精神侵蝕と異形の洗礼
1300時ちょうど。
午前の過酷な高重力走破で悲鳴を上げる筋肉に鞭を打ち、多朗たち6人を乗せた垂直昇降機が光が丘地下第3層「異種交差演習場」のフロアへ着底した。
重厚な気密扉がプシューッと白煙を噴き上げて左右に開いた瞬間、濃密な異臭が生徒たちの鼻腔を容赦なく刺した。
それは、焦げた硝煙と硫黄の刺激臭に、湿った生肉や爬虫類の強烈な体臭、さらに肌を突き刺すような氷点下の冷気が混ざり合った、この世の生物圏とは思えない異様な悪臭だった。
『う、おえっ』
先頭で足を踏み出そうとした陣内竜太郎が、胃液が逆流するような音を立ててその場に膝をつき、口元を手で押さえて激しくえずいた。
相羽みなみは顔面から血の気を失い、無意識のうちに後ずさりして昇降機の冷たい壁に背中を打ちつけた。御統琴音も呼吸を乱し、喉の奥を震わせながらその場に立ち尽くしている。
広大な地下演習場の薄暗がりの中に並んでいたのは、人間の姿をした者たちではなかった。
体長2メートルを優に超え、厚い緑褐色の鱗で全身を覆った地底人レプティリアンの重装歩兵たち。青白い燐光を放ちながら足元を霧のように揺らす半透明の精霊兵。そして、鋭利な鉤爪と獣の牙を剥き出しにし、革ジャンや作業着を纏った凶暴な妖怪部隊の戦士たち。
数百体におよぶ異形の戦力が、漆黒の戦闘服を着た6人の生徒たちを一斉に見下ろしていた。
冷酷な侮蔑と、むき出しの殺気が、物理的な圧力となって多朗の全身に押し寄せる。地底人の黄色く裂けた瞳がぎょろりと動き、太い喉を鳴らして唾を吐き捨てた。
『人間のガキが、なぜここにいる』
重低音の唸り声が演習場に響いた。
『こんな肉の塊ひとつで千切れる脆弱なヒヨコどもに、何の真似ができる。足手まといを連れて戦場へ出ろというのか』
妖怪部隊のひとりが爪を鳴らして嘲笑い、精霊たちの冷気がさらに温度を奪っていく。
生身の高校生である多朗の膝が、本能的な恐怖によってガタガタと震えた。頭では理解していても、生物としての格が違いすぎる異形の怪物たちを前にして、脳が逃走を叫んでいた。
その時、背後から雷鳴のような怒号が轟いた。
『何を怯えている、間抜け面共が』
後藤教官が軍靴を鳴らして歩み出て、多朗の背中を強烈な掌底で突き飛ばした。
多朗は前のめりに倒れそうになりながら、震える両足を踏ん張った。右手の拳を強く握り締め、自分の太ももを思い切り殴りつける。激痛が走り、恐怖で麻痺しかけていた思考が強引に覚醒した。
『あいつらが何者だろうと関係ない』
多朗は荒い息を吐き出しながら、隣で震える陣内とみなみの肩を掴んだ。
『俺たちは逃げないって決めたんだ。前を見ろ』
陣内は泥で汚れた眼鏡を指先で押し上げ、青ざめた唇を噛み締めながら立ち上がった。剛田猛も太い腕の鳥肌をさすりながら、凶悪な笑みを無理やり顔に張り付けた。
『へっ、どいつもこいつも怪獣映画の主役気取りかよ。迫力だけなら赤塚の鉄山組長のほうがよっぽど怖えぜ』
生徒たちの強がりを見届けたサイボーグ石田教頭が、無感情な電子音とともに歩み出てきた。その後ろには、白衣を脱ぎ捨てて黒いパイロットスーツを着た山口顧問が、巨大な円筒形の装置群の前に立っている。
『無駄口を叩いている時間はありません』
石田が告げた。
『貴様らがこれから相手にする敵、位相蚕食体は、肉体を破壊するだけにとどまりません。因果律を喰らい、個人の精神構造そのものを内側から解体します。これより、精神同期ポッドによる深層意識防壁構築演習を開始します』
演習場の中央に、棺桶のように並べられた数十基の生体接続ポッドのハッチが開いた。
生徒6名、そして嘲笑を浮かべる地底人や妖怪の精鋭兵たちが、それぞれ指定されたポッドへと押し込められる。
多朗がポッドの内部に身を横たえた瞬間、冷たい電極ケーブルが首筋とこめかみに自動で突き刺さった。激しい電子ノイズが頭蓋骨を直接揺さぶり、目の前の強化ガラスハッチが重い音を立てて密閉される。
『接続深度、第4位相。模擬蚕食体、投入』
山口顧問の冷徹なカウントダウンが響いた瞬間、多朗の視界から現実の光景が完全に消滅した。
