地獄の洗礼と限界点
光が丘公園の地下深く、冷たく湿った空気が張り詰める第1層。
旧成増陸軍飛行場の地下滑走路遺構を利用して構築された特殊訓練区画に、重力エレベーターから降り立った6人の足音が重く響いた。頭上には剥き出しの鉄骨と巨大な換気ダクトが走り、ナトリウムランプの無機質なオレンジ色の光が、黒光りするコンクリートの床を照らしている。
『整列しろ、グズどもが』
後藤教官の野太い声が、冷たい壁面に反響した。
教官の背後には、特攻服を模した強化装甲スーツに身を包んだ稲葉先生が、腕を組んで仁王立ちしている。その足元には、鉛のような鈍い光を放つ黒いベストが人数分、無造作に投げ捨てられていた。
『学校のオリエンテーションなんぞを期待していたなら今すぐ地上へ失せろ。ここは貴様らを兵士として叩き直すための屠殺場だ。全員、その高重力負荷ベストを装着しろ』
多朗たちは無言のまま指示に従い、重厚なベストを手に取った。薄い高分子繊維の中に人工重力発生素子が編み込まれたその装備を身につけ、胸元のロックを締め込んだ瞬間、電子音が低く鳴り響いた。
『標準重力比、1.5G起動』
稲葉先生が無感情に端末を操作すると同時に、多朗の全身に鉛の塊を背負わされたような強烈な圧力がのしかかった。
肺が押し潰され、呼吸が急激に浅くなる。普段は意識すらしない己の体重が、突如として1.5倍の質量となって膝と足首に食い込んできた。剛田でさえ太い首筋に青筋を浮かべ、相羽みなみと御統琴音は思わず前傾姿勢になって床を見つめた。
『立て、背筋を伸ばせ』
後藤が一歩踏み出し、床を軍靴の踵で踏み鳴らした。
『これから貴様らには、この旧滑走路の直線3キロメートルを完全走破してもらう。1往復の制限時間は20分だ。基準タイムを1秒でもオーバーした奴は最初からやり直しだ。規定本数を走り切るまで終わりはない。稲葉、やれ』
稲葉先生が口元を吊り上げ、端末の赤いスイッチを叩いた。
その瞬間、前方の薄暗い直線の彼方から、耳をつんざくような重機関銃の乾いた発射音が響き渡った。
空気を切り裂く曳光弾が、滑走路の頭上わずか1メートルの高さを猛烈な速度で交差する。さらに足元の路面からは、不規則な間隔で高圧蒸気と模擬破片トラップが爆風とともに吹き荒れ始めた。
『0530時、訓練開始。走れ、死にたくなければ足を動かせ』
後藤の怒号と同時に、6人は弾かれたように走り出した。
1.5倍の重力が、一歩ごとに足腰の筋肉を容赦なく破壊していく。重い空気を吸い込むたびに気管が焼けつくように痛んだ。頭上を通過する実弾の風切り音が肌を粟立たせ、すぐ脇の床が爆発して熱風と粉塵が顔面を叩く。
『前をあけるぜ、オレの背中についてこい』
先頭を走る剛田が、野獣のような咆哮を上げながら破風を突き破って進む。人並み外れた頑強な肉体を持つ剛田でさえ、1.5Gの負荷には肩を激しく上下させていた。
その後ろに、多朗とマナが続く。多朗は右手に意識を集中させ、地面から噴き出すトラップの微細な振動を記憶計算回路で感知しながら、最短の安全ルートを仲間へ叫んだ。
『次、右から蒸気が出る。左へ寄れ』
『了解、軌道を修正します』
マナが乱れのないフォームで追従し、琴音とみなみを庇うように走る。琴音は乱気流の隙間を感覚的に捉え、みなみは手元の端末を見る余裕すらない中で周囲の爆風の幾何学パターンを頭の中で必死に組み立てていた。
1本、2本と、休憩を一切許されない連続走破が続いた。
心臓が破裂しそうな苦痛の中、規定タイムの20分に追われながら滑走路を往復し続け、時刻は0830時を回っていた。
訓練開始から3時間が経過し、泥濘と瓦礫が敷き詰められた第1層中央の障害走破エリアに突入した時、決定的な限界が訪れた。
陣内竜太郎の足が、もつれるように泥の中へ沈んだ。
『陣内』
多朗が振り返った瞬間、陣内は両膝から崩れ落ち、泥水の中に顔を突っ伏した。
眼鏡が泥で汚れ、激しい過呼吸によって胸が不自然に波打っている。頭脳労働に特化していた陣内の細身の身体は、連続する往復走破の極限負荷と爆音のストレスによって、限界を遥かに超えていた。
『おい、陣内、しっかりしろ』
剛田が急ブレーキをかけ、泥を跳ね上げながら引き返してきた。多朗と剛田が左右から陣内の腕を掴み、無理やり引き上げようとする。
しかし、その頭上から冷酷な軍靴の音が迫った。
後藤教官が仁王立ちになり、泥まみれの3人を見下ろしていた。
『手を離せ、上宮。剛田』
