第四演習場の夜と狼の爪痕
地下第四演習場の片隅、錆びたパイプから滴る水滴の音だけが、硬いコンクリートに規則正しく響いていた。
隔離訓練が始まってから四日目の夜。時計の針は午前三時を回っていたが、この人工照明の閉鎖空間には昼も夜も存在しない。あるのは、冷え切った汗の匂いと、焼け焦げた絶縁ゴムの悪臭、そして限界まで削り取られた六つの呼吸だけだった。
多朗は壁に背を預け、冷たい床に投げ出した自分の両足を見つめていた。
作業着の袖は擦り切れ、肘や膝には黒ずんだ血が滲んでいる。だが不思議と、初日に感じていたような理不尽さへの苛立ちは消えていた。空間把握の感覚が、まるで皮膚の一部のように拡張されているのがわかる。目を閉じていても、十メートル先で眠る剛田の荒い寝息、相羽の微かな寝返り、琴音が小さく漏らす吐息の位置が、寸分の狂いもなく立体座標として脳内に結像していた。
『眠れないのですか、多朗さん』
闇の中から、音もなく声が落ちてきた。
目を開けると、マナが立っていた。感情の起伏を感じさせない陶器のような白い横顔。だが、その肌の奥で明滅する青い生体蛍光は、初日よりも明らかに弱々しく、稼働限界の近さを示していた。マナの透き通る瞳は、オレを見つめ、それから静かに横で眠る相羽の寝顔へと向かい、どこか痛切な陰りを帯びていた。
『神経が立っててな。目を閉じると、あの黒い楔を粉砕した時の高周波が耳の奥で鳴り止ないんだ』
オレが低く答えると、マナはオレの隣に静かに腰を下ろした。
『それは、多朗さんのハプロ配列が完全に三次元物質界のアンカーとして固定された証拠です。古代から受け継がれた遺伝子の周波数が、この空間の綻びを敵として認識している』
『オテントサマは、最初からオレたちがこうなることを見越していたのか』
オレの問いに、マナはわずかに長い睫毛を伏せ、膝の上で握りしめた拳に視線を落とした。
『オテントサマは感情を持ちません。ただ、数兆通りのシミュレーションを重ねた結果、この成増の地下であなたたち六人の神経が臨界結合を果たす確率が、人類の存続確率と完全に一致した。それだけです』
(所詮、オレたちは計算のコマってわけか)
自嘲の笑みが浮かびかけたが、吐き捨てる気にはならなかった。コマだろうが実験体だろうが、いまオレたちの手の中には、あの理不尽な破壊を叩き折るための即席の牙がある。それだけで十分だった。
遠くで、重い金属扉のロックが解除される乾いた音が響いた。
『起きろ、ひよっこども。移動だ』
現れたのは後藤教官だった。手には何も持たず、冷え切った視線でオレたちを見渡す。その後ろには稲葉教官と石田教官が控えていた。
『教官、地上に出るんですか』
琴音が立ち上がり、緊張した面持ちで尋ねる。
『地上に出る前に、貴様らに引き合わせる男がいる。ついて来い』
後藤教官に促され、オレたちは重い足取りで演習場を後にした。案内されたのは、さらに下層に位置する地下第六重機密区画だった。
防弾ガラスで何重にも密閉された特殊訓練ケージの中、凄まじい肉体衝突の音が響いていた。
金属フレームを叩き折るような鈍い打撃音。ケージの中央で、上半身裸の男が無人迎撃マシンを素手でねじ伏せ、床へと叩きつけていた。肩から背中にかけて、幾重にも刻まれた生々しい裂傷の痕。汗に濡れた銀髪を乱暴に払いのけ、ケージのガラス越しにこちらを射抜いたのは、見覚えのある鋭い双眸だった。
『榊先輩。いや、榊さん』
オレは思わず息を呑んだ。
かつてオレに敗北を喫したあの榊先輩だった。家族を飢えさせないため、高額な報奨金目当てに命を売って志願した苦学生。血統に恵まれ、選ばれた存在として後から入ってきたオレたちを骨の髄まで憎み、先輩風を吹かせて突っかかってきた男だった。
だが今の榊には、かつての浅ましい妬みや歪んだ苛立ちは微塵もなかった。地下の過酷な実戦調教によって無駄な肉と甘えが徹底的に削ぎ落とされ、家族を守るというただ一つの執念だけを研ぎ澄ませた、飢えた狼のような気迫を放っていた。
『後藤教官。生きて戻ってきたんか、この甘ったれた一年坊主どもは』
ケージの扉が開き、榊がタオルで首筋の汗を拭いながら出てきた。その手首と足首には、重力を負荷する黒い拘束具が巻き付けられていた。
『そうだ。お前の鼻をへし折った連中だ。四日間の隔離訓練を生き延び、生体アンカーとしてモノになりつつある』
後藤教官が低く応じる。
榊の冷たい視線が、オレの顔を真正面から捉えた。視線が交錯した瞬間、オレの空間把握が榊の周囲の大気の密度を測り、榊もまた、オレが放つ特異な気配を瞬時に察知して細い目をさらに細めた。
『上宮。あの時は無様に負けたが、少しはマシな面構えになったな』
榊の声には、過去の敗北に対する怨嗟ではなく、過酷な死線を潜り抜けてきた者特有の冷徹な重みが宿っていた。
『榊先輩こそ、別人のようだ』
オレが返すと、榊はわずかに口元を歪めた。
『お前たち特異遺伝子のエリートを追うように、俺はこの第六区画で、先行実戦部隊の先鋒として叩き直されていた。外の地上はすでに崩壊が始まっている。大人の部隊は空間の歪みに触れることすらできず、次々と消滅した。俺は家族のために生き残る。そのためなら、お前たちエリートの露払いでも何でもやってやる』
『その通りだ』
後藤教官が二人の間に割って入るように立ち、低い声で言い放った。
『榊を筆頭とする先行強襲班と、上宮率いる生体アンカー班。この二つを軸に、成増特命即応大隊を編成する。地上の歪みを榊が切り開き、上宮たちが楔を叩き折る。これが貴様らの実戦配置だ』
榊がオレの肩を強く掴んだ。その掌からは、骨が軋むほどの痛烈な力と、背負ったものの重さが伝わってきた。
『足手まといになったら容赦なく切り捨てるぞ、上宮』
『そっちこそ、先走って消滅しないでくださいよ、榊先輩』
オレたちが交わした視線の火花を、地下の冷たい空気が静かに包み込んだ。役者は揃った。地上で口を開けて待つ破滅の淵へ向けて、独立部隊の歯車が噛み合い始めていた。




