2.不可
鮫島愛華は、少なくとも俺のせいで死んだのではない。
そう思わなきゃ、やってられない。
高校三年の夏。受験生のくせにバイト漬けの毎日を送っている俺――川瀬雄大の鼻は、魚の内臓の匂いでひん曲がりそうだった。
事件から一週間。工場は通常営業。当たり前だ。人が一人いなくなったくらいで、世界は止まってくれない。魚は毎朝届くし、注文は毎日来る。スーパーの棚には切り身が並び、主婦たちが噂話をしながらそれを手に取る。誰かが死んでも関係ない。また新しい噂話が上書きされるだけだ。
水産加工場の朝は早い。五時半には作業が始まる。まだ薄暗い空の下、俺は自転車を漕いで工場に向かう。潮風が顔に当たる。この町はいつだってこの匂いがする。魚と潮と、微かに腐敗した何かが混ざった匂い。子供の頃から嗅ぎ慣れた匂いのはずなのに、最近はやけに鼻につく。
工場の中は蛍光灯の白い光で満ちている。窓がないから外の天気が分からない。晴れていても曇っていても、ここでは関係ない。魚をさばく。内臓を抜く。血を洗い流す。それだけだ。
鮫島愛華がいた作業台には、もう新しいパートのおばさんが立っている。五十代くらいで髪を後ろで束ね、てきぱきと鯵を三枚におろしている。鮫島愛華より早い。当たり前だ。この町で生きていれば、魚なんて何百匹もさばいてきただろう。高校生の女の子とは比べものにならない。
音が違う、と最初に気づいたのは、耳だった。
新しいおばさんの包丁は、とん、とん、と鳴る。手際は悪くない。ベテランなんだろう。ただ、リズムが違う。鮫島愛華のは、たたた、と三連で鳴った。骨に沿って刃を滑らせる時の、紙を裂くみたいな薄い音。あの作業台からあの音がしなくなって、一週間になる。
俺は、人の顔を覚えるのが苦手だ。でも、手は覚える。
この工場では、みんなマスクをして帽子をかぶって、顔なんて半分も見えない。だから人は手で見分ける。速い手。雑な手。丁寧で遅い手。文句を言いながら動く手。鮫島愛華の手は、迷わない手だった。
あいつが入ってきたばかりの頃、鯵の開き方を教えたのは、俺だった。
高校生の相手は高校生、ということだったんだろう。工場長に言われて、隣に立たせた。
「こう持って、ゼイゴの下から刃を入れる。あとは骨に沿わせるだけ」
「……はい」
最初の一匹は、ぐちゃぐちゃになった。身が半分、骨に残った。
「誰でも最初はそうだ」
「……すみません」
謝ることじゃない。そう思ったけど、言わなかった。言葉を足すのが、面倒だった。
一週間後には、俺より速くなっていた。
嘘じゃない。数えたから知っている。同じ数のケースを渡されて、あいつの方が先に終わった。悔しかったから、よく覚えている。手首の返しが良かった。魚を裏返す時、無駄な動きが一つもない。骨を抜く時の指のつまみ方が、最初から正解だった。冬場、あいつの指は皸だらけになった。赤く割れた指先で、それでも速度が落ちなかった。
「筋、いいな」
一度だけ、そう言った。
「……ありがとうございます」
小さい声だった。目は合わなかった。それだけだった。
思い返してみて、気づく。あいつが俺に使った言葉は、三つしかない。はい。すみません。ありがとうございます。隣の台で何百匹の魚を開いた間、ずっと、三つ。それ以外の言葉を、俺は一つも思い出せない。
いや、違う。もう一つあった。
シフト、代わってもらえませんか。
最初に教えたのが俺で、最後に断ったのも俺だった。魚の開き方と、十秒。俺があいつとの間に持っているのは、その二つだけだ。筋、いいな。あの三文字が、俺があいつにやった、たぶん唯一のまともなことだった。あいつの何かを、面と向かって認めた人間が、この世に何人いたんだろう。
でも、だから、何だ。
俺は首を振って、目の前の鯖に集中する。腹に包丁を入れる。内臓を掻き出す。赤黒い塊がまな板の上に落ちる。それを脇によけて、次の鯖を手に取る。同じ動作の繰り返し。頭を使わなくていい。考えなくていい。
「川瀬くん、そっちの鯵あがりー」
「っす」
