訓練前夜と刺青銭湯
川越街道の交差点で多朗と琴音を見送った後、マナは独り夜の歩道を静かに辿り、光が丘公園の西側に隣接する旭町に鎮座する成増神社へと戻っていた。
時刻は夜の七時半を少し過ぎた頃だった。鳥居をくぐると、上空を掠める航空機の爆音が嘘のように静まり返り、樹齢数百年を数える大木群が作る深い影が参道を暗く覆っていた。
境内奥にある社務所の古い木造引き戸の脇、その縁側に細い煙管の紫煙がゆったりと棚引いていた。
朱色の着物を気だるげに羽織り、文机に肘をついているのは応為だった。手に持った煙管から紫煙をくゆらせ、暗がりの中で静かにこちらを見つめている。
マナが音もなく石畳を踏みしめて近づくと、応為は煙管の吸い口を唇から離し、皿へトントンと軽やかに灰を落とした。
『おかえり、マナちゃん。さわやのババアの飯はしっかり腹に収まったかい』
『はい、応為姉さん。上宮くんたちも、十分に栄養と細胞の加護を摂取しました』
マナが透き通るような声で答えると、応為は薄い笑みを口元に浮かべ、立ち上る紫の煙をふわりと吐き出してみせた。煙はマナの頬を撫でるように広がると、嫌な電波のざらつきを拭い去るように空中で静かに消えた。
『ほう、腹を括った顔になったね。明日からの地獄、せいぜい死なないように足掻きな』
応為の言葉には、情容赦のない冷たさと、長年この土地で人間の生き死にを見届けてきた者特有の妖しさが混ざり合っていた。マナは感情を表に出さず、静かに頭を下げて社務所の奥へと姿を消していった。
同じ頃、朝霞の自宅へと戻った上宮多朗は、自室の作業机に向かっていた。
部屋の灯りを落とし、卓上ライトの小さな光だけが机の上を照らしている。多朗の手元には、部室のジャンクパーツから組み上げた手のひらサイズの六基の自律ドローンが整然と並べられていた。
イチ番からロク番までの小さな機体が、多朗の指先の動きに反応して微かな作業音を立てる。
(俺の右手に刻まれた記憶計算回路。そして、この手に残る感触)
多朗は精密ドライバーを握り、イチ番のメイン基板のネジを慎重に締め直した。今までは単なる趣味であり、航空研のマスコットだと思っていたこのドローンたちも、オテントサマのナノマシンが介入して完成した兵器の一部なのだ。
右手の掌を強く握りしめると、肉体の奥底で眠る古代の血脈の疼きが確かめられた。
明日、明朝0500時。光が丘の地下へ足を踏み入れれば、二度とこれまでの平穏な日常には戻れない。恐怖がないと言えば嘘になる。だが、赤塚新町の定食屋で仲間たちと交わした言葉が、多朗の背中を力強く押していた。
一方、赤塚の路地裏にぽつんと灯りを点す古い銭湯の脱衣場には、独特の蒸気と石鹸の匂いが充満していた。
ガラガラと引き戸を開けて浴場に入ってきたのは、陣内竜太郎と剛田猛のふたりだった。
『こんな時間に銭湯なんて、明日の集合に響かないか』
陣内が湯気で白く曇った眼鏡を外し、指先で拭いながら尋ねた。
『硬いこと言うなよ陣内。明日の0500時から地獄の訓練が始まるんだぞ。温かい湯に浸かって熱を叩き込んでおかなきゃ、身体が動かなくなるぜ』
剛田は大きな身体を揺らし、洗い場で手早く汚れを洗い流すと、深緑色のタイルが貼られた巨大な浴槽へと豪快に飛び込んだ。湯気が爆ぜ、熱い湯が溢れ出す。陣内も溜め息をつきながら、静かに足を湯船につけた。
その時、脱衣場と浴場を隔てる重い木枠のガラス戸が、軋むような音を立てて開いた。
入ってきたのは、一目見ただけで空気が氷りつくような巨漢だった。脱衣場の灯りを背にして立つその男の背中には、黒と朱の絵の具を塗りたくったような凄まじい彫り物が躍っていた。般若の恐ろしい面と、その周囲をのたうつ巨龍の刺青だ。
赤塚のヤクザの組長である鉄山だった。
鉄山は周囲の客を意に介さず、ズシリ、ズシリと重い足音を立てて湯船に歩み寄ると、剛田たちのすぐ目の前の湯へ体を沈めた。
湯船の湯が一気に波打ち、強烈な圧迫感が陣内の肌を刺した。人間のヤクザという枠組みを遥かに超えた生々しい威圧感が、湯気とともに体感として伝わってくる。
『おう、猛か』
鉄山が低い地鳴りのような声で言った。背中の般若の刺青が、湯波の反射を受けてまるで生きているかのように蠢いて見えた。
『組長』
剛田が湯の中で背筋を伸ばし、頭を下げた。
『そっちのメガネは、数学の教員の倅だな』
鉄山の眼光が陣内を射抜いた。陣内は喉の奥が乾くのを感じながらも、眼鏡をかけ直して正面からその視線を受け止めた。
『腹は括れたのか、ガキども』
鉄山