6.浮花
鮫島愛華は、僕にとって、少し気になる子だった。
それだけだった。それだけの、はずだった。
その「それだけ」の重さを、僕――佐伯修也は、あの子が死んでから五ヶ月、ずっと量りかねている。
十一月の終わり。土曜の午後、僕はようやく海岸に行った。
献花に行こうと思ったのは、夏のうちからだった。花屋の前を通るたびに思った。行かなきゃ。でも、行けなかった。理由をつけては先延ばしにした。部活がある。テストがある。雨が降っている。
本当の理由は分かっている。行く資格がない気がしていたからだ。
僕は鮫島と、ほとんど話したことがない。友達でもなかった。あの子が死んで、泣いたこともない。なのに花を持って海岸に立つのは、なんだか嘘をつくみたいだった。
でも、四ヶ月経っても、あの子のことが頭から消えなかった。教室の窓際の席。誰も見ようとしない席。見ようとしないことで、逆にずっとそこにあり続けた席。
だから、行くことにした。嘘でもいい。行かないよりは、ましなはずだ。
町に一軒しかない花屋で、花を買った。何がいいのか分からなくて、店のおばさんに「お供えで」とだけ言ったら、白い菊を勧められた。菊は、なんだか違う気がした。鮫島は十七歳だ。仏壇みたいな花は似合わない。
結局、黄色い花にした。小さな向日葵みたいな花。名前は聞いたけど、忘れた。
岩場に着くと、先客がいた。
男の人だった。五十歳くらい。日に焼けた顔。がっしりした体。作業着みたいなジャンパー。献花の前にしゃがんで、手を合わせていた。漁協の人だろうか。それとも。
男の人が立ち上がって、振り返った。顔を見てすぐに分かった。似ている。目元のあたりが、あの子に。
「あの、鮫島さんの、お父さんですか」
「……ああ」
やっぱり。鮫島の父親。遠洋漁業でほとんど町にいないという人。葬式にもいなかった、と噂されていた人。
「すみません、僕、佐伯といいます。愛華さんと同じクラスでした」
「そうか」
「献花に来ました。ずっと来ようと思ってて、でも、なかなか来れなくて」
言い訳みたいになった。実際、言い訳だった。四ヶ月も来なかったのだから。
僕は花を置いた。白い菊の隣に、黄色い花。並べてみると、季節も色もばらばらで、なんだか僕たちみたいだと思った。
「愛華さんとは、あまり話したことなかったんですけど」
「……そうか」
「でも、気になってたんです。何考えてるか分からなくて、でも、それがなんか気になって」
言ってから、自分で驚いた。
こんなこと、誰にも言ったことがなかった。夏に藤野に聞かれた時は、否定した。ないない、と笑ってみせた。なのに初対面の、あの子の父親には、するっと言えた。
たぶん、この人が「知らない人」だからだ。同じ教室の人間には言えないことが、知らない人には言える。変な話だ。でも、そういうものなのかもしれない。あの子も、そうだったのかもしれない。
「わざわざありがとう。愛華とは仲良くしてくれてたのか?」
お父さんが聞いた。低い声。期待しているような、期待するのをやめたような声。
「いえ、たぶん僕のことなんか眼中になかったと思います。話しかけても、『うん』とか『別に』とか、それだけで」
「俺も同じだ。愛華とはほとんど話せなかった」
「……そうなんですか」
「ああ。俺はずっと海の上にいたから。帰ってきても、何を話していいか分からなかった」
海の上にいたから。
僕は海の上にいなかった。同じ教室にいた。一年以上、同じ部屋の空気を吸っていた。それでも、何を話していいか分からなかった。海の上にいなくても、話せない人間は話せない。それだけのことだった。
「君は、愛華が自殺したと思うか」
急に聞かれて、心臓がひとつ跳ねた。
考えた。ちゃんと考えてから、答えた。
「分かりません。でも、愛華さんが自分から死を選ぶとは、あまり思えないです」
「なぜ」
