薄氷の防壁と風のささやき
地下宿舎の女子区画は、男子棟以上に冷たい静寂に包まれていた。
換気ダクトから吹き込む空気には、生々しいオゾンの匂いと湿ったコンクリートの粉塵が混ざり合っている。総合演習で泥水を浴び、冷水シャワーで洗い流したものの、皮膚の表面は異能の過負荷によって赤く熱を持っていた。金属製のパイプベッドに腰を下ろした琴音は、細い指先で自らの二の腕を強く抱きしめ、小刻みに震える呼吸を必死に押し殺していた。
気流を操る異能。それは大気中の微細な分子運動を指先一つで収束させ、爆発的な風圧を生み出す力だ。だが、代償として術者の肺腑と神経節には、まるで氷の刃を吸い込んだかのような激痛が残る。
『くっ、息が、冷たい』
琴音はシーツを強く握りしめた。奥歯がカチリと鳴る。
(なんであたしがあんな目に遭わなきゃいけないのよ。後藤教官の言う通り、ただのモルモットじゃない。あんな理不尽な演習、まともな大人のやることじゃないわ)
頭に浮かぶのは、昼間の演習場で背中を預け合っていた上宮多朗の姿だった。空間を把握し、ドローンの視界と同調しながら叫んでいたあの真剣な横顔。
(あいつの前で無様な姿は見せられない。だけど、身体が言うことを聞かない。こんな呪いみたいな力、頼んで手に入れたわけじゃないのに)
幼い頃から、琴音にとって世界は耐えがたい騒音に満ちていた。人の呼吸音、嘘をついたときの肺の微小な震え、怒りを孕んだ皮膚表面の空気の渦。周囲の感情が大気の波となってダイレクトに鼓膜と神経を刺し続けた。感情が昂れば、意図せず突風が巻き起こり、教室の窓ガラスを粉砕した。化け物と恐れられ、腫れ物に触るように扱われた孤独な日々。
成増航空高校に集められたのも、自らの意志ではない。遺伝子に刻まれた特異因子を検知され、有無を言わさず連れてこられたのだ。
『琴音さん、まだ脈拍が高いです。深呼吸をしてください』
部屋の隅、直立するように腰掛けたマナが、抑揚のない静かな声で告げた。生体端末として造られたマナの双眸は、暗闇の中でも青白い光彩を宿し、一切の疲労の色を見せていない。
『うるさいわね。あんたみたいに機械みたいに割り切れたら、どれだけ楽か分からないわよ』
琴音はツンと顔を背けた。だが、その声にはいつもの鋭さはなく、ひどく掠れていた。
その時、向かいのベッドに横たわっていた相羽みなみが、静かに上体を起こした。
名家出身の凛とした佇まいを残しつつも、その額には脂汗が滲んでいた。幾何学的な光の多面体防壁。演習中、次々と襲いかかる無人トラップの猛烈な一斉掃射を防ぎ続けた代償は、彼女の華奢な肉体を確実に蝕んでいた。
『琴音、無理に強がらなくていいって。私たちの力、限界超えたら内側からパンクするようにできてるんだからさ』
相羽は自らの掌を見つめた。白磁のように滑らかな皮膚の奥で、微細な幾何学模様の発光が点滅し、不規則に明滅している。
『相羽、あんたこそ大丈夫なの。あの自動掃射の嵐、一人で受け止めてたじゃない』
『大丈夫なわけないじゃん。我が相羽の家に伝わるこの防壁の術式なんて、元々は儀礼とか結界のためのものだよ。あんなえげつない集中砲火を受け止め続けるようにはできてないっての』
相羽は肩をすくめ、自嘲気味に笑った。
『うちの家系、代々この光の檻を守り続けてきたんだよね。一族の誉れだの才能だの持て囃されて育ったけど、結局はこの成増航空高校に送られて、防衛実験の盾にされてるだけ。十六歳にして要塞の防壁代わりに使い潰されるのが、私の血筋の宿命だったわけ』
(名家の誇りなんて、最初からただの重荷だった。決して破られちゃいけないっていうプレッシャー。心を硬い殻で閉ざして、誰にも本音を見せないように生きてきた。でも)
相羽は視線を上げ、琴音とマナをまっすぐに見つめた。
『だけどさ、今日の演習で思ったんだよね。もしあの時、琴音が気流を乱して弾道を逸らしてくれなかったら、私の防壁は粉々に砕けて、あたし今頃ペシャンコになってたよ』
『な、なによ急に。あたしは自分の身を守るために風を起こしただけよ。あんたを助けるためじゃないんだから』
琴音は頬を赤らめ、慌てて視線を逸らした。
そのやり取りをじっと観察していたマナが、滑らかな動作で立ち上がり、二人の間に歩み寄った。
『相羽さん、琴音さん。私の生体センサーは、お二人の生命維持機能が限界に近いことを示しています。ですが同時に、相互の信頼関係による神経伝達物質の安定も検知しています。白金校長はかつて言いました。人間は不条理なシミュレーションに抗うとき、計算値を超える異常な出力を出すと』
『校長の名前を出さないで。あの人の胡散臭い笑顔を思い出すだけで鳥肌が立つわ』
琴音が身震いしながら吐き捨てる。
『まあね。要塞統括AIの手のひらで踊らされてるのは事実だろうし、後藤教官の言う通り、私たちは実験台かもしれない』
相羽はベッドの上であぐらをかき、両手をぽんと膝に置いた。
『でもさ、私はあの上宮くんや剛田くん、陣内くん、それに琴音たちを見捨てる気なんてまったくないよ。たとえ遺伝子に刻まれた呪いみたいな力だとしてもさ、この光の盾は、私が守りたいって思った仲間のために使いたいんだよね』
『相羽!』
琴音は目を見張った。名家のプレッシャーを背負いながらも、あっけらかんと笑う相羽の瞳に、揺るぎない強い光が宿っていたからだ。
部屋の換気扇が、一定のリズムで重い唸りを上げている。地下深くに閉じ込められ、明日もまた血と泥にまみれる過酷な訓練が待っている。それでも、この冷え切った部屋に満ちていた絶望の空気は、微かな熱を帯びて変わり始めていた。
『まったく、どいつもこいつも熱血バカばっかり』
琴音は小さく息を吐き出すと、乱れた前髪を乱暴に払った。
(多朗も、剛田くんも、陣内くんも、きっと隣の部屋で同じように苦しんでる。あたしだけが弱音を吐いていられるわけがないじゃない)
『明日、もし演習場がまた無茶なトラップを起動してきたら、あたしが最大の突風で吹き飛ばしてやるわ。相羽は、あたしの背中だけ守ってなさいよ』
『了解。一枚たりとも破らせないから、思いっきりぶっ放しなよ』
相羽がニッと笑みを浮かべ、マナもまた、わずかに首を傾げて肯定のサインを送った。
女子宿舎の冷たい闇の底で、過酷な運命に抗う少女たちの意志が、固く静かに結び合わされていた。




