8.孵化
鮫島愛華は、私だった。
卑怯な子。何も言わない子。知らない子。親友。娘。少し気になる子。一度も会ったことのない子。
みんなが語っている「鮫島愛華」を、私は水の中から聞いていた。ぜんぶ私で、ぜんぶ、私じゃなかった。
みんな、少しずつ当たっていて、少しずつ外れている。当たっているのは、私が見せていた部分。外れているのは、私が隠していた部分。だから、誰のことも責められない。隠したのは私だ。十七年かけて、丁寧に、畳んで、しまって、鍵をかけて。
七月十七日は、日曜日だった。
目が覚めたとき、家の空気がいつもと違った。
音でわかる。台所で水が流れる音の速さ。お母さんのスリッパの往復の回数。換気扇。まな板。いつもの日曜の倍の音がしていた。お父さんがいる日の音だ。
昨日の夜、お父さんは帰ってきた。
夜の十時ごろ、車の音がして、玄関が開いて、家がいっぺんに騒がしくなった。お帰りなさい、というお母さんの声。おう、という低い声。廊下を運ばれていく荷物の音。私は部屋にいて、下りていくタイミングを計っていた。すぐに下りると、待ち構えていたみたいだ。遅すぎると、感じが悪い。ちょうどいいのは、二分後。二分たって下りて、お帰りなさい、と言った。
「おう、愛華、大きくなったな」
お父さんは表情も変えずにそう言った。四ヶ月で人はそんなに大きくならない。でも、お父さんの中の私は、いつも少し前の私のままで止まっているから、会うたびに大きくなって見えるのだと思う。私は、そうかな、と笑った。ちょうどいい角度で。
今日はこれから夕方に、また海に出る。今度は何ヶ月なのか私は知らない。聞けば教えてくれたと思うけど、なんとなく聞かなかった。何ヶ月と聞いたところで、私はその数字をどうすることもできない。どうすることもできないことを聞くのは、昔から苦手だった。
天井を見た。うちの天井には、木目がつくった顔がある。小さい頃に見つけた、への字の口の、機嫌の悪い犬みたいな顔。誰にも教えたことがない。教えたら、なんだか悪い気がした。顔に対しても、自分に対しても。
枕もとのスマホで時間を見た。七時十二分。カーテンの隙間から入る光は白くて、今日も曇りだと分かった。この町の七月は、曇ってばかりだ。
階段を下りる前に、一度、深呼吸をした。
しない日もある。でも、お父さんがいる日はする。息を整えて、顔を整えて、それから下りる。「おはよう」の声の高さを、頭の中で一度鳴らしてから出す。低すぎると心配される。高すぎると変に思われる。ちょうどいい「おはよう」は、長年の練習でつくれるようになった。
台所に下りると、テーブルにお父さんがいた。
大きい。家の中で見るお父さんは、いつも大きすぎる。椅子も、湯呑みも、お父さんが持つと小さく見える。日に焼けた首。短い髪に、白いものが増えていた。何ヶ月ぶりかに見るたび、白いものが増えている。私はそれを、数えないようにして、数えてしまう。
「おはよう」
練習どおりの高さで言えた。
「おう」
お父さんは新聞から顔を上げて、少しだけ笑った。笑った、と思う。口もとが、そう動いた。
お母さんが張り切って作った朝ごはんを、三人で食べた。焼き魚と、卵焼きと、豆腐とわかめの味噌汁。炊きたてのごはん。お父さんがいる日の献立は、品数がひとつ多い。
「飯、うまいな」
「当たり前でしょ。久しぶりなんだから」
お母さんの声が弾んでいる。うれしいのだと思う。うれしいと、お母さんは声が大きくなって、よく動く。醤油を取り、小皿を替え、お茶を注ぎ足す。お父さんの周りだけ、空気の密度が濃い。
私は黙って食べていた。
「愛華、学校はどうだ」
「……普通」
「そうか」
会話はそれだけだった。いつもそれだけだ。お父さんは何ヶ月ぶりに帰ってきても「学校はどうだ」しか聞かないし、私は「普通」しか答えない。
本当は、もっと話したかった。
聞きたいことは、一応あった。船の上では何を食べているのか。夜の海は怖くないのか。嵐のとき、船はどのくらい傾くのか。魚の群れは、上から見ると何色なのか。海の底には、何がいるのか。ラブカという鮫を、見たことがあるか。
最後のは、特に聞きたかった。今年になってから、ずっと。
でも、聞いたらお父さんは困った顔をすると思った。この子は急にどうしたんだ、という顔。お母さんは「あら、愛華がお父さんとお話ししてる」と言うだろう。言われた瞬間に、話は話でなくなる。観察されている会話は、もう会話ではない。だから聞かない。「普通」の娘のままでいる。その方が、誰も困らない。
味噌汁の中で、豆腐が崩れていた。私が箸で崩したのだった。聞きたいことを飲み込むとき、私は手もとで何かをしてしまう。豆腐を崩す。卵焼きを四つに切る。誰も気づかない、小さな行儀の悪さ。それが私の、精一杯の乱暴だった。
食器を流しに運んで、部屋に戻った。
机の引き出しから、スケッチブックを出す。
一昨日のページ。羽がぼろぼろの鳥の絵。折れて、変な方向に曲がった翼。ケガ、明日も見に行こう、と自分の字。
昨日も見に行った。あの子はまだいた。岩場の陰の、波のかからないくぼみ。一昨日より弱っていた。翼は曲がったまま動かなくて、目だけがこっちを見ていた。濡れた、黒い目。
私はあの子を、三月から知っている。
三月二十八日。春休みの、朝の浜だった。
前の日にバイトの遅番があって、寝坊して、それでも何となく浜に出た。理由はなかった。強いて言えば、家にいるとお母さんが起きてくるから。日曜のお母さんは、起きてすぐの私に予定を聞く。予定がないと言うと、予定を作ろうとする。それが悪意でないことは知っている。知っているから、余計に逃げ場がない。
波打ち際を歩いていたら、波の上に、白と黒のまるいものが浮かんでいた。
カモメじゃない。ずっと小さい。おもちゃみたいな鳥。ぷかぷか浮かんで、波が来ると、ひょいと持ち上がる。
見ていたら、その鳥が、ふっと水に潜った。
そして、飛んだ。
水の中を、飛んだのだ。翼を広げて、羽ばたいて、水の中を斜めに降りていった。灰色の海の、少しだけ透けた浅いところを、白い脇腹がきらっと光って、それから見えなくなった。
私は、波打ち際に突っ立っていた。
しばらくして、離れたところに、ぽこっと顔が出た。何事もなかったみたいに、また浮かんでいる。
鳥は、空を飛ぶものだと思っていた。飛ぶ場所を選べるなんて、思っていなかった。
スマホを出して、写真を撮った。手が震えていたのか、寒かったのか、ピントは合わなかった。何枚撮っても合わなかった。一番ましな一枚を、アカウントに上げた。
キャプションを打とうとして、指が止まった。
水の中を飛ぶ鳥がいた。すごいものを見た。世界にはこんな生き物がいる。――どれも違った。言葉にすると、ぜんぶ嘘っぽくなった。すごい、と打った時点で、あの一瞬の斜めの光は死ぬ気がした。
だから、一言だけにした。
見つけた。
何を見つけたのか、自分でもうまく言えなかった。何かを見つけた、ということだけが確かだった。