「なんとなく、ですけど。愛華さんは静かな人でしたけど、暗いって感じじゃなかった。何か、自分の世界を持ってる感じがしました。窓の外をよく見てて、何かを見てる感じで」
言いながら、思い出していた。窓際の席。頬杖もつかず、背筋を伸ばしたまま、窓の外を見ている横顔。退屈しているんじゃない。ぼんやりしているんでもない。何かを、見ている顔。
「でも、僕には分かりません。愛華さんのことを、僕は何も知らないから」
お父さんは黙って海を見ていた。僕もそれ以上、何も言えなかった。
「すみません、長々と。失礼します」
頭を下げて、その場を離れた。
帰り道、ずっと考えていた。
父親も知らなかった。僕も知らない。じゃあ、誰が知っていたんだろう。あの子のことを。
振り返ると、お父さんはまだ献花の前に立っていた。大きな背中が、灰色の海を前にして、妙に小さく見えた。
鮫島愛華の席は、去年の席替えから僕の席の斜め前だった。窓際の、後ろから二番目。視界の端に入る位置。黒板を見れば、自然とあの子の後ろ姿が映り込む位置。
だから、見ていた。
見るつもりがなくても見えたし、正直に言えば、見るつもりで見ていたこともある。
あの子は授業中、よく窓の外を見ていた。先生に当てられれば、ちゃんと答えた。成績も悪くなかったと思う。ノートも取っていた。でも、ふとした瞬間に、視線が窓の外に行く。海の方に。
何を見てるんだろう、と思った。
最初はそれだけだった。でも、一度気になると、目が行くようになった。今日も見てる。今日は見てない。雨の日はあまり見ない。晴れた日の午後は、長い。
気づいたら、僕は「あの子が窓の外を見る頻度」に妙に詳しくなっていた。
我ながら気持ち悪いと思う。話しかければよかったのだ。「何見てんの」って。一言で済む話だ。僕はクラスの誰とでも話せる。話すのは得意だ。先生とも、先輩とも、女子とも、初対面の大人とも、誰とでも。
でも、鮫島にだけは、話しかけられなかった。
いや、話しかけたことはある。プリントを回す時。掃除当番が一緒になった時。でもそれくらい。僕が誰にでも向ける愛想のいい声に、あの子は最小限の言葉だけを返した。壁打ちみたいだった。ボールが返ってこない壁。
一度だけ、それ以上のことを聞いたことがある。
六月の、確か木曜日。日直が一緒だった。放課後、誰もいなくなった教室で、あの子は日誌を書いていた。僕は黒板を消していた。
窓の外で、何かが鳴いた。海鳥の声。
あの子の手が、止まった。顔を上げて、窓の外を見た。日誌の途中なのに。
その横顔があんまり真剣だったから、つい、聞いた。
「窓の外、なんかあるの?」
あの子は、びっくりした顔で僕を見た。授業で当てられた時とは違う顔。素の顔、というのだろうか。初めて見る顔だった。
「……別に」
そう言って、俯いた。でも、そのあと一瞬だけ、口が開いた。何かを言いかけた。
言葉は出てこなかった。あの子は小さく首を振って、「なんでもない」と言って、日誌に戻った。
それだけ。
それが、僕と鮫島愛華の、一番長い会話だった。
あの時の続きを、僕は聞かなかった。もう一度「なに?」と聞けばよかった。三秒だ。三秒待って、もう一言聞けば、あの子は何か言ったかもしれない。
聞かなかった。なんでだろう。たぶん、怖かったんだと思う。
何が怖かったのかは、五ヶ月経った今でも、分からない。
七月、あの子が死んだ。
サメに食われた、と教室で誰かが笑った。僕は笑えなかった。でも、止めもしなかった。「わらえねー」と言った奴を軽く小突くくらい、僕ならできたはずなのに、しなかった。
僕はいつも通りにしていた。いつも通り喋って、いつも通り笑って、いつも通り部活に出た。
休み時間に、藤野に呼び止められた。男子トイレ横の、手洗い場のところ。
「佐伯くん、鮫島さんのこと、気にしてたよね」
心臓が止まるかと思った。見られていたのか。誰かに。僕の視線を。
