1.フカ
鮫島愛華は、最後まで卑怯だった。
私――藤野真帆は、そう思った。いや、思いたかった。あの子のことを考えるたびに胸の奥がざわついていた理由を、私はまだ誰にも言えていない。
夏休みも間近の七月後半。曇天模様の火曜日が、こんなに騒々しく、そしてもやもやする日になるなんて思ってもみなかった。
神妙な面持ちで教室に入ってきた担任教師が振り絞るように言った一言で、その日の運命は決まった。
「みんなも知ってると思うけど……先日見つかった水死体が、鮫島さんであることが明らかになりました。……とても残念で……ごめんなさい……」
口を抑えて泣き出した瞬間に、教室中に噂が飛び交った。
「足がなかったんだよな」
「サメに食われたんだろ」
「鮫島だから? わらえねー」
本当に笑えないよ。
本当に死んじゃうなんて、思ってもみなかったから。
笑い声が教室の空気を強引に軽くする。
「真帆、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「……うん。ちょっと、びっくりしただけ」
びっくり。そう、びっくりしただけ。それ以上の感情なんてない。あるはずがない。
だって私は、鮫島愛華のことなんて何とも思っていなかったから。――というのは嘘だ。
私はあの子のことを、ずっと睨んでいた。
佐伯くんが鮫島愛華を見ていたのに気づいたのは、去年の五月の終わり頃からだった。この小さな港町で、一クラスしかない学校で、みんなが幼馴染。みんなが友達であり、親友であり、仲間だった。それなのに佐伯くんは。
席替えで鮫島愛華が窓際の後ろから二番目になって、佐伯くんの席から斜め後ろに見える位置になった。それだけのこと。たぶん、それだけのことだったはずだ。
「鮫島さんって、何考えてるか分かんないよな」
昼休み、購買から戻る廊下で、隣にいた男子に向けて佐伯くんがそう言った。私に言ったわけじゃない。でも、聞こえた。
何考えてるか分かんない。興味がなければ、そんなこと言わない。
私は佐伯くんのことが好きだった。中学からずっと。この町で一緒に育って、同じ学校に通えることが運命だと思っていた。なのに、彼が気にしていたのは、いつも窓の外を見ているあの子だった。
鮫島愛華は何も気づいていない顔をしていた。佐伯くんの視線にも、私の視線にも。それがまた腹立たしかった。
わざとでしょ。わざと気づかないふりしてるんでしょ。
証拠なんてない。でも私にはそう見えた。
何も気にしていない顔。何も欲しがっていない顔。そういう顔をして、全部持っていく人間がいることを、私は知っていた。
ある日、私は鮫島愛華を睨んだ。目が合えばいいと思った。せめて何か言ってやろうと思ったのに、鮫島愛華は振り向きもしなかった。私なんか見えていないみたいに、窓の外を見ていた。
消えてくれればいいのに。確かに、そう思った。
だから今、私は笑えない。
教室の誰よりも、私には笑う資格がない。
「ねえ、鮫島さんって友達いたの?」
「三島さんと一緒にいるの見たことある」
「三島蒼? あの子、今日休みだよね」
「マジ? やっぱショックなのかな」
教室内では早くも犯人探しが始まった。三島蒼。鮫島愛華の親友。でも私から見れば、鮫島愛華はいつも一人だった。三島さんと一緒にいても、どこか遠くを見ているような顔をしていた。でも確かに、距離は近かった。物理的には。
放課後、私は校門を出てすぐに立ち止まった。
空は相変わらずどんより曇り空。磯の香りというか、魚が腐ったような匂いが風に乗ってくる。この町はいつもこの匂いがする。佐伯くんの視線に気づいてからずっと。
今日はこのまま家に帰りたくなかった。帰って一人になったら、何を考えてしまうか分からないから。足は自然と漁港の方に向いていた。
漁港を抜けて、岩場の方へ歩いた。観光客が来るような砂浜じゃない。地元の人間しか知らない、ごつごつした岩にびっしりと苔が生えている、映えない風景。子供の頃はよくここで遊んだ。佐伯くんも、三島さんも、鮫島愛華も、みんな一緒に。その頃はここしか遊ぶ場所を知らなかった。
