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ふ か  作者: 柿原 凛


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4/9

3.負荷

 鮫島愛華(さめしまあいか)は、私の知らない子だった。


 そのことに気づいたのは、娘が死んでからだった。


 七月の終わり。葬儀が終わって、四十九日にはまだ間がある。夫は海の上。帰ってこられない。私は一人で、娘の部屋を片付けている。


 片付ける、という言葉は正しくないのかもしれない。本当は関係ない。ただ、ここにいたかった。娘が生きていた場所に。娘の匂いが残っている場所に。


 愛華の部屋は、きれいに整頓されていた。


 教科書は本棚に並び、制服はクローゼットにかかり、机の上には何もない。几帳面な子だった。私が「部屋を片付けなさい」と言う必要は一度もなかった。言われる前にやる子だった。何でも、言われる前にやる子だった。良い子だった。手のかからない子だった。


 ただ、私が望んだような子では、なかった。


 クローゼットを開ける。制服の隣に、私が買った服が並んでいる。明るい色のブラウス。花柄のスカート。袖を通した姿を、ほとんど見たことがない服たち。


 その下の段に、見覚えのない服が畳んであった。灰色。紺。黒。どれも同じような、暗い色。バイト代で買ったのだろう。私に相談もなく。「その服、地味すぎない?」と、何度言っただろう。言うたびに、愛華は「うん」と言った。うんと言いながら、この子は下の段を増やしていた。私の知らないところで、私の選ばなかった色を、選んでいた。


 海の色だ、と思った。この町の、灰色の海の色。


 引き出しを開ける。文房具。便箋。使いかけの消しゴム。何の変哲もないものばかり。  二段目。ノート。授業用じゃない、自由帳みたいなやつ。開いてみる。


 鳥の絵だ。何枚も、何枚も。鉛筆で丁寧に描かれた鳥。海鳥。カモメじゃない、もっと小さな鳥。白と黒の羽。丸い目。翼を広げて飛んでいる姿。水に潜っている姿。ページをめくると、「ウミスズメ」とメモ書きがあった。


「三月二十八日 浜で見つけた」

「四月十日 また会えた」

「元気そう」


 私は知らなかった。


 愛華がこんな絵を描いていたことを。鳥に興味があったことを。浜で何かを見つけていたことを。


 絵は上手いとは言えない。デッサンが歪んでいるし、影のつけ方もおかしい。美術の成績は普通だった。特別な才能があるわけじゃない。なのに、何枚も何枚も描いている。同じ鳥を、何度も何度も。なぜ、こんなものを描いていたんだろう。スケッチブックを抱えたまま、床に座り込んだ。


 窓から差し込む光が、埃を照らしている。曇り空の、弱い光。この町はいつもこんな天気だ。愛華が生きていた時も、死んだ後も。


 この子は、何を考えていたんだろう。


 良い子だった。真面目で、静かで、反抗しない子だった。

 

 でも、私が知らないことを、こっそりやっていた。


 なぜ、言わなかったんだろう。「鳥が好きなの」「絵を描いてるの」と、なぜ言わなかったんだろう。

 

