5.浮華
鮫島愛華は、俺の娘だった。
だった、としか言えない。もういないのだから。
十一月。事件から四ヶ月が経って、ようやく船が港に戻った。長い航海だった。いつもより長く感じた。娘が死んだという知らせを受けてから、ずっと海の上にいた。葬儀にも間に合わなかった。四十九日にも間に合わなかった。百日法要にようやく間に合った。
父親として、最低だ。
知らせが来た日のことは、細部まで覚えている。
七月の半ば。日本から何千キロも南の、海の上だった。縄を揚げている最中に、操舵室から呼ばれた。船頭が、無線の受話器を持ったまま、俺を見ていた。長く一緒に乗ってきた男だ。その男が、目を合わせなかった。
「鮫島。会社からだ」
会社からの無線で、いい話だったことは一度もない。それでも、頭に浮かんだのは船のことだった。書類の不備か、水揚げの段取りか。娘のことは、考えもしなかった。海の上にいるあいだ、家のことは考えない。考えないことで続けてこられた仕事だった。
落ち着いて聞け、と船頭は言った。落ち着いて聞け、で始まる話も、いい話だったことがない。
娘さんが亡くなった、と受話器の向こうの声は言った。海で見つかった、と。
意味が、分からなかった。
言葉としては分かる。娘。亡くなった。海。一つずつは分かるのに、つながらない。愛華は学校に行って、バイトに行って、家にいる。海に入る理由がない。人違いだと思った。同じ苗字の、別の家の話だと。この町に鮫島は、うちしかないのに。
その夜、衛星電話で智恵子にかけた。
回線の向こうの声は、半秒遅れて届く。俺が何か言うたびに、半秒の間があって、それから智恵子の泣き声が来た。その半秒のあいだ、俺は毎回、間違いであってくれと思った。半秒後に、間違いではなくなった。それを、何十回も繰り返した。
会社は、次の寄港地から帰るか、と言ってくれた。三週間後、外国の港に入る予定があった。飛行機を乗り継げば帰れる。
だが俺は断った。
葬儀にはどうせ間に合わない。今さら帰っても――そう言った。船頭は、何も言わなかった。智恵子には、途中では帰れない、と言った。
嘘だった。
帰れた。帰れたのに、帰らなかった。理由は、今なら分かる。怖かったのだ。愛華のいない家に入るのが。骨になった娘と対面するのが。海の上にいれば、愛華はまだ、留守のあいだの家にいるのと同じだった。俺にとって娘は、いつも「帰ったら会える子」だった。帰らなければ、会えないままでいられる。会えないままなら、いないことに、ならない。
そういう算数で、俺は海に残った。
葬儀の日、俺はマグロを凍らせていた。マイナス六十度の冷凍庫に、獲った魚を運び込んでいた。手を動かしていれば、考えずに済む。手を止めると、駄目だった。だから四ヶ月、ほとんど手を止めなかった。涙より先に手が動く体に、俺は長い年月をかけて、自分をしてきた。
寄港地で娘に土産を買う習慣は、いつからかなくなっていた。小さい頃は買って帰った。木彫りの魚だの、外国の菓子だの。愛華が中学に上がった頃、何を買えばいいのか分からなくなって、やめた。何が欲しいか、聞けばよかったのだ。半年に一度しか会わない娘に、何が欲しいか聞くことすら、俺はしなかった。
縄を揚げるたび、海鳥が集まってきた。
何十羽も船のまわりを飛んで、こぼれた餌を狙って海面に降りる。ずっと、ただの景色だった。うるさい、としか思っていなかった。あの夏からは、少し違った。鳥が海に潜るのを、気がつくと目で追っていた。なぜかは、分からなかった。娘が死んだ海と、この海は、つながっている。それだけのことを、確かめるみたいに。