岩場の手前に、花が供えてある。地元で一件しかない花屋の店先で、通学中によくみかけた花。仄暗い岩場と曇った海に、色とりどりの花が浮いている。昨日か今日、誰かが置いたのだろう。
私は手ぶらで、花を買うなんて思いつきもしなかった。
私は何をしに来たんだろう。
答えは分からない。ただ、ここに来なければいけない気がしていた。
苔のない岩に座って、海をぼぉっと眺める。コンクリートみたいな灰色の空と海が、境目も分からないくらい溶け合っている。この海のどこかで、鮫島愛華は死んだ。足がなくなるまで、何かに食われて。
海鳥がうるさいくらいに鳴いている。――そういえば、あの日もこんなふうに鳴いてた気がする。
あの鮫島愛華がいなくなった日。私はたぶん、家にいた。特に何もせず、佐伯くんのことを考えて、鮫島愛華のことを呪っていた。
波の音に混じって、足音が聞こえた。振り返ると、四〇代くらいの女の人が歩いてきていた。疲れた顔で、手には花束を持っている。鮫島愛華のために、あの花屋で買ったのだろう。灰色の世界に、またひとつ、似合わない明るい色が付着する。
とそのとき、その人と目が合った。少し驚いたような顔をして、それから軽く会釈をされた。私も慌てて頭を下げる。女の人は私の横を通り過ぎ、供えてある花の隣に自分の花束を置いた。手を合わせる。肩が震えている。鮫島愛華の、お母さんだ。私は逃げるように立ち上がった。
「あの」
女の人が振り返った。目が赤い。
「あなた、愛華の友達?」
友達。その言葉が胸に刺さる。
「……同級生、です」
「そう……」
泣きながら笑うような、歪んだ笑顔。私もさらに歪んだ笑顔を返す。
「来てくれて、ありがとうね。愛華、友達少なかったから」
私は何も言えなかった。本当は友達なんかじゃない。恨んでいた。消えればいいと思っていた。
「あの子、何考えてるか分からないって、よく言われてたでしょう」
――何考えてるか分かんないよな。 佐伯くんの声が重なる。
「私にも分からなかったの。自分の娘なのに。何で海に行ったのか。何で足が……何で……」
「すみません」
私は最後まで言葉を待たずに、走るようにその場を離れた。家に着くまで振り返れなかった。
部屋に閉じこもって、スマホを開く。鮫島愛華のSNSアカウントを急いで検索する。鍵はかかっていない。最後の投稿は、十日前。空の写真。何の変哲もない、曇り空の写真。キャプションは何もなし。コメント欄を見る。「いいね」が三つ。コメントはゼロ。
私はこのアカウントの存在すら知らなかった。フォローもしていなかった。恨んでいたくせに、見てすらいなかった。
投稿を遡る。海の写真。空の写真。たまに食べ物。人は写っていない。どこにも。
許せなかった。もっとたくさんの人と笑顔で写っていてほしかった。せめて、佐伯くんがコメントしていてほしかった。じゃないと、辛いだけだ。
私は一体、何を恨んでいたんだろう。
佐伯くんは、鮫島愛華を見ていた。でも鮫島愛華は、誰も見ていなかった。私のことなんか、存在すら知らなかったのかもしれない。
翌日、学校に行くのが怖かった。でも休めば余計に目立つ。小さなこの町では、誰が何をしているかすぐに広まってしまうから。「藤野さん、鮫島さんが死んでからずっと休んでるらしいよ」なんて噂が立ったら、それこそ犯人扱いされて終わりだ。
教室に入ると、空気が昨日とは違っていた。昨日の騒がしさが嘘のように、みんな静かに席についている。鮫島愛華の窓際の後ろから二番目の席には、遺影と花瓶。ついこの間まであの席に座っていた人間が、今日は写真になっている。
誰もその席を見ようとしない。まるでそこに最初から誰もいなかったかのように。
二時間目が終わった休み時間、佐伯くんが廊下に出ていくのが見えた。気づいたら、私も立ち上がっていた。ひんやり涼しげな廊下の端、男子トイレの手洗い場の影で、佐伯くんは窓の外を眺めていた。
