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ふ か  作者: 柿原 凛


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8/9

7.付加

 鮫島愛華は、一度も会ったことのない子だった。


 それなのにこの一年、私は誰よりもあの子のことを考えていた。会ったこともない、十七歳の女の子のことを。


 正確に言えば、違う。私が考えていたのは、あの子のことじゃない。あの子の死が、雄大くんの中に残していったもののことだ。


 七月。事件から一年が経った。


 一周忌の法要が営まれたと聞いた。身内だけの、小さな法要だったらしい。私は行っていない。行く資格がない。会ったこともないのだから。


 私――野々村優子(ののむらゆうこ)は、隣町の新聞社で働いている。入社二年目。担当は地域面。夏祭りの日程。道の駅の新メニュー。小学校のプール開き。そういう記事を書いている。東京の大学を出て、わざわざ地元に戻ってきた。この町の、誰も言葉にしないことを、ちゃんと言葉にして残したかったから。入社した頃は、本気でそう思っていた。今も思っている。思っているはずだ。


 デスクに企画書を出した。一年前の水死事故の検証記事を書かせてください、と。


 デスクは眉をひそめた。遺族が取材を嫌がっている案件だと知っていたからだ。私が去年、玄関先で追い返されたことも。


「なんでそんなに書きたいんだ」


「真相を明らかにしたいんです。噂だけが独り歩きしています。サメに食われただの、自分から海に入っただの。一周忌の節目に、ちゃんと検証して、区切りをつけるべきだと思うんです」


 半分は本当だった。


 もう半分は、言わなかった。


 雄大くんのためだ。


 雄大くんは、あの日から変わってしまった。よく笑う人ではなかったけど、もっと笑わなくなった。電話の声が一段低くなった。夜、隣を歩いていると、時々、海の方を見て黙る。何を見ているの、と聞くと、別に、と言う。


 真相がはっきりすれば、雄大くんは楽になる。事故なら事故と、活字になって残れば、この町に漂っている噂ごと、沈められる。


 私はそう信じていた。信じようとしていた。


 雄大くんは今年の春に高校を出て、そのまま水産加工場で働いている。大学は受けなかった。理由を聞いたら、「向いてない」とだけ言った。受験どころじゃなかった、とは言わなかった。私も聞かなかった。


 付き合いは続いている。でも、この一年、私たちはあの子の話をしていない。地雷の場所だけ分かっていて、そこを避けて歩いてきた。狭い町で、それはとても難しいことだった。


 企画が通った夜、工場の帰りの雄大くんを、堤防で待った。


「記事、書くことにした。あの子のこと」


 雄大くんの足が止まった。


「……なんで」

「噂ばっかりだから。ちゃんと調べて、ちゃんと書きたいの」

「誰のために」


 言葉に詰まった。あなたのため、とは言えなかった。言ったら、たぶん何かが終わる。


 雄大くんは長いこと黙っていた。海の音だけがしていた。それから、堤防の縁に座り込んで、言った。


「……俺、あの日、電話受けたんだ」

「え?」

「鮫島から。シフト代わってくれって。断った。理由も聞かないで切った。お前とのデートがあったから」


 心臓が、ゆっくり冷えていった。


 あの日。映画を見て、ご飯を食べて、川沿いを歩いた日。夕陽がきれいだった日。あの待ち合わせの何時間か前に、あの子は雄大くんに電話をかけていた。


「十秒だった」


 雄大くんは自分の手を見ていた。


「十秒もなかったかもしれない。無理、じゃ、って切った。あいつ、何か言いかけてた。でも聞かなかった。興味なかったから」


「……そう」


「俺のせいじゃない。分かってる。電話を切っただけだ。誰だって切る。でも」


 でも、の続きは出てこなかった。


 私はこの一年、雄大くんの「言えないこと」の輪郭だけを見て生きてきた。中身を初めて見た。こんなに小さくて、こんなに重いものだった。


「書くなら」


 雄大くんが立ち上がった。


「ちゃんと調べてくれ。適当な尾ひれだけは、つけないでくれ」



 取材を始めた。

 まず警察。担当した刑事は異動していて、応対したのは広報の係だった。自殺・事故の両面のまま、捜査は実質的に動いていません。新しい情報が出れば別ですが。網の持ち主は特定に至っていません。船舶との接触は否定されています。以上です、と淡々と対応された。一年前の水死は、警察にとってもう「案件」ですらなかった。