「気にしてた?」
とぼけた。声が上ずらないように、気をつけた。
「去年の席替えの後から、よく見てたでしょ」
「見てたって……何を?」
「だから、鮫島さんを」
「いや、別に」
嘘をついた。
「確かに、あいつは変わってたから。何考えてるか分かんないっていうか。でも、それだけだよ」
「好きとか、そういうんじゃなくて?」
「は? 鮫島を?」
驚いてみせた。半分は、本当に驚いていた。好き。そういう言葉で考えたことは、一度もなかったから。
「ないない。俺、ああいう暗いタイプ苦手だし」
言った瞬間、口の中が苦くなった。
暗いタイプ。苦手。
どっちも嘘だ。あの子は暗くなかった。静かなだけだった。苦手でもなかった。ただ、どう話せばいいか分からなかっただけだった。
でも、死んだばかりの人間を「気にしてた」と認めるのが、怖かった。認めたら、何かを問われる気がした。じゃあなんで話しかけなかったの、と。じゃあなんで、と。
だから僕は、死んだクラスメイトを「暗いタイプ」と呼んで、切り捨てた。
藤野は、去年の「何考えてるか分かんない」の一言のことも聞いてきた。僕は「え、そんなこと言ったっけ」と返した。
覚えていた。ちゃんと覚えていた。去年の五月、購買の帰りの廊下で、隣の奴に言った。鮫島さんって、何考えてるか分かんないよな、って。あれは悪口じゃなかった。むしろ、逆だった。分かんないから、気になる。そういう意味だった。でも、そんな説明をする勇気はなかった。
「あいつ、誰とも仲良くなかったもんな。三島くらいか。じゃ、俺戻るわ」
最後まで、いつも通りの顔で教室に戻った。
僕は、嘘が上手い。
顔がいいとか、頭がいいとか、感じがいいとか、人に言われる。たぶん全部同じことだ。僕は、人にどう見えるかを整えるのが上手いだけだ。教室での僕は、いつだって、よくできた僕だった。
その夜、飯が食えなかった。次の日も、あまり食えなかった。
姉ちゃんに「あんた、大丈夫?」と聞かれた。クラスの子でしょ、亡くなったの、と。僕は「まあ、びっくりしたけど」とだけ言って、部屋に戻った。
教室では平気な顔をして、家では飯が食えない。
九月の席替えの日のことは、よく覚えている。
二学期が始まって、最初のホームルームだった。担任が、席替えをします、と言った。教室の空気が、少しだけ動いた。夏休みが終わって教室に戻ってきた僕らは、みんな、あの席を視界に入れない訓練を、それぞれのやり方で終えたところだった。
くじ引きだった。番号を引いて、黒板の座席表に名前を書き込んでいく。窓際の後ろから二番目にも、誰かの名前が入った。誰だったかは、伏せておく。その席は、もう誰の席になってもいい席で、誰の席になっても、僕は同じ顔をしていられた。していられる自分が、嫌だった。
放課後、机の移動があった。
三十二人が、三十三個の机を動かす。一個、余る。
夏のあいだ、誰も座らないまま窓際に置かれていた机。花が置かれて、花が消えて、拭かれて、それでもそこにあり続けた机。座席表の書き換えで、あの机は「鮫島の机」から「余りの机」になった。名前は、紙の上で先に死ぬ。物は、少し遅れて死ぬ。
「余ったの、空き教室に持ってくってー」
誰かが言って、誰も動かなかった。僕は手を挙げた。手を挙げる、というほどのことでもない。近くにいた田口と目が合って、じゃあ俺らで、という流れになっただけだ。
運ぶ前に、僕は一度だけ、その机に座った。
田口が廊下の戸を開けに行っている、三秒くらいの間だった。椅子は先に誰かが運んだらしく、もうなかったから、天板に腰を半分乗せただけだ。窓の外に、屋根と、電線と、建物の隙間に海がひとすじ見えた。
三秒では、何も見つけられなかった。
あの六月の三秒と、同じだった。僕はいつも、三秒しか使わない。三秒で済まそうとして、済んだことにして、あとから五ヶ月かけて数え直す。
「重くない?」