 言えば、私が何と言うか分かっていたからかもしれない。


「そんな暇があるなら勉強しなさい」

「絵なんか描いても将来の役に立たないでしょう」


 私なら、そう言っただろう。

 そう言う母親だと、愛華は分かっていたのかもしれない。


 愛華が生まれたのは、十七年前の冬だった。

 予定日より二週間早く、珍しく雪の降る夜に生まれた。小さな赤ん坊だった。二五〇〇グラムに満たない、手のひらに乗りそうなくらい小さな子。

 名前は夫と二人で決めた。愛華。愛されて、華やかに生きてほしい。


 この小さな命が、たくさんの人に愛されて、花のように美しく咲いてほしい。そう願って名付けた。

良い名前だと思った。今でも思っている。でも、愛華は名前の通りにはならなかった。


 明るくない。華やかじゃない。友達は少ないし、目立たないし、いつも俯いている。私はそれが不満だった。


 もっと明るくなりなさい。もっと友達を作りなさい。もっと笑いなさい。


 何度も言った。愛華のためを思って、言った。


 愛華は「うん」と言って、俯いた。反抗しなかった。でも、変わらなかった。


 私の言うことを聞いているのに、変わらない。それがもどかしかった。


「せっかく良い名前をつけたのに」


 一度、そう言ってしまったことがある。愛華が中学生の時だったと思う。何の話の流れだったかは覚えていない。


 愛華は何も言わなかった。ただ、俯いていた。いつものように。


 あの時、愛華は何を思っていたんだろう。今さら考えても仕方がない。聞けばよかったのだ、あの時。「今、何を思った?」と。


 聞かなかった私が悪い。いや、悪いというのは違う。私は愛華のためを思って言っていた。暗い性格より明るい方がいい。友達は多い方がいい。名前に相応しい人間になった方がいい。それは間違っていないはずだ。間違っていないはずなのに、愛華は私に何も話さなくなった。


 いつからだろう。中学生の頃には、もうほとんど話さなかった。「うん」「別に」「普通」。それしか言わなくなった。反抗期なのだと思っていた。そのうち終わると思っていた。終わらないまま、愛華は死んだ。



 進路の話で揉めたことがある。中学三年の秋だった。愛華の成績なら、県立の進学校を狙える。私はそう思っていた。


「この町の高校でいい」


 愛華は諦めたようにそう言った。


「なんで? もっと上を目指せるのに」

「……近いから」


「そんな理由で将来を決めないで。あなたのためを思って言ってるのよ」


 愛華は黙っていた。反論しない。でも、頷きもしない。一緒の空間にいないような、魂を別の空間に置いてきたような、そんな空っぽの表情に、強烈に腹が立った。


「進学校に行けば、もっと良い大学に行ける。良い大学に行けば、良い仕事に就ける。この町にいたら、何もないでしょう? ……愛華、聞いてるの?」


「聞いてる」


「じゃあ、分かったでしょう?」


「……考えとく」


 愛華はいつもそう言った。そして結局、自分の意見を通した。この町の高校に願書を出した。せっかくアドバイスしたのに。愛華のためを思っていたのに。反論しなかった。謝りもしなかった。ただ、俯いていた。そして、この町の高校に入った。


 それから私は諦めた。この子は頑固だ。人の話を聞かない子だ。せっかくのアドバイスを聞かない子だ。高校に入ってからは、アルバイトを始めた。水産加工場。魚をさばく仕事。


「街にはもっと良いアルバイトがあるでしょう。カフェとか居酒屋とか、声出して元気になれるかもよ?」

「近いから」

「そればっかり。近ければいいってものじゃないでしょう」

「……でも、決めたから」


 同じだった。愛華は譲らなかった。何を考えているのか分からない。親の言うことを聞かないくせに、反抗するわけでもない。静かに、黙って、自分の道を行く。


 まるで、私のことなど見えていないみたいに。



 スケッチブックを見ていると、日付の書いてあるページが目に入った。


 最後のページの前。七月十五日。


 愛華が死んだのは、七月十七日。死ぬ二日前まで、この子は鳥の絵を描いていた。 そこに描かれているのは、今までと少し違う。羽がぼろぼろになっている。片方の翼が変な方向に曲がっている。「ケガしてた」と、小さくメモ書きがある。「明日、様子を見に行こうかな」とも。


 明日。七月十六日。愛華が死んだ前日。この子は、傷ついた鳥を見つけていた。だからあの日――。いや、これが関係しているのかどうかは分からない。分かるのは、愛華がこんなことをしていたことと、私が全く知らなかったということだけだ。


 インターホンが鳴った。


 重い体を起こして、玄関に向かう。ドアを開けると、四十代くらいの男性警察官が立っていた。事件後、何度か家に来た人だ。


「鮫島さん、少しお時間よろしいですか」

「……はい」


 リビングに通す。お茶を出す手が震える。


「お嬢さんの件で、いくつか分かったことがありまして」

「……はい」

「ご遺体の損傷について、詳しい検査結果が出ました」


 足。愛華の足は、なかった。いや、足だけではなかった。見つかったとき、腰から下が、なかった。


「噂になっているような、サメによる損傷ではありませんでした」

「……ああ」


「死後損傷です。海洋生物による、死後の損傷。つまり、お嬢さんが亡くなった後に、何らかの生物に食べられた可能性が高いと」


 死後。亡くなった後。つまり、愛華は足を食べられて死んだのではない。死んでから、食べられた。この町で噂になっていた、サメに食べられて出血多量で死んだ、というのは噂話の域を出なかったということだ。