返事をして、鯵の入ったケースを運ぶ。発泡スチロールの箱。氷と一緒に詰められた鯵が、ぎょろりとした目でこちらを見ている。死んだ魚の目。何も映していない濁った目。
重いケースが腰に来る。でも文句は言わない。言ったところで誰も聞かない。鮫島愛華も文句を言わない子だった。この重いケースを持たされても、残業を頼まれても、はい、としか言わなかった。小さな声で、俯いて。反抗しない。主張しない。まるで自分の意見なんて最初からないみたいに。俺には関係ない。関係なかった。
狭い休憩室に、古びたテーブルと折りたたみ椅子がいくつか置いてある。壁には色褪せたカレンダーと、「安全第一」と書かれたポスター。窓からは駐車場がよく見える。アスファルトが湿っている。雨はまだ乾いていない。
隅の席に座って、弁当を開ける。優子が作ってくれた弁当。白いご飯の上に梅干しが一つ。おかずは卵焼きと、ウインナーと、ほうれん草のおひたし。卵焼きがちょっと焦げている。優子は料理が下手だ。でも毎回作ってくれる。「雄大くんのために作るの、楽しいから」と言って。
箸を動かしながら、パートのおばさんたちの会話が耳に入ってくる。
「ねえ、鮫島さんの娘さん、サメに食われたって本当?」
「さあねえ。でも足がなかったって話だよ」
「怖いわあ。この辺にサメなんているの?」
「沖の方にはいるらしいよ。でも普通は浅瀬まで来ないでしょ」
「じゃあなんで足がないのよ」
「知らないわよ、自殺じゃないかって話もあるのよね」
「ええー、高校生なのに?」
「今時珍しくないでしょ。いじめとか、家庭の問題とか」
「でも鮫島さんとこ、そんな感じじゃなかったけどねえ」
「分かんないわよ、家の中のことなんて」
家の中のこと。俺だって分からない。鮫島愛華がどんな家庭で育って、どんなことを考えていたのか。半年も一緒に働いていたのに、何も知らない。
「川瀬くん、あんたあの子のこと何か知らないの?」
顔を上げると、おばさんたちの目が俺を見ていた。好奇心に満ちた目。獲物を見つけた鳥みたいな目。この町の人間は暇だから、他人の不幸が娯楽になる。噂話は空気みたいに広がって、尾ひれがついて、別の生き物になる。
「……別に。普通でしたよ」
「普通ねえ。でも暗い子だったよね、あの子」
「いっつも俯いてて。目も合わせないし」
「真面目だったけどね。遅刻もしないし、休みもしなかったし」
休みもしなかった。
その言葉が胸に引っかかった。小さな棘みたいに、ちくりと刺さった。
あの日、鮫島愛華は休んだ。無断で。いや、無断じゃない。俺に電話をかけてきた。シフトを代わってくれと。でも断った。
「あの日、鮫島さんとこの旦那さんの船が出港したんだよね」
「ああ、遠洋の。何ヶ月も帰ってこないやつ」
「見送りにでも行ったのかしらね、娘さん」
「でも見送りに行って溺れるかしら」
「さあねえ。若い子は何考えてるか分からないわよ」
見送り。そうか、そういう理由だったのかもしれない。だったらそう言えばよかったじゃないか。「父親の見送りに行きたいんです」って言えば、俺だって――。いや、どうだろう。言われても断っただろう。たぶん。あの日はどうしても優子と会いたかったから。
「最近、弱った海鳥が浜に打ち上げられてるらしいぞ」
別のおじさんが言った。工場長の田中さん。六十過ぎの、日に焼けた顔をした男だ。若い頃は漁師をしていたらしい。
「温暖化のせいかねえ」
「さあな。餌が減ってるって話もあるし」
「可哀想にねえ」
いかにも興味なさげにするりとかわし、おばさんはお茶を飲んで出ていった。
ま、俺には関係ない。鮫島愛華にも関係ない。はず。
休憩後の作業中、ふとあの日のことを思い出した。
あの日はじっとりと蒸し暑かった。空気が重くて、息をするだけで疲れるような日だったが、今日みたいな小雨が降っていた。朝の準備をしているときにスマホが鳴った。シャワーを浴びたあとに確認すると、着信履歴が入っていた。知らない番号。バイト先の番号じゃない。登録していない番号。無視しようかと思ったが何となく気になって、折り返してみた。
「……もしもし」
