に橋へ踏み出す。
崩れた場所まで近づくと、石畳の下に埋め込まれた魔導石が、いくつも白く濁っているのが見えた。
「重さを分散する術式だね」
ロッテはしゃがみ込み、指先から糸を出した。
「橋桁が折れたときに、一緒に流れが切れてる」
「先週の嵐で、上流から木が流れてきたんです」
アーデルさんが言う。
「真ん中の支えにぶつかって、石が三枚落ちた。橋そのものは古いけど、戦争の間もずっと残ってたのに」
ロッテの糸は、崩れた場所の手前で止まった。
「落ちた石を戻すだけじゃ駄目。支えの下の岩も少しずれてる。人の手だけで直すなら、橋を全部組み直すことになる」
アーデルさんの肩が下がる。
「三日じゃ無理だ」
「でも、フリーダがいる」
ロッテが、こちらを振り返った。
「橋の下の岩、支えられる?」
谷を覗き込む。
崩れた橋桁の下には、川へ向かって傾いた大きな石がある。岩を元の位置まで戻せば、土台は使える。けれど、橋全体を持ち上げるのは、落ちた石や残った部分へ余計な力をかけることになる。
「支えの岩だけなら、できます」
「ロッテが、残った橋の荷重を結ぶ。フリーダは、下の岩を動かさずに支えて」
「分かったわ」
ロッテはアーデルさんへ向き直った。
「石工さんと、大きな梁を運べる人を集められる? 魔法だけじゃ、橋は直せない」
アーデルさんは、さっきまでの落ち込みを振り払うように頷いた。
「集める。町の人にも声をかける」
昼までには、橋の手前に大勢の人が集まった。
石工、荷車を止めていた商人、向こう岸から遠回りして来た農家の人たち。皆が木材や金具を運んできた。
アーデルさんは、橋の図面を地面へ広げ、作業の順番を説明している。
「まず、落ちた石を上げる。次に、中央の梁を通す。新しい魔導石は、ロッテさんの指示どおりに置いて」
声ははっきりしていた。けれど、図面を押さえる指だけが少し震えている。
その横に、白い髭の男性が立った。
「アーデル」
「お父さん」
アーデルさんの父親は、崩れた橋を険しい顔で見た。
「この橋は、石を積めば済むようなものじゃない。町の外から来た魔法使いに任せるな」
「ロッテさんは修繕士だよ」
「それでもだ。橋を管理するのは、家の者の仕事だ」
アーデルさんの口が固く結ばれた。
「私が管理してる」
「お前は、来月には王立石工院へ行くんだろう」
父親の声は、怒鳴ってはいない。だからこそ、重く聞こえた。
「橋のことを放り出して、町を出るつもりか」
「放り出すんじゃない。学んで帰るんだよ」
「帰ってくる保証はない」
「それを今、ここで言う?」
周りの人たちが、作業の手を止めた。
アーデルさんは図面を丸め、父親の方を見た。
「お父さんは、私がずっとこの橋の下で図面を書いてれば安心なんでしょう。でも、橋を守るのが一人だけの仕事なら、今みたいに壊れたとき、町じゅうが困る」
父親は返事をしなかった。
アーデルさんは図面を抱え、少し離れた石の上へ行ってしまった。
作業の人たちは、気まずそうに目をそらしている。
ロッテが木材を指さして声を上げるまで、誰もすぐには動けなかった。
わたしは水筒を持ち、アーデルさんのところへ行った。
「お水をどうぞ」
「ありがとうございます」
彼女は受け取ったものの、すぐには飲まなかった。
「石工院へ行きたいの?」
わたしが訊くと、アーデルさんは図面を見下ろした。
「行きたい。橋の石を積むだけじゃなくて、崩れない町を作る勉強がしたいんです」
「では、行くべきではないかしら」
「簡単に言いますね」
「簡単なことではないわ」