いいねは、二つついた。誰がつけたのかは知らない。コメントはゼロ。それでよかった。あれは誰かに見せるためというより、世界のどこかに置いておくために上げた写真だった。ここに置きました、という付箋。誰も読まなくていい付箋。
家に帰って、調べてみた。
白と黒。小さい。潜る。翼で泳ぐ。検索すると、すぐに出てきた。ウミスズメ。海雀。翼を使って水中を泳ぐ。空を飛ぶより、潜るほうが得意。春、繁殖のために沿岸へ近づく。
飛ぶのが下手で、潜るのが得意。
読んだ瞬間、胸のまんなかのところが、静かになった。ざわざわしていたわけでもないのに、静かになった、と分かった。
その夜、久しぶりに、本棚から図鑑を出した。
小学生のときに買ってもらった、古い野鳥の図鑑。高校の入学式の日、鞄の底に入れて持っていった図鑑だ。読むつもりはなかった。新しい教室で、新しい「良い子」を初演する日に、鞄の底にひとつだけ、本当の私を入れておきたかった。お守りというより、人質だったのかもしれない。誰にも見つからなかった、と思っていた。
ウミスズメのページには、卵の写真が載っていた。ウミスズメは、卵をひとつしか産まないらしい。ひとつだけの卵を、岩の隙間みたいな、暗くて狭いところで抱くらしい。ひとつしかないのか、と思った。ひとつしかないものを、暗いところで抱いて、孵るのを待つ。それはどんな時間なんだろう、と、少しだけ考えて、やめた。
ページに付箋を貼って、ついでに、意味もなくほかのページをめくった。海の生き物の章。深海のところ。
そこに、いた。
ラブカ。
深海に棲む鮫。原始的な姿を残していて、生きた化石と呼ばれる。ふだんは深いところにいて、めったに人の前に現れない。
ラブカ。ラブ、カ。
愛、華。
私の名前は、深海の、誰にも見つからない暗いところにいる鮫の名前でもあった。
愛されて、華やかに。お母さんがくれた名前。十七年間、重かった名前。名前負け、という言葉を、私は小学生で覚えた。覚えたくて覚えたんじゃない。
でもその夜、図鑑の上の「ラブカ」の三文字を、指でなぞった。
深いところでしか生きられない生き物が、私と同じ名前をしている。
生まれて初めて自分の名前が少しだけ好きになった。誰にも言わなかった。言ったらお母さんが悲しむ。せっかく良い名前をつけたのに、鮫だなんて。だから、これも畳んで、しまった。
お母さんにとって、愛華という名前は良い名前だった。
それは中学二年の冬だった。何の流れだったか、お母さんはたぶん覚えていない。私は覚えている。三者面談の帰り道だった。担任に、大人しいですね、もう少し発言できるといいですね、と言われた帰り。
お母さんは、車を運転しながら、ため息と一緒に言った。
「せっかく良い名前をつけたのに」
それだけだった。悪気は、なかったと思う。ため息の続きみたいな、独り言みたいな一言。
私は助手席で、窓の外を見ていた。冬の海は黒くて、白い波がしましまに立っていた。
せっかく良い名前をつけたのに。
名前は、良い。ということは、良くないのは、中身のほうだ。
知ってた。ずっと前から知ってた。愛華、と呼ばれるたびに、返事をする前の一瞬、私は毎回それを確認していた。呼ばれているのは名前で、私じゃない。名前は華やかで、私は地味だ。名前と私と、どちらが先に間違えたんだろう。
だからラブカを見つけた夜、私はたぶん、うれしかったのだ。名前の中に、暗くて深いところでしか生きられない生き物が、最初から棲んでいた。お母さんも知らないうちに、名前の底に、私の席をひとつ、用意してくれていた。
四月十日、またあの子に会えた。
同じ浜。同じ、ぷかぷか。潜って、飛んで、顔を出す。元気そう、とスケッチブックに書いた。
同じ個体かどうか、本当は分からない。ウミスズメの顔を見分けられる人間なんて、たぶん研究者にもいない。でも私は、同じ子だと決めていた。決めるのは自由だ。誰にも言わなければ、間違いも正解もない。
名前は、つけなかった。
つけようと思えばつけられた。白と黒だからパンダとか、まる、とか、いくらでも。でも、やめた。名前をつけたら、いなくなった日に、名前だけが残る。名前だけが残るのがどういうことか、私は自分の名前で知っていた。だから、あの子はあの子のままにした。
それから、朝の浜に通った。
毎日じゃない。バイトの前の日は行けないし、雨の日は波が高い。週に二回か、三回。いる日と、いない日があった。いる日は、岩場のいつもの辺りに座って、見ていた。三十分とか、一時間とか。潜るたびに、水の中の白い光を目で追った。
いない日は、いない海を見て帰った。
七月に入って、いない日が続いた。
一週間、いなかった。繁殖が終わって、沖へ帰ったのかもしれない。図鑑にはそう書いてあった。それならいい。それがいい。頭では、分かっていた。
七月七日、いない浜で、空の写真を撮った。
曇り空。何の変哲もない、灰色の空。あの子が飛んでいるはずだった空――ではない。あの子は空を飛ぶのが下手だから、空にはいない。ただ、いない、ということを、どこかに置いておきたかった。キャプションは、なしにした。「いない」と書くのは、名前をつけるのと同じことだから。
それが、私の最後の投稿になった。あとから誰が見ても、何も分からない写真。それでいい。もともと、誰かに分かられるために上げていたんじゃない。
そして、七月十五日。
十日ぶりに、あの子はいた。
岩場の陰のくぼみに、うずくまっていた。翼が、変な方向に曲がっていた。近づいても、逃げなかった。逃げられなかったのだと思う。羽はぼろぼろで、片方の目のまわりが濡れて汚れていた。
沖へ帰ったんじゃなかった。帰れなかったのだ。
私はその場にしゃがんで、長いこと見ていた。触っていいのか分からなかった。触って、それでどうするのか。持って帰る? どこへ? 私の部屋へ? お母さんが何と言うか、考えるまでもなかった。
その日は、見ているだけで帰った。
家で傷ついた海鳥の保護の方法を調べた。濡れないところ。暗くて静かな箱。無理に餌をやらない。できるだけ早く、獣医か、野生動物の窓口へ。この町に獣医はいない。隣町に一軒。日曜は、休み。
スケッチブックに、ぼろぼろの翼を描いた。描きながら、これは記録だ、と思った。誰のための記録かは、考えなかった。
ケガ、明日も見に行こう。
十六日も行った。バイトの前に。あの子は同じくぼみにいて、一昨日より小さく見えた。鳥は、弱ると小さく見える。丸まるからだと思う。目だけが、大きく見えた。
シフトの時間が来て、私は浜を離れた。工場で五時間、鯵を開きながら、くぼみの中の目のことを考えていた。手は動いていた。手だけは、いつも通り動く。私の手は、良い子だ。
「良い子」の話をしよう。
私がいつから「良い子」だったのか、正確には分からない。ただ、はっきり覚えている日はある。
小学三年生の秋だった。
夕ごはんのとき、お父さんが言った。
「今度から遠くの海に行くことになった。マグロの船に乗る。何ヶ月も帰れない」
「……行かないで」
私は、そっと声に出してみた。
出してみた、というより、出た。考える前に出た。行かないで。お茶碗を持ったまま、言った。