私は自分自身が何を話すつもりなのか、自分でも分からないまま近づいた。
「佐伯くん」
彼が振り返る。いつもと変わらない顔。動揺しているようにも、悲しんでいるようにも見えない。
「……藤野。どうした?」
「ちょっと、話したくて。鮫島さんのこと」
その名前を出した瞬間、佐伯くんの時が止まった。ほんの一瞬。でも私は見逃さなかった。
「鮫島……」
彼は窓の外に視線を戻した。曇り空。いつもと同じ、この町の空。
「びっくりしたよな。まさか死ぬなんて」
それだけ。他に何も言わない。私は期待していた。彼が動揺するところを。悲しむところを。あるいは、鮫島愛華への想いを語るところを。
でも佐伯くんは、ただ淡々としていた。
「佐伯くん、鮫島さんのこと、気にしてたよね」
思い切った。というか、開き直った。気づいたら、心臓がうるさかった。
「気にしてた?」
「去年の席替えの後から、よく見てたでしょ」
佐伯くんは怪訝な顔をした。本当に分からない、という顔。
「見てたって……何を?」
「だから、鮫島さんを」
「いや、別に」
佐伯くんは首を傾げた。
「確かに、あいつは変わってたから。何考えてるか分かんないっていうか。でも、それだけだよ」
それだけ?
海岸沿いの岩場みたいに、重たい石が胸に積み重なったみたいな気分。
「好きとか、そういうんじゃなくて?」
「は? 鮫島を?」
佐伯くんは本気で驚いた顔をした。そして、少し笑った。
「ないない。俺、ああいう暗いタイプ苦手だし」
暗いタイプ。苦手。私が一年以上かけて積み上げてきた恨みの土台が、音を立てて崩れていく。
「じゃあ、何で『何考えてるか分かんない』なんて言ったの」
「え、そんなこと言ったっけ」
覚えていない。彼は覚えていなかった。私があれほど苦しんだ一言を、佐伯くんは覚えていなかった。
「まあ、言ったかもな。だって本当に分かんなかったし、あいつ。なんか、いつも窓の外見てただろ。何見てんのかなって。それだけ」
それだけ。本当に、それだけだった。興味なんてなかった。好意なんてなかった。ただの、何気ない一言だった。
「藤野、お前なんでそんなこと気にしてんの? 鮫島と仲良かったっけ」
「……ううん。全然」
「だよな。あいつ、誰とも仲良くなかったもんな。三島くらいか。じゃ、俺戻るわ」
彼は何事もなかったように教室に戻っていった。
私は廊下に立ち尽くしていた。一年以上、私は何をしていたんだろう。
佐伯くんの何気ない一言を、勝手に膨らませて。鮫島愛華を勝手に「敵」にして。消えればいいと願って。
佐伯くんは鮫島愛華を好きじゃなかった。鮫島愛華は佐伯くんの視線に気づいてすらいなかったのかもしれない。……いや、そもそも視線なんてなかった。私が見ていたものは、最初から存在しなかった。全部、私の頭の中だけの物語だった。
放課後、昨日と同じ岩場に来ていた。花が増えていた。昨日よりずっと多い。誰がこんなに持ってきたんだろう。友達が少なかったはずの鮫島愛華に、こんなにたくさんの花。
死んでから関心を持つ。死んでから花を供える。私も、この町の人たちも、やっていることは同じだ。鮫島愛華のための花が、そこだけ色付いている。
岩に座って、海を見た。今日も灰色。この町の海は、いつだって灰色だ。海鳥が飛んでいる。カモメじゃない、もっと小さな鳥。岩場の近くで何かを探すみたいに低く飛んで、海に潜った。あの鳥、何だろう。そんなことを考えて、すぐに忘れた。私は鳥のことなんて何も知らない。鮫島愛華のことも、何も知らなかった。
夜、またスマホで愛華のSNSアカウントをチェックした。更新なんてされるはずがないのに。投稿を最初から見ていく。海と空と、たまに食べ物。一つだけ、違う写真があった。
今年の三月。春休みの頃。波の上に、小さな鳥が写っていた。ピントが合っていない。撮るのに失敗したみたいな荒い写真。キャプションに、一言だけ。
「見つけた」
何を見つけたんだろう。
あの鳥を? それとも、別の何かを?