意識が底なしの暗黒へと急降下する。
目覚めた場所は、重力も上下も存在しない、無機質な灰色の仮想深層空間だった。
その空間の裂け目から、形を持たない漆黒の泥のようなものが、無数に這い出してきた。位相蚕食体の模擬意識データだ。
『うわああああっ』
通信回線越しに、陣内の絶叫が響いた。
蚕食体の黒い触手が多朗たちの精神領域に食らいついた瞬間、過去の記憶が猛烈な勢いで逆流し始めた。
平穏だった家族の団らん、他愛もない教室の風景、友人たちの笑顔。それらがまるで燃え盛るフィルムのように歪み、黒く焼け焦げて消えていく。
(俺は、誰だ。なぜここにいる)
自分という存在の輪郭が、冷たい泥の中に溶けていくような恐怖。自分が過去に存在したという事実そのものが、根本から書き換えられ、無へと削り取られていく。
『いやだ、忘れたくない、消さないで』
みなみの悲鳴がノイズに混ざる。異界の歴戦の戦士たちですら、ポッドの向こうで獣のような苦悶の咆哮を上げ、精神崩壊の警告アラートが次々と鳴り響いていた。
仲間たちの精神がバラバラに引き裂かれ、暗黒の虚無へ呑み込まれようとしていた。
その時、多朗の胸の奥で、古代の血脈が激しく燃え上がった。
(消させない。俺たちの日常も、歩んできた時間も、誰にも喰わせるものか)
多朗は精神の暗闇の中で、右手を天に向けて突き出した。
右手に刻まれた記憶計算回路が青白い高エネルギーの閃光を放ち、失われかけた自意識の輪郭を強引に再構築する。
多朗は叫んだ。
『俺は都立成増航空高校1年、上宮多朗だ。陣内、みなみ、琴音、剛田、マナ、聞こえるか。俺の計算座標に意識を繋げろ』
多朗は仮想空間の中心に、絶対的な基準点となる数学的座標を光の楔として打ち込んだ。
『上宮くんの座標信号、受信。量子リンクを確立します』
マナの澄んだ声が闇を切り裂いた。
『おうよ、多朗。テメエの背中は見失わねえぞ』
剛田の獰猛な闘志が光の楔に食らいつき、琴音の空間把握が周囲の乱気流を整え、みなみが震える手で幾何学防壁の計算式を座標へ流し込んだ。
『全員、自分の呼吸を数えろ。俺たちがここに存在している確率をゼロにはさせない』
陣内が涙声になりながらも、多朗の座標に自らの思考を同期させた。
6人の精神がひとつの強固な結界となり、多朗の打ち込んだ座標を中心に青い光の防壁となって爆発的に膨張した。
押し寄せていた位相蚕食体の黒い泥が、内側からの光に焼かれて悲鳴を上げ、音を立てて霧散していく。
ピピッ、ピピーッ。
限界負荷突破を示すサイレンが演習場全体に鳴り響いた。
プシューッという減圧音とともに、すべてのポッドのハッチが一斉に跳ね上がった。
多朗はポッドから転がり出るように床へ這い出し、激しい頭痛と吐き気に耐えながらコンクリートに手をついた。鼻の奥から赤い血がポタポタと床に垂れ落ちる。
隣のポッドからも、陣内やみなみ、琴音、剛田が、全身から湯気のような汗を噴き出しながら、意識を保ったまま這い出てきた。誰も精神を崩壊させていなかった。
演習場は、不気味な静寂に包まれていた。
先ほどまで生徒たちを嘲笑っていた地底人や妖怪の兵士たちが、信じられないものを見る目で、床に膝をつく6人の少年少女を凝視していた。異界の精鋭たちですら数名が意識を失い、担架で運び出されている過酷な負荷の中、新米の人間の子供たちが全員で意識を繋ぎ止め、侵蝕を力づくで押し返したのだ。
侮蔑と嘲笑は、完全に消え去っていた。
そこに残っていたのは、同じ防衛隊の戦線に立つ兵士に対する、無言の驚愕と微かな敬意の眼差しだった。
後藤教官が重い足音を立てて多朗たちの前に立った。
『鼻血を拭け、見苦しいぞ』
後藤の声には、もはや最初の嘲りはなかった。
『第1関門は突破だ。だが喜んでいる暇はない。貴様らのその脆弱な身体に、本物の兵器を叩き込む。全員立て、武器受領へ向かう』
多朗は手の甲で鼻血を乱暴に拭い、仲間たちと視線を交わした。
全身は鉛のように重く、頭蓋骨は割れそうに痛む。しかし、異形の怪物たちすら呑み込む暗黒を耐え抜いたことで、6人の胸には確かな自信と、折れない覚悟が深く刻み込まれていた。