お父さんは困った顔をした。笑おうとして、笑えなかった顔。あの顔を、私は今でも描ける。目尻だけ下がって、口が動かない顔。
その夜、台所で、お母さんに言われた。
「ああいうこと言わないの。お父さんを困らせないで。お父さんはね、愛華のために行くのよ。あなたのために、お金を稼ぎに行くの。分かるでしょう」
あなたのため。
私の「行かないで」は、私のわがままで、お父さんの「行く」は、私のため。
そうか、と思った。私が欲しいものを言うと、誰かが困る。私の欲しいものは、順番が最後なんじゃなくて、そもそも数に入っていない。だって、まわりの人たちがすることが、ぜんぶ「私のため」なのだから。私のためのことで世界はもう一杯で、私の入る隙間は、ない。
八歳の頭で、そこまで言葉になっていたわけじゃない。でも、体が分かった。体が分かったことは、早い。次の日から、私は欲しいものを言うのをやめた。
最初の出港の日、私は学校にいた。
休みたい、と言えば、休ませてもらえたかもしれない。でも言わなかった。言ってはいけない気がした。四時間目の途中で、遠くから、汽笛が聞こえた。聞こえた気がしただけかもしれない。教室の窓から海は見えない。屋根と、電線と、灰色の空だけ。それでも私は、窓の外を見た。
それがたぶん、最初だった。
それから私は、窓の外を見る子になった。学年が上がって教室が変わると、海が見える年もあった。見えても見えなくても、私は窓の外を見た。海の方角を。お父さんの船が今どこにいるのか、私は知らない。知らないまま、方角だけを見た。
高校の教室は、窓際から海が見えた。だから高二の席替えで窓際の後ろから二番目になったとき、私は、当たりだ、と思った。誰にも言わなかったけど。
窓の外に、何があったのか。
最初は、汽笛だった。方角だった。途中から、鳥になった。それだけのこと。誰かが聞いてくれたら、答えられた――かどうかは、分からない。たぶん、なんでもない、と言った。私の練習量を、なめてはいけない。
もうひとつ、覚えている日がある。
小学四年生の、授業参観の前。「おうちの人の仕事」という作文を書いた。
私は、お父さんの仕事が、こわい、と書きたかった。海はときどき人を返さないと、この町の子はみんな知っている。だから、こわい、と。でも、書き出してすぐ、鉛筆が止まった。こわい、と書いたら、先生はたぶん、心配する。お母さんは参観で、それを読む。
書き直した。
おとうさんは、とおくのうみで、まぐろをとっています。かぞくのために、がんばってくれています。わたしは、おとうさんをそんけいしています。
作文は、廊下に貼り出された。花丸がついていた。お母さんは、まわりのお母さんたちに、少し照れた顔をしていた。うれしそうだった。
花丸は、そういうふうにもらうのだと、私は覚えた。本当のことを書くともらえなくて、本当じゃないことを書くともらえる。しかも、誰も傷つかない。誰も傷つかないなら、そっちのほうが良いに決まっている。九歳の算数では、そうなった。その算数を、私は十七歳まで使い続けた。
服のことも、少しだけ。
私のクローゼットは、二層になっている。上の段は、お母さんが選んだ服。明るい色。襟に飾りのあるブラウス。「その服、地味すぎない? もっと明るい色にしなさい」の結果たち。下の段は、私が選んだ服。灰色と、紺と、黒。
お母さんと出かける日は、上の段。ひとりの日は、下の段。浜に行く日は、いちばん下の、いちばん灰色のやつ。海と同じ色をしていれば、誰の視界にも引っかからない。透明になる練習を、私は服でもしていた。
窓の外を見ていると、たまに視線を感じた。
視線には、二種類あった。ひとつは、斜め後ろから。もうひとつは、少し離れた席から、刺すように。
斜め後ろのは、よく分からなかった。振り向けば消える。気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。確かめる方法は、振り向いて目を合わせることだけど、目が合ったらどうすればいいのか、私には分からない。分からないことは、しない。
刺すようなほうは、藤野さんだった。
一度だけ、はっきり分かった日がある。廊下ですれ違うとき、藤野さんは私を見ていた。目が怒っていた。私は目を伏せた。伏せるのは得意だ。目を伏せて、何も気づいていない顔をする。聞こえていないふり、見えていないふり。良い子の技術の中でも、いちばんよく使う技術。
家に帰ってから考えた。藤野さんを怒らせるようなことを私はしただろうか。思い当たらなかった。話したことも、ほとんどない。
次の日、蒼に聞いてみた。聞いた、というほどのものでもない。帰り道に、できるだけ何でもないふうに。
「藤野さんって……怒ってるのかな」
「え、なんで?」
「ううん。なんでもない」
やっぱり、言えなかった。私を見る目が怖い、なんて言ったら、大ごとになる。蒼はやさしいから、心配する。心配されたら、私は心配させたことを謝りたくなる。めんどうの総量が、増えるだけだ。だから、なんでもない、で畳んだ。
畳みながら、別にいいか、と思った。
別にいいか、は、便利な言葉だ。たいていのことは、別によかった。藤野さんが私を睨むのも、教室のどこかで「何考えてるか分かんない」と言われるのも。聞こえている。聞こえていないふりをしているだけで。何考えてるか分かんない、は、悪口の中では、いちばん安全な悪口だった。分からないままでいてくれるなら、私は安全だ。
中学三年の秋、進路のことでお母さんと揉めた。
揉めた、と、お母さんは思っていないかもしれない。私は反論しなかったから。
私の成績なら、県立の進学校にいける、とお母さんは言った。この町の高校じゃもったいない。良い高校、良い大学、良い仕事。この町にいたら、何もないでしょう。
「この町の高校でいい」
「なんで? もっと上を目指せるのに」
「……近いから」
近いから。嘘じゃない。でも、ぜんぶでもない。
ぜんぶを言うなら、こうだ。
知らない町の知らない教室で、私はまた最初から「良い子」を組み立てなければならない。声の高さ、笑い方、頷き方、目の伏せ方。十五年かけて作ったものを、新しい観客の前で、初日からやり直す。考えただけで、疲れて眠れなくなった。それから、海の見えない場所で、私は窓の外の何を見ればいいのか、分からなかった。
でも、そんなことは言えない。言っても伝わらないし、伝わったら伝わったで、この子はおかしい、ということになる。だから、近いから。三文字で済むものは、三文字で。
「そんな理由で将来を決めないで。あなたのためを思って言ってるのよ」
あなたのため。
八歳の台所と、同じ言葉。お母さんは覚えていないと思うけど、私は覚えている。私は、そういうことばかり覚えている。覚えているから、何も言えない。何も言えないから、覚えていないのと同じことになる。世界の帳簿の上では。