コメントはゼロ。いいねもゼロ。誰も気づいていない。
私も気付かなかった。恨むことに忙しくて、鮫島愛華がどんな人間なのか、知ろうともしなかった。
スマホを置いて、ベッドに大の字で寝転がった。
私の恨みは、最初から一人相撲だった。
佐伯くんは鮫島愛華を好きじゃなかった。鮫島愛華もきっと、佐伯くんの視線を知らなかった。私だけが、勝手に憎んで、勝手に呪って、勝手に苦しんでいた。
そして鮫島愛華は死んだ。私の恨みとは何の関係もなく、死んだ。
サメに食われたのか。自殺なのか。事故なのか。誰かに殺されたのか。
何も分からない。
でも一つだけ、確かなことがある。鮫島愛華は、私のことなんか見てもいなかった。
それが、どうしようもなく虚しかった。
カーテンの外で、また鳥が鳴いた。あの日もこうやってうるさく鳴いていた。あれは何かの予兆だったのか。それとも、何の意味もなかったのか。愛華なら、知っていたんだろうか。あの鳥が何なのか。何を見つけたのか。もう聞けない。永遠に。
学校に行くたびに、噂が変わっていた。
最初は「サメに食われた」だった。足がなかったから。鮫島だから。単純で、分かりやすくて、だから広まった。
「でもさ、サメってこの辺にいるの?」
「いるらしいよ。沖の方に」
「じゃあなんで沖まで行ったわけ?」
「さあ。自分から泳いでったんじゃない?」
自殺説が出てきたのは、三日目くらいからだった。
「鮫島さん、暗かったもんね」
「誰とも話さなかったし」
「でも三島さんとは一緒にいたじゃん」
「なんか色々あったんじゃない? え、もしかして……」
「確かに! あの日からずっと休んでるもんね!」
「え、逃亡中ってこと!?」
根拠なんてない。ただの想像。でも想像は、語られるたびに確信に変わっていく。
「まさか。三島さんそんな感じじゃないし」
「じゃあ……家庭の問題とか?」
「それはない。鮫島さんのお母さん、毎日花束買ってお供えしてるもん」
「いや関係あるって。だって事件の日、鮫島さんのお父さんの船が出港したんだよ。もしかして、見送りに行って、そのまま……」
「漁師の娘なのに泳げなかったとか?」
「いや関係ないでしょ」
「でもさ、足がないのおかしくない? サメだけじゃそうならないって」
「スクリューに巻き込まれたんじゃない?」
「えっ、じゃあお父さんの船に?」
「やば、それ事故じゃなくて……」
噂は膨らんでいく。尾ひれがついていく。誰かが何かを言うたびに、新しい物語が生まれる。鮫島愛華は、何も言わない。
あれから四日目、ついに三島蒼が学校に来た。教室に入ってきた三島さんに、クラスメイト全員の視線が集まる。逃亡していたはずのクラスメイトがいきなり登校してきた。いや、逆に捕まっていたから来られなかったんだ。ということは、三島さんは犯人ではないということ? ひそひそ話が教室中に充満し、ねちっこい湿度が上がる。三島さんは、いつもより少し痩せて見えた。目の下に隈がある。泣いていたのか、眠れなかったのか。たぶん両方だろう。
みんなが三島さんを見た。気遣うように、あるいは値踏みするように。「逃亡犯」であり「親友」が何を語るのか、期待しているみたいだった。
三島さんは誰とも話さず、自分の席に座った。窓際の、鮫島愛華の席から二つ離れた場所。私はあえて見ないようにしていた。見たら何か言わなければいけない気がして、でも何を言えばいいか分からなかった。
昼休み、三島さんがどこに行くのか、クラス中が気になっていた。彼女はなんと、まっすぐ私の席に来た。
「藤野さん」
心臓が止まるかと思った。
「……三島さん。大丈夫? 元気だった?」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。でも他に言葉が出てこなかった。
「うん。ちょっと話せる?」
三島さんは静かに笑った。笑顔のはずなのに、目が笑っていない。
私たちは教室を出て、廊下の端まで歩いた。人気のない、階段の踊り場。窓から海が見える。灰色の、いつもの海。
「藤野さん、愛華と何かあった?」
「何かって……何が?」
「分からない。でも、愛華が藤野さんのこと、何か言ってたから」
息が止まった。鮫島愛華が、私のことを?