「じゃあ、死因は……」


「溺死です。肺に海水が入っていました。溺れて亡くなった後、遺体が海中で損傷を受けたものと思われます」


 溺死。愛華は、溺れて死んだ。なぜ。なぜ溺れたのか。泳げない子じゃなかった。体育の授業では普通に泳いでいたはずだ。


「ということは……他殺の可能性があるということでしょうか?」


「遺書は見つかったのでしょうか?」


「……いえ。ということは、誰かに溺れさせられたのでしょうか」


「今のところ、そこはまだはっきりしていません。自殺と他殺、両方の線で捜査を進めています。……ああ、それと、もう一つ」


 警察官の声が、少し重くなった。


「お嬢さんの腰に、網が絡まった痕跡が見つかりました」


「……網?」


「はい。古い漁網です。海中に放置されていたもののようで、それに足を取られた、もしくはそれが凶器として使用された可能性があります」


 網。漁網。頭の中で、何かが引っかかった。


「その網は……誰のものか、分かったんですか」


「まだ特定には至っていません。ただ、かなり古いもので、この辺りの漁師が昔使っていた種類のものだと」


 この辺りの漁師。夫は、十年前まで近海漁業をしていた。小さな船で、この海で魚を獲っていた。遠洋漁業に切り替えた時、古い道具は処分したはずだった。でも、全部ではなかった。「いつか使うかもしれない」と言って、いくつかは残していた。網も、その中にあったかもしれない。いや、あったはずだ。


「それから、念のための確認ですが」


 警察官が、書類を取り出した。


「事故の可能性も含めて、当日の出入港記録を調べています。ご主人の船は、七月十七日の午後四時に出港されていますね」


「……はい」


「お嬢さんが最後に目撃されたのは、午後三時半頃です。時間的に近いので、念のため、船舶との接触の可能性も調査しています」


 船舶との接触。単純な接触なら足がなくなることはないだろう。ということは、スクリューに巻き込まれたのかもしれない。夫の船の、スクリューに。


「もちろん、現時点では可能性の一つに過ぎません。ただ、調査の一環としてお知らせしておこうと思いまして」


 警察官は何か言い続けていた。でも、もう耳に入らなかった。


 網で絡め取り、スクリューで引き裂いた。

 夫が残していった網と、夫が乗っていた船が。


 私たちは、二人がかりで娘を殺したのかもしれない。


「鮫島さん? 大丈夫ですか?」


「……すみません。少し、疲れていて」


「そうですか。何かあれば、いつでもご連絡ください」


 警察官が帰った後、私はしばらく動けなかった。


 リビングのソファに座ったまま、窓の外を見ていた。曇り空。灰色の雲。この町はいつもこうだ。


 網。スクリュー。夫。私。


 愛華は、私たちのせいで死んだのか。


 いや、違う。網は偶然だ。船も偶然だ。夫が愛華を殺すはずがない。


 でも、偶然だとしても。


 夫が残した網に、愛華が絡まった。それは事実かもしれない。


 私は愛華に何をした?


 網は残していない。船にも乗っていない。でも、私は愛華に何かをしていた。あなたのためを思って、と言いながら、何かをしていた。


 それが何なのか、私にはまだ分からない。



 数日後、また誰かが来た。


 インターホンの画面に、若い女性の顔が映っている。二十代前半。知らない顔だ。


「すみません、新聞社の野々村と申します。お嬢さんのことでお話を――」


 私はインターホンを切った。新聞社。記事。取材。娘の死を、面白おかしく記事にしようとしている人がいる。しばらくして、またインターホンが鳴った。出ない。鳴り続ける。諦めたのか、止まった。