高校は、この町の高校に入った。願書は自分で出した。お母さんはしばらく機嫌が悪くて、それから諦めた。諦めた、というのは、あの子は頑固だから、という物語に私を入れた、ということだ。頑固。私が? 十七年間、はい、と、うん、しか言ってこなかった私が。でも、訂正はしなかった。頑固な子、という置き場所は、何考えてるか分かんない子、と同じで、わりあい安全な置き場所だったから。
バイト先に水産加工場を選んだのも、近いから、と言った。
これも嘘じゃない。歩いて十二分。浜沿いの道を通る。行きと帰りに、海が見られる。
それから――魚は、私に何も期待しない。
工場の仕事は、決まっている。届いた魚を、開いて、洗って、並べる。手順を覚えれば、あとは手が勝手にやる。おしゃべりはしなくていい。笑わなくていい。はい、と、すみません、と、ありがとうございます。三つで足りる。三つで足りる場所は、この世界に、そんなにない。
休憩室の窓からは、駐車場が見える。
みんな、駐車場なんか見て何が面白いんだ、という顔をしていた。川瀬先輩も、たぶんそう思っていた。
川瀬先輩のことは、少しだけ知っている。休憩中、いつもスマホを見ている人。画面をこちらに見せない角度で持つ人。私と同じで、ここにいながら、ここじゃないどこかを見ている人。だから勝手に、少しだけ仲間だと思っていた。向こうは私のことを、何考えてるか分かんない後輩だと思っていただろうけど。窓の外とスマホの中。見ている場所が違うだけで、していることは、たぶん同じだった。
駐車場の向こう、倉庫と倉庫の隙間に、海がひとすじだけ見えるのだ。幅にして、たぶん一メートルもない。銀色だったり、灰色だったり、夕方は一瞬だけ金色だったりする、細い細い海。私はそれを見ていた。誰も気づいていない海を、誰にも気づかれずに見ている時間が、私の休憩だった。
三月の終わり、その休憩室で、田中さんが言った。
「最近、浜に変な鳥がいるんだよな。見たことない鳥」
「へえ、何の鳥ですか」
声が出た。自分でびっくりした。考えるより先に、体が前のめりになっていた。あの子のことだ、と思ったから。三日前に見つけたばかりの、水の中を飛ぶあの子のことを、私以外の誰かが話している。
「さあな。カモメじゃないんだよ。もっと小さくて、白と黒のやつ。海に潜るんだ」
「潜る……」
「そうそう。ありゃ、何ていう鳥だ」
「ウミスズメ、かもしれないですね」
調べたばかりの名前が、するっと出た。出てから、頬が熱くなった。喋りすぎた。前のめりすぎた。良い子は、知っていることを、知っているタイミングで言わない。
「……すみません。本で読んだことがあるだけで」
「お、おお……詳しいな、鮫島」
田中さんは笑った。悪い笑い方じゃなかった。視界の端で、川瀬先輩が顔を上げた気がした。気のせいかもしれない。確かめなかった。確かめて、呆れた顔だったら、と思うと、確かめられなかった。
それで終われば、よかったのだ。よかったのに、私は数日後、自分から田中さんのところへ行った。図鑑で確かめて、間違いないと分かったから。
「この前の鳥、やっぱりウミスズメでした。翼で水の中を飛ぶんだそうです」
「水の中を飛ぶ? へえ。ほんとに詳しいなあ」
田中さんはそう言って笑ってくれた。それだけのことだった。
それだけのことで、私は数日、いい気分だった。
帰り道の浜が、少し明るく見えた。誰かに、自分の「好き」のはしっこを、一センチだけ見せた。世界は壊れなかった。誰も困らなかった。そういうこともあるのか、と思った。
十七年の中で、いちばん大きな「自分から」だった。一センチが。
調子に乗ったのだと思う。五月の終わり、帰り道で、蒼を誘った。
「海鳥って、水の中を飛ぶんだよ」
「え? 何それ」
「ウミスズメっていう鳥。翼を使って水中を泳ぐの。空を飛ぶより、水の中の方が得意なんだって」
「へえ」
「この前、浜で見つけたの。すごく小さくて、一生懸命泳いでて」
「ふうん」
「蒼も今度、一緒に見に行かない? 朝早いけど」
言った。言えた。心臓は走っていたけど、声は普通に出た、はずだ。
「えー、朝早いのは無理。眠いし」
「……そっか」
そっか、で畳んだ。
蒼は悪くない。朝は眠い。当たり前だ。次の話題はアイドルの新曲のことで、私はいつも通り、うん、うん、と聞いた。聞きながら、胸の中で確認作業がひとつ終わった。
私の「好き」は、人に差し出すようなものじゃない。
一センチは、たまたま無事だった。二センチは、駄目だった。それだけのこと。分かっていたことを確かめただけ。確かめてしまえば、もう試さなくていい。試さなければ、痛くない。
だから二度と誘わなかった。あの子のことは、また私だけのものに戻した。私だけのもの、という言い方は、ずるいかもしれない。ほんとうは、私しか置き場所を知らないもの、というだけなのに。
佐伯くんとは、日直が一緒だった。放課後の教室で、私は日誌を書いていて、佐伯くんは黒板を消していた。
窓の外で、鳥が鳴いた。
海鳥の声。あの子かどうかは分からない。ウミスズメの声を、私はまだ聞き分けられない。でも、手が止まった。顔が、勝手に窓を向いた。
「窓の外、なんかあるの?」
心臓が跳ねた。
振り向くと、佐伯くんがこっちを見ていた。黒板消しを持ったまま。
鳥がいるんです。
言いそうになった。口が開いた。三秒くらい、開いていたと思う。鳥がいるんです。水の中を飛ぶ鳥で、三月から浜で見ていて、今の声はたぶん違う鳥だけど、私はいつも、あの子の声かもしれないと思って――やめた。
佐伯くんは、誰にでも感じがいい。感じがいい人の「なんかあるの?」は、挨拶と同じだ。エレベーターで乗り合わせた人の「暑いですね」と同じ。本気の質問じゃない。本気で答えたら、困らせる。困った佐伯くんは、それでも感じよく、へえ、鳥? いいね、とか言ってくれるだろう。その「いいね」を想像したら、先に胸が痛くなった。
「……別に。なんでもない」
日誌に戻った。ペンを持ち直すとき、指が少し震えていた。
それが、私と佐伯くんの、いちばん長い会話になった。
佐伯くんは、私との会話とも言えない会話を、覚えているのだろうか。私は佐伯くんと、もっと話せただろうか。
分からない。たぶん、二回目の「なに?」が来ても、私は、なんでもない、をもう一回言った。なんでもない、を、私は一万回言って生きてきた。一万回やった動作は、考える前に出る。
でもね、佐伯くん。あの三秒、口が開いていたのは、本当だよ。
シフトは、午後四時からだった。四時から、九時まで。
朝ごはんのあと、部屋でスケッチブックのぼろぼろの翼を見ながら、私は考えていた。
行きたくない。工場じゃなくて、浜に行きたい。
昨日より弱っているはずだった。今日を逃したら、間に合わない気がした。何に間に合わないのか、分からないまま、そう思った。波のかからない場所に移す。段ボールと、タオル。隣町の獣医は日曜休みだけど、月曜の朝いちばんに――月曜は学校だ。じゃあ、どうしよう。分からないけど、今日、そばにいなかったら、考える資格すらない気がした。
見ているだけじゃ、もう駄目だった。三月から四ヶ月、私は見ているだけだった。写真を撮って、絵を描いて、名前を調べて、見ているだけ。今日は、何かをしたかった。
