神経接続の洗礼
1300時。
泥濘演習の泥が作業服に張り付いて固まり、皮膚を突っ張らせていた。身体を洗う時間など与えられず、多朗たちは第3層の奥にある生体接続室へと直行させられていた。
室内に充満するのは、換気ファンの低い唸り声と、強烈な消毒薬の臭気だった。冷たい空気の中に、冷却ジェル独特の甘い薬品臭が混ざり合っている。床面には太い光ファイバーと生体モニタケーブルが何本も這い回り、巨大なカプセル状の生体接続ポッドが6基、鈍い銀色の光を放って並んでいた。
『服を脱ぐな。そのまま各ポッドに入れ』
後藤教官が腕を組み、冷徹な声で告げた。手にした警棒が、金属製の床を小刻みに叩く。
『えっ、泥だらけのままでですか』
陣内が眼鏡を押し上げながら、引きつった声を上げた。
『戦場で服を着替える暇があるとでも思っているのか』
後藤教官の視線が鋭く陣内を射抜いた。
『泥が乾く前に神経を繋げ。昨日の無様な失神を繰り返す奴は、この部屋の隅で一昼夜直立不動だ』
『陣内、文句を言っても状況は変わらない。入るぞ』
剛田が吐き捨てるように言い、乱暴にハッチを開けてポッドの中に身体を滑り込ませた。
『みなみちゃん、大丈夫』
琴音が青ざめた顔の相羽の肩に手を置いた。
『昨日のこと、思い出さなくていいからね』
『琴音ちゃん、私、あの針が首に入るとき、息が止まりそうになるの』
相羽の指先が小刻みに震えていた。
『生体適合シミュレーションにおける恐怖心は、心拍数を乱し精神防壁の破綻確率を30パーセント上昇させます』
マナが無機質な声で告げ、迷いなく自身のポッドへ入り込んだ。
『思考を数値化し、感情の伝達関数を遮断してください』
『マナ、それができたら誰も苦労しないよ』
多朗は苦笑を噛み殺しながら自分のポッドへ向かった。
『みんな、昨日は個別にパニックを起こして回線が落ちた。今日は回線が開いたら、オレのドローンの観測データに波形を合わせろ。孤立するな』
『了解だ、多朗。意地でも意識を保ってやる』
剛田の太い声が返ってきた。
ハッチが一斉に油圧音を立てて閉鎖された。
冷たい青色の冷却液が足元から急速に満ち上がり、泥まみれの作業服を一瞬で濡らし尽くした。胸元まで液面が上がると同時に、背もたれから伸びた極細の生体接続針が、多朗のうなじの皮膚を貫いた。
鋭利な痛覚が中枢神経を直撃し、視界が白くスパークした。
『全基、神経同期率68パーセント。仮想侵蝕場、接続開始』
山口顧問の冷ややかなアナウンスが脳内に直接響いた。
暗黒だった視界が反転し、異界の位相蚕食体が潜む仮想虚空が展開された。
現実の空間ではない。だが、生物としての脳が感知する悪臭、寒気、そして頭蓋骨を直接金槌で叩かれるような精神的圧迫感は、現実を遥かに凌駕していた。
虚空の歪みから、無数の黒い触手のような幾何学ノイズが這い出してくる。
『う、ああっ、また来た、頭が割れる』
陣内の悲鳴が共有ネットワークを激しく揺さぶった。
『陣内、叫ぶな。息を吐いて数値を読め』
多朗は意識の奥底で自作ドローンの仮想展開コマンドを叩き込んだ。
『イチ番からサン番、全方位走査。ヨン番からロク番、位相ノイズの波形を捕捉しろ』
多朗の右手の感覚が神経回線を通じて鋭敏化し、虚空に6基の光点が展開された。ドローンが侵蝕ノイズの波長を測定し、多朗の演算領域を通じて全員の網膜へ座標データを投影する。
『陣内、右上方30度から来るノイズの減衰式を出せるか』
『や、やってみる。ええと、逆位相波形、周波数帯域400ギガヘルツ、座標補正値を送信』
陣内の声に焦燥が混じるが、昨日と違い、震える指先で仮想キーを叩き続けていた。
『相羽、陣内の座標に防壁を張れ。矩形ではなく多面体で受け流せ』
多朗が指示を飛ばす。
『多面体幾何防壁、展開開始』
相羽の凛とした声が響いた。
相羽の意識から青白い六角形の光の壁が幾重にも立ち上がり、押し寄せる黒い触手を正面から受け止めた。激しい火花が散り、相羽の生体モニタの心拍数が跳ね上がる。
『ぐっ、重い、押し潰されそう』
『相羽、持ちこたえろ。琴音、防壁の外縁に気流の渦を重ねろ。衝撃のベクトルを外へ逃がすんだ』
『任せて。外周結界、旋回開始』
琴音の気流制御が防壁の外側に強力な乱気流を生み出し、侵蝕ノイズの直撃コースをわずかに逸らした。
『剛田、逸れたノイズの残滓を叩き潰せ』
『おう、ぶっ壊してやる』
剛田の荒々しい意識の塊が、防壁の脇をすり抜けてきたノイズの先端に叩きつけられた。精神的な反動で剛田の鼻腔から生温かい血が噴き出すのが、生体データの波形から読み取れた。
『効いてるぞ。だが、次が来る』
剛田が歯を食いしばって叫ぶ。
侵蝕ノイズの第二波が、空間そのものを歪ませながら膨張した。昨日、全員の意識を一瞬で刈り取った超高密度の精神圧迫波だった。
『ドローン小隊、防衛陣形へ移行。全機出力最大』
多朗は脳内で因果座標の固定演算を限界まで引き上げた。
こめかみの血管が激しく拍動し、脳の奥を焼けるような熱傷の痛みが貫く。右手の演算負荷が跳ね上がり、視界の隅に赤い警告表示が点滅した。
『多朗さん、生体演算負荷が規定安全限界の92パーセントに達しました』
マナの声が響いた。
『私が余剰負荷の15パーセントを肩代わりします。陣形を崩さないでください』
マナの冷徹な量子演算が多朗の回線に直結し、焼き切れそうだった多朗の意識を辛うじて安定させた。
『みんな、あと10秒耐えろ。防壁の角度を3度下げて受け流せ』
多朗の叫びとともに、相羽の防壁と琴音の結界が激しく軋みを上げた。
黒い触手の群れが防壁を激しく叩き、甲高いガラスの割れるような破壊音が仮想空間に反響した。相羽の口から苦悶の呻きが漏れ、陣内の数理同期がノイズに呑まれて途切れる。
限界だった。
『時間だ。リミッター強制遮断』
山口顧問の冷たい声とともに、強烈な遮断信号が全回線に打ち込まれた。
視界の虚空が一瞬で消滅し、ポッド内部に現実の暗闇と冷たい冷却液の感触が戻ってきた。
プシューという高圧空気の排気音とともにハッチが跳ね上がった。
多朗はポッドの縁を掴み、冷却液と泥が混ざり合った床の上へ転がり出た。全身の筋肉が小刻みに痙攣し、鼻の奥から垂れた血が床の泥水に落ちて滲んだ。
隣のポッドからは、陣内が床に手をついて激しく咳き込みながら這い出してきた。眼鏡が外れ、泥まみれの顔面を涙と鼻水が濡らしている。だが、昨日のように胃液を吐き散らして卒倒することはなかった。
『た、耐えた、のか、僕たち』
陣内が掠れた声で呟いた。
相羽はポッドの中で座り込んだまま、荒い息を繰り返していた。琴音が駆け寄り、濡れた相羽の背中を懸命にさすっている。
『みなみちゃん、大丈夫、終わったよ』
『琴音ちゃん、私、防壁を、最後まで離さなかった』
相羽の瞳には恐怖の涙が浮かんでいたが、その声には微かな強さが宿っていた。
剛田は濡れた髪を乱暴に掻き上げ、床を拳で叩いた。
『ちくしょう、頭が割れそうだ。だが、昨日の倍は持ちこたえてやったぞ』
マナだけが静かにポッドから降り立ち、濡れた前髪を指先で払った。
『初期交戦維持時間、昨日より42秒延長。部隊の生体機能全損を回避しました』
部屋の出入口に立っていたサイボーグ石田教頭が、冷たい電子義眼を明滅させながら歩み寄ってきた。その後ろには、腕を組んだ後藤教官が仁王立ちしている。
『直れ』
石田教頭の冷酷な合成音声が室内に響いた。
『42秒の維持。数字の上では前進ですが、実戦における蚕食体の本隊遭遇であれば、全滅が42秒遅れただけに過ぎません』
石田教頭の言葉には、一片の称賛も含まれていなかった。
『貴様らの連携は拙劣であり、座標指示の遅延が相羽の精神負荷を不必要に増大させています。多朗の過剰演算に依存した防衛線など、数分と持たずに瓦解します』
石田教頭は手元の端末を操作し、冷たく言い放った。
『1500時より、第2層講堂にて基礎戦術および異界言語の座学。1900時より夜間暗号通信設営演習を開始します。1秒の遅刻も許しません』
教官たちが立ち去ると、部屋には再び換気ダクトの低い重低音だけが残された。
多朗は濡れた作業服の袖で鼻血を拭い、壁に手をついてゆっくりと立ち上がった。足裏の靴擦れが冷却液に染みて鋭く痛んだが、多朗は視線を仲間たちに向けた。
『立てるか、みんな』
『ああ、なんとかな』
剛田が立ち上がり、陣内に手を差し伸べて引き上げた。
『多朗、次はもっと早く数値を計算してみせるよ』
陣内が泥を拭いながら、歪んだ眼鏡をかけ直した。
『うん。次はもっと防壁の角度を詰める』
相羽も琴音に支えられながら、自らの足で冷たい床を踏みしめた。
誰も笑ってはいなかった。身体は泥と冷却液で汚れ、頭蓋の奥には鈍い痛みが居座り続けている。
それでも、昨日までの完全な無力感とは違う、泥臭い足掻きの手応えが、暗黒の地下室に確かに残っていた。
遠く地上の日常から切り離されたまま、少年たちは次の過酷な課業へ向けて、軋む足を踏み出した。