 十分ほど経って、また鳴った。私は玄関に向かった。ドアは開けない。インターホン越しに声を振り絞った。


「帰ってください」

「少しだけお話を――」

「娘を記事にしないでください。お願いですから」


 声が震える。


「真実を明るみにすることは大事なことなんです」

「やめてってば!」


 つい声を荒らげてしまった。冷静になんてなれなかった。


「この町の人たちは、娘のことを何も知らないのに、好き勝手なことを言っています。サメに食べられただの、自殺だの、誰かに殺されただの。全部嘘です。全部、勝手な想像です。娘は何も悪いことをしていません。ただ、海に飲まれて死んだんです。それだけなんです。それを記事にして何になるんですか。面白いですか。人の不幸が」


 言いながら、自分でも分かっていた。


 私も、愛華のことを何も知らない。この町の人たちと同じだ。


 でも、認めたくない。私は母親だから。


 十七年間、この子を育ててきた。知らないはずがない。


「……分かりました。失礼しました」


 足音が遠ざかっていく。私はドアに背中を預けて、しゃがみ込んだ。


 分からない。愛華が何を考えていたのか。何をしようとしていたのか。なぜ海に行ったのか。私は母親なのに、何も知らない。でも、知らないのは私だけじゃない。この町の人たちも知らない。警察も知らない。あのライターも知らない。誰も、愛華のことを知らない。知っているのは愛華だけだ。


 だけど愛華は、もういない。



 夜、衛星電話が鳴った。夫からだ。

「智恵子か」

「……うん」


 遠い声。雑音混じりの、途切れ途切れの声。何千キロも離れた海の上から、夫が話している。


「調子はどうだ」

「……普通よ」

「そうか」


 嘘だ。普通なわけがない。沈黙が落ちる。衛星回線の遅延のせいで、会話がぎくしゃくする。


「智恵子」

「……なに」

「俺のせいだ」


 その言葉に、息が詰まった。


「もっと帰ってやればよかった。もっと愛華と話してやればよかった。俺はいつも海の上で、あの子のことを何も――」


「あなたのせいじゃないよ。仕事でしょう。仕方ないよ。あなたが稼いでくれるから、私と愛華は暮らしていけた」


「でも」


「私がいたんだから。私が愛華を見てたんだから。あなたのせいじゃない」


 言いながら、心のどこかで思っていた。私が見ていた? 私は愛華の何を見ていた?


「浩一さん」

「……なんだ」


「今日も警察が来たの。愛華の腰に、網が絡まってたって」


「……網?」


「古い漁網だって。この辺の漁師が昔使ってた種類の」


 夫が息を呑む音が聞こえた。


「それと、船のことも。出港した船を調べてるって。あなたの船も、リストに入ってた」


「……そうか」


「偶然よ。偶然に決まってる」


「俺の網かもしれないのか」


 夫の声は、低く、重かった。


「遠洋に切り替えた時、全部は処分できなかった。いくつか、海に残したままのやつがある。回収しようと思って、そのままになってた。俺が残した網に、愛華が絡まったのかもしれない」


「偶然よ」


「偶然でも、俺のせいだ」


 夫の声が震えている。泣いているのかもしれない。でも、顔が見えない。声しか聞こえない。


「俺は何も知らなかった。愛華が何を考えてるか、何が好きなのか、何も知らなかった。帰ってきても、何も聞けなかった」


「……私も、同じよ。私も愛華のこと、何も知らなかった。十七年一緒にいたのに。毎日顔を合わせてたのに」


「……そうか」


「愛華ね、鳥の絵を描いてたの。スケッチブックに、何枚も。知ってた?」


「いや……」


「私も知らなかった。海鳥の絵。ウミスズメっていう鳥。見たこともない鳥を、何枚も何枚も描いてた。なんでそんなことしてたのか、分からない。聞けばよかったのに、聞かなかった」


 涙が溢れ出てきた。止まらない。


「私は愛華に何も聞かなかった。聞く前に、自分の言いたいことを言ってた。勉強しなさい、友達を作りなさい、もっと明るくなりなさいって。愛華が何を思ってるかなんて、聞かなかった」


「……智恵子」


「あの子は私に何も話さなかった。いつからか、何も話さなくなった。なんでだろう。私が聞かなかったからかな。私が自分のことばっかり言ってたからかな」


 分からない。私は愛華のためを思って言っていた。今でもそう思う。明るい方がいい。友達は多い方がいい。名前に相応しい人間になった方がいい。それは間違っていないはずだ。でも、愛華は何も話さなくなった。私が正しいなら、なぜ愛華は黙ったのか。