でも、「鳥のそばにいたいので休みます」は、理由にならない。
大人は納得しない。誰も納得しない。私だって、誰かがそう言うのを聞いたら、変なの、と思う。
鳥? 鳥って何? 変わってるね。
変わってる、は、この町では、あまり良い言葉じゃない。
だから、嘘を考えた。
今日、お父さんの船が出る。四時に。シフトの始まりと、ちょうど重なる。
――父の見送りに行きたいんです。
思いついた瞬間、我ながら、完璧だと思った。
父親思いの、優しい娘。誰も文句を言わない。誰も理由を疑わない。むしろ、いい話だ。何ヶ月も帰らないお父さんを、見送りたい高校生の娘。美談ですらある。断るほうが悪者になる種類の、理由。
それは悪魔的な、「良い子」の嘘。私が十七年かぶってきた仮面の、延長線上にある嘘。仮面は、嘘をつくときに、いちばん役に立つ。みんなが知っている「鮫島愛華」なら言いそうなことを、言えばいい。台本は、もう、みんなの頭の中にある。
ずるいな、と思う。
お父さんを、だしに使う。一度も見送りに行ったことがないくせに。八歳のあの日から、ただの一度も、行かなかったくせに。
……本当に、行きたくないんだろうか。
手が、止まった。
行きたいのか、行きたくないのか。考えてみたら、分からなかった。八歳の私は、行かないで、と言った子だ。あの子は、まだ私の中のどこかにいるんだろうか。それとも、とっくに畳んで、しまって、場所も忘れたんだろうか。
嘘のはずの理由が、嘘なのかどうか、自分でも分からなかった。
私はいつもそうだ。良い子を演じすぎて、どこからが演技なのか、自分でも分からなくなっている。舞台に立ちっぱなしの役者は、楽屋を持たない。楽屋がないと、素の顔を置いておく場所がない。素の顔は、使わないうちに、たぶん、目鼻がすり減っていく。
とにかく、電話だ。
頭の中で、一度、練習した。あの、今日のシフトなんですけど、父の船が出る日で、見送りに行きたくて、代わってもらえたりしませんか、勝手を言ってすみません――よし。言える。良い子の声で、良い子の理由を、良い子の順番で。
朝ごはんの片付けが終わった頃、川瀬先輩に電話をかけた。
出なかった。
呼び出し音を八回数えて、切った。洗面所で歯を磨いて、部屋に戻って、スマホを見て、また洗面所に行って、意味もなく、もう一度磨いた。歯磨き粉の味で、口の中の練習の続きが、できなくなった。
折り返しがきたのは、しばらくしてからだった。
「……もしもし」
「あ、川瀬先輩ですか」
「あ、えっと、どなた様で」
「鮫島です。バイトの」
「ああ、どうした?」
「あの……今日のシフト、代わってもらえませんか」
「ごめん無理」
即答だった。
「あの、理由は――」
切れた。
スマホを耳に当てたまま、しばらく立っていた。耳の中で、切れたあとの音が鳴っていた。ツー、ツー、という、世界でいちばん取りつく島のない音。
十秒、かかっていないと思う。
私の、生まれて初めての嘘は、聞いてもらう前に終わった。
理由を聞いてほしかった。父の見送りに行きたくて、って言うつもりだった。嘘だけど。嘘かどうか、分からないけど。練習まで、したのに。良い子の理由と良い子の声は、発表の場を失って、喉の奥で行き場をなくしていた。
私のことなんて、誰も。
――いや、違う。分かってる。川瀬先輩が悪いんじゃない。急に日曜のシフトを頼まれたら、誰だって嫌だ。先輩には先輩の日曜がある。私だって、興味のない後輩からの電話なら、十秒で切る。たぶん。……切れるかな。切れないかもしれない。切れない側の人間が、切る側の人間の都合を、こうやっていちいち引き受けてしまうから、世界はうまく回っているんだと思う。
次に、蒼にかけた。
蒼はバイト仲間じゃない。代わってもらえるわけじゃない。分かっていた。でも、指が先に動いていた。誰でもいいから、この理由を、一回、外に出したかったのかもしれない。
「もしもし、愛華? どうしたの、電話なんて珍しい」
「うん。あのね。バイトのシフト代わってくれる人、誰か知らない?」
「え、私バイトしてないから、分かんないよ。ごめん」
「そうだよね。ごめんね」
「どうしたの、何かあったの?」
どうしたの。
用意していた嘘が、喉のところで止まった。
言えばよかった。お父さんの船が出るの。見送りに行きたくて。三秒で言える。蒼は、そうなんだ、行っておいでよ、工場長さんに直接頼んでみたら、とか、言ってくれたと思う。話は、前に進んだと思う。
でも、出てこなかった。
川瀬先輩には言えたはずの嘘が、蒼には出てこなかった。
蒼は、私の「親友」だ。親友に嘘をつくところを、自分に見られたくなかったのかもしれない。それとも、逆かもしれない。蒼になら、ほんとうの理由を言えるんじゃないか、と、一瞬、思ってしまったのかもしれない。鳥なの。三月から見てる鳥がいて、怪我をしていて、今日、行ってあげないと――
朝早いのは無理。眠いし。
五月の帰り道の声が、耳の奥で再生された。
二センチは、駄目だったじゃないか。
「……大丈夫、何でもない」
「そう? ならいいけど」
電話を切った。
何でもない。一万一回目の、何でもない。
もう一人だけ、かけた。パートの吉井さん。お子さんの熱で急に休む人だから、逆に、急に代わってくれることもある人。留守番電話になった。録音の、ピー、という音のあと、私は何も言えなかった。機械に向かって、嘘の練習台本を読み上げる自分を想像したら、急に、ぜんぶが馬鹿馬鹿しくなった。何も吹き込まずに、切った。
嘘をつく相手が、いなくなった。
部屋の真ん中に、突っ立っていた。
嘘は、聞いてくれる人がいて、初めて嘘になる。誰にも聞かれなかった嘘は、嘘ですらない。ただの、言葉の死骸。私の手もとに残ったのは、父の見送り、という使い先のなくなった言い訳と、その下から出てきた、包装紙を剥がされた、本当の理由だけだった。
――あの子を、助けたい。
裸の理由は、心細そうにしていた。当たり前だ。生まれてから一度も、外に出たことがないのだから。
一時過ぎに、お父さんが家を出た。
玄関で、大きな鞄を肩にかけて、靴を履いた。お父さんの靴は、大きい。うちの玄関のたたきは、お父さんの靴があると、急に狭くなる。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけてね」
お母さんが言った。
「……うん」
私が言った。行ってらっしゃい、でもなく、気をつけて、でもなく、うん。うん、は返事であって、見送りの言葉ではない。分かっていて、それしか出なかった。
お父さんは、ドアノブに手をかけて、少しだけ、止まった。
「愛華」
「……なに」
「…………いや」
お父さんは、私を見て、それから私の少し上を見て、言った。
「元気でな」
ドアが、閉まった。
元気でな。何ヶ月も帰らない人の挨拶としては、正しい。正しいけど、あの「いや」の前に、何かあった。何かを言いかけて、やめた。私には分かる。言いかけてやめる呼吸なら、世界の誰よりも詳しい。
お父さんも、私と同じだ。
