湿った鉄床と三ヶ月の宣告
1700時。第3層の演習場に鳴り響いた非常停止ブザーは、訓練の達成を告げるものでは決してなかった。
計測器のリミッターが強制遮断されたのは、多朗たちの脳波が危険域に達し、生体接続ポッドの生命維持機構が緊急作動したからに過ぎない。精神防壁を押し返したかに見えたのは一瞬の痙攣のような抵抗であり、その代償として6人は頭蓋骨を割られるような激痛と猛烈な眩暈に叩きのめされていた。
ポッドのハッチが跳ね上がった瞬間、演習場に立ち込める異様な悪臭と、周囲を取り囲む異形の群れを直視した生徒たちの神経は完全に決壊した。
体長2メートルを超える地底人のぬめる緑色の鱗、獣の牙を剥き出しにして嗤う妖怪たちの殺気、足元を霧のように漂う青白い精霊の冷気。それらが網膜に焼き付いた瞬間、相羽みなみは喉から引きつった悲鳴を漏らし、白目を剥いてその場に卒倒した。床のコンクリートに額を打ちつける寸前、駆け寄った衛生兵の腕に辛うじて受け止められる。
陣内竜太郎は両膝から崩れ落ち、胃の中に残っていたわずかな水分と黄色い胆汁を床へ激しくぶちまけた。全身の震えが止まらず、過呼吸で唇が紫色に変色していく。
剛田猛ですら、太い両腕の毛を針のように逆立たせ、床に手をついたまま金縛りに遭ったように動けなくなっていた。人並み外れた体躯を誇る彼でさえ、生物としての根本的な捕食圧と本能の恐怖に呑まれ、失禁寸前のパニックで喉を痙攣させていた。
多朗の視界も激しく明滅していた。右手の計算回路が焼き切れるような高熱を発し、鼻と耳の奥から生温かい血が噴き出して顎を伝う。眼前でぎょろりと動く地底人の黄色い眼球を見た瞬間、脳が激しい拒絶反応を起こし、意識が暗転しかけた。
その頭上から、強烈な刺激臭が鼻腔を突き刺した。
『意識を飛ばすな、クソガキどもが』
後藤教官が多朗と陣内の鼻先へ、軍用の高濃度アンモニア気付け薬の粉末アンプルを容赦なく擦りつけた。
気管が焼けつくような激痛とともに、多朗の意識が無理やり現実に引き戻された。激しい咳き込みとともに涙が溢れ出し、肺が酸素を求めて激しく喘ぐ。卒倒していた相羽みなみも、衛生兵に頸動脈へ覚醒剤を直接注射され、脂汗をびっしょりと流しながら呻き声を上げて意識を取り戻した。
『立て、自分の足で歩け。貴様らの無様な失神を見物に来たわけではない』
後藤の冷酷な罵声が響く中、多朗たちは互いの肩を支え合い、引きずるようにして演習場を後にした。背後からは、地底人たちの嘲笑混じりの低音と、妖怪たちの唾を吐き捨てる音がいつまでも追いかけてきた。
連行された先は、第2層の最外縁部に位置する第4居住ブロックだった。
防爆扉を抜けた先には、軍事組織としての厳格な区画管理が敷かれていた。中央の冷え切ったコンクリート通路を境に、左側が男子隊員宿舎、右側が電子錠で厳重に施錠された女子隊員宿舎へと完全に二分されていた。
『男子は第1室、女子は第2室に入れ。私物はすべて没収済みだ。通信端末や地上の衣服は一切持ち込めないものと知れ』
引率の稲葉先生が冷徹に言い放ち、女子宿舎のロックを解除して琴音、みなみ、マナを押し込んだ。
男子宿舎の鉄扉を開けると、そこは湿気を含んだ冷気と、錆びた配管から漂うカビの悪臭が充満する殺風景な大部屋だった。塗装の剥げた鉄パイプの二段ベッドが置かれ、薄いマットレスが湿り気を帯びて冷たく沈んでいる。
洗面台とサニタリー設備は部屋の隅に最低限のものが備え付けられていたが、温水など出ず、冷水パイプが鈍い音を立てて震えているだけだった。女子区画には軍規定に基づく専用の衛生用品と医療用資材が配備されている旨が簡潔に告げられたが、それ以外の私的な配慮など一切存在しなかった。
1830時。点呼ブザーが通路に鳴り響き、6人は無言で共同炊事場へと向かった。