わたしは谷の向こう側を見た。
橋が壊れれば、人は足を止める。けれど、橋を渡るために作られたものなら、誰かを同じ場所へ留める理由にはならない。
「戻るかどうかは、アーデルさんが決めることです。でも、ここに残ることだけが、この橋を大切にする方法ではないと思います」
アーデルさんは、少しだけ笑った。
「フリーダさんも、どこかへ行く人ですか」
「ええ。ロッテと、町から町へ歩いています」
「戻る場所は?」
問いに、答えが遅れた。
「今は、まだ探している途中よ」
アーデルさんは水筒を一口飲み、図面を抱え直した。
「じゃあ、私も途中でいいのか」
「途中でよいと思うわ」
そのとき、少し離れた場所で、アーデルさんの父親が木材を抱え上げた。
こちらの会話を聞いていたかは分からない。
けれど、アーデルさんはもう一度だけ父親を見てから、図面を開いた。
ロッテは、作業を再開させるように、わざと明るく手を叩いた。
「はい、梁を運ぶ人はこっち! フリーダは……」
彼女が、谷の脇に積まれた長い木材を見た。
「梁は一本ずつ運んで」
「ええ。一人で二本は持たないわ」
「そこじゃないんだよ!」
ロッテが慌てて言う。
「橋へ近づくときは、下にいる人を見てから。ぶつけないで」
「もちろんよ」
わたしは太い梁を一本抱えた。肩へ乗せると、視界の端から端まで木材が伸びる。
近くにいた石工の青年が、目を丸くした。
「それ、一人で運ぶんですか」
「運べます」
「魔法で?」
「手で」
「手で……」
ロッテが後ろから声をかける。
「褒めてるわけじゃないからね。梁は静かに置く。静かに!」
「ええ」
わたしは歩幅を小さくし、橋の手前へ梁を運んだ。
たしかに、静かに置けた。
ロッテが親指を立てる。
「今のは百点」
「まあ」
胸の中が、少しだけ温かくなった。
橋の下では、ロッテの糸が光っていた。
彼女は崩れずに残った両岸の石へ、何本もの糸を結んでいる。糸は谷の上を渡り、まだ空いている中央の場所で、見えない橋桁の形を作っていた。
「石を戻すあいだ、下で石を受ける人が必要です」
アーデルさんが言った。
崩れた支えのすぐ下には、石工たちが入るための足場が組まれている。岩を動かすとき、上から小さな石が落ちる可能性はある。
ロッテが谷の両端を見た。
「フリーダ。足場ごと守れる?」
「大きく張れば、問題ないわ」
「じゃあ、あの岩場からこっちの石壁まで。下だけを覆うように」
ロッテの糸が、谷の二か所に結ばれる。
「そこを足元にして。結界を小さくして、人を押し出さないでね」
「ええ」
わたしは杖を掲げた。
両岸の岩場から白い光が立ち上がり、谷の足場を包むように大きく湾曲する。透明な《天蓋結界》が、橋の下にある作業場を覆った。
結界は空を塞ぐためのものではない。落ちるものを受け止め、そこにいる人を守るための屋根だ。
「これなら、下に入れる」
石工たちが足場へ下りていく。
ロッテは結界の端を見て、満足そうに頷いた。
「ちょうどいい」
「本当?」
「うん。橋が押されてない」
「よかったわ」
「フリーダ、今!」
ロッテの声が飛ぶ。
わたしは橋の端へ立ち、杖を崩れた支えの岩へ向けた。
地脈操作は、土や石を大きく動かすための魔法だ。
少しずれた岩を元へ戻すだけなら、わたし一人でもできる。けれど、今は上に橋の残りがあり、その上には人がいる。力の向きが少し違えば、橋桁を折る。
ロッテの糸が、支えてよい場所と、止める高さを示していた。
「岩を、ロッテの線まで」
「うん!」
杖の先から、淡い土色の光が地面へ沈む。