後藤の声は氷のように冷たかった。
『戦場で動けなくなった脱落者に構っている暇はない。足を引っ張る荷物を抱えて部隊全員で全滅する気か。そいつを置いて先へ行け』
『断ります』
多朗は泥に塗れた顔を上げ、後藤の鋭い眼光を真っ向から見据えた。
『俺たちは全員で生き残るためにここへ来ました。仲間を切り捨てて先へ進むくらいなら、ここで全員で耐えます』
後藤の眉がピクリと跳ね上がった。
『青くさいことをほざくな。ここは貴様らの仲良しごっこを見せる場所ではない。軍隊において命令違反は死に値する。貴様ら全員、連帯責任だ』
後藤は容赦なく告げた。
『陣内が自力で立ち上がるまで、全員その泥水の中で重力負荷スクワット千回。1回でも姿勢を崩せば最初からやり直しだ。稲葉、負荷を2.0Gへ引き上げろ』
『了解』
電子音が鳴り、さらに重い圧力が6人の全身を押し潰した。
膝が軋み、骨が軋鳴を上げる。泥水に太ももまで浸かりながら、多朗、マナ、琴音、みなみ、剛田、そして泥の中で震える陣内の前に、地獄の時間が始まった。
『いち』
剛田が血を吐くような声で号令をかけた。
『にい』
多朗がそれに続き、泥水を跳ね上げて腰を落とす。
琴音とみなみも歯を食いしばり、滴る汗と泥で視界を奪われながら、必死に太ももを曲げて身体を沈めた。誰ひとりとして、倒れた陣内を責める言葉を口にする者はいなかった。
『すまない、俺のせいで』
泥の中で指を震わせる陣内が、悔しさに涙を滲ませながら絞り出した。
『謝るな陣内』
多朗が呼吸を乱しながら叫んだ。
『お前の頭脳がなければ、俺たちは最初のトラップで吹き飛んでた。立てなくてもいい、息を整えろ。俺たちがお前の分の重さも全部担いでやる』
『そうだ陣内、情けねえツラすんじゃねえぞ』
剛田が泥水を全身に浴びながら吠えた。
『オレたちの背中は頑丈だ。お前が立ち上がるまで、何万回でも屈伸してやるよ』
『上宮くんの心拍、限界値の92パーセント。ですが、筋肉の組織崩壊はまだ始まっていません。継続可能です』
マナが機械のような冷静さの中に、確かな意志を宿した声でカウントを刻む。
百回、二百回、五百回。
全身の筋肉が断裂しそうな激痛が走り、視界が真っ赤に染まっていく。それでも6人は互いに声を掛け合い、誰ひとりとして倒れることなく泥水の中で身体を上下させ続けた。罵倒も弱音もなく、ただ前へ進むための意志だけが、冷気配の漂う地下空間に響き渡っていた。
やがて、八百回を超えた時だった。
泥水の中に伏していた陣内が、震える両手を地面に突き、泥を噛み締めながらゆっくりと膝を立て始めた。
『俺も、やる』
泥まみれの眼鏡の奥で、陣内の瞳に激しい光が宿っていた。
『俺だけが、座り込んでいるわけにはいかない』
陣内は痙攣する両足に力を込め、泥水の中から自力で立ち上がった。そして、仲間たちの列に並び、歪んだフォームながらも深く腰を落とした。
『八百、一』
陣内の震える声が響いた瞬間、後藤教官の口元が、誰にも気づかれないほど僅かに緩んだ。
午前1130時。
第1層の隅に設けられた簡易休憩スペースに、初日の午前の基礎訓練終了を告げるサイレンが鳴り響いた。
重力負荷が解除された瞬間、生徒たちは糸の切れた人形のようにコンクリートの床へ崩れ落ちた。全員が泥と汗と血の混ざった異様な悪臭に包まれ、指一本動かすことすらできなかった。
冷たい床に転がったまま、防衛隊から支給された無機質な銀色のパウチ入り高カロリーレーションを、震える手で無理やり喉の奥へ流し込む。味など何もしなかったが、擦り切れた筋肉が猛烈な勢いで栄養を求めていた。
静まり返った空間に、規則正しい金属の足音が近づいてきた。
現れたのは、サイボーグ石田教頭だった。冷酷な電子義眼の光を生徒たちへ向け、手元のデータパッドを見つめている。
『午前の基礎課業、終了。脱落者、ゼロ』
石田は抑揚のない声で事実を告げた。
『しかし、安堵するのは愚か者のすることです。貴様らが耐えたのは単なる生体負荷の初歩に過ぎません。1300時より開始される午後の課業は、五界混成部隊との初合同演習、および深層意識を削り取る精神負荷シミュレーションとなります』
石田の冷たい告知が、疲弊しきった生徒たちの耳に突き刺さる。
地上での平穏な高校生活は、もはや遥か彼方の幻影だった。だが、泥まみれになりながら互いの無事を確かめ合う6人の瞳には、極限の洗礼を乗り越えた者だけが宿す、鋭く研ぎ澄まされた光が灯り始めていた。