戻ってきた田口が言った。
「この机さ——」
言いかけて、やめた。この机、誰のだったか知ってる? 聞いてどうする。田口は悪くない。知らないことは、罪じゃない。知っていて三秒しか使わなかったことのほうが、ずっと重い。
「……いや。行こう」
机は軽かった。二人で運ぶほどのものでもなかった。
空き教室は、埃と日なたの匂いがした。積み上がった椅子と、使われていない教卓のあいだに、机を下ろした。田口はもう戸口に戻っていた。僕は机の角を、壁と揃えた。曲がっていたわけでもないのに。
教室に戻ると、移動は終わっていた。新しい座席表が黒板の横に貼られて、みんな新しい席で、新しい隣と喋っていた。窓際の後ろから二番目は、ただの座標に戻っていた。
誰も、何も言わなかった。言わないことに、悪意はひとつもなかった。
それが、いちばん、こたえた。
どっちが本当の僕なのか、自分でも分からなかった。
何考えてるか分かんないのは、僕の方だった。
十二月の教室は、いつも通りだった。
期末テストの話。クリスマスの話。誰が誰に告白するとかしないとか。ストーブの周りに人が集まって、窓は白く曇っている。
鮫島の席は、もうない。九月の席替えで消えた。窓際の後ろから二番目には別の奴が座って、寒い寒いと言いながら窓を閉めている。
あの子がいた場所は、教室のどこにもない。
五ヶ月というのは、そういう長さだ。誰も薄情なんかじゃない。僕だって、いつも通り喋って、笑って、ノートを貸して、部活に出ている。「佐伯って、ほんと誰にでもいい奴だよな」と言われて、笑っておいた。
誰にでもいい奴。
誰にでもいい奴は、たぶん、誰のためにも何もしない奴のことだ。
その日の放課後、昇降口で三島に呼び止められた。外はみぞれ混じりの雨だった。
「佐伯くん、ちょっといい?」
三島蒼。鮫島の「親友」。二学期の途中から学校に戻ってきたけど、前とは別人みたいになっていた。よく笑う子だったのに、笑わなくなった。いつも、何かを探すような目をしている。
「愛華のこと、聞きたいの」
「……うん」
「佐伯くん、愛華のことよく見てたって聞いた」
また、それか。
「誰から」
「藤野さん」
藤野。夏のあの会話を、三島に話したのか。
「あの日――七月十七日、佐伯くん、どこにいた?」
一瞬、言葉が出なかった。
これは、あれだ。アリバイというやつだ。
僕は、疑われている。
「……部活。バスケ。七時前まで体育館にいたよ。顧問も部員もいた」
「そう」
三島は僕の目をじっと見ていた。感情の読めない、黒い目。傘の先から、みぞれの粒が落ちる。
「なんで見てたの、愛華のこと」
夏と同じ嘘をつくことも、できた。ないない、苦手だし。三秒で終わる。
でも、この五ヶ月ずっと、あの嘘が喉に刺さったままだった。
「……気になってたから」
正直に言った。
「何考えてるか分かんなくて。いつも窓の外見てて。何見てるんだろうって。それだけ。好きとか、そういうんじゃない。話しかける勇気もなかった。ただ、気になってた」
三島は黙っていた。
「ごめん。それしか、ない」
「……そう」
三島の目から、ふっと力が抜けた。疑いが解けた、というより、また空振りした、という顔だった。
「三島さんは、犯人がいると思ってるんだ」
「いるよ」
即答だった。
「愛華が自分から海に入るはずない。誰かがいる。絶対に」
その言い方が、祈りみたいに聞こえた。
三島は行ってしまった。みぞれの中を、傘を半分閉じたまま。僕は昇降口に立って、思った。
疑われるのは、こんな気分なのか。
あの日どこにいた、と聞かれるだけで、体温が下がる。何もしていなくても、「何もしなかったこと」を、まとめて突きつけられる。
数日後、廊下で藤野と目が合った。彼女は少し気まずそうに目を逸らして、僕も逸らした。
夏のあの日、僕が本当のことを言っていれば、藤野は少しは楽になれたんだろうか。それとも、もっと苦しんだだろうか。