配給口で差し出された金属トレーの上には、灰色の合成タンパク質ペーストが入った銀色のパウチと、石のように硬い乾パン、それに濁った一杯の水だけが載せられていた。
『これ、本当に食べられるものなんですか』
陣内が泥と涙で汚れた眼鏡を押し上げ、震える声で呟いた。
『文句を言うな。胃袋に詰め込め』
多朗は硬いパンを水に浸して強引に噛み砕き、喉の奥へ流し込んだ。塩分と油の嫌な後味が舌にこびりつく。みなみは青ざめた顔でスプーンを握り、吐き気を抑えながらペーストを一口ずつ嚥下した。極限まで破壊された筋肉と神経が、拒絶反応を起こしながらも生きるための燃料を貪欲に要求していた。
食後、わずか十分間の冷水シャワーで泥と血を洗い流す時間が与えられた。凍りつくような冷水が頭部を打ち据え、擦り切れた足の皮に激痛が走る。かかとと指の付け根は靴擦れで完全に肉が露出し、黄色い体液が滲んでいた。
2000時。通路に非常招集を告げるサイレンが鳴り響いた。
濡れた髪のまま、痛む足を引きずって整列した6人の前に、規則正しい金属の足音を響かせてサイボーグ石田教頭が現れた。その背後には、腕を組んだ稲葉先生が仁王立ちしている。
石田の電子義眼が赤く明滅し、生徒たちの生体データを冷徹にスキャンしていった。
『直れ。本日の適性測定訓練は以上です』
石田の声には微塵の感情も含まれていなかった。
『本日の結果、貴様らの身体能力、空間認識、および精神耐性は、防衛隊の要求基準の最底辺に位置していると判定されました。異形種族との遭遇における失神およびパニックは、実戦であれば即座に部隊全滅を引き起こす致命的過失です』
石田は手元の端末を操作し、虚空に立体ホログラムのスケジュールを展開した。
『よって、明日0430時を期して、第1期完全隔離基礎軍事訓練を開始します。期間は90日間』
90日。その数字が告げられた瞬間、琴音の喉から微かな息が漏れた。
『この三ヶ月間、地上への外出、外部との通信、私物の持ち込みは一切不許可となります。学校側および行政機関には、長期特別防災研修としての公的偽装工作が完了しています。家族への連絡も完全に遮断されます』
石田の無機質な視線が、多朗、琴音、みなみ、陣内、剛田、マナを冷たく貫く。
『課業は毎朝0430時の点呼から始まり、2100時の消灯まで一切の猶予はありません。高重力下での基礎機動、五界兵器の適合訓練、そして精神防壁の構築を連日反復します。規律違反、あるいは度重なる能力不足によって基準に達しないと判断された者は、その場で記憶消去処置の上、地上へ強制除名処分となります』
容赦のない軍事組織の宣告だった。
『2100時、完全消灯。明朝0430時、1秒の遅れも許しません』
石田と稲葉は踵を返し、重厚な軍靴の音を残して去っていった。
2100時ちょうど。
甲高い電子音とともに、兵舎の主電源が完全に遮断された。
一瞬にして暗黒が部屋を呑み込んだ。非常用の薄暗い足元灯だけが、冷たい床に細い影を落としている。
多朗は湿ったシーツの上に身を横たえた。全身の筋肉が細かく痙攣し、骨の芯まで軋むような痛みが波のように押し寄せてくる。化膿しかけた足の傷がズキズキと熱を持って脈打っていた。
暗闇の向こう、隔壁で仕切られた女子宿舎の方からも、押し殺した重い沈黙が伝わってくる。
陣内が痛みに耐えて歯を食いしばる音。剛田が寝返りを打つたびに軋む鉄パイプの嫌な金属音。
(まだ、最初の一日が終わっただけだ)
多朗は暗闇の中で天井を見つめ、熱を持った右手を胸の上に置いた。
今日一日で、肉体も精神も限界まで引き裂かれ、生物としての尊厳すら砕かれかけた。それを、明日からあと89日間、毎日繰り返さなければならない。逃げ出すことも、助けを呼ぶこともできない閉ざされた地下要塞で、時間の重みが果てしない絶望となって胸を押し潰そうとしていた。
冷たいコンクリートの壁の向こうから、地下要塞の換気ダクトが唸る低い重低音だけが、どこまでも響き続けていた。