「あ、川瀬先輩ですか」
女の声。聞き覚えがある。でも誰だっけ。
「あ、えっと、どなた様で」
「鮫島です。バイトの」
鮫島。ああ、あの後輩の。暗くていつも俯いている。
「どうした?」
「あの……今日のシフト、代わってもらえませんか」
今日は無理だ。なぜなら優子とのデートの約束がある。
「ごめん無理」
即答した。考える必要もなかった。なにか言った気がしたけど、気にせずそのまま電話を切った。それだけだ。十秒もかからなかったと思う。鮫島愛華が何を言おうとしていたのか、聞かなかった。興味がなかった。俺には優子との約束があった。それ以外のことは、どうでもよかった。
でも思い出すと、どうも胃の奥が重くなる。手元の鯖がぼやけて見える。包丁を持つ手に力が入らない。駄目だ。考えるな。考えても仕方ない。腹に刃を入れる。内臓を掻き出す。赤黒い塊。生臭い匂い。これが俺の日常だ。鮫島愛華がいてもいなくても、変わらない日常。
鮫島愛華がバイトに入ってきたのは、俺が高校二年生に上がったばかりの頃だった。
高校一年生。俺より一つ下。同じ高校だけど、学年が違うから接点はなかった。小さい町だから、なんとなく顔は知っていた気がする。どこかですれ違ったことくらいはあったかもしれない。でも、話したことはなかった。
最初の印象は「地味な子」だった。黒い髪を一つに結んで、化粧っ気もなくて、制服のスカートも膝下まである。俯いて、小さい声で「よろしくお願いします」と言った。目を合わせない。笑わない。工場長が「この子、今日から入るから、よろしくな」と言った。俺は「っす」と答えた。それだけだ。
仕事は真面目だった。教えたことはすぐ覚えた。手先が器用で、魚をさばくのも割と早く上達した。でも必要以上のことは喋らない。「はい」「すみません」「ありがとうございます」。その三つしか言葉を知らないんじゃないかと思うくらい、それだけだった。
休憩時間も一人で隅に座って、スマホを見るわけでもなく、ただぼんやりと窓の外を見ていた。何を見ていたんだろう。駐車場しか見えないはずなのに。俺は別に気にしなかった。バイトの後輩なんてそんなもんだ。仲良くなる必要はない。仕事さえちゃんとやってくれればいい。むしろ、余計なおしゃべりをしない分、やりやすかった。
でも一度だけ、鮫島愛華が少し違う顔を見せたことがあった。
三月の終わり頃だったと思う。休憩中、工場長が言った。
「最近、浜に変な鳥がいるんだよな。見たことない鳥」
「へえ、何の鳥ですか」
俺は思わず顔を上げた。愛華が自分から喋ったのを、初めて聞いた気がしたから。 いつもの小さな声じゃなかった。少しだけ前のめりで、声に力があった。
「さあな。カモメじゃないんだよ。もっと小さくて、白と黒のやつ。海に潜るんだ」
「潜る……」
愛華の目が、少しだけ輝いた。ように見えた。蛍光灯の光のせいだったかもしれない。でも、あの時の愛華の顔は、いつもと違っていた。
「ウミスズメ、かもしれないですね」
「なんて?」
「ウミスズメです。海に潜って魚を捕る鳥で、翼で水中を飛ぶみたいに泳ぐんです。春になると繁殖のために沿岸に近づくんですけど、弱った個体が浜に打ち上げられることがあって……」
愛華は急に黙った。喋りすぎたと思ったのか、顔が赤くなっていた。
「……すみません。本で読んだことがあるだけで」
「詳しいな、鮫島」
工場長が嬉しそうに笑う。鮫島愛華は俯いて、小さく「すみません」と言った。謝ることじゃないのに。
俺はその時、何も思わなかった。興味を持たなかった。話を広げようともしなかった。
そしてすぐに忘れた。今になって思い出す。鮫島愛華が唯一、自分から喋った話題。鳥。海鳥。ウミスズメ。翼で水中を飛ぶ鳥。あの時の愛華の目を、今でも思い出せる。少しだけ輝いていた目。何かを見つけた子供みたいな目。俺は、それを見逃した。
傘を差して、退勤した。海の方から湿った風が吹いてくる。潮の匂い。魚の匂い。この町の匂い。工場の門を出ようとした時、人影が目に入った。門の前に、女の子が立っていた。制服姿。うちの高校の制服。紺色のブレザーに、チェックのスカート。その瞬間、女の子と目が合った。