「何を……何て言ってたの?」
声が震えた。自分でも分かるくらい、露骨に。
三島さんは海を眺めながら少し黙った。生臭い潮風がそよいでくる。
「ごめん、はっきりとは覚えてない。でも確か、藤野さんの名前を聞いた気がして」
それだけ? 私の名前を言っただけ?
でも、それは、鮫島愛華が私を認識していたということだ。存在を知っていたということだ。
私のことなんか見てもいなかったと思っていた。一人相撲だと思っていた。
「何て言ってたか、思い出せない?」
「ごめんね。本当に曖昧で……でも、気になって」
三島さんの目が、私を見ている。何かを探るような目。
「藤野さん、愛華のこと、嫌いだった?」
心臓を掴まれたみたいだった。
「……どうして」
「なんとなく。愛華を見る目が、ちょっと怖かったから」
見られていた。私が鮫島愛華を睨んでいたのを、三島さんは見ていた。
「私は……」
言葉が出てこない。嫌いだった? 恨んでいた? 消えればいいと思っていた? 全部本当だ。でも、言えない。
「別に責めてるわけじゃないよ。愛華のこと、みんな色々言ってるね。サメに食べられたとか、自殺とか、お父さんの船とか。でも誰も本当のことは知らない。私も知らない。親友だったのに」
三島さんは鮫島愛華の親友。それは周知の事実。でもそんな親友でさえも、鮫島愛華のことを知らない。だったら私なんか、知っていなくて当然だ。
「藤野さんが何か知ってるわけじゃないよね? 藤野さんが……関係してるんじゃないよね?」
「し、知らない! 何も、知らない知らない!」
クラスメイトが三島さんを疑っていたように、三島さんが、私を疑っている。冗談じゃない。私は違う。
「だよね。ごめんね、変なこと聞いて」
三島さんは無理やり微笑んで、教室に戻っていった。私は踊り場に立ち尽くしていた。
鮫島愛華が私のことを何か言っていた。名前を言っていた。私を恨んでいた? 私の視線に気づいていた? それとも、全然別のことで、偶然名前が出ただけ? 分からない。もう聞けない。永遠に。
その日の夜、また海岸に行った。誰にも会いたくなかったから。
街灯なんてない。月明かりだけが頼り。黒い海。境目の分からない空。真っ暗闇から、波の音だけが聞こえる。波が岩に当たって砕ける。何度も、何度も。
「鮫島愛華」
声に出してみた。返事はない。当たり前だ。死んでるんだから。
「あんた、私のこと見てたの?」
波の音だけが答える。手応えのない波音に虚しさが増す。
「私はあんたを見てた。ずっと睨んでた。消えればいいって思ってた。……馬鹿みたいだよね」
涙が出そうになって、堪えた。泣く資格なんてない。三島さんの声が頭から離れない。鮫島愛華が私の名前を言っていた。何て言っていたのか永遠に分からない。
「何か言ってよ。私のこと恨んでたなら恨んでたって。何とも思ってなかったなら、それでいいから」
波の音。鳥の声。それだけ。
サメに食われた。自殺した。父親の船に巻き込まれた。みんな、答えない相手に向かって、勝手な物語を語っている。
私がやっていたことと、同じだ。勝手に敵にして、勝手に恨んで、勝手に苦しんでいた。
通夜は、その二日後だった。
会場は、漁港の裏の公民館だった。この町にセレモニーホールはない。結婚式も、成人式も、お葬式も、ぜんぶあの公民館でやる。畳の広間に祭壇を組んで、パイプ椅子を並べて。
学校からは、参列は自由、行く場合は制服で、と言われた。十七歳に喪服はない。毎日着ている服が、そのまま喪服になる。それが少しだけ、恐ろしいことのように思えた。私たちはいつでも、誰かを弔える格好で学校に通っている。