そのことが、うれしいのか、悲しいのか、分からなかった。分からないまま、玄関に立っていた。廊下の奥から、お母さんの、洗い物の水音がした。
見送りに行きたいんです、という嘘だけが、誰にも聞かれないまま、家の中に残った。
二時前になった。
工場に、休みの電話を入れるなら、今だった。ごめんなさい、体調が悪くて。頭痛で。腹痛で。なんでもいい。良い子の嘘は、在庫が豊富だ。体調不良は定番中の定番で、疑う人もいない。無断で休むより、百倍ましだ。真面目な鮫島さんの信用は、守られる。
でも、かけなかった。
かけられなかったんじゃない。かけなかった。
スマホは手の中にあった。番号も知っている。指を三回動かせば済む。済むのに、しなかった。
自分でも、最初は分からなかった。なんで電話しないの、と、頭の中の良い子が言っていた。信用が。工場長さんが。明日からの気まずさが。ぜんぶ正しい。正しいのに、指が動かなかった。
たぶん、こういうことだ。
体調不良、と嘘をつけば、今日の私は「体調の悪い良い子」になる。休む理由が、また仮面の側に回収される。あの子のところへ行くのに、私はまた、嘘の通行証を使うことになる。
今日は、それが、嫌だった。
生まれて初めて、通行証なしで、改札を飛び越えたかった。
真面目な鮫島さん。無遅刻無欠勤の鮫島さん。文句を言わない鮫島さん。その子を、今日一日だけ、やめることにした。
二時十分、家を出た。
「バイト、行ってきます」
台所に、声をかけた。お母さんは、はあい、と言った。それだけだった。四時の見送りに出る支度で頭がいっぱいだったのだと思う。早いのね、とも聞かれなかった。聞かれたら、散歩してから行く、という嘘の在庫も一応あった。使わずに済んで助かった、と思ってしまった。
結局最後の嘘は、お母さんにつくんだな。
良い子の始まりの人に、良い子の最後の嘘を。狙ったわけじゃないのに、収まるところに収まった。私の十七年は、そういうふうに、よくできている。
外は、曇っていた。湿った、重い空気。海の匂いが、いつもより濃い日だった。
工場は、右。浜は、左。
私は、少しの間、道の真ん中に立っていた。それから、左でも右でもなく、まっすぐ、港のほうへ歩き出した。
自分でも意外だった。
足が港へ向かっていた。四時に出る、お父さんの船のほうへ。
見送りに行きたい、という嘘の中の子が、歩いているみたいだった。嘘なら嘘らしく、部屋で大人しくしていればいいのに、そいつは私の足を使って、坂を下り、漁協の建物の角を曲がった。
港が見えた。
岸壁に、お父さんの船がいた。遠くからでも分かる。何度も写真で見た船。乗ったことは、一度もない船。甲板で、小さい人影がいくつか動いていた。どれがお父さんかは分からなかった。クレーンが何かを吊って、下ろした。出港前の港は、思っていたよりずっと忙しそうだった。
私は、漁協の建物の陰から、それを見ていた。
近づけなかった。
近づいて、なんと言うのだ。見送りに来た? 八歳から一度も来なかった娘が、急に? お父さんは驚く。うれしいかもしれない。でも、その前にまず、困る。何かあったのか、と思う。まわりの船員さんたちが、娘さんか、と冷やかす。お父さんは笑って、私は良い子の会釈をして――そこまで想像して、やめた。
想像の中でさえ、私は仮面をつけていた。
建物の陰で、五分だけ、船を見た。五分と決めて、見た。潮と、油と、魚の匂い。カモメが鳴いていた。クレーンが、また何かを吊った。お父さんらしき人影は、結局、分からないままだった。
五分たって、私は港に背を向けた。
浜へ。あの子のところへ。こっちは、嘘じゃない用事だ。
浜へは、堤防の上の道を歩く。左に海、右に町。灰色の海は凪いでいて、沖のほうだけ、雲の切れ間の光が落ちて、そこだけ銀色だった。
途中で、近所のおばさんとすれ違った。三軒先の、犬を飼っているおばさん。犬は、今日は連れていなかった。
「あら、愛華ちゃん」
「こんにちは」
会釈をした。声の高さも、お辞儀の角度も、いつも通りにできた。
「今日、お父さんの船、出るんでしょう。見送り?」
心臓が、一拍、変な打ち方をした。
小さい町だ。誰の船がいつ出るか、みんな知っている。
「……いえ、ちょっと、そこまで」
「あらそう。お父さんによろしくね」
「はい」
おばさんは、にこにこして、町のほうへ歩いていった。
私は、堤防の上で、一度だけ振り返った。おばさんの背中は、もう小さかった。
見送り? と聞かれて、いえ、と答えた。
嘘の理由として、さんざんこねくり回した「見送り」を、本物として差し出されたら、否定した。私は最後まで、そういうふうにできている。
それが、生きている私が誰かと交わした最後の言葉になった。こんにちは。いえ、ちょっと、そこまで。はい。――完璧な良い子の、完璧な三往復。最後の最後まで、仮面は仕事をした。皮ひとつ、剥がれなかった。
三時半だった。
浜に下りた。
あの子は、まだいた。
岩場のくぼみ。昨日と同じ場所。昨日より、また小さく見えた。砂の上に、白と黒のかたまりが、うずくまっている。近づくと、頭がこっちを向いた。目は、生きていた。濡れた、黒い、まるい目。
「……来たよ」
声が出た。誰もいない浜で、私は鳥に話しかけていた。
しゃがんで、距離を三歩ぶん残して、様子を見た。翼は、昨日と同じ角度で曲がったまま。羽は、潮と砂でごわごわになっている。時々、思い出したように、体を小さく震わせた。
段ボール。タオル。持ってくればよかった。家を出るとき、頭のどこかでは考えていたのに、港に寄り道なんかしたせいで、手ぶらだった。今から取りに帰る? 往復で三十分。この子の三十分と、私の三十分は、たぶん、長さが違う。
波のかからない、もっと上のくぼみに移すだけでもいい。それなら、今、できる。
「ちょっとだけ、ごめんね」
そっと、手を伸ばした。
あの子が、動いた。
弱っているくせに、私の手から逃げた。折れた翼を引きずって、砂の上をよろけて、よりによって、波のほうへ。
「待って」
あの子は、待たなかった。波打ち際で一度転んで、起き上がって、そして、寄せてきた波に、自分から入った。
飛べない鳥は、それでも水に入る。水の中でなら、飛べるから。
分かる。分かるけど、今のあなたの翼で、この波は――
波が引いて、あの子の体が、少し沖へ持っていかれた。浮かんでいる。浮かんでは、いる。でも、いつもの、ぷかぷか、じゃない。波のかたちに、なすがままだった。
「待って。助けたいだけなの」
助けたい。
口に出して、初めて、ちゃんと分かった。
私は、この子を助けたかったのだ。四ヶ月、見ているだけだった私が。三秒で口をつぐんで、十秒で電話を切られて、二センチで引き返して、一万回の「何でもない」でぜんぶを畳んできた私が、生まれて初めて、畳みたくないものを、見つけていた。
沖のほうで、汽笛が鳴った。
長く、一回。少し置いて、短く。
顔を上げると、防波堤の向こうを、船が出ていくところだった。
四時。
シフトの始まる時間。お父さんの船が出る時間。私は、そのどちらにもいない場所に、立っていた。工場の作業台に、私はいない。港の岸壁にも、私はいない。