「すみません、川瀬先輩ですか?」
俺は警戒した。誰だ、こいつ。
「……誰?」
「三島蒼です。愛華の、友達でした」
三島蒼。聞いたことがある名前だ。学校で噂になっていた、鮫島愛華の「親友」。でも鮫島愛華が死んでから学校を休んでいて、逃げたんじゃないかとか、何か隠しているんじゃないかとか言われていた、渦中の人。
「何の用?」
「愛華のこと、何か知りませんか?」
心臓が跳ねた。顔には出さないようにした。
「知らない。何も」
「あの日、愛華はバイトのはずでした。でも来なかった」
三島蒼の目が、真っ直ぐ俺を見ていた。黒い目。感情が読めない目。
「……そう、なんだ」
「シフト表を見せてもらったんです。工場長さんに頼んで。愛華の名前があった。四時から九時まで。でも、来なかったって聞きました」
こいつ、調べてるのか。何を。何のために。
「俺に聞かれても困る。その日、俺は休みだったし」
「本当ですか」
「ああ」
三島蒼の目が細くなった。疑っている。でも証拠はない。あるはずがない。
「愛華から連絡とか、なかったですか。電話とか」
「……ない」
嘘。電話はあった。シフトを代わってくれと言われた。でも断った。理由は聞かなかった。でもそんなの言えない。言ったら、俺が何か関係しているみたいに思われる。
「そうですか……」
三島蒼は少し黙った。彼女の横顔が傘で隠れる。俺も気持ち傘を低くした。
「学校でも色々言われてるんです。私が何かしたんじゃないかって」
「……大変だな」
他人事みたいに言った。実際、他人事だ。俺には関係ない。
「藤野さんって子も、様子がおかしくて」
「誰」
「愛華と同じクラスの子です。愛華が死んでから、ずっと元気がなくて。何か知ってるのかなって」
「俺は何も知らない。鮫島愛華とはバイト先が一緒だっただけで、ほとんど話したこともない」
「でも愛華と一緒に働いてたって工場長さんが」
「それ以上でも以下でもない」
「そうですか。……私にはあったんです、連絡」
「……はぁ」
「あの日の朝、愛華から電話があって。『蒼、バイトのシフト代わってくれる人、誰か知らない?』って。私、バイトしてないから、分からないって言ったんです。そしたら愛華、『そうだよね、ごめんね』って。でも声が……すごく困ってる声だった。焦ってるっていうか、必死っていうか。愛華があんな声出すの、初めて聞いたんです」
何も言えなかった。まさかと思った。困っていた。必死だった。あの電話の向こうで、鮫島愛華は。
「だから私、聞いたんです。『どうしたの、何かあったの?』って」
「……何て」
「『大丈夫、何でもない』って。愛華はいつもそう。何でもないって言って、全部一人で抱え込む」
三島蒼の声が震えた。
「私がもっとしつこく聞いてたら。『何でもなくないでしょ』って言ってたら。……でも、言えなかった」
「……そっか」
俺は黙っていた。聞きすらしなかった。三島蒼は聞いた。でも、鮫島愛華は答えなかった。三島蒼の赤い目が俺を睨む。
「川瀬先輩、本当に愛華から何も連絡なかったですか? 嘘、ついてませんか?」
心臓が握りつぶされるみたいだった。
「……ない」
喉が渇く。舌が張り付く。三島蒼は長い間俺を見つめていた。視線のやり場に困った。
霧雨が辺りをぼんやりさせる。
「……そうですか。何か思い出したら、教えてください」
信じていない目だった。でも、それ以上は追及してこなかった。そう言って、紙を差し出した。メモ用紙を破ったような紙片。SNSのIDが書いてある。丸っこい字。女の子の字。俺はそれを受け取ってポケットに入れたが、連絡なんてするつもりはない。
「失礼しました」
三島蒼は頭を下げて、去っていった。霧雨に向かって歩いていく細い背中。制服のスカートが雨に濡れていた。
愛華は困っていた。必死だった。助けを求めていた。
三島蒼にも電話した。俺にも電話した。たぶん、他の誰かにも。
誰も助けなかった。
俺も、助けなかった。