受付で、記帳をした。
名前を書く欄の横に、続柄を丸で囲むところがあった。親族。友人。職場。その他。
友人、に丸をつけようとして、ペンが止まった。つけられなかった。友人じゃない。友人どころか、私は。――その他、に丸をつけた。世界の書式の上で、私はあの子の「その他」だった。正しい場所に、初めて自分を記入できた気がした。
広間は、人でいっぱいだった。
町の半分が来ているんじゃないかと思った。漁協の帽子の跡が額に残ったおじさんたち。魚の匂いのする上着の人たち。たぶん、バイト先の工場の人たち。先生が三人。教頭先生は、肩に線香の匂いが染みつきそうなほど、深く頭を下げ続けていた。
こんなに大勢が、あの子を知っていたのか。
違う。知っているのは「鮫島さんとこの娘さん」で、あの子じゃない。この町では、誰かが死ぬと、町中が悲しむ。悲しめてしまう。顔と苗字さえ知っていれば、悲しむ資格が発行される。
読経が始まると、広間は静かになった。
お坊さんの声と、木魚と、時々、洟をすする音。正座の足が痺れてきて、痺れを数えることで時間をやり過ごした。お通夜で足の痺れのことを考えている。そういう自分の頭を、上から見ている自分がいた。
後ろの方で、大人の囁き声がした。
「……ねえ、ほんとに、サメなの」
「しっ」
それだけだった。それだけで、十分だった。噂は、通夜の畳の上まで泳いでくる。祭壇の花の匂いの中でも、尾ひれは濡れたまま、生きている。
クラスの女子たちが、前の方で固まって泣いていた。
抱き合って、肩を震わせて。あの日、教室で笑い声を上げていた輪と、半分くらい同じ顔ぶれだった。悪意じゃないことは、分かっている。笑うのも泣くのも、たぶん、練習がいらない。その場の空気が体を通り抜けるだけ。通り抜けのいい体を、私は少しだけ羨んだ。
私は泣けなかった。
泣いたら、嘘になる。恨んでいた人間の涙は、涙のかたちをした別のものだ。でも、泣いていない顔は、冷たい人の顔に見える。うつむくと反省に見えて、前を向くと図太く見える。顔の置き場が、どこにもなかった。
蒼が親族席の近くにいた。
泣いていなかった。まっすぐ祭壇を見て、目が乾いていた。泣き崩れる女子たちの後ろで、一人だけ乾いている横顔は、この会場の誰より、ひどい顔をしていた。「親友」の席から見える景色を、私は知らない。知らないまま、目を逸らした。
佐伯くんの姿は、探さないと決めていた。
決めて、三回探した。見つからなかった。来ていないのか、私が見つけられなかっただけなのか、分からない。お通夜の会場でまで人を探している自分に気づいて、口の中が苦くなった。私はこういう人間だ。こういう人間のまま、焼香の列に並んでいる。
焼香の作法を、私は知らなかった。
前の人の手つきを盗み見て、真似をした。つまむ。押しいただく。落とす。合掌。全部、見様見真似。私たちはまだ、弔い方を習っていない。習っていないことが、次々と本番でやってくる。それが十七歳ということなのかもしれなかった。
列が進んで、祭壇の前に出た。
遺影は、見たことのない顔をしていた。
明るい色のブラウスを着て、少しだけ笑っている。教室のあの子は、いつも窓の外を見ている横顔だった。正面から笑いかけられたのは、写真の中が初めてだった。初めてなのが、遺影だった。
棺の小さな窓は、閉じられていた。