一ヶ月が過ぎた頃の電話で、智恵子は、帰ってきて、と言った。一緒に考えて、と。俺は、なるべく早く帰る、と答えた。なるべく早く、は、船の都合という意味だった。智恵子は、たぶん分かっていた。分かっていて、それ以上は言わなかった。俺たちは、そういう夫婦だった。
時化は、二度あった。
大きいのは、九月の頭だった。低気圧が育って、うねりが三日続いた。あとから数えたら、ちょうど、四十九日の頃だった。縄は入れられない。甲板作業は禁止。船は波に頭を立てて、ただ耐える。
手が、止まった。
手を動かしていれば、考えずに済む。時化は、それを取り上げる。飯を食って、寝棚に入って、天井を見る。船の天井は鉄で、結露が伝って、木目なんてものはない。ふと、愛華の部屋の天井がどんなだったか、考えた。思い出せなかった。当たり前だ。あの部屋に、俺はほとんど入ったことがない。
同室の若いのは、寝棚の壁に家族の写真を貼っている。女房と、赤ん坊。時化のたびに、そいつは写真の位置を直す。俺の棚には、何も貼っていない。貼るという発想が、そもそもなかった。海の上に家を持ち込まない。そうやって三十年やってきた。分けてきたつもりだった。分けたまま、片方が終わった。
うねりで船体が持ち上がるたび、腹の底が浮く。
若い頃は、時化が嫌いじゃなかった。海が本気を出している、と思った。今は違う。波の一つ一つが、同じ海の続きだと思う。娘が入った海と、俺の船の下の海は、地図の上で一枚につながっている。海で娘を亡くした人間が、海の上で飯を食い、海の水で顔を洗っている。時化の夜は、その順番のおかしさを、まともに考えさせられる。
三日目の夜、無線室の前で、船頭に言われた。
「鮫島。降りてもいいんだぞ、次で」
「……考えとく」
考えとく、と言ったまま、考えなかった。考える場所が、海の上しかなかった。陸の上に、考える場所を持っていなかった。
時化が明けて、縄を入れた。手が動き出すと、また考えずに済んだ。
済んでしまうことが、いちばん、駄目なところだった。
――そうして四ヶ月、俺は海の上にいた。
港に降り立つと、潮の匂いがした。この町の匂い。ずっとこの匂いの中で生きてきた。愛華もこの匂いの中で育った。智恵子が迎えに来ていた。四ヶ月ぶりに見る妻は、痩せていた。目の下に深い隈がある。白髪が増えた気がする。
「おかえり」
「……ああ」
ただいま、と言っていいのかもわからなかった。娘のいない家に、ただいまと。
車に乗り込む。智恵子が運転する。俺は助手席で窓の外を見ていた。港。漁協。商店街。学校。この小さな町で、愛華は十七年間生きていた。そして死んだ。俺はその十七年間のほとんどを、海の上で過ごしていた。
家に着いて玄関を開けると、愛華の靴がしまわれていた。それが今さらのように胸に刺さる。愛華の靴。小さな靴。高校に入ってから買った紺色のローファー。「これでいい」と言って、一番安いやつを選んでいた。もう、その靴を履く人間はいない。
「愛華の部屋、そのままにしてあるから」
「……ああ」
二階に上がる。廊下の突き当たり。部屋はきれいに整頓されている。教科書が並んだ本棚。クローゼットにかかった制服。何もない机。几帳面で、静かで、何も主張しない。 俺はこの部屋に何度入ったことがあるだろう。数えるほどしかない。帰ってきても、愛華の部屋に入ることはほとんどなかった。用がなかった。話すこともなかった。
「浩一さん、これ」
「スケッチブック?」
「愛華が描いてた絵。私も知らなかったの」
海鳥の絵だ。白と黒の羽の、ウミスズメ。愛華がこんな絵を描いていたなんて知らなかった。それに愛華が鳥に興味があったなんて、知らなかった。
俺は娘の何を知っていたんだろう。名前。年齢。学年。それくらいだ。好きな食べ物は何だった? 好きな音楽は? 好きな本は? 将来の夢は? 何も知らない。聞いたことがない。聞こうともしなかったかもしれない。
