睡魔と暗号講義
1500時ちょうど。
冷却液と泥が半乾きになった作業服は、冷たい皮膚に張り付いて不快な重みを生んでいた。身体を拭う時間も乾かす猶予も与えられないまま、多朗たちは第2層の北翼にある第1講堂へと押し込められていた。
無機質なコンクリートの四方を囲む部屋には、錆の浮いたスチール製の折りたたみ机と硬いパイプ椅子が等間隔に並んでいた。空調は作動しておらず、地下特有の湿った冷気が床下から這い上がってきて、足首の擦り切れた傷口を冷たく冷やしていく。
椅子に腰を下ろした瞬間、多朗の全身の筋肉から急速に熱が引いていった。
午前中の重機材運搬と泥濘走破、そして午後の精神侵蝕シミュレーションによる痛覚の連続。極限まで酷使された肉体が、座った途端に重力に引きずり込まれるような強烈な脱力感と睡魔に襲われる。
隣の席では、陣内が両手を机の上に置いたまま、頭を小刻みに揺らしていた。眼鏡の奥の瞼が半分閉じかけ、意識を繋ぎ止めるだけで精一杯の様子だった。その向こうでは剛田が腕を組み、顎を胸に沈めて重い呼吸を繰り返している。
『眠気覚ましの薬を期待しているなら諦めろ』
教壇の脇で、後藤教官が腕を組んだまま低く言った。手にした特殊警棒が、金属製の教卓をカンと高く打ち鳴らす。硬質な金属音が講堂内に甲高く反響し、陣内がビクッと肩を跳ね上げて目を見開いた。
『脳を動かせ。身体が動かん時こそ、頭の回転速度が生死を分ける』
教壇の中央に立った稲葉先生が無言で端末を操作すると、正面の巨大な壁面モニタに青白い幾何学模様と複雑な波形データが一斉に投影された。
『これより、五界防衛における基礎戦術および高次元暗号理論の講義を開始する』
稲葉先生の声は、一切の感情を排した平坦なトーンで響いた。
『敵性位相蚕食体は、人間の通常言語や電波通信を用いない。彼らが空間に放つのは、因果律を歪歪させる多重位相変調波だ。これを復号できなければ、部隊間の通信は遮断され、個別に孤立して捕食される』
画面上に、複雑に絡み合う螺旋状のコードが拡大表示された。
『う、なんだこれ、数式というより、幾何学のパズルじゃないか』
陣内が掠れた声で呟き、歪んだ眼鏡を指先で押し上げた。
『陣内』
稲葉先生の冷徹な視線が即座に飛んだ。
『画面右上の第3クラスタを見ろ。位相ノイズの干渉周波数が12ギガヘルツで振動している。この波形から敵の空間歪曲ベクトルを算出しろ。制限時間は15秒だ』
『えっ、ぼ、僕ですか』
陣内の顔から一気に血の気が引いた。疲労で霞む目を凝らし、画面の波形を見つめるが、数字が頭の中で空回りして言葉が出てこない。
『あと8秒』
後藤教官が冷たく秒読みを始めた。
多朗は机の下で指先を小さく動かし、ドローンの基本演算パターンを思い浮かべながら、唇をほとんど動かさずに囁いた。
『陣内、サイン波の振幅を見るな。ノイズの周期性だけを拾え。素数の間隔で間引かれている』
多朗の囁きに、陣内の瞳がハッと焦点を結んだ。
『そ、素数周期のフィルタリング,間引き後の位相差はプラス0.43ラジアン。上方向への歪曲ベクトルです』
稲葉先生は表情を変えずに端末をタップした。
『正解だ。だが回答まで13秒を要した。実戦であれば、この遅延の間に通信アンテナは敵の重力場に圧壊している』
陣内は安堵の息を吐きながら、ハンカチのない手で額の冷汗を乱暴に拭った。
『次は相羽』
稲葉先生が画面を切り替えた。今度は三次元の網目状の立体ダイアグラムが展開される。
『この暗号化パケットは三重の防壁プロトコルで封鎖されている。第一層の解除手順を答えろ』