数日後の、土曜だった。
昼の休憩の後、工場長がロッカー室で、鮫島愛華のロッカーを開けていた。
段ボール箱を足元に置いて、中身を出している。長靴。ゴム前掛け。軍手の予備。それから、タオルが一枚。
タオルは、几帳面に畳んであった。
四角く、角を揃えて。ロッカーの棚の上で、店の商品みたいに畳んであった。工場長はそれを手に取って、しばらく持ったまま、どうしていいか分からないみたいに立っていた。
「家に届けるようなもんは、ないな」
誰に言うでもなく、工場長は言った。
私物らしい私物は、何もなかった。財布も、化粧品も、雑誌も、お菓子も。高校生の女子のロッカーというものを俺は知らないが、たぶん、普通はもう少し何かある。あいつのロッカーは、仕事に要るものだけが、要る場所に入っていた。
扉の内側に、名前シールが貼ってあった。
マジックの手書きで、鮫島。事務のおばちゃんの字だ。工場長が爪で端をこすって、剥がした。古いシールは千切れながら剥がれて、糊の跡が、四角く残った。
「長靴、サイズ合えば使うか」
工場長が、新しいおばさんに聞いた。おばさんは一瞬、間を置いた。ほんの一瞬。それから、もったいないから、と言って受け取った。
責める気はない。長靴は長靴だ。ここでは何でも回る。魚も、氷も、ケースも、持ち場も。回ることで工場は続いていて、回らなくなった一人を、回るものたちが静かに外へ押し出していく。おばさんが悪いんじゃない。世界の仕組みが、そうなっているだけだ。
夕方、ロッカー室の前を通ったら、段ボール箱が事務所の隅に置いてあった。中身は、畳まれたタオル一枚と、前掛けだけ。誰が取りに来るのか、来ないのか、俺は知らない。
あいつがこの工場にいた証拠は、扉の内側の、四角い糊の跡だけになった。
シールより、跡の方が長持ちする。そういうものらしい。
夜、家に帰って、風呂に入って、飯を食っていると、スマホが鳴った。優子からだ。
「雄大くん、お疲れー」
優子の声は明るい。いつも明るい。二十三歳。少し先の街の新聞社で働いている新人記者だ。記事を書きたくて、東京の大学を出てからわざわざ地元に戻ってきた変わり者だ。
「……おう」
「バイト終わったとこでしょ?」
「まあな」
優子と付き合い始めたのは去年の冬だ。十二月。クリスマスの少し前。
きっかけは修也の姉ちゃんだった。佐伯修也の姉、佐伯美咲。優子とは高校の同級生で、ずっと仲がいいらしい。家族ぐるみの付き合いだとか言っていた。俺が修也の姉ちゃんと会ったのは、偶然だった。コンビニでバイト終わりの缶コーヒーを買っていたら、修也の姉ちゃんがいた。隣に優子がいた。
「あ、川瀬くんじゃん。修也の友達の」
修也の姉ちゃんが声をかけてきた。
「この子、私の友達の野々村優子。今彼氏いないんだってー」
「ちょ、美咲!?」
軽いノリだった。俺は何も言えなかった。それから何となく連絡を取り合うようになって、何となくデートをするようになって、何となく付き合うことになった。なんで俺なんかと付き合ってくれるのか、今でもよく分からない。高校生だぞ、俺は。五つも年下だぞ。優子はもっといい相手を選べるはずだ。でも優子は俺を選んだ。理由は聞いていない。聞くのが怖い。
「ねえ、この前のデート楽しかったね」
この前。つまり鮫島愛華が死んだ日。
「……ああ」
「映画面白かったし、ご飯も美味しかったし」
「うん」
隣町で映画を見た。何の映画だったか、もう覚えていない。優子が見たいと言った映画だ。俺はどうでもよかった。優子と一緒にいられれば、何でもよかった。
「でもなんか、あの日から雄大くん元気なくない?」
優子の声が、少し心配そうになった。
「……別に」
「バイト先で誰か亡くなったんでしょ? 美咲から聞いた」
修也の姉ちゃん。また佐伯修也だ。佐伯修也のことはあまり好きではない。同じ町で育って、同じ高校に通っている。小さい頃は弟分として可愛がってきた。でも今、修也は俺と違う世界にいる。顔がいい。背が高い。スポーツもできる。頭もいい。進学校じゃないうちの高校で、国立大学を狙えるレベルの成績。なのに嫌味がない。誰とでも気さくに話す。誰からも好かれている。俺とは正反対だ。