谷底の岩が、ゆっくりと持ち上がった。
川の流れが一瞬だけ左右へ分かれる。岩は崩れた位置から外れ、橋の下にある元の窪みへ戻っていく。ロッテの糸が張ったところで、ぴたりと止まった。
石工たちが、すぐに新しい石を隙間へ入れる。
「梁、入れるよ!」
アーデルさんの声がした。
いつの間にか、彼女は図面を広げ直していた。
新しい梁が、十人がかりで中央へ運ばれる。わたしは橋の端から、その片方を支えた。ロッテの糸が梁の接ぎ目へ入り、古い石と新しい木材、魔導石の流れをひとつずつ結んでいく。
作業は、夕方まで続いた。
誰かが釘を打ち、誰かが石を渡し、誰かが水を汲んだ。橋を直しているのは、魔法使い二人だけではない。
アーデルさんは一人ずつへ指示を出し、ときどき自分で梁の上に膝をついた。
父親も、いつの間にか石工たちの輪へ加わっていた。
最後の魔導石をはめ込むころには、空が薄紫色になっていた。
ロッテは橋の中央で、糸の終わりを確かめている。
「あと少し。魔脈を通してみるね」
彼女が手を開くと、橋の石畳の下に埋め込まれた魔導石が、両岸から順番に灯った。
白い光は中央へ走り、新しい梁の下へ入る。
けれど、中央の手前で、一つだけ灯りが止まった。
「どうして」
アーデルさんが息を呑む。
ロッテは膝をつき、止まった石へ糸を伸ばした。
「石は壊れてない。魔脈の問題でもない」
「なら、何?」
「この橋、真ん中の荷重を測るために、橋守が毎朝ここへ印をつける仕組みだったんだね」
ロッテは石畳に刻まれた、手のひらほどの浅い窪みを指した。
「印がないと、術式が橋を完全な形だと認めない」
アーデルさんは、困ったように笑った。
「祖父が作った仕組みです。朝、橋守が石を押して、亀裂がないか確かめる。橋が町のものだって、魔法に覚えさせるために」
「じゃあ、アーデルさんがやれば」
誰かが言った。
アーデルさんは、すぐには動かなかった。
父親が、橋の端からこちらを見ている。
「私が石工院へ行ったら、誰が印をつけるの」
小さな声だった。
「この橋は、私が見てないと駄目なんだ」
ロッテは、何も言わなかった。
魔法の仕組みを直すことはできる。けれど、毎朝、誰が橋の上に立つのかまでは決められない。
アーデルさんの父親が、ゆっくり橋の中央へ歩いてきた。
「私がやる」
「お父さん」
「いや」
父親は首を振る。
「私だけではない。橋を渡る者が、皆でやる」
周りの人たちへ向き直る。
「石工の家だけが橋を守るのは、もう終わりにしよう。商人も、農家も、子どもを学校へ通す親も、この橋を使う」
石工の青年が、手を上げた。
「俺、月の初めなら見られます」
「うちは市場へ行く前に通る」
商人の女性が言う。
「なら、朝の番を作ればいい」
声が、次々に上がった。
アーデルさんは、図面を胸に抱えたまま、皆を見ていた。
父親は、彼女へ小さな帳面を差し出す。
表紙には《ブリュガル橋・朝の記録》と書かれている。
「お前が作った点検帳だろう」
「うん」
「使い方を、皆に教えてくれ」
アーデルさんの目に、涙が浮かんだ。
「石工院へ、行ってもいいの」
「橋を捨てるのではなく、橋をもっと知るために行くんだろう」
父親は、少しだけ笑った。
「帰ってきたら、私にも新しいことを教えろ」
アーデルさんは泣きながら笑った。
「うん」
彼女が石畳の中央の窪みへ手を置く。
次に、父親、石工、商人、農家の人たちが、順番に手を重ねた。
最後にアーデルさんが、点検帳の最初の頁へ日付を書き入れる。
