泥濘の黎明
0430時ちょうど。
暗黒に沈んでいた第4居住ブロックの天井スピーカ群から、耳孔を鋭利な刃先で突くような高周波警報ブザーが鳴り響いた。同時に天井の冷光蛍光管が一斉に白色光を放ち、剥き出しの打ち放しコンクリート壁と湿った鉄パイプの骨組みを無機質に照らし出した。
『総員起床。点呼整列まであと90秒。遅滞者は即座にペナルティ演習へ移行させる』
稲葉先生の抑揚を一切含まない無機質な肉声が、金属製のダクトを伝って頭上から容赦なく降り注いだ。
二段ベッドの上段で、多朗は強張った身体を引き起こした。前日の適性測定で酷使された首筋や肩、腰の筋肉が鉛のように重く沈んでいる。かかとの靴擦れは夜の間に乾ききっておらず、粗いシーツの繊維に触れるたびに鋭い痛痒が走った。多朗は表情を変えずに鉄パイプの梯子から静かに滑り降り、冷え切ったコンクリート床の上に立った。
『う、眼鏡が、どこだ』
下段のベッドから、陣内の掠れた声が漏れた。陣内は寝返りを打つことすら覚束ない様子で、震える手でシーツの隙間を探っている。前日の精神侵蝕シミュレーションの残滓か、呼吸が浅く乱れていた。
『陣内、枕元の棚だ。息を整えて、まず靴を履け』
多朗は陣内の眼鏡を拾い上げて手渡し、足首の痛みを押し殺して訓練用編上靴に足を滑り込ませた。紐を素早く引き絞り、鬱血する手前で固く結ぶ。
向かいのベッドでは、剛田が太い腕を擦りながら起き上がっていた。頑強な肉体にも疲労の色が濃く、睡眠不足からか顔面が強張っている。剛田は壁の配管を睨みつけ、荒い息を吐きながら作業着のファスナーを一気に引き上げた。
『くそ、本当に休む間もありゃしねえな』
『急げ、剛田。あと20秒だ』
多朗は鉄扉のロックレバーを押し下げ、重厚な防爆扉を外側の冷たい通路へと押し開けた。
第2層の中央通路には、向かいに位置する女子居住区の鉄扉からも同時に3つの影が現れていた。
琴音は乱れた黒髪をポニーテールにきつく束ね直し、引き締まった面持ちで直立していた。その周囲の空気には微小な気流の摩擦が生じており、神経を張り巡らせていることが窺える。相羽は壁に片手を預けながら立っていたが、前日に投与された覚醒剤の反動か、目元が落ち窪んで唇は青白く乾いていた。最後尾に立つマナだけが、体温や疲労を感じさせない冷徹な視線をまっすぐに保ち、衣服の乱れひとつ見せずに整列位置へ歩を進めていた。
通路の正面には、後藤教官と稲葉先生が仁王立ちしていた。後藤教官の手にした特殊警棒が、規則正しい冷たいリズムで革張りの軍靴の側面を叩いている。
『91秒。1秒遅滞した』
後藤教官の低く太い声が、冷たい通路の反響を伴って響いた。
『実戦における1秒の遅れは、部隊全体の生体反応消失に直結する。たるみきった学生気分は今この場で捨てろ』
後藤教官の短い合図とともに、金属製の配膳カートを押した作業員が無言で立ちふさがった。カートの上には、灰色の合成タンパク質ペーストが入った銀色のアルミパウチと、濃縮電解質を固めた無骨な黒い錠剤が並べられていた。
『摂取時間、120秒。一滴も残さず胃袋へ流し込め』
稲葉先生が手元のストップウォッチの計測を開始した。
多朗は差し出されたパウチを受け取ると、迷わず封を引きちぎり、独特の薬品臭を放つ半流動体を口腔へ流し込んだ。舌の表面が痺れるような油気と苦味が広がり、食道が拒絶反応を起こして痙攣する。だが、咀嚼する時間すら惜しんで喉の奥へ押し込み、黒い錠剤を濁った水で無理やり胃袋へ落とし込んだ。
隣で陣内がペーストを口に含んだ瞬間、強烈な吐き気に襲われて口元を手で押さえた。喉の筋肉が激しく引きつる。