愛華、という名前をつけたのは、愛されて、華やかに生きてほしいと願ったからだ。でも愛華は華やかとは程遠い子だった。静かで、暗くて、いつも俯いていた。俺はそれを、どこか残念に思っていた。もっと明るい子になってほしかった。名前の通りに。でもそれを言う機会はなかった。いつも海の上にいたから。
俺は稼いでいればいいと思っていた。金を入れて、家族を養って、それが父親の仕事だと。でも、それだけだった。俺がやっていたのは、それだけだった。
夜、智恵子と二人での夕食。愛華がいた場所には、誰も座っていない。箸も茶碗も置いていない。静かな食卓に、波の音が遠くから聞こえる。
「警察から連絡があったの。捜査は継続中だって。でも、進展はないみたい」
「……そうか」
「自殺か、事故か、まだ分からないって」
自殺。その言葉が重く響く。
「他殺の可能性は?」
「低いって。争った形跡がないから」
争った形跡がない。つまり、愛華は誰かに突き落とされたわけじゃない。自分で海に入ったか、足を滑らせたか。
「智恵子」
「……なに」
「愛華は、どんな様子だった? 最近」
「……私にも分からないの。愛華は何も話してくれなかったから」
「何も?」
「うん。反抗期だったのかしら。『うん』とか『別に』とか、それだけ」
たしかにそうだった。
「私のせいかもしれない。私、愛華にいろいろ言いすぎた。勉強しなさい、友達を作りなさい、もっと明るくなりなさいって。愛華のためを思って言ってたの。でも、愛華は何も話さなくなった」
「……そうか」
「愛華は家に居場所がなかったのかもしれない。私が追い詰めたのかもしれない」
居場所がなかった。その言葉が、胸に刺さる。俺も同じだ。俺は家にいなかった。いても、愛華と話さなかった。愛華にとって、この家は居場所だったのだろうか。智恵子に何か言われて、俺には何も言えなくて、誰にも本当のことを話せなくて。それで、海に。
「自殺、なのかな」
智恵子が呟いた。
「愛華は、自分で死を選んだのかな」
俺は答えられなかった。愛華が何を考えていたか、俺は何も知らない。でも、もし自殺だとしたら。俺たちが追い詰めたことになる。智恵子の過干渉。俺の不在。二人で自分たちの娘を殺したことになる。胸に嫌な重たさを感じる。
その夜、眠れなかった。
隣で智恵子が寝息を立て始めてから、俺は起きて、階段を上がった。二階の突き当たり。愛華の部屋。
ドアノブに手をかけて、止まった。
ノックをしそうになったのだ。誰もいない部屋に。手の癖というのは、頭より正直にできている。俺はこの部屋に入るとき、いつもノックをして、返事を待って、結局用件だけ言って、入らずに済ませてきた。
ドアを開けた。
片付いた部屋だった。智恵子が、そのままにしてある、と言っていた。そのまま、というのは、時間が止まっているという意味じゃなかった。整えられて、拭かれて、待っている部屋だった。帰ってこない人間を待つ形に、整えられていた。
机の上に、スケッチブックが置いてあった。
椅子を引かずに、立ったまま、開いた。
鳥だった。海鳥。白と黒の、小さいやつ。名前は知らない。ただ、形には見覚えがあった。縄を揚げるたび、船のまわりに湧いてた連中と、同じ形をしている。四ヶ月、うるさいとしか思っていなかった鳥を、娘は、こんなふうに描いていた。
翼の一枚一枚まで、描き込んである。消しゴムで直した跡がある。直して、また描いて、また直してある。時間の、かかった絵だった。この時間のあいだ、娘は生きていて、この机で、これを描いていた。
「……うまいな」
声に出ていた。誰もいない部屋で。