「智恵子。俺たちは――」


「分からないの。私は何を間違えたのか、まだ分からないの。愛華のためを思って言ってた。それは本当よ。でも愛華は何も話さなくなった。私は何を間違えたの? 分からないの」


 遠い雑音だけが耳に届く。波の音かもしれない。風の音かもしれない。


「帰ってきて。帰ってきて、一緒に考えて。私一人じゃ分からない」

「……分かった。なるべく早く帰る」

「うん」


「智恵子」

「なに」

「俺も分からない。俺も、愛華のこと、何も」


 電話が切れた。回線が途切れたのかもしれない。私は受話器を握ったまま、動けなかった。夫も私も分からない。愛華のことを分かっていたのは、やっぱり愛華だけなんだ。


 数日後、私は愛華の部屋にいた。スケッチブックを持って、窓際に座って。外は曇り空。いつもと同じ、この町の空。


 ページをめくる。鳥の絵。何枚も、何枚も。この子は、なぜこんなに鳥を描いていたんだろう。好きだったのか。それは分かる。好きじゃなければ、こんなに描かない。でも、なぜ好きだったのか。なぜ海鳥だったのか。なぜ私に言わなかったのか。分からないことだらけだ。


 ふと、愛華の机の引き出しを開けた。奥の方に、小さな本がある。図鑑だ。野鳥の図鑑。表紙が擦り切れている。何度も読んだのだろう。開いてみる。ところどころに付箋が貼ってある。海鳥のページ。ウミスズメのページ。付箋に、小さな字で何か書いてある。


 水中を飛ぶ。


 その言葉に、目が止まった。


 水中を、飛ぶ?


 図鑑の説明を読んでみる。ウミスズメは翼を使って水中を泳ぐ。まるで空を飛ぶように、水の中を飛ぶ。愛華は、それを見ていたのか。空じゃなくて、水の中を飛ぶ鳥を。愛華は、何を思ってそれを見ていたんだろう。


 愛華のことを、私は何も知らない。良い子だと思っていた。真面目で、静かで、反抗しない子だと思っていた。でも、こっそり鳥を見に行っていた。絵を描いていた。図鑑を読んでいた。私に隠れて、自分の世界を持っていた。なぜ隠したのか。私に言っても無駄だと思ったからだ。


「そんな暇があるなら勉強しなさい」

「将来の役に立たない」


 私ならそう言うだろう。愛華は分かっていた。だから、黙っていたのかもしれない。私は、愛華にとって、何も言いたくない、見せたくない相手だったのだ。



 八月に入って、町は蝉の声で満ちた。


 この町の蝉は、山から鳴く。海からは風が来て、山からは音が来る。愛華が小さい頃、その音を怖がって、耳を塞いで泣いたことがあった。何が怖いのか聞いても、答えなかった。三歳か四歳。あの子が何かを怖がったのを見たのは、あれが最後かもしれない。


 蝉は、朝と夜に鳴く。昼間は暑さのせいか、蝉でさえ鳴こうとしない。


 スーパーに行ったのは、盆の前だった。


 家の米が切れていた。それまでは、隣町のドラッグストアまで車で行っていた。誰にも会わずに済むから。でも米は重いし、いつまでも隣町に通うわけにもいかない。


 自動ドアが開いた瞬間、店内の空気が一度止まった。


 止まった、と感じただけかもしれない。でもレジの人が私を見て、それから見なかったことにした。惣菜売り場の主婦が二人、こちらを見て、体の向きを変えた。


 私が通ったあとで、囁き声が始まる。追い越すことはない。いつも、半歩後ろからついてくる。


「鮫島さんとこの」

「……そう。まだお父さん帰ってきてないって」


 米を持って、まっすぐレジに行った。野菜も、卵も、買わずに。買い物かごの中身が少ないことを、レジの人が気にした。気にした顔をした。


「……大変でしたねえ」


 言われた。

 ありがとうございます、と言った。頭も下げた。悪気はないのだ。この人は、私に何か言わなければいけないと思って、言った。何も言わないのは冷たいから。声をかけるのが、この町の優しさだから。