そして優子は、その修也の姉ちゃんと親友で、佐伯家によく遊びに行くらしい。修也と話すこともあるだろう。俺がいない時に何を話しているのか。考えたくもない。
「……まあ。でも大して仲良くなかったし」
「そう? でも一緒に働いてたんでしょ?」
「話したこともほとんどないし」
「ふうん」
電話越しに、テレビの音だけが聞こえる。優子は一人暮らしだ。隣町のアパート。俺は一度だけ行ったことがある。狭いワンルームで、本がたくさん並んでいた。
「修也くんのクラスの子だったんだよね。修也くん、結構ショック受けてるみたいよ」
また修也。修也、修也、修也。
「……知らねえよ」
「……ごめん。何か嫌なこと言った?」
窓の外でかえるが鳴いている。
「ねえ、雄大くん。何かあったの? 私に言えないこと?」
言えないこと。あの日、鮫島愛華から電話があった。断った。理由を聞かなかった。それだけのことだ。言ったところで、何が変わる。俺が犯人みたいに思われるだけだ。
「……何もない。疲れてるだけ」
「そう……分かった。でも、何かあったら言ってね。私、雄大くんの力になりたいから」
力になりたい。優子はいつもそう言う。善意の人だ。誰かのために何かをしたいと思っている人だ。
「私ね、最近思うの。この町で起きたことを、ちゃんと記事にしたいって」
「……記事?」
「うん。今は新人だから、大きな記事は任せてもらえないけど。でもいつか、ちゃんと取材して、書きたい。この町の人たちが何を考えて、何を感じてるか。小さな町の小さな出来事でも、ちゃんと言葉にして残したいの」
優子の声は真剣だった。この町を、この町の人たちを、ちゃんと伝えたいと思っている。その気持ちは分かる。分かるけど、俺には重い。
「雄大くんが関わってた子のこと、私が書いたら……嫌?」
返事ができない。俺が関わってた子?
関わってない。電話を一本切っただけだ。十秒で切った電話。それだけのことだ。 でも、それを記事にされたら。俺の名前は出ないだろう。でも、「バイト先の同僚」くらいは書かれるかもしれない。取材されるかもしれない。何か知らないかと聞かれるかもしれない。無理だ。耐えられない。
「ごめん、変なこと言った。忘れて」
「……おう」
「じゃあね、雄大くん。ゆっくり休んでね。おやすみ」
「……おやすみ」
スマホを握ったまま、天井を見た。白い天井。蛍光灯の光。優子が記事を書きたいと言っている。鮫島愛華のことを。この町で起きたことを。やめてほしい。掘り返さないでほしい。でも、そう言う権利が俺にあるのか。電話を切っただけだ。理由を聞かなかっただけだ。それだけのことで、俺は何をそんなに怯えているんだ。
あの日のデートのことを思い出す。
優子と隣町で待ち合わせた。駅前のカフェ。優子は先に来ていて、アイスコーヒーを飲みながら本を読んでいた。
「雄大くん、お待たせ」
「いや、俺が遅れたのに」
「ううん、私が早く来すぎただけ」
優子は笑った。いつもの笑顔。眩しい笑顔。俺なんかにはもったいない笑顔。映画を見て、ご飯を食べて、少し散歩した。川沿いの道。夕陽が綺麗だった。オレンジ色の空と川。紫色の橋の影。
「来週、美咲の誕生日パーティーで佐伯家にお呼ばれされてるんだ。雄大くんも来る?」
心臓がざわついた。佐伯家のパーティー。修也の姉ちゃんと、修也と、その友人たち。大学生とか、社会人とか。俺みたいな高校生が入っていける場所じゃない。
「……あー、その日バイトだわー」
「そっか、残念」
優子は本当に残念そうに言った。でも、無理に誘ってはこなかった。ほっとした。そして同時に、不安になった。俺がいなくても、優子は佐伯家に行く。修也の姉ちゃんと話す。修也とも話すかもしれない。修也は俺より年下だ。でも、俺よりずっと大人に見える。落ち着いていて、話が上手くて、場を盛り上げられる。優子と修也が並んでいるところを想像する。絵になる。似合う。俺なんかより、ずっと。このデートをキャンセルしていたら、優子はどうしていただろう。暇だから佐伯家に遊びに行こう、とか言ってたかもしれない。美咲と、修也と、楽しく過ごしていたかもしれない。俺抜きで。そう思うと、デートを断ることなんてできなかった。