 次に、町。

 町は、よく喋った。


「サメに食われたって話だろ。鮫島がサメに、なんて出来すぎだよなあ」

「あの子、暗かったから。自分で入ったんじゃないかって、うちのは言ってる」

「誰かに突き落とされたって聞いたけどね。ほら、警察が何度も来てたし」

「網に絡まったんだろ。あの辺は昔の網が沈んでるから。かわいそうにな」


 みんな、確信を持って喋った。みんな、違うことを喋った。


 夜、アパートに帰って、ノートに整理した。


 サメ説。足の損傷は死後のものと見られる。サメではない。でも一番広まっている。名前のせいだ。物語として一番できがいいから。


 自殺説。遺書なし。動機は不明。根拠は、岩の上に揃えて置かれていた靴と、『暗い子だった』という印象。


 他殺説。争った形跡なし。動機のある人間もいない。根拠は「あの子が自分から海に入るはずない」という感情だけ。


 事故説。網。誰の網かは不明。なぜ海に入ったのかも不明。


 ゆえに、決定打、なし。

 ノートの上で、十七歳の女の子が、四つの物語に分かれていた。



 藤野真帆には、学校の帰り道で声をかけた。


 制服の高校三年生。受験生。彼女は私の名刺を見て、少しの間黙って、それからきっぱり言った。


「取材はお断りします」


「一つだけ。愛華さんは、どんな子でしたか」


 真帆さんは足を止めた。夕方の光の中で、しばらく海の方を見ていた。


「……私は、愛華を恨んでました。一方的に。勝手に恨んで、勝手に苦しんでました。でも愛華は、私のことなんか見てもいなかった。それだけです」


「それは――」


「それだけです。書くなら、恨んでた馬鹿な同級生がいた、って書いてください。名前はやめてください」


 頭を下げて、去っていった。


 強い子だと思った。自分の醜さを、加工しないでそのまま言葉にできる子。私は自分の企画書を思い出した。真相を明らかにしたいんです。あの文章のどこにも、私の醜さは書いていなかった。


 三島蒼は、向こうから会ってくれた。


 図書室帰りだという彼女は、鞄から迷わずノートを出した。付箋だらけの、使い込まれたノート。一年経った今も、持ち歩いているのだ。


「記事を書くなら、犯人を暴いてください」


「犯人がいると思ってるんですね」


「愛華は自分から海に入ったりしません」


 即答だった。


「どうして、そこまで」


「親友だから」


 また即答。それから、少しだけ間があって、小さい声が続いた。


「……親友だったって、思いたいから」


 蒼さんはノートを開いて、私に説明した。時系列。関係者。矛盾点。高校生の字で書かれた、一年分の執念。読みながら、気づいてしまった。このノートには容疑者と証言は書いてあるのに、愛華さん自身のことがほとんど書いていない。好きだったもの。よく行った場所。口癖。そういう欄が、ない。


 帰り際、蒼さんは言った。


「事故って、書かないでください」

「どうして?」

「事故なら、誰のせいでもなくなるから。……それって、愛華が一人ぼっちで死んだってことになるから」


 私は返事ができなかった。


 鮫島家には、三度目の訪問になった。


 インターホンを押すと、去年と同じ声がした。


「帰ってください」


「野々村です。一周忌の節目に、きちんと検証した記事を――」


「娘を記事にしないでください。お願いですから」


 去年と同じ言葉。声は去年より掠れていた。


 頭を下げて、門を出かけたとき、玄関の戸が開いた。


 出てきたのは、日に焼けた大柄な男の人だった。お父さんだ。写真で見たより、ずっと痩せていた。


「……何が知りたい」


「娘さんが、どんな子だったかを」


 長い沈黙があった。潮の匂いのする風が、庭の物干しを鳴らした。


「分からん」


 お父さんは、私ではなく、私の後ろの海の方を見ていた。


「俺は父親だったのに、何も知らん。愛華は俺に何も残さなかった。……それが答えだ」


「あの」


「記事には、何と書くつもりだ」


「まだ、決めていません」


「事故か自殺か、あんたが決めるのか」


 息が止まった。


「うちの娘がどう死んだか、会ったこともないあんたが、決めて、刷って、配るのか」


 責める声ではなかった。ただ確かめる声だった。それが余計に、深く刺さった。


「……帰ってくれ。もう、来ないでくれ」


 戸が閉まった。

 私は門の前に立ったまま、しばらく動けなかった。


 工場で唯一、取材に応じてくれたのは工場長の田中さんだった。六十過ぎの、元漁師。


「真面目な子だったよ。遅刻もしない、文句も言わない。急に休んだのは、あの日だけだ」


 それから田中さんは、少し迷ってから言った。


「鳥の話をしたことがある」


「鳥?」


「事件のちょっと前だ。休憩中に、最近弱った海鳥が浜に打ち上げられてるって話をしたら、あの子が聞いてきたんだ。『何の鳥ですか』って。あんな風に自分から口をきいたの、初めてだったから、覚えてる。誰も名前なんか知らなくてな。そしたら何日かして、あの子の方から言ってきた。『この前の鳥、ウミスズメっていうらしいです。翼で水の中を飛ぶんだそうです』って」