 優しさは、こちらの都合を聞いてくれない。


 車に戻って、しばらく動けなかった。ハンドルに手を置いたまま、聞こえてこない蝉の声を探した。次にここへ来るのに、二週間かかった。


 盆には、親戚が来た。


 初盆の支度を、私は一人でした。提灯を出して、迎え火を焚いて。玄関先で麻がらを燃やしていると、通りを歩く人が足を止めて、こちらを見た。何人も。この町では、迎え火は誰の家でも焚く。でも今年は、うちの火だけが、見られる火だった。


 夜、墓地から降りてくる人たちの提灯が、山の道に点々と揺れていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。町中の家が、それぞれの死者を迎えている。うちにも、迎えるべき人が、一人増えた。


 その火を、私は玄関で見ていた。愛華は、どこを通って帰ってくるんだろう。山からじゃない気がした。あの子の帰り道は、たぶん、海の方だ。


 盆が明けた頃、電話が鳴るようになった。


 出ると、切れる。


 一日に一度か、二度。無言のまま切れることもあった。誰が、何のために。悪意なのか、間違いなのか、それすら分からない。分からないのに、電話が鳴るたびに体が固くなる。しばらくして、私は受話器を上げっぱなしにしておくようになった。


 そうすると、今度は、夫からの衛星電話が繋がらなくなる。


 夕方の決まった時間だけ、私は電話の前に座って、鳴るのを待った。一日のうち三十分。その三十分のあいだ、鳴らない日の方が多かった。


 町は、静かに私を見ていた。憎まれてはいない。誰も私を責めていない。ただ、見られていた。魚屋の前を通れば、話が止まる。郵便局で並べば、前の人が少し体をずらす。


 この町で、私はもう「鮫島さんとこの奥さん」ではなくて、「あの子のお母さん」になった。名前で呼ばれなくなった人間のことを、この町は、長いこと覚えている。



 四十九日までの日々は、書類でできていた。


 死は、書類を連れてくる。役所。学校。保険。銀行。それぞれが別々の封筒で、別々の書式で、同じことを何度も聞いてくる。氏名。生年月日。続柄。死亡年月日。


 七月十七日、と書く。書くたびに、手が一瞬止まって、それから動く。ボールペンは、三本目になった。インクが切れたわけじゃない。書けなくなるたびに、新しいのに替えた。同じペンで書き続けると、そのペンが、そういうペンになってしまう気がした。


 死因を書く欄もあった。警察の書類のとおりに、写した。写す、という作業にしてしまえば、書ける。書類は、そういうふうに人を助ける。心を通さない道を、一本だけ開けておいてくれる。


 学校からは、段ボールがひと箱、返ってきた。


 教科書。ノート。上履き。体操着。ゼッケンの「鮫島」は、私が縫いつけた字だ。上履きは、かかとがきれいなままだった。あの子は上履きを踏まない子だった。誰に教わったわけでもないのに。


 ノートは、七月十五日の日付で終わっていた。金曜日。数学の、何かの公式。丁寧な字で、途中まで。続きのない字は、こんなに静かなものかと思った。


 銀行にも行った。あの子のバイト代の口座。窓口で、相続、という言葉を使われた。娘に使う日が来るとは思っていなかった言葉だった。通帳の残高は、十四万三千二百円。何に使うつもりだったのか、聞いたことがなかった。貯めていたことすら、知らなかった。


 四十九日の法要は、九月の頭だった。


 お寺の本堂に、親戚が集まった。夫の席は、今日も空いていた。海の上からは、四十九日も動かせない。


「良い子だったのにねえ」


 夫の叔母が、まずそう言った。


「ほんとにねえ。手のかからない、いい子だったのに」

「静かで、おとなしくてねえ」

「親孝行な子だったのに」


 最初は、ありがたかった。二度目も、頭を下げた。三度目あたりから、私は数を数え始めていた。今日、何度目だろう。良い子。良い子。良い子。お焼香の煙の中で、その言葉だけが、順番に回ってくる。

