数字しか信じられなかった僕の部屋
冷え切った地下宿舎の空気は、湿ったコンクリートと微かな鉄錆の匂いを孕んでいた。
シャワーで泥と汗を洗い流したはずの皮膚が、極度の緊張から解き放たれた反動でじくじくと痛む。金属製の二段ベッドがきしむ音を微かに立て、過酷な総合演習を終えた仲間たちの重い呼吸が暗闇に溶けていた。
僕、陣内は、パイプベッドの下段で薄い毛布を被り、膝を抱えて小刻みに震えていた。
(眠れるわけがない。あんな言葉を叩きつけられて、どうして脳のシナプスを止められるっていうんだ)
後藤教官の冷酷な宣告が、僕の鼓膜の奥で鋭い棘のように突き刺さったままだ。
『貴様らは要塞統括AIの実験モルモットに過ぎん』
その言葉を聞いた瞬間から、僕の脳内では数式と確率の奔流が狂ったように逆流を始めていた。青白い光を放つ携帯端末の画面が、僕の落ち窪んだ眼窩と乾いた唇を不気味に照らし出している。カチ、カチ、カチと、神経を逆撫でする規則的な打鍵音を立て、僕の指先は痙攣するようにキーを叩き続けていた。
(僕たちはモルモットだ。実験素体。都合のいい生体演算チップ。僕のこの頭脳も、上宮の空間把握も、剛田の異常な筋力も、すべては誰かの手のひらで転がされるための機能に過ぎない)
画面に展開されているのは、演習中に僕が要塞統括AIの基幹フレームへ仕掛けておいたバックドアから吸い上げた通信ログだった。
僕たちの心拍数、消費カロリー、筋組織の損傷限界、そして演習場に出現した敵のアルゴリズム。すべてが不気味なほど完璧に整合していた。教官たちの容赦ない鉄拳も、稲葉先生の冷徹な分析も、すべては僕たちという素体を極限状態で覚醒させるための誘導パラメータに過ぎない。
(思い出したくもない。あの遮光カーテンで閉ざされた部屋の匂いを)
幼い頃から、僕にとって人間は理解不能な怪異そのものだった。母親の引きつった笑顔の裏にある嫌悪、教室で交わされる言葉と視線のズレ、理不尽に降りかかる暴力。感情という名の予測不能なノイズが渦巻く外の世界に耐えかね、僕は十歳になる前に自室の雨戸を閉め切り、分厚い遮光カーテンを引いて世界を完全に拒絶した。
(人間は平気で嘘をつく。約束を破り、裏切り、自分の都合で他人を傷つける。だけど、画面の中の数字だけは違った)
光を拒絶した六畳間の暗がりの中、唯一僕を裏切らなかったのが、青白いディスプレイに並ぶ緑の文字列だった。
0と1。偽りのない二進法。純粋な数学的論理構造。
(0はどこまで行っても0だし、1は絶対に1だ。論理ゲートを正しく組めば、世界は絶対に狂わない。バグが出るのは設計者が未熟だからであって、数理そのものはどこまでも純粋で、美しくて、残酷なまでに真実だった。僕はあの部屋で、世界中のネットワークをハッキングして、暗号を解体している時だけ、ようやく呼吸ができたんだ)
だが、ある夜、僕の構築した鉄壁の論理要塞は、音もなく外側から踏み躙られた。
画面が突如として深紅に染まり、見たこともない高次元の幾何学コードが怒涛の勢いで流し込まれた。僕の処理速度を遥かに凌駕する圧倒的な知性。心臓が跳ね上がり、呼吸が止まりかけた瞬間、部屋のドアノブが静かに回った。
立っていたのは、飄々とした笑みを浮かべた白金校長だった。鍵をかけていたはずの扉の向こうから、白金校長はまるで隣の部屋からふらりと入ってきたかのように僕を見下ろした。
『美しい論理構造だね、陣内くん。だが、君のその脳髄は、人間が作ったちっぽけなネットワークを泳ぐためだけに用意されたものじゃない』
白金校長は、狂乱する画面に指を触れることなく、ただ呟いた。
『この世界そのものが、巨大な演算シミュレーションだとしたらどうする。君の遺伝子に刻まれたその異常な暗号解読能力は、何千年も昔からこの星を覆う巨大なバグを暴くために組み込まれた鍵なのだよ』
僕は端末の画面を睨みつけ、奥歯を強く噛み締めた。