相羽は青ざめた顔を上げ、細い指先を組んで画面を凝視した。
『これは、政治中枢で使われる多重暗号のアルゴリズムに似ています。外側の格子構造はダミーです。内部の生体波パルスを反転させて、周波数の結び目を直接解く必要があります』
『手順の妥当性を評価します』
最前列のマナが淡々と補足した。
『反転パルスの導入角をマイナス15度に設定した場合、暗号解除成功率は94パーセントに向上します』
『よろしい』
稲葉先生は短く頷いた。
『相羽の指摘通り、敵の暗号は偽装の層を重ねて本質を隠蔽する。見た目の複雑さに惑わされるな。核となる波形の一点を見抜けば、防壁は紙のように破れる』
剛田が頭を抱えながら呻いた。
『おいおい、理屈は分かったが、暗闇の中でこんな細かい計算を瞬時にやれってのかよ。頭から煙が出そうだぞ』
『剛田くん、文句を言わないの』
後ろの席から琴音が小声で声をかけた。
『多朗がドローンでノイズを拾って、陣内くんとみなみちゃんが計算してくれるんだから、私たちはその通りに動けばいいのよ』
『琴音の言う通りだ』
多朗は前を向いたまま、小さな声で言葉を継いだ。
『さっきの講義の波形、午後の生体ポッドで見た敵のノイズと全く同じだった。つまり、ドローンのセンサでこの波形をリアルタイムで捉えられれば、相羽の幾何学防壁をどこに展開すべきか、事前に予測できる』
『なるほどな』
剛田が顔を上げ、太い指をパキリと鳴らした。
『敵がどこから殴りかかってくるか、数字で見えるってわけか。それなら俺の出番もあるな』
『その通りです』
相羽が振り返り、微かに瞳を輝かせた。
『敵の攻撃角度が事前に分かれば、防壁を全面に張る必要がなくなります。一点に集中させれば、私の精神負荷も半分以下に抑えられます』
『よし、その連携パターンを頭に叩き込め』
多朗が短く告げると、全員の表情から睡魔の影が薄れ、張り詰めた集中力が戻っていた。
1730時。
講義終了を告げる無機質なブザーが講堂に鳴り響いた。
稲葉先生が手元の端末を閉じ、黒板のホログラムを消去した。
『本日の座学はここまでとする』
稲葉先生は生徒たちを見据え、淡々と告げた。
『なお、貴様らに対する初期生体ストレステストは、先ほどの生体ポッド訓練をもって終了した。1800時からの夕食より、配給を合成ペーストから標準戦闘糧食へ移行する』
その言葉を聞いた瞬間、剛田が大きく目を見開き、陣内と顔を見合わせた。
『ま、マジか。あの泥みたいなペーストじゃないのか』
剛田が思わず声を漏らした。
『喜ぶのは早いぞ、剛田』
後藤教官が冷笑を浮かべ、警棒で黒板を指した。
『飯を食って胃袋を満たしたら、1900時より第3層の完全暗黒エリアにて、夜間暗号通信設営演習を開始する。今教えた理論を、照明ゼロ、視界ゼロの泥濘の中で完璧に実践してもらう』
後藤教官の厳しい視線が6人を射抜く。
『目標設営時間を1秒でもオーバーした班は、明朝まで暗闇の中で反復演習だ。しっかりと腹に飯を詰め込んでおけ』
教官二人が講堂を出ていくと、重い静寂の後に、剛田が大きな息を吐き出した。
『よし、まずは飯だ。まともな飯が食えるなら、夜の訓練だろうが何だろうがやってやるぜ』
『陣内くん、さっきの数式のメモ、後で見せてね』
琴音が立ち上がりながら言った。
『うん、整理しておくよ。多朗のドローンの通信プロトコルに合わせて最適化してみる』
陣内も眼鏡を直しながら、力強く頷いた。
全身の疲労と筋肉の軋みは消えていない。
だが、冷え切った講堂を後にする6人の足音には、初日の絶望的な重さとは異なる、確かな意志の響きが宿っていた。