閉じられた窓の前で、手を合わせた。ごめんは、この前の夜、海岸で言った。それ以外に持ち合わせがなかった。何も言葉が浮かばないまま、頭を下げて、列に押されるように横へ流れた。
喪主の席に、男の人はいなかった。
痩せた女の人が一人、頭を下げ続けていた。参列者の一人一人に、同じ深さで、同じ長さで。機械みたいに正確で、機械じゃないから、お辞儀の合間に肩で息をしていた。
あの人だ、と気づいたのは、外に出る間際だった。
あの夜、海岸ですれ違った人。花を持っていた人。
あの子のお母さんだったのだ。
私は、あの子のお母さんから、逃げるように立ち去ったのだ。暗がりで、顔も見ないで。向こうは私を覚えていないだろう。私だけが覚えている。私はいつも、そちら側だ。一方的に見て、一方的に覚えて、一方的に、勝手なことを思う側。
帰り道、前を歩く女子たちが、泣き腫らした顔のまま、コンビニの明かりに吸い込まれていった。
アイスの棒をくわえて出てくる頃には、もう笑い声が戻っていた。薄情だとは思わなかった。弔いの帰り道は、驚くほど普通の夜だった。線香の匂いのついた制服で、明日の小テストの話をしながら、みんな家に帰る。生きている人間は、そういうふうにできている。
私は遠回りをして帰った。海岸には行かなかった。
あの子の机には、事件の三日目から花が置かれていた。
ペットボトルを半分に切った花瓶に、名前を知らない白い花。誰が置いたのかは、知らない。私じゃない。あの日、手ぶらで海岸に立った私は、花を買うことを思いつきもしなかった人間だ。だから机の花を見るたび、少しだけ目を伏せた。置いた誰かは、思いついたのだ。
一学期最後の登校日の朝、花は消えていた。
机は拭かれて、他の机と同じ顔をして並んでいた。誰が片付けたのかも、知らない。ご遺族にお返ししたのかもしれないし、枯れる前に、誰かが判断したのかもしれない。夏休みの教室に、花は残せない。片付けた人は、正しい。
正しさが、いちばん早く忘れる。
教室の誰も、花のことを言わなかった。気づいた人と、気づかない人がいて、教室は、気づかない人の速度で進む。チャイムが鳴って、通知表が配られて、夏休みの過ごし方のプリントが回ってきた。あの子の机の上だけ、何も配られなかった。
家に帰って、また鮫島愛華のSNSアカウントを開いた。
何度も見た投稿。海。空。食べ物。鳥。「見つけた」と書かれた、ピントの合っていない鳥の写真。私は何も見つけられなかった。鮫島愛華が何を見ていたのか。何を考えていたのか。何を見つけたのか。スマホを閉じて、天井を見た。鳥が鳴いている。夜なのに。海鳥は夜も鳴くのだろうか。それすら私は知らない。鮫島愛華は、たぶん知っていた。あの子は鳥を見ていた。写真を撮っていた。「見つけた」と書いていた。私は何も見ていなかった。佐伯くんと、自分の恨みしか見ていなかった。
消えればいい。そう願った相手は、本当に消えた。でも私の中には空虚さだけが残った。鮫島愛華は、私のことを何か言っていたらしい。何を言ったのか、もう分からない。分かったところで、何か変わるわけでもない。
ひとつだけ、白状する。佐伯くんのことは、まだ好きだ。あの子が死んでも、それだけは消えなかった。消えてくれなかった。
目を閉じる。波の音が聞こえる気がした。遠くで、鳥が鳴いている気がした。鮫島愛華は死んだ。足のない水死体になって見つかった。サメに食われたのか、スクリューに巻き込まれたのか、自分から海に入ったのか、誰かに突き落とされたのか。きっと永遠に分からない。
彼女は、何も遺さなかった。