分からない。僕は自分を守るのに忙しくて、そこまで考えもしなかった。
その週の金曜、コンビニの前で雄大さんに会った。バイト帰りらしかった。自転車を停めて、缶コーヒーを飲んでいる。息が白い。
「雄大さん」
「……おう」
小さい頃から知っている人だ。近所の兄ちゃん。鬼ごっこで、いつもわざと捕まってくれた人。海で泳ぎを教えてくれた人。
でも、いつからか、あまり話さなくなった。僕が悪いのかもしれない。姉ちゃんと優子さんの繋がりで、雄大さんの彼女がうちによく来る。それが雄大さんは面白くないらしい、と姉ちゃんが笑っていた。笑いごとじゃないと思う。
「最近、姉ちゃんが心配してた。優子さんも」
「……別に。何もねえよ」
「鮫島さんのこと?」
缶を持つ手が、止まった。
「……お前には関係ないだろ」
関係ない。
その通りだ。僕は関係ない。バイト先の先輩でもない。親友でもない。家族でもない。恨んでもいない。ただの、同じクラスだった奴。
でも。
「関係なくても、気になるよ。同じクラスだったし。雄大さんも、何かあったんじゃないの。あの日」
言ってから、しまった、と思った。三島と同じことをしている。
雄大さんは缶を握り潰して、ゴミ箱に投げた。外れた。舌打ちして、拾って、入れ直した。
「何もねえよ」
背中を向けて、自転車にまたがった。
「修也」
「うん」
「……いや、いい」
雄大さんは行ってしまった。白い息だけが、少しの間、そこに残った。
いや、いい。
また、それだ。
みんな、何かを言いかけて、やめる。鮫島も。雄大さんも。
言いかけてやめた言葉は、どこに行くんだろう。誰にも受け取られなかった言葉は。
夜、姉ちゃんの部屋から呼ばれた。
「修也、あんたさ、学校で何か聞いてない? 鮫島さんちの話」
「なんで」
「優子がさ、記事にしたいって言ってるの。愛華ちゃんのこと」
こたつに入ったまま、姉ちゃんは顔をしかめていた。
「やめなよって言ったんだよ、私は。鮫島さんの家、取材嫌がってるんだから。優子、一回追い返されてるんだよ、玄関で。なのに、まだ諦めてない」
「なんで、そんなに書きたいんだろ」
「雄大くんのためなんだって」
姉ちゃんは、ため息をついた。
「雄大くん、あれからずっと変でしょ。優子、心配してるの。真相がはっきりすれば雄大くんも楽になるって、思ってるみたい。事故なら事故って、ちゃんと形になれば、って」
雄大さんのため。
優子さんは、善意の人だ。昔から知っている。人のために動ける人。うちの婆ちゃんが入院した時も、誰より先にお見舞いに来てくれた。
でも、と思う。
鮫島の家族は、嫌がっている。海岸で会ったお父さんの顔を思い出す。娘のことを何も知らなかった、と言った人。あの人の傷を、記事は抉るんじゃないのか。
誰かのための善意が、別の誰かを抉る。それでも善意は、止まらない。
「あんたもさ」
姉ちゃんが、僕を見た。
「七月、しばらく変だったよね。ご飯、食べれてなかったし」
「……そうだっけ」
「そうだよ。まあ、いいけど」
姉ちゃんはそれ以上、聞いてこなかった。昔から、踏み込んでこない人だ。踏み込まれたら、僕は何と答えたんだろう。
部屋に戻って、ベッドに転がって、スマホを開いた。
鮫島愛華のアカウントを、検索した。
夏に一度見て、それきり開いていなかった。見る資格がない気がして。
フォロワーは二十人もいない。投稿は少ない。海の写真。空の写真。雲の写真。人が写っていない。一枚も。
三月の投稿で、指が止まった。
鳥の写真。白と黒の、小さな鳥。ピントがぼやけている。波の上に、ぽつんと浮かんでいる。
キャプションは一言。「見つけた」。
見つけた。
何を見つけたんだろう。この鳥を? この鳥が、あの子にとって、何だったんだろう。
いいねは二つ。コメントはゼロ。