途中で、気がついた。


 誰も、具体を言わない。


 良い子の、どこが良かったのか。何をした子だったのか。一つも出てこない。静かで。おとなしくて。手がかからなくて。全部、していないことの話だった。喋らなかった。騒がなかった。求めなかった。この人たちの言う「良い」は、何もしなかった、という意味でしか語られなかった。


 絵を描く子だったことを、この本堂の誰も知らない。鳥が好きだったことも。私しか知らない。その私も、知ったのは、ひと月前だ。


「欲のない子だったからねえ」


 誰かがそう言ったとき、思い出した。


 誕生日のたびに、何が欲しい、と聞いた。あの子は毎年、なんでもいい、と言った。なんでもいい。私はそれを、育てやすさだと思っていた。なんでもいい、と言われて、私が選んだ。服とか、文房具とか、私が良いと思うもの。あの子はそれを、大事に使った。大事に使われると、正解だった気がした。正解だった気がするだけで、私は十七年、やってきた。


 なんでもいい、の先を、私は一度も掘らなかった。


 掘らなくて済むことに、たぶん、安心していた。


 帰り際、また誰かが言った。良い子だったのにねえ。私は、ありがとうございます、と頭を下げた。下げながら、気づいてしまった。この人たちは、愛華を褒めているんじゃない。愛華が誰の邪魔もしなかったことを、褒めている。


 そして、私が十七年あの子に望んできた「良い子」は、それと、どれだけ違っていただろう。


 お骨は、山の上の墓地に入った。海の見える、風の強い墓地。手を合わせながら、思った。あの子に会いたければ、たぶん、ここじゃない。



 法要の三日後が、秋祭りだった。


 九月の祭りは、大漁を願う祭りだ。私も、嫁いできてから毎年、手伝いをしてきた。婦人会で煮しめを作って、社務所でお茶を出して。


 今年は、誰も声をかけてこなかった。


 配慮だと分かっている。喪中の家に手伝いを頼む人はいない。頼まれない方が、ありがたいはずだった。ありがたいはずなのに、名簿から自分の名前が消えているところを想像すると、息が浅くなった。

夕方から、太鼓の音が聞こえた。


 山の方から、風に乗って。どん、どん、と、内臓を叩くみたいな低い音。夜まで続いた。子供の声も混じっていた。愛華も小学生の頃、あの列にいた。半被を着て、山車の綱を持って。写真がどこかにあるはずだ。探す気にはなれなかった。


 窓を閉めた。閉めても、音は床から伝わってきた。


 町は、祭りをする。人が一人死んでも、大漁は願う。それでいい。それが正しい。私だって、去年までは煮しめを作っていた。誰かの家に不幸があった年も、私は太鼓の音の中にいた。あの音の外側に、こういう家があることを、考えたこともなかった。



 スケッチブックを持って、海岸に出た。


 愛華が見つかった場所。岩場。一週間前、私が置いたときから献花が増えている。誰が置いたのか分からない。愛華の同級生か。近所の人か。知らない人か。一週間前も、たしか誰かいたはずだけど覚えていない。ただ無心に花を置いて、手を合わせて、帰っただけだった。


 今日は、きちんと目的がある。愛華が見ていたものを、見たい。


 岩場に座って、海を見た。灰色の空と、灰色の海。不明瞭な境目から、波の音が繰り返し聞こえる。愛華は、ここで何を見ていたんだろう。空を見ていたのか。海を見ていたのか。それとも鳥を、見ていたのか。


 しばらく座っていた。三十分か、一時間か。何も起こらない。空は灰色のまま。海も灰色のまま。帰ろうかと思った時、何かが動いた。視界の端。海面の上。小さな鳥だった。白と黒の羽。丸い体。短い翼。海面すれすれを飛んでいる。ばたばたと必死に羽ばたいている。そして、ふっと海に潜った。消えた、と思った。数秒後、少し離れた場所で顔を出した。口に、小さな魚をくわえている。


 ウミスズメ。愛華がスケッチブックに描いていた鳥。私は息を止めて、その鳥を見ていた。小さい。本当に小さい。こんなに小さな体で、海に潜って、魚を獲っている。必死に。一生懸命に。誰にも見られていないところで、一人で、必死に生きている。