岸壁には、お母さんが立って、手を振っているはずだ。いつもどおり。世界は、いつもどおりの配置で、いつもどおりの見送りをしていた。ひとつだけ違うのは、浜に私がいて、波の上に、あの子がいることだった。
見送り、してるじゃん。結局。
誰にも言えない場所で、誰にも見えない見送りを。船はゆっくり、防波堤の切れ目から外海へ出て、小さくなっていった。お父さんは、岸を見ただろうか。見たとしても、そこに私はいない。いつもどおり。
私は靴を脱いだ。
靴下も脱いで、丸めて靴に入れて、二足そろえて、岩の上に置いた。
揃えるところだけは、良い子だった。
浅瀬に、足を入れる。冷たい。
七月なのに、水の中は、別の季節だった。足首まで。ふくらはぎまで。砂が、足の裏で崩れながら逃げていく。
体育のプールでなら、私は泳げる。二十五メートル、息継ぎつきで。でも、プールの水は透明で、静かで、床がある。海は、どれも違う。濁っていて、動いていて、底のかたちを、こちらに教えない。分かっていた。分かっていて、足は止まらなかった。
あの子は、少し先にいた。波に揉まれて、浮いて、沈んで、また浮く。距離は、五メートルもなかったと思う。五メートルなんて、砂の上なら、七歩だ。
「今、行くから」
膝まで、入った。スカートの裾が波を吸って、重くなった。重くなってから、着替えてくればよかった、と思った。思って、少し笑った。無断欠勤をしている人間が、服の心配をしている。
腰まで、入った。
波が来るたび、体が持ち上がって、爪先が砂から離れそうになる。岩場の先は、急に深くなる。子供のころから、大人たちに言われてきた。あそこの先は、すとんと落ちてるから、行くなよ。知っている。知っていて、私は、その手前の、ぎりぎりのところにいた。
あの子との距離が、縮まらなかった。
波が寄せると、あの子は私のほうへ流されてくる。手を伸ばす。届く寸前で、引き波が、あの子を沖へ連れていく。寄せて、引いて、そのたびに、五十センチずつ、遠くなる。海は、あやすふりをして、少しずつ、取り上げていく。
もう一歩、出た。
足の裏の砂が、急に、斜めになった。
落ちる、と思った瞬間、足に、何かが触れた。
冷たくて、硬い。海藻じゃない。ぬるりとしていない。細くて、張りがあって、指みたいに、足首に掛かる。
――網だ。
引いてみたが、なかなか取れない。波の流れで複雑に絡み合う。もう片方の足で払おうとして、そっちも掛かった。動くほど絡む。波が来て、体が傾いて、立て直そうと踏んばった足の下で、また砂が崩れる。網が、ふくらはぎから膝、膝から腰へ、巻き上がってきた。
古い網だった。
指先の感触で分かる。新しい網は、もっとつるつるしている。これは、ざらざらして、ところどころ硬く固まっていて、貝殻みたいなものが噛んでいる。足首をひっかくザラザラとした、嫌な感触。魚の口の中を突き刺す釣り針のように、脛をほじくられて痛い。
この網はお父さんのかもしれない、と思った。
昔、この浜で、お父さんが網を直しているのを、見ていたことがある。近海の漁師だったころ。私は五歳か、六歳。砂の上に座って、見ていた。お父さんの手の中で、あばり――木でできた、平べったい針――が、魚みたいに、網の目をくぐって泳いでいた。速くて、正確で、きれいだった。潮と、タールと、日なたの匂いがした。
「愛華、持ってみるか」
持っただけで、何もできなかった。それでもお父さんは、おう、上手だ、と言った。何もしていないのに、上手だ、と言った。あのころは、まだ、そういう出鱈目な会話が、私たちにもあった。
この網がお父さんのものかどうかは、分からない。この辺の漁師は、みんな同じような網を使っていたし、海の底には、いろんな時代の、いろんな人の網が沈んでいる。でも、私は、お父さんのだ、と決めた。決めるのは、自由だ。あの子を同じ子だと決めたのと、同じように。
見送りに行きたい、という嘘をついて、ここに来た。
嘘は、誰にも聞かれなかった。
なのに、お父さんのものかもしれない網が、いま、私の腰に絡んでいる。
皮肉だな、と思った。思って、少しだけ、本当に少しだけ、笑った。水の上で。誰も見ていないところで。良い子は、こんなときでも、声を立てずに笑う。
波が、来た。
今度のは、大きかった。
体が持ち上がって、足が底を離れて、網だけが、離してくれなかった。
口に、水が入った。
しょっぱい。しょっぱくて、冷たくて、鉄みたいな味。吐き出そうとしても、それ以上に押し寄せてきて、間に合わない。毎日ひらいていた鯵は、海の網の中で、こんな気持ちだったのだろうか。なすすべもない恐怖に、頭と体が、別々の生き物になったような気がする。
死ぬのかな、私。
死にたくない、と思った。
はっきり思った。言葉で思った。生まれて初めて、欲しいものが、こんなにはっきり言葉になった。息がしたい。浮きたい。死にたくない。八歳から封をしてきた「欲しい」が、いちばん間に合わないところで、いちばん大きな声を出す。
もがいた。もがくほど、網は締まった。
暴れた、と言ったほうが近いかもしれない。爪で網を掻く。指が滑った。スカートを蹴った。腕を回す。水面が近づいて、顔が出た。息を吸ったら、半分水だった。咳き込んで、叫んだ。誰か、と叫んだつもりだった。出たのは、声というより音だった。海のように濁って籠もった、短い音。十七年、大きな声を出したことがなかった。授業で当てられても、はい、しか言わなかった。叫び方なんて、練習していない。私の喉は、助けの呼び方を知らなかった。良い子の発声練習の中に、それだけが、入っていなかった。
波が音ごと持っていった。
また沈んで、また掻いた。網が、締まった。もがくほど絡む。知っていた。お父さんの手の中で泳いでいた、あのきれいな網の目は、魚が暴れるほど、深く食い込むようにできている。知っていて、体は、もがくのをやめられなかった。知識と体は、こんなに他人なのか。
目の奥が、熱くなった。
泣いてしまった、と思った。苦しくて、怖くて、涙が出ていた。でも、顔じゅうが海水で、どこからが涙なのか分からない。海の中では、泣いているかどうかさえも自分で分からない。それが悲しいことなのか、楽なことなのか、それも分からない。分からないことばかりだった。
波の間で、一度、空が見えた。
灰色だった。いつもの、この町の空。最後に見る空が、せめて晴れていたら――とは、思わなかった。曇りでいい、と思った。私はこの灰色を、十七年、窓の外に見てきた。晴れの空で終わったら、それはそれで、話ができすぎだ。
腕が、重くなってきた。
水を掻いているのか、水に掻かれているのか、分からなくなってきた。体の必死さが、少しずつほどけていく。ほどけながら、頭のほうが勝手に喋りはじめた。溺れながら考えごとなんて、と思うかもしれない。でも、するのだ。体が戦っているあいだ、頭は置き去りにされて、置き去りにされた頭は、いちばん置き去りにしてきた質問を拾いはじめる。
私の人生って、何だったんだろう。