『吐くな、陣内。胃を空にして演習場へ入れば、機材の重みだけで倒れるぞ』
多朗は低く告げ、陣内の背中を強く叩いた。陣内は喉を鳴らしながら必死に嚥下し、壁に寄りかかりながら荒い呼吸を繰り返した。
相羽は震える手でパウチを握り、一口含むごとに顔を苦悶に歪めていたが、マナが無言でその横に立ち、手首の脈拍を測定しながら事実を告げた。
『血糖値および代謝熱量が規定下限値に達していません。生存および機動を維持するためには、全量の摂取が論理的に不可欠です』
相羽は嗚咽を噛み殺しながら、パウチの中身を力任せに絞り出した。剛田は無言のままパウチを握り潰し、数秒で胃袋へ流し込むと、空の容器を床の回収箱へ放り込んだ。
制限時間を告げる鋭い電子音が響くと同時に、後藤教官が背後の隔壁を警棒で指し示した。
『食事終了。これより第3層、第一演習場へ移動する。駆け足、前へ』
一行は擦り切れた足裏の痛みを圧殺しながら、延々と続く地下の硬い傾斜路を駆け下りた。
第3層の第一演習場は、巨大なドーム状の閉鎖空間だった。空気中には冷湿気と酸化した機械油、そして異形の生体分泌液が放つ饐えた獣臭が充満していた。足元には砕石と深い泥濘が敷き詰められ、薄暗いオレンジ色のナトリウム灯が泥の表面を鈍く照らしている。
演習場の境界線沿いには、すでに別の小隊が整列を完了していた。
体長2メートルを超える地底人の重装歩兵たちである。ぬめる緑褐色の皮膚には分厚い角質がびっしりと張り巡らされ、人間規格を遥かに超えた合金装甲をやすやすと背負っている。彼らは多朗たちが入場した瞬間、濁った黄色い眼球を向け、低く喉を鳴らして嗤った。
『見ろ、昨日のヒヨコどもが生きて歩いてきやがったぞ』
『あんな細い腕で通信杭の一本でも打てるのかね』
地底人の兵士が吐き捨てるように濁声を上げ、足元の泥塊を多朗たちの足元へ蹴り飛ばした。跳ね上がった泥水が陣内の作業服を汚す。
さらにその奥の影からは、鋭い角と剛毛を生やした妖怪部隊の戦士たちが腕を組み、冷ややかな視線を投げかけていた。彼らはすでに数十キロはある資材コンテナを軽々と運び終え、防壁展開の準備を完了させていた。
剛田の太い首筋に青筋が浮かび、一歩前へ踏み出そうとした。
『あの野郎』
『止まれ、剛田』
多朗が剛田の分厚い上腕を掴んだ。
(ここで感情的になっても意味がない。指示された作業を正確にこなすことだけに集中しろ)
多朗の静かな眼差しに気圧され、剛田は奥歯を激しく軋らせながら足を引いた。
演習場の上層に位置する管制デッキから、冷徹な機械駆動音とともに放送が入った。
防衛隊統括官であるサイボーグ石田教頭と、技術責任者の山口顧問が手すりから冷たく見下ろしている。石田教頭の右眼に埋め込まれた電子義眼が赤く明滅し、生徒たちの疲弊した生体数値を走査していた。
『状況を開始する』
石田教頭の冷酷な合成音声が空間を支配した。
『本日の訓練課業は、不整地における重通信機材運搬3キロ、ならびに第一線通信中継拠点の設営と多重防壁同期演習である。制限時間は2時間。1秒の遅滞、あるいは中継波の断絶は、即座に除名審査へ回すものとする』
アナウンスの終了と同時に、演習場の中央に積まれた無骨な金属コンテナのロックが解除された。
中に入っているのは、指向性通信アンテナ、高出力ジェネレータ、そして地面に打ち込むための太い超硬合金製の接地杭だった。総重量は100キロを超える。
『運搬開始。足を止めるな』
後藤教官の鋭い号令が飛んだ。
『剛田、ジェネレータの左を持て。私が右を担ぐ。陣内と相羽は通信解析端末とケーブルドラムだ。琴音は前方と側面の気流を確保してくれ。マナ、資材全体の牽引補正を頼む』