「水の中を、飛ぶ」


「ああ。ちょっと嬉しそうだった。あの子が自分から話しかけてきたのは、後にも先にも、あれっきりだ」


 ノートに書いた。ウミスズメ。翼で水中を飛ぶ。嬉しそうだった。


 一年取材して、初めてだった。あの子が何を好きだったのか、その欠片に触れたのは。恨まれ方でも、悔やまれ方でもなく、あの子自身の「好き」に。


 でも、それが死とどう関係するのか、分からなかった。関係ないのかもしれない。記事には、たぶん使えない。



 現場の海岸に行った。


 岩場の献花は、もうほとんどなかった。潮風に晒された花立てが一つ、倒れて転がっているだけ。一年というのは、そういう長さだ。


 波打ち際に、何かがいた。


 小さな鳥。白と黒の羽。片方の翼を引きずって、砂の上でよろけている。


 ウミスズメ、だろうか。田中さんの言っていた。あの子が名前を調べた。


 私はしゃがんで、写真を撮った。何枚か。記事の挿し絵に使えるかもしれない。事故現場付近の海鳥。キャプションまで、頭の中で組んでいた。


 鳥は逃げなかった。逃げる力が、もうないのかもしれなかった。


 濡れた黒い目が、レンズ越しにこっちを見ていた。


 少しの間、見ていた。


 それから私は立ち上がって、砂を払って、その場を離れた。


 私は取材に来たんだ。鳥を助けに来たんじゃない。だから、一度も振り返らなかった。



 その夜、何も書けなかった。


 アパートの机で、真っ白な画面を何時間も見ていた。


 自殺と書けば、あの子は「自殺した子」になる。居場所のなかった、かわいそうな子に。


 事故と書けば、「不運な子」になる。運の悪い、それだけの子に。


 他殺と書けば、「被害者」になる。そして、この狭い町の誰かが、犯人にされる。


 どれにも証拠がない。どれを選んでも、決めるのは私だ。会ったこともない私が、あの子の死に意味を選んで、貼りつけて、刷って、配る。


 事故か自殺か、あんたが決めるのか。


 お父さんの声が、ずっと耳に残っていた。


 死んだ人間は、反論できない。書かれたものが、そのまま、その子になる。


 私が書こうとしているのは、検証記事なんかじゃない。尾ひれだ。この町に漂っているどの噂よりも大きくて、活字になって、消えない尾ひれ。


 分かっていた。分かっていて、それでも、手が止まらなかった。


 意味のない死を、私は認められない。誰のせいでもなく、何のためでもなく、十七歳の女の子がある日ふっと海に沈む。そんなことがあっていいなんて、認めたくない。だから意味を付加する。それが暴力だと分かっていても。


 雄大くんの顔が浮かんだ。楽にしてあげたい。その気持ちも嘘じゃない。でも、この夜の私を動かしていたのが本当にそれだけだったのか、今はもう、自信がない。


 朝までかかって、書き上げた。


『深海の少女――鮫島愛華さん、十七歳の死をめぐって』


 全ての説を並べた。どれも断定しなかった。サメ説の出どころを検証し、他殺説に根拠がないことを示し、網の事実関係を整理した。自殺説については、根拠が靴のほかにないことを書いた。揃えられた靴が何を意味するのかは、書かなかった。決められなかった。


 結論の代わりに、最後の一行にこう書いた。


「真相は、彼女だけが知っている」


 弱った海鳥の写真は、使わなかった。使えなかった。理由は自分でも分からなかった。



 ゲラが戻ってきたのは、締め切りの前日だった。


 デスクの赤字は、少なかった。本文は、ほとんど無傷だった。形容詞がひとつ削られて、読点がふたつ動いていた。削られてみると、削られた方が正しかった。デスクは、そういう赤を入れる人だ。