鮫島愛華の電話が来たのは、待ち合わせの二時間前だった。
シフトを代わってほしい、と。無理だと即答した。優子との約束を破るわけにはいかなかった。優子のことが好きだ。でも自信がない。五つも年上で、仕事もできて、友達も多くて、佐伯家とも仲が良くて。なんで俺なんかと付き合っているのか分からない。いつ他の誰かに取られてもおかしくない。だからせめて、約束は守りたかった。デートの約束を、絶対に破りたくなかった。
鮫島愛華がどんな理由でシフトを代わってほしかったのか、知らない。聞かなかった。聞く気もなかった。彼女とのデートと、バイトの後輩の事情。天秤にかけるまでもなかった。その結果、鮫島愛華は死んだ。俺のせいじゃない。シフトを代わらなかったから死んだわけじゃない。でも、もし代わっていたら。鮫島愛華は海には行かなかったのだろうか。それは分からない。
気づいたら、夜道を歩いていた。雨は上がっていた。どこに向かっているのか、自分でも分からない。足が勝手に動いている。知らないうちに、鮫島愛華が見つかった海岸までたどり着いていた。ごつごつした岩が海に突き出している。街灯なんてない。月明かりだけが頼りだ。波の音が聞こえる。繰り返し、繰り返し。岩に当たって、砕けて、引いていく。同じことの繰り返し。何万年も前から、同じことを繰り返している。
献花の場所が見えた。岩場の手前。たくさんの花が置いてある。白い花。黄色い花。ピンクの花。月明かりに照らされて、ぼんやりと浮かび上がっている。誰が置いたのか知らない。知らない人たちが、知らない気持ちで、花を置いていく。死者のために。死者の何を知っているわけでもないのに。俺は手ぶらで立っている。花なんて持ってくる気はなかった。潮風が吹いている。冷たい。七月なのに、夜の海風は冷たい。肌が粟立つ。
ポケットからスマホを取り出した。三島蒼がくれた紙を見る。SNSのID。連絡するつもりはなかった。でも、ふと思いついた。
鮫島愛華のアカウントを検索してみる。当然、三島蒼のフォロワーだった。鍵はかかっていない。フォロワーは二十人もいない。最後の投稿は、死ぬ十日前。曇り空の写真。キャプションはない。投稿を遡る。海。空。雲。たまに食べ物。人は写っていない。どこにも。三月の投稿で、手が止まった。海鳥の写真。小さな、白と黒の鳥。ピントが少しぼやけている。
日付は三月二十八日。休憩室で、鮫島愛華がウミスズメの話をした、数日前だ。俺たちに話す前から、あの鳥を見つけていたのだ。先に見つけて、名前まで調べていて、それで工場長の話に食いついた。
嬉しかったんだ。自分が見つけた鳥の話が出て、嬉しくて、思わず喋った。俺に聞いてほしかったのかもしれない。「すごいな」とか「詳しいな」とか、言ってほしかったのかもしれない。
俺は何も言わなかった。「へえ」とすら言わなかった気がする。スマホをスクロールする。もっと前の投稿。二月。一月。去年の十二月。海鳥の写真が何枚もあった。カモメ。ウミネコ。名前の分からない鳥。誰もコメントしていなかった。鮫島愛華が何を見つけて、何を好きで、何に目を輝かせていたのか。俺も見ていなかった。同じ学校で、同じバイト先で、一緒に働いていたのに。
「ウミスズメ、かもしれないですね」
あの時の鮫島愛華の声が、頭の中で響く。少しだけ弾んでいた声。少しだけ輝いていた目。俺は、それを聞き流した。
あの日の電話を思い出す。
「シフト、代わってもらえませんか」
鮫島愛華の声は、今思えば、少し震えていたかもしれない。いや、そんなの気のせいだ。そう思いたいだけだ。後付けの記憶だ。でも、もしかしたら。鮫島愛華は何か、切羽詰まっていたのかもしれない。どうしても休みたい理由があったのかもしれない。
父親の見送りに行きたい? それとも、別の理由?