言ってから、喉の奥に、妙な感触が残った。ずっと昔、何かに向かって、同じことを言った気がする。浜。網。日なたの匂い。小さい手。——それだけだった。縁だけあって、中身が出てこない。思い出は、貸したことも忘れた金みたいに、催促のしようがない。
ベッドに腰を下ろして、天井を見上げた。
娘が十七年見ていた天井だ。古い木目が走っている。しばらく見上げていたが、ただの木目だった。
部屋を出て、ドアを閉めた。音を立てないように、ゆっくり。閉めてから、思った。生きているうちに、一度でもこうやって、夜中にこの部屋の前に立ったことがあったか。なかった。ドアは、開ければ開いた。開けなかったのは、俺だ。
翌日、警察に行った。四十代の、男性の担当刑事に話を聞いた。事務的な口調で説明された。
「鮫島さんのお嬢さんの件ですが、現時点では自殺・事故の両面で捜査を継続しているところです」
「他殺の可能性は」
「争った形跡がないこと、不審な人物の目撃がないことから、可能性は低いと判断しています」
「網のことは」
「はい。お嬢さんの腰に古い漁網が絡まっていた痕跡は確認されています。海中に放置されていた網に足を取られた可能性があります」
俺の網かもしれない。遠洋に切り替えた時、全部は処分できなかった。いくつか海に残したままだった。
「その網は、誰のものか分かったんですか」
「特定には至っていません。古いもので、この辺りの漁師が使っていた一般的な種類で」
「船との接触の可能性は」
「調査しましたが、接触の痕跡は見つかりませんでした。スクリューによる損傷ではないと結論づけています」
「刑事さん」
「はい」
「娘は、自殺だと思いますか」
「……正直に申し上げると、分かりません。遺書がない。動機も不明。ただ、お嬢さんが自ら海に入った可能性は否定できません」
「なぜ」
「三時半頃、お嬢さんが一人で浜の方へ歩いていく姿が目撃されています。連れはいません。争った形跡もない。……それと、これは申し上げにくいのですが」
刑事は少し言いよどんだ。
「岩の上に、靴が揃えて置いてありました。靴下を丸めて中に入れて、二足、きちんと」
靴。愛華の靴。
「自ら入水される方は、履き物を揃えて置いていかれることが、しばしばあります。断定はできません。ただ、状況として、そういうことです」
それは決定的だと思った。
揃えられた靴。愛華らしい、と思ってしまった。娘のことを何も知らないくせに、そこだけは、愛華らしいと思った。脱いだ靴を几帳面に揃えて、誰にも迷惑をかけないように海に入っていく後ろ姿が、見てもいないのに、見えた。
死ぬときまで、良い子だったのか。
「お嬢さんが海に入った理由は、分かっていません。ただ、当日お父さんの船が出港したことは把握しています」
「……ああ」
「お嬢さんが見送りに来ようとした可能性もあります。でも、出港には間に合わなかった。その後、何らかの理由で海に入り、網に絡まって溺れた。そういう可能性もあります」
その回答には違和感があった。見送り? 愛華が俺の見送りに来ようとした?
でも、愛華は見送りに一度も来たことがない。俺が遠洋に出る時、いつも智恵子だけが見送りに来た。愛華は学校があるとか、バイトがあるとか、そういう理由で来なかった。本当は来たくなかっただけかもしれない。俺と話すことがないから。
なのに、あの日だけ見送りに来ようとした? 信じられない。でも、そうだとしたら、俺が出港した時、愛華はどこにいたんだろう。船から岸を見たが、愛華の姿は見えなかったことは確かだ。智恵子だけが手を振っていた。愛華は、俺の船が出ていくのを、どこかで見ていたのか。見送りに間に合わなくて、一人で浜にいて、それで?
