恋のから騒ぎの裏で、一本のタイムラインが静かに軋み始める件
5時限目の英語の授業。教壇に立つ英語教師のヤイジこと稲葉元秀は、相変わらず教室の空気など一ミリも読まない圧倒的な鈍感力を発揮していた。キィキィと耳障りな音を立てて、黒板に白いチョークを走らせていく。
「いいか、今日の例文はこれだ。ゼア、イズ、マッチ、アデュー、アバウト、ナッシング。このアデューっていうのは大騒ぎって意味でな、大昔のシェイクスピアの戯曲である恋のから騒ぎの原題でもあるんだ。何でもないことで大騒ぎするなっていう意味だな。ほら剛田、寝るなよ」
ヤイジがのんきに笑いながら教科書を叩く。その教壇のすぐ足元で、すでにとんでもない大騒ぎの磁場が発生していることには、彼は露ほども気づいていなかった。その様子を、俺、多朗は冷ややかな目で見つめていた。この教室の連中は、どいつもこいつもどこかおかしい。
「恋のから騒ぎ、ふふ、素敵な言葉ですね、上宮くん。わたしたちが海外でいつも一緒に過ごしていた頃も、毎日がお祭りみたいに賑やかでしたよね」
ロシア人かと思えるほどに透明感のある綺麗な白い肌をした超美人、マナが大きな瞳をパチパチとさせながら、隣の上宮の席に身を乗り出していた。その様子はどこまでも抜けていて、絵に描いたような天然のオーラを放っている。
「あ、ああ、そうだったっけ。でも、マナがそう言うなら、そんな気もしてきたな。シェイクスピアって、やっぱり英語の勉強になるなあ」
多朗はのんびりと頭を掻きながら、マナの顔を見て微笑んだ。俺は心の中で激しく突っ込んだ。おい多朗、お前はいつから海外帰りの帰国子女になったんだ。それ以前に、周囲から注がれる刺すような視線に気づかないお前の鈍感さは、もはや恐怖の領域だぞ。
「ちょっと、海外海外ってさっきからうるさいわね。ヤイジの言う通り、ただのから騒ぎじゃないの。一人で勝手に空回りしてるだけよ」
多朗の斜め後ろの席から、琴音が教科書で口元を隠しながら、ヤイジに聞こえない絶妙な声量でチクリと言い放った。その目は完全に据わっており、マナに対して猛烈な火花を散らしている。これにはマナも、ただ不思議そうに首を傾げるだけだった。
「無ではないわ」
その時、教室の窓際に座る九条が、感情の消えた声でぽつりと呟いた。彼女の視線は、上宮ではなく、マナの存在そのものに向けられている。いつもスピリチュアルな雰囲気を纏っている彼女だけは、マナの持つ異質さに何かを感じ取っているようだった。
「それは始まりの言葉。から騒ぎの裏で、すべてが書き換えられてゆくのよ」
九条の冷徹な呟きが、周囲の空気を一瞬で凍りつかせた。
「ひ、一年の授業でシェイクスピアとか、ヤイジ、マジで勘弁してくれよ」
マナの天然行動、琴音の激しい嫉妬、そして九条の不気味な発言。そのすべての直撃を受ける席に挟まれた剛田は、筋肉質な身体を限界まで縮こまらせて、ガタガタと震えながら冷や汗を流していた。脳筋でありながら、その場の空気を察する能力にだけはやたらと長けた剛田にとって、この教室はすでに生き地獄のようだった。頼むから早くチャイムが鳴ってくれと、剛田はただひたすらに祈りながら、文字の滑る教科書を睨みつけていた。
おいヤイジ、お前の足元を見ろ、生徒の一人が今にもショック死しそうだぞ。俺は剛田の哀れな姿を見ながら、心の中でため息をついた。
ヤイジの呑気な声だけが響く教室の片隅で、上宮多朗を巡る女子たちの視線は、いよいよ引き返せないレベルでバチバチと衝突し合っていた。
そこへ、タイミングよく終礼を告げるチャイムの音が学校中に鳴り響いた。
「はい、今日の授業はここまで。みんなしっかり復習しておくように」
ヤイジは満足そうにノートを閉じると、出席簿を脇に抱えて足早に教室を去っていった。結局、彼は最後まで教室の修羅場に気づくことはなかった。
教壇からヤイジの姿が消えた瞬間、チャイムのおかげで命拾いした剛田が、机の上へと派手に突っ伏して魂の抜けたような顔をした。それを見届けた俺は、ようやく大きく息を吐き出し、椅子の背もたれに自分の体重を預けた。
世界の終わりがどうこうと言う前に、この教室の修羅場で誰かが死ぬ方が先かもしれないな。そう思いながら、俺はまだ机越しに火花を散らし合っている女子たちのバチバチとした視線を、ただ遠巻きに眺めるしかなかった。