 愛華は、これを見ていたのか。


 この小さな鳥を見つけて、絵に描いていたのか。


 なぜだろう。なぜ、この鳥だったんだろう。そこでふと、図鑑の言葉を思い出した。


 水中を飛ぶ。


 そうか。この鳥は、空を飛ぶのが下手なんだ。ばたばたと必死に羽ばたいて、やっと飛んでいる。でも、水の中では違う。翼を使って、すいすいと泳ぐ。まるで飛んでいるみたいに。空じゃない場所で、飛ぶ鳥。


 愛華は、それに何を見ていたんだろう。私には分からない。でも、愛華はこの鳥を見つけて、何度も見に来て、絵を描いて、元気そう、とメモを書いていた。


 私の知らないところで、愛華は自分の世界を持っていた。私が「勉強しなさい」「友達を作りなさい」と言っている間、愛華はこの鳥を見ていた。私が押し付けていたものの外側で、愛華は生きていた。私は何も見ていなかった。愛華が何を見ているか、何を好きなのか、何を考えているか、聞かなかった。見ようとしなかった。あなたのためを思って。その言葉で、全部塗りつぶしていた。


 愛華は、私から見えないところに逃げていたのだ。この海に。この鳥に。私の目が届かない場所に。


 私が正しいと思っていたことは、愛華にとっては重荷だったのかもしれない。「愛華」という名前。愛されて、華やかに。明るくなりなさい。友達を作りなさい。もっと上を目指しなさい。全部、私が望んだことだ。愛華が望んだことじゃない。愛華が望んでいたのは、何だったんだろう。この海を見ること? この鳥を見ること?  誰にも邪魔されないで、静かに、一人で生きること?


 分からないけど、一つだけ分かったことがある。


 私が与えていたのは、愛情じゃなかった。負荷だった。


 名前に込めた期待。「あなたのため」という押し付け。「もっと」「もっと」という要求。全部、愛華の肩に乗っていた。重荷として。愛華は何も言わなかった。黙って背負っていた。私はそれを「良い子」だと思っていた。違う。愛華は諦めていたのだ。私に何を言っても無駄だと、諦めていたのだ。


 涙が出てきた。海に向かって、呟いた。


「ごめんね、愛華」


 返事はない。波の音だけが聞こえる。


 ウミスズメは、もう見えない。どこかに飛んでいったのか、海に潜ったのか。


 スケッチブックを胸に抱く。


「この絵、上手だね。知らなかった。こんなに何枚も描いてたんだね。見せてほしかった。……見せられなかったよね。私に見せても、何か嫌なこと言うと思ってたよね」


 風が吹いた。冷たい、潮の匂いのする風。


「名前、重かったかな。愛されて、華やかにって。あなたはそういうの、望んでなかったのかな。静かに、一人で、好きなものを見ていたかっただけなのかな」


 分からない。もう聞けない。


「私は何も分かってなかった。あなたのためって思ってた。今でも、間違ってたって言い切れない。でも、あなたは私に何も話さなくなった。私が何かを間違えたから、そうなったんだよね。何を間違えたのか、私にはまだ分からない。でも、間違えたのは私なんだよね」


 波が岩に当たる。砕ける。引いていく。


「ごめんね、愛華」


 もう一度言った。それしか言えなかった。


 愛華は何も答えない。答えるはずがない。もういないのだから。


 私はスケッチブックを抱いて、しばらく海を見ていた。愛華が見ていた海。愛華が見ていた空。愛華が見ていた鳥。十七年間一緒にいて、初めて見た。遅すぎた。何もかも、遅すぎた。


 帰り道、また涙が出た。この子は、私の知らない子だった。最後まで、私には何も見せなかった。何も話さなかった。話しても無駄だと、分かっていたから。私は、娘に諦められていたのだ。


 家に着いて、愛華の部屋に戻った。スケッチブックを机の上に置く。


 これはたしかに愛華が遺したものだ。でも、私に向けて遺したものじゃない。遺す気がなかったのか。遺すものがなかったのか。遺しても無駄だと思っていたのか。それは永遠に分からない。私は、娘のことを何も知らない。知らないまま、失った。


 彼女は、何も遺さなかった。


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