あの日、弱った海鳥が浜にいたって話があった。ウミスズメ。鮫島愛華が目を輝かせて話していた鳥。まさか、鳥が関係しているとか?
馬鹿馬鹿しい。そんな理由でバイトを休むやつがいるか。でも、鮫島愛華ならあり得る気もする。「ウミスズメ、かもしれないですね」と言った時の、あの顔。少しだけ輝いていた目。本当の理由なんて、もう誰にも分からない。鮫島愛華は何も言わなかった。俺が聞かなかったから。聞いていたら、何か変わっていたのか。たぶん、変わっていない。俺は断っていた。優子とのデートの方が大事だったから。でも、聞くことはできた。「なんで?」と一言聞くことはできた。十秒だ。十秒待てば、鮫島愛華は理由を言えた。その十秒を、俺は惜しんだ。たった十秒を。
スマホをポケットにしまって、海を見た。波の音が、やけに大きく聞こえる。水平線がどこにあるのか分からないほど黒い海。月明かりが波に反射して、きらきらと光っている。綺麗だと思う。綺麗だけど、怖い。この海のどこかで、鮫島愛華は死んだ。
三島蒼の言葉が頭に残っている。
「すごく困ってる声だった。焦ってるっていうか、必死っていうか」
鮫島愛華は助けを求めていた。三島蒼に。俺に。たぶん、他の誰かにも。誰も助けなかった。三島蒼は聞いた。「どうしたの」と聞いた。でも愛華は「何でもない」と言った。
俺は聞かなかった。聞く前に電話を切った。
どっちがましなのか、分からない。どっちも同じなのかもしれない。結局、誰も助けられなかったんだから。
ふと、空を見上げた。何か飛んでいる。鳥だ。夜なのに。月明かりの中を、小さな影が横切っていく。ウミスズメ、かもしれない。鮫島愛華はあの鳥を見つけていた。「見つけた」と書いていた。誰にも気づかれなかったけど、鮫島愛華は見つけていた。
俺は何も見つけられなかった。鮫島愛華のことも。鮫島愛華が見ていたものも。鳥の影が、闇の中に消えていく。鮫島愛華も、ああやって消えていったのだろうか。誰にも見つけてもらえないまま。
俺は何も見ていなかった。自分のことしか見ていなかった。優子のこと。修也のこと。自分の不安。自分の嫉妬。鮫島愛華は、その全部の外側にいた。視界の端にすら入っていなかった。だから、電話を切れた。だから、理由を聞かなかった。
聞かなかった。見なかった。知ろうとしなかった。
何もしていない。それが、一番重い。
愛華を殺したのは、たぶん、誰でもない。誰でもないけど、俺のせいでもある。電話を切った俺。十秒を惜しんだ俺。俺のせいで死んだわけじゃない。でも、俺のせいでもある。それは矛盾しない。矛盾しないことが、一番苦しい。
カラスみたいな鳴き声が聞こえた。海鳥は夜も鳴くのだろうか。俺は知らない。鮫島愛華なら、知っていたかもしれない。鳥を見ていたから。駐車場を見ていたから。俺が見ていないものを、ずっと見ていたから。
目を閉じる。明日も工場に行って、魚をさばく。鮫島愛華がいなくても、世界は回る。 何も変わらない。何も変えられない。
事実は変えられない。変更不可。過去は変えられない。聞かなかった言葉は、永遠に聞けない。切ってしまった電話は、もう繋がらない。
彼女は、何も遺さなかった。