 見出しだけが、まるごと変わっていた。

 私が添えた案は、こうだった。


『十七歳の水死、確かめられたことと、残る空白』


 三十本書いて、選んだ一本だった。何も足さない見出し。約束しない見出し。記事が空白で終わることを、先に誠実に告げる見出し。


 赤ペンの太い字が、その上を斜めに横切って、余白にこう書いてあった。


『「サメに食われた」のか――十七歳少女、水死の真相』


 デスクの席まで、ゲラを持って行った。


「見出しなんですが」


「ん。弱かったからな、お前の案は」


「サメは、入れたくないんです。この記事は、その噂を」


「知ってる。だからカギ括弧に入れた。噂として引いてるだけだ。嘘は一文字も書いてない」


 カギ括弧。たった二つの記号が、免罪符の形をしていた。


「それでも、読んだ人は」


「野々村」


 デスクは老眼鏡を外した。悪い人ではない。この人の赤字に、私は何度も助けられてきた。


「この町の外で、あの件を覚えてる人間は、もう『サメの子』としてしか覚えてない。その言葉が入ってなきゃ、誰も気づかない。気づかれない記事は、載ってないのと同じだ。読まれない訂正は、訂正じゃないんだよ」


「でも……」


「見出しで捕まえて、本文で解毒する。俺たちの仕事は、昔からそうだ」


 正しかった。少なくとも、正しさの形をしていた。私の案のままなら、この記事は誰にも読まれずに沈む。デスクの案なら、読まれる。読まれた上で、誤解される。どちらがましかを比べる秤を、私は持っていなかった。


「……お願いします」


 私は、そう言った。黙って頷いたのではない。口に出して、お願いします、と言った。この見出しの、共犯者に、自分からなった。


 席に戻って、ゲラを見た。


 見出しは、記者のものではない。入社したときに教わった。記事は書けても、記事の顔は選べない。知っていて、それでも案を添えた。願書みたいなものだった。落ちた。


 適当な尾ひれだけは、つけないでくれ。


 工場長の声が、ゲラの上で聞こえた気がした。ごめんなさい。本文には、つけませんでした。でも記事の頭に、私のじゃない尾ひれが、一番目立つ場所に、ついた。


 私の尾ひれに、先に、尾ひれがついた。



 記事は地域面に載った。


 掲載日の朝、私は港町にいた。


 支局に行く前に、車で回り道をした。自分の記事が配られるところを、配られる側の景色で見たかった。良い趣味じゃないことは、分かっていた。


 六時前。新聞店のバイクが、坂の町を上がっていく。ブレーキの音。郵便受けの蓋の音。一軒ずつ、今朝の分の活字が刺さっていく。あの中に、あの子の名前がある。


 コンビニの前に、車を停めた。


 ラックの朝刊。地域面は、外からは見えない。それでも、買っていく人の何人かは、今日、あのページを開く。


 港の食堂が、モーニングの暖簾を出していた。窓越しに、漁協の男たちが新聞を広げているのが見えた。年配の男が、紙面を叩いて、何か言った。声は、ガラス越しでも聞こえた。


「おい、載ってるぞ。——サメに食われた、だってよ」


 カギ括弧は、聞こえなかった。


 活字の上では、噂には引用符がついていた。二つの小さな鉤で、これは噂です、と断ってあった。声に出された瞬間、鉤は消えた。引用符は、音にならない。デスクの免罪符は、印刷所から食堂までの数キロで、効力を失っていた。


 男たちは、しばらく紙面の上で何か言い合って、それから味噌汁に戻った。地域面が畳まれて、テーブルの端に置かれた。ここまで、たぶん三分。一年の取材が、朝飯の三分で消費された。


 みんな、見出しから読む。多くの人は、見出しだけを読む。

 そして見出しは、私の記事の中で唯一、私が書いていない一行だった。



 夕方、支局に戻った。

 そして、噂がまた動き出した。


「やっぱり自殺らしいよ。記事に、家に居場所がなかったようなこと書いてあった」


 書いていない。そんなことは一行も書いていない。


「いや、事故だって。網が原因って新聞に出てた」


 断定していない。可能性を並べただけだ。


 私が並べた説は、それぞれ都合よく切り取られて、新しい尾ひれになって、また泳ぎ始めた。区切りなんて、つかなかった。私は噂を沈めるつもりで、噂に餌をやっただけだった。