十七年。深呼吸と、ちょうどいい声の高さと、二分待ってから下りる階段と、一万回の、何でもない。あれは、何のためだったんだろう。
良い子って、誰のためだったんだろう。
お母さんのため。先生のため。誰も困らせないため。――違う。今なら分かる。怖かっただけだ。本当の私を出して、いらない、と言われるのが。だから先に、出さなかった。値札がつく前に、自分で棚から下ろした。良い子は、誰のためでもない。傷つきたくない私の、私のための鱗であり、貝殻だった。誰よりも、私のためだった。
助けたかったのは、あの子じゃなくて、私だったんじゃないの。
波に揉まれているあの子に、殻の中の私を重ねて。あの子を水から引き上げたら、私も、どこかから引き上げられる気がして。鳥を助けたいなんて、きれいな顔をして、ほんとうに溺れていたのは、最初から、私のほうで。
お父さんをだしにして、あの子のことも、だしにした。
そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。両方かもしれない。両方って、あっていいのか。分からない。ただ、ひとつだけ、分かることがある。伸ばした手は、本当だった。届かなかったけれど、あの手だけは、嘘じゃなかった。それだけは、水の中でも、握っていられた。
体が、止まった。
もがき疲れて、というのは、こんなに正確な言葉だったのか。水の中が、急に、静かになった。耳の奥で鳴っていた自分の心臓の音まで、遠くなった。
視界の端を、白と黒が、横切った。
あの子だった。
水の中を――飛んでいた。
折れた翼で、それでも、翼を打って、白い泡の尾を引いて、水の中を、斜めに。三月二十八日に見た、あの飛び方で。ぼろぼろのくせに。空を飛べないくせに。水の中でだけは、あんなに。
あの子がどうなったか、私は知らない。
助かったのか、駄目だったのか。沖へ出られたのか、どこかの波で終わったのか。知らないまま、私は終わる。でも、飛んでいた。確かに。水の中を飛ぶところを、最後に、私に見せてくれた。それで十分だと思った。十分だ、と思える最後の景色を、私は自分で選びに来たのだ。そう思うことにした。決めるのは、自由だ。
体が、沈んでいく。
網と一緒に、ゆっくり、斜めに。あの子の飛び方と、同じ角度で。
沈んでいく。名前のとおりに。
怖い、と、ごめん、と、なんで、と、みんなの顔が、割れたガラスみたいに、いっぺんに来た。その破片は、水の中で泡となってひとつずつ弾けて消えた。
藤野さんのこと、よく覚えていない。時々こっちを見ていた人。何か言いたそうだった人。一度だけ、怒った目とすれ違った人。何だったんだろう。聞けばよかったのかな。聞かないよね、私は。ごめんね。あなたの何かに、なれなくて。ならなくて。
川瀬先輩には、悪いことをした。急に休んで。シフト、埋めることになったでしょう。でも先輩、十秒だったよ。私の生まれて初めての嘘に、あなたがくれたのは、十秒。恨んでない。ただ、覚えておいて。誰かの電話を切るとき、その向こうで、練習した台本が行き場をなくすことが、ある。それだけ。
蒼。もう少し、仲良くなれたかもしれない。朝早いの、無理じゃない日が、いつか来たかもしれない。そしたら、あの岩場に並んで座って、あの子が潜るのを、二人で数えたかもしれない。……ごめん。これは、私の悪い癖だ。試す前に、駄目だったときの痛みを先に計算して、やめる。二センチでやめた私が、悪かった。親友って、何センチから言うんだろうね。
お母さん。もっと話せばよかった。でも、何を話しても「あなたのため」に変換されるから、話すのをやめた。ごめん。これは、少しだけ、恨み言かもしれない。最初で最後の。……名前のこと、ありがとう、とは、まだ言えない。でもね、お母さん。愛華の底には、ラブカがいたよ。深いところでしか生きられない生き物が、最初から棲んでいたよ。だから、名前負けじゃなかった。私はちゃんと、名前のとおりに、深いほうへ来た。
お父さん。見送りに行きたいって、嘘をつくつもりだった。嘘だけど、嘘じゃなかったのかもしれない。港まで、行ったよ。船、見たよ。近づけなかったけど。汽笛、聞いたよ。……玄関の「いや」の続き、何だったの。私の「なんでもない」の中身と、交換できたら、よかったね。
佐伯くん。あの時の続きは、「鳥がいるんです」でした。三秒も、待ってくれてたのにね。
田中さん。ウミスズメ、覚えていてくれるかな。浜で見かけたら、あれは、私の。……いや、いいや。誰のでもない。あの子は、誰のでもない。
誰も、恨んでいない。
誰の、せいでもない。
網は偶然で、船は偶然で、電話は仕方なくて、嘘は私が考えた。波は波の仕事をして、鳥は鳥の仕事をした。ぜんぶの順番を巻き戻して、もう一回やり直しても、たぶん私は、この浜に来る。靴を揃えて、この水に入る。
ただ、ひとつだけ、はっきりさせたい。
死にたくはなかった。
最後の最後まで、死にたくなかった。息がしたかった。帰りたかった。帰って、濡れたスカートをお母さんに叱られて、月曜に気まずい思いをして工場に謝って、火曜も水曜も、あの子を見に行きたかった。これは、良い子の答えじゃない。本当の答えだ。私の口から出た、数少ない、本当のうちのひとつだ。
私は、私の意思で、海に入った。
死ぬためじゃない。生まれるためだった、と思う。十七年かぶっていたものを脱いで、初めて、自分の足で、自分の理由で、水に入った。
変わりたかった。孵化したかった。
卵の中は、静かだった。あたたかくはなかったけれど、静かだった。良い子の殻は、よくできていた。薄くて、丈夫で、外から中は見えない。中から外は、少しだけ見えた。だから私は、殻の内側から、窓の外ばかり見ていたのだ。
殻の外は、冷たくて、重くて、こんなに苦しいなんて、知らなかった。
でも、殻の外の水は、殻の中の空気より、濃かった。苦しさは、濃さなのかもしれなかった。生まれて初めて、私は、薄められていない世界に、触っていた。
光が、遠くなる。
エメラルドグリーンの、苔みたいな靄の中に、か細い光が差して、少しずつ、少しずつ、遠のいていく。最後の泡が、口の端から出ていって、光のほうへ、まっすぐ昇っていった。泡は、浮かび方を知っている。生まれつき、知っている。いいなあ、と思った。
私は、何も遺さなかった。遺し方を、知らなかった。
浮かび方も、まだ知らなかった。
私の腰に、尾ひれがついた。
深い海の底に向かって沈む、鮫の尾ひれがついた私は、水面に浮かぶもう一つの私に、手を振った。あっちの私は、これから、みんなの物語になる。自分から入ったことにされて、突き落とされたことにされて、足を滑らせたことにされて、噂の数だけ尾ひれをつけて、泳いでいく。
結局、どちらの私が、本当の私なんだろう。
そんなことを考えながら、潮水の沁みる目を、瞑って、諦めた。
諦める、という言葉は、明らかに見る、というところから来ているのだと、いつか、図鑑じゃない本で読んだ。だったら、これでいい。私は最後に、いちばん明らかに、見た。
そうして私は、物語だけ遺した。
了