海岸に行った。愛華が見つかった岩場に、献花が置いてある。風雨に晒されて、色褪せた花。新しい花もいくつかある。
「愛華、父さんだ」
口に出してみる。馬鹿みたいだ。愛華はもういない。聞こえるはずがない。でも、言わずにはいられなかった。
「遅くなった。葬式にも間に合わなくて、すまなかった」
波の音が返事の代わりに聞こえる。
「お前が何を考えてたか、父さんは何も知らない。鳥の絵を描いてたんだな。知らなかった。お前が何を好きだったか、何も知らなかった」
風が吹く。十一月の風は冷たい。
「父さんは、父さんのつもりでいた。稼いで、家族を養って、それで父親をやってるつもりだった。でも、それだけだった。お前と話さなかった。お前のことを知ろうとしなかった」
ふと、スケッチブックを思い出す。何枚も描かれた鳥の絵。
「お前にとって、父さんは何だったんだろうな」
涙が出てきた。堪えられなかった。
「俺は父親じゃなかった。ただの、たまに帰ってくる知らないおじさんだったんだ。俺は何も知らなかった。愛華が何を考えてたか、何が好きだったか、何も知らなかった。でも、それだけじゃない。愛華も俺のことを何も見てなかった。見る価値がないと思ってた。最初から諦めてた」
俺は父親だった。愛華の父親だった。でも、中身がなかった。名前だけ。肩書きだけ。
「父親」という言葉だけが浮いていて、中身は空っぽだった。名前だけの父親。中身のない父親。浮華。俺自身が、浮華だった。
「すまなかった。何もしてやれなくて、すまなかった」
誰かが近づいてくる気配がした。
振り返ると、愛華と同じ高校の制服を着ている若い男が立っていた。背が高くて、顔立ちが整っている。手に花を持っている。
「あの、鮫島さんの、お父さんですか」
「……ああ」
「すみません、僕、佐伯といいます。愛華さんと同じクラスでした」
同じクラス。愛華のクラスメイト。
「そうか」
「献花に来ました。ずっと来ようと思ってて、でも、なかなか来れなくて」
男は花を置いた。黄色い花。小さな向日葵に似た花。
「わざわざありがとう。愛華とは仲良くしてくれてたのか?」
「愛華さんとは、あまり話したことなかったんですけど」
「……そうか」
「でも、気になってたんです。何考えてるか分からなくて、でも、それがなんか気になって。まぁ、たぶん僕のことなんか眼中になかったと思います。話しかけても、『うん』とか『別に』とか、それだけで」
「俺も同じだ。愛華とはほとんど話せなかった」
「……そうなんですか」
「ああ。俺はずっと海の上にいたから。帰ってきても、何を話していいか分からなかった」
「……そうですか」
「君は、愛華が自殺したと思うか」
「……分かりません。でも、愛華さんが自分から死を選ぶとは、あまり思えないです」
「なぜ」
「なんとなく、ですけど。愛華さんは静かな人でしたけど、暗いって感じじゃなかった。何か、自分の世界を持ってる感じがしました。窓の外をよく見てて、何かを見てる感じで」
自分の世界を持っている。愛華は、窓の外を見ていた。何を見ていたんだろう。鳥か。海か。空か。
「でも、僕には分かりません。愛華さんのことを、僕は何も知らないから。……すみません、長々と。失礼します」
男は頭を下げて、去っていった。
俺は一人で海を見ていた。愛華は自殺したのだろうか。その可能性は否定できない。家に居場所がなかった。母親に追い詰められた。父親はいなかった。誰にも本当のことを話せなかった。
俺のせいだ。俺がもっと家にいれば。俺がもっと愛華と話していれば。愛華は死ななかったかもしれない。
家に戻ると、智恵子が電話をしていた。誰かと話している。声が硬い。
「……いえ、取材はお断りします。はい。はい。失礼します」
電話を切った智恵子は、ため息をひとつついた。
「誰だ」
「新聞社の人。記事を書きたいって」
「断ったのか」
「当たり前でしょう。娘の死を見世物にされてたまるもんですか」
智恵子の声が震えていた。
「前にも来たの。野々村っていう若い女の人。玄関で追い返した。でも、また電話してきたの。取材なんかさせない。愛華のことを、他人に語られたくない」
「……ああ」
俺も同じ気持ちだ。愛華のことを知らない人間に、勝手なことを書かれたくない。でも、俺も愛華のことを知らない。知らないのに、「語られたくない」と思っている。矛盾している。でも、それが本音だ。愛華の死は、俺たちのものだ。俺たちが背負うべきものだ。他人に渡したくない。
静かに、一人で、誰にも見られずに死んでいった、愛華。俺がつけた名前は、願いじゃなくて呪いだった。その名前を背負って、愛華は十七年間生きた。名前の通りになれなくて、苦しんでいたのかもしれない。俺は何も知らない。何も聞かなかった。聞く機会を作らなかった。聞く関係を作らなかった。だから、愛華は死んだ。俺たちが殺した。そう思うしかない。愛華は自分で死を選んだのだ。この家に居場所がなくて、誰にも本当のことを話せなくて、一人で海に行って、死んだのだ。
他殺じゃない。事故でもない。自殺だ。俺たちが追い詰めた結果の、自殺だ。そう思うしかない。それ以外に、愛華の死を説明できない。
彼女は、何も遺さなかった。