 美咲からは、電話で叱られた。


「だからやめなって言ったのに。鮫島さんのお母さん、記事が出てから外に出られなくなってるらしいよ。あんたのせいとは言わないけど……」


 言ってるのと同じ声だった。

 夜、雄大くんに会った。いつもの堤防。


「記事になったな」


 雄大くんは黙って海を見ていた。怒られると思った。怒られなかった。


「ごめん」


「いい。……本当のことだから」


 それから、長い沈黙のあとで、雄大くんが言った。


「なあ、優子」


「ん」


「あの記事、全部の説が書いてあったけど……どれも、鮫島じゃなかった」


「……どういう意味?」


「分かんね。ただ、どれを読んでも、あいつの顔が浮かばなかった。俺の知ってる、俯いて黙々と魚さばいてた、あいつが。どこにもいなかった」


 それが、一番こたえた。


 私は一年考えて、ひと月取材して、朝まで書いて、活字にして――あの子を、どこにも書けていなかった。書けたのは、あの子の周りに浮かんでいる物語だけだった。


「楽になった?」


 とは、聞けなかった。聞かなくても分かった。雄大くんの目は、一年前と同じ場所を見ていた。



 美咲から電話がきたのは、記事が出て三日後だった。


「読んだよー。すごいね、あんな長いの書いたんだ」


「……ありがと」


「でもさ」


 美咲は、少し笑った。悪気のない笑い方だった。


「優子、なんであの子のことにそんな一生懸命なの?」


 答えようとして、言葉が出なかった。用意していた答えはあった。取材者の責任とか、書かれなかった声とか。この一年、何度も自分に言ってきた言葉だ。でも、美咲には嘘みたいに響く気がした。


「……会ったことないから、かな」


「え、なにそれ」


「会ったことないから、勝手なこと考えちゃうんだよね」


「あー、なるほど」


 美咲は、少し黙った。それから、いつもの声で言った。


「私さ、こういうこと言うと冷たいって思われるかもしれないんだけど」


「うん」


「みんな、忘れるよ」


 窓の外で、風が鳴っていた。


「うちの高校、私が二年のときに事故で亡くなった子いたんだよね。バイクの。全校集会でお祈りして、みんな泣いて。でも私、その子の顔、もう思い出せない。名前も、下の名前は出てこない」


「……うん」


「ひどいと思う? でもさ、私だけじゃないと思うよ。同じ学年の子、みんなそうだと思う。それって、悪いことなのかな」


 答えられなかった。


「忘れないでいる方が、なんか、偉いみたいになってるじゃん。でも私、そうは思わないな。忘れるようにできてるんだよ、人って。じゃないと、生きてけないもん」


 美咲は正しい、と思った。


 反論できる言葉が、一つも浮かばなかった。この一年、私がやってきたことは、忘れないでいることじゃない。忘れないでいる、という形の何かを、自分のために作ってきたことだ。会ったこともない女の子の死に、意味を探して、活字にして、そうすることで自分が何かをしている気になっていた。


「優子は優しいから、そういうの引きずるんだよね」


 優しい。

 たぶん、いちばん遠い言葉だった。


「あのさ、美咲」


「ん?」


「その、亡くなった子のこと、思い出せないって言ったじゃん」


「うん」


「思い出せないこと、たまに考える?」


 電話の向こうで、少し間があった。


「……たまに、考える」


 美咲の声が、少しだけ低くなった。


「思い出せないんだけどさ、雨の日にバイク見ると、なんか、思い出そうとするんだよね。何を思い出そうとしてるのかも分かんないのに」


 それだ、と思った。


 忘れる。でも、何かの形で残る。名前も顔も消えたのに、雨とバイクだけが、その子の場所に立っている。誰も語らなくなったあとに残るものは、たぶんそういうものだ。物語じゃない。意味でもない。ただの、条件反射みたいな痛み。


「なんで?」

「ううん。なんでもない」


 電話を切ってから、しばらく窓の外を見ていた。


 美咲は忘れる。町は忘れる。私の記事も、来週には忘れられる。それでいい、と思う自分と、それでいいのか、と思う自分がいて、どちらが正しいのかは、たぶん一生わからない。



 数日で、記事は古くなった。


 夏祭りの特集の下に沈んで、回覧板と一緒に資源ごみに出されて、消えていった。


 噂だけが、まだ浮かんでいる。


 あの子は何も語らない。語らないから、私たちが語る。語るたびに、あの子は少しずつ、私たちの物語になっていく。私はそれを止めるつもりで、一番大きな物語を書き足した。


 取材ノートの最後のページを開いた。何か書こうとして、ペンが止まった。


 会ったこともない女の子。翼で水の中を飛ぶ鳥の名前を、嬉しそうに教えた女の子。私が知っている確かなことは、結局、それだけだった。それと、もう一つ。


 彼女は、何も遺さなかった。


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