多朗の指示に、全員が即座に動いた。
泥濘と砕石が敷き詰められた悪路は、一歩踏み込むごとに編上靴を深く呑み込んだ。泥に足を取られながら、多朗と剛田は重い発電機を肩に担ぎ上げた。金属の角が鎖骨に食い込み、激痛が走る。足裏の靴擦れから生温かい血が滲む感触が伝わるが、歩調を緩めることは許されない。
『陣内、ケーブルを絡ませるな。泥水に浸けるなよ』
『了解、うぐ、足が、抜けない』
陣内は泥水に足を取られ、膝をつきそうになりながらも、抱え込んだ解析端末を必死に守り抜いていた。
琴音は前衛に立ち、自らの周囲に微小な気流の膜を張って向かい風の抵抗を減衰させようと試みていた。しかし、地下空間特有の乱れた電磁ノイズによって術式の展開が乱れ、額に大粒の汗が滲んでいた。
『ノイズが濃い。風の軸がブレる』
『相羽、周波数帯のズレを拾えるか』
多朗が息を切らしながら叫ぶ。
相羽は手元の小型生体波モニタを操作し、青ざめた顔で画面を凝視した。
『地下3層の共振周波数、800メガヘルツ帯に強い歪みがあります。琴音ちゃん、やや上方から気流を絞って』
『分かった』
琴音が息を整え、気流を一点に集中させると、多朗たちの前方の空気抵抗が目に見えて減少した。
マナは後方からコンテナの重心を正確な力学ベクトルで支え、歩行速度の低下を最小限に抑えていた。
不整地を走破し、指定された座標ポイントに到達した瞬間、全員が泥濘の中に荷物を降ろした。呼吸が荒く乱れ、肺が焼けるように熱い。
『休むな。杭打ちとドローン展開を同時に行うぞ』
多朗は腰のホルダーから自作の小型自律ドローン小隊の起動キーを抜いた。
『イチ番からロク番、射出。周囲50メートルの位相ノイズを走査、中継座標を固定しろ』
掌から放たれた6基の小型ドローンが鋭い駆動音を響かせて浮上し、演習場の薄暗い空間へと散開した。ドローンが捉えた立体座標データが、陣内の抱える端末へとリアルタイムで転送されていく。
『剛田、杭打ちだ。私が固定する』
多朗が太い合金杭を泥の中に垂直に立て、両手で固く保持した。剛田が大型のハンマーを振り上げ、泥を跳ね上げながら渾身の力で杭の頭を叩き込む。
凄まじい金属音が地下ドームに響き渡り、火花が散った。
1打、2打と打ち込むごとに、杭は硬い地下の岩盤層へと沈んでいく。
『アンテナ接続、同期開始』
陣内が泥まみれの指先で端末のキーを叩いた。
『イチ番からロク番の観測波形と、地上基地局の擬似リンク、繋がりました。誤差コンマ02秒以内で固定完了です』
その瞬間、設置された通信アンテナのインジケータが青く点灯し、安定した防護フィールドの波形が空間に広がった。
上層の管制デッキで、山口顧問が淡々と計器の数値を記録した。
『目標タイムから1分40秒の余裕を残して中継拠点の設営を完了。ドローンの自律走査による補正精度は良好だな』
『だが、これはあくまで基礎動作の確認に過ぎん』
石田教頭が冷たく言い放ち、電子義眼の焦点を生徒たちから外した。
『午後からは生体接続ポッドによる精神負荷試験を再開する。肉体の疲労が蓄積した状態での耐性を計測する』
演習終了を告げるブザーがけたたましく鳴り響いた。
泥濘の中に座り込み、肩で息をする6人の周囲には、依然として地底人や妖怪兵たちの冷徹な視線が注がれていた。
誰も言葉を発する余裕はなく、泥と汗にまみれた作業服の重みと、じくじくと痛む足裏の感触だけが現実として刻まれていた。
地下要塞の深く重い静寂の中、午後の過酷な訓練を告げる冷たい気流が、彼らの濡れた肌を静かに撫でていった。