橋の魔導石が、中央まで明るく灯った。
白い光が石畳の下を渡り、向こう岸へ届く。
誰かが、恐る恐る一歩を踏み出した。
橋は揺れなかった。
次に荷を積んだ馬車が、ゆっくりと渡る。車輪が中央へ差しかかっても、石畳は沈まない。
橋の手前にいた人たちから、歓声が上がった。
アーデルさんは、点検帳を抱えたまま、父親の肩へ額をつけた。
「明日から、橋を渡って石工院へ行くよ」
「帰る日を、帳面に書いておけ」
「毎日、手紙を書く」
「毎日は多い」
「じゃあ、三日に一度」
「それなら読める」
父親は、照れたように彼女の背を叩いた。
日が落ちたあと、ロッテは修繕鞄の中を整えていた。
橋の脇には、通れるようになったことを聞いた旅人たちが、次々に集まっている。わたしたちも、明日の朝には橋を渡って次の町へ行くつもりだった。
「依頼、終わったね」
ロッテが言う。
「ええ」
「アーデルさんも、橋を出られる」
「橋を出るのではなく、石工院へ行くのよ」
「そうだった」
ロッテは笑った。
その笑い方のあとに、ほんの少しだけ寂しさが残った。
直したものは、いつか自分たちなしで動く。それは良いことのはずなのに、ロッテはときどき、そこから静かにいなくならなければならない人のような顔をする。
「ロッテ」
「なに?」
「明日、橋を渡る前に、もう一度ここへ来ない?」
「点検の手伝い?」
「いいえ」
わたしは、夜の谷と、灯った橋を見た。
「ただ、朝の橋を見たいわ。皆が渡るところを」
ロッテは、少し驚いた顔をした。
「仕事じゃないのに?」
「仕事ではないわ」
「じゃあ、どうして」
その答えを探すあいだ、風鈴が谷の上で鳴った。
「ロッテと見たいから」
言ってしまってから、少し早すぎたと思った。
けれど、ロッテは笑った。
今度は、寂しそうではない笑い方だった。
「うん。見よう」
翌朝、橋の中央には小さな机が置かれていた。
アーデルさんが点検帳を開き、最初の朝の番を待っている。父親だけでなく、昨日の石工や商人、畑へ行く農家の人まで、交代で集まっていた。
「今日は、まず私が説明します」
アーデルさんは帳面を持ち上げた。
「石畳を押して、浮いている場所がないか確かめる。魔導石の色が白く濁っていたら、記録する。分からなければ、一人で決めずに、次の番の人へ伝える」
ロッテが、小さく息を吐いた。
「いいやり方だね」
「うん」
橋は誰か一人の手から離れ、皆が使うものになっていく。
最初に渡ったのは、薬籠を背負った老女だった。次に学校へ向かう子どもたちが、親に手を引かれて歩く。荷馬車の車輪が石を鳴らし、向こう岸からも市場へ向かう人が渡ってくる。
足音が増えるほど、橋は昨日までとは違うものに見えた。
壊れていた時間を忘れたのではない。ただ、渡る人がいることで、また橋になっていく。
アーデルさんは帳面の最初の行を指でなぞり、こちらへ手を振った。
「フリーダさん、ロッテさん。ありがとうございました!」
「どういたしまして」
わたしは頭を下げる。
ロッテも手を振り返した。
それから、私の隣でぽつりと言った。
「直したあとも、こうして見られるんだね」
「ええ」
「終わったからいなくならなきゃ、ってわけじゃないんだ」
私は彼女を見た。
「ロッテは、そう思っていたの?」
「少しだけ」
「では、少しだけ違ったわね」
ロッテは笑った。
「うん。違った」
やがて、彼女はいつものように修繕鞄を背負った。
今度は急いで歩き出さない。
橋を渡る人たちの足音を、二人で十分に聞いてから、わたしたちは次の道へ向かった。