誰も反応していない。あの子が「見つけた」と書いた何かに、誰も。
僕は、この投稿を見ていなかった。フォローすらしていなかった。同じ教室で、あんなに視線の行き先を気にしていたくせに、あの子が自分から差し出していた「窓の外」を、僕は見ていなかった。
窓の外を見るあの子を見ていただけで、あの子が見ていたものを、見ようとしなかった。
あの六月の放課後。あれはもしかして、この鳥のことだったんじゃないのか。
分からない。確かめる方法は、もうどこにもない。
画面の中の鳥は、ぼやけたまま、波の上に浮かんでいる。
十二月の半ば、もう一度、海岸に行った。
日曜の朝だった。空は灰色で、海も灰色で、風が刺すみたいに冷たかった。
花屋はまだ開いていなかったから、庭の花を一輪だけ、鋏で切って持っていった。名前も知らない、白い小さな花。母さんが育てている花。あとで謝ろうと思った。
岩場の献花は、減っていた。五ヶ月経つと、こうなる。枯れた花。倒れた缶ジュース。色の抜けたリボン。
僕が十一月に置いた黄色い花も、茶色くなって、岩の隙間に張りついていた。
しゃがんで、手を合わせた。
何を祈ればいいのか、今日も分からなかった。安らかに、というのは変な気がした。あの子が安らかかどうか、僕には分からない。ごめん、というのも違う気がした。謝るほどの関係が、僕とあの子の間には、なかった。
関係がなかったこと自体を、謝りたいのかもしれなかった。
立ち上がって、手の中の白い花を見た。
岩の上に置こうとして、やめた。どうせ風に飛ばされる。枯れて、茶色くなって、岩に張りつく。
僕は波打ち際まで下りて、花を海に置いた。
花は、浮かんだ。
波に揺られて、寄って、離れて、少しずつ沖へ流れていく。白い点になって、それでも浮かんでいる。
沈まない。
あの子は沈んだのに、花は沈まない。
あの子は海の底まで行ったのに、僕たちの花は、水面に浮かんでいるだけだ。
献花も、涙も、噂も、後悔も、ぜんぶ同じだ。水面に浮かんで、揺れて、そのうち見えなくなる。海の底までは、届かない。あの子のいるところまでは、届かない。
水に浮かんだ花。浮花。
僕たちの弔いは、ぜんぶ浮花だ。
風が吹いて、白い点が見えなくなった。
僕は考える。この五ヶ月、ずっと考えていたことを。
藤野は、あの子を恨んでいたらしい。恨みは、歪んでいても、関係だ。
雄大さんは、たぶんあの日、何かがあった。後悔は、関係だ。
三島は、親友だった。中身がなくても、隣にいた。それも関係だ。
お母さんは口を出しすぎて、お父さんは家にいなくて、それだって、血の繋がった関係だ。
僕には、何もない。
恨んでもいない。断ってもいない。隣にいたこともない。血も繋がっていない。
ただ、見ていた。気にしていた。それだけ。
「気にしていた」は、関係じゃない。何もしなければ、見ていないのと同じだ。
いや、違う。同じじゃない。見ていたのに何もしなかったんだから、見ていなかったより、たちが悪い。
僕は、傍観者だった。
一番外側の、一番安全な場所から、あの子を眺めていた。窓の外を見るあの子を、窓の内側から見ていた。
みんな、何かを後悔している。僕だけが、後悔する材料すら持っていない。
何もしなかったことは、一番軽い。
一番軽いのに、五ヶ月経っても、沈まない。浮かんだまま、ずっと視界の端にある。あの子の席みたいに。
自殺だったのか。事故だったのか。誰かに殺されたのか。
考える資格があるのかどうかでさえ、僕には分からない。
あの子は、僕に何も遺さなかった。
当たり前だ。僕は、遺される側ですらなかった。
あの六月の、言いかけてやめた言葉。あれが、僕があの子から受け取りかけた、最初で最後のものだった。三秒を惜しんで、受け取り損ねた。もう、どこにもない。
海鳥が、遠くで鳴いている。
あの子が見ていたものを、僕はまだ知らない。
彼女は、何も遺さなかった。