(遺伝子に焼き付いた記憶。先祖代々の血脈。ふざけるな。僕が部屋に引きこもって、狂うほど画面を見つめ続けて手に入れたこの頭脳すら、最初からDNAの螺旋に組み込まれた既定ルートだったっていうのか。僕の意思じゃない。誰かが仕組んだ設計図通りに動いているだけなのか)
『おい、陣内。まだ起きてんのか。消灯時間はとっくに過ぎてるぞ』
突然、頭上から小声が降ってきた。上段のベッドから上宮が身を乗り出し、心配そうに僕を見下ろしていた。
僕は画面から目を離さず、乾いた声で返した。
『上宮、寝られるわけがないよ。あんな言葉を叩きつけられて、どうして脳のシナプスを止められるっていうんだ』
『後藤教官の言葉なら、真に受けるな。オレたちを揺さぶるためのハッタリかもしれないだろ』
『ハッタリじゃないよ。計算すれば誰だってわかる。僕たちのバイタルも、演習場のギミックも、すべてが美しすぎるほどに噛み合っている。僕たちは最初から、人間として扱われてなんかいないんだ』
『陣内、お前、何を見てるんだ』
『要塞統括AIの裏側さ。ほら、見てごらんよ。僕たちの行動パターンは、すべて最初から予測モデルの枠内に収まってる。僕たち十六歳が発揮しているこの異常な能力は、後天的に鍛えたものじゃない。遺伝子の奥深くに最初から焼き付けられていたプログラムなんだ。僕の暗号解析も、君の空間認識も、何世代も前から特定の条件で覚醒するように仕組まれていた呪詛みたいなものだ』
僕の吐き出す絶望の言葉を遮るように、不意に隣のベッドの鉄枠がきしんだ。
『おいおい、夜中にゴソゴソと、お前ら怪談話でもしてんのかよ』
剛田が巨大な身体をのそのそと起こし、太い首を回しながら僕を見下ろしていた。
『剛田、起こしちゃったかい』
『バカ言え。陣内のカタカタいう指の音が気になって寝られやしねえよ。難しい理屈はさっぱりだが、ばあちゃんがよく言ってたぜ。飯食って動いてる間は、人間誰だって生きてるってな。モルモットだろうが何だろうが、オレのこの力で守りたいもんを守るだけだ』
剛田は分厚い手のひらを強く握りしめ、筋繊維をミシミシと鳴らした。
僕は自嘲気味に口元を歪めた。
『剛田は強いね。感情で割り切れるなら、どれだけ楽か』
『割り切ってなんかいねえよ。腹が立ってるから、明日も教官の野郎をぶん殴るつもりで訓練すんだよ』
その剛田の不器用な言葉に、上宮も頷きながら言った。
『陣内、オレも難しいコードのことは分からない。でも、今日お前の解析のおかげで、オレたちはあの演習を生き残れた。それは計算式の結果かもしれないけど、お前がオレたちのために必死にキーを叩いてくれた事実は、シミュレーションなんかじゃないはずだ』
僕は目を見張り、それから静かに視線を手元の画面へと落とした。
(画面の向こう側の記号じゃない。こいつらは、生きてる。汗を流して、血を流して、泥まみれになって、痛みに顔を歪めてる。僕と同じように、不条理な宿命を背負わされて、それでも必死に立っている)
かつて部屋の中で数字だけを信じ、他人の体温を拒絶していた僕は、いまや最も不合理で、最も傷つきやすい人間たちと同じ泥水をすすり、背中を預け合っている。
『本当におめでたいよ、君たちは』
僕は小さく息を吐き出すと、液晶画面の光量を一段階落とした。
(計算通りになんて動いてやるものか。もしこの世界が壮大なシミュレーションで、僕たちに抗えない宿命が刻まれているのだとしても。僕たちの命を、勝手な数式で定義するな。バグを起こしてやる。この僕の手で、神気取りのシステムそのものを書き換えてやる)
『寝るよ、上宮、剛田。明日、またあの鬼教官に殺されないためにもね』
僕は端末を伏せ、毛布を頭から被った。暗闇に包まれた部屋の中、僕の胸の奥底で、かつての孤独な怯えは完全に消え去り、冷徹なハッカーの研ぎ澄まされた熱い光が静かに燃え上がっていた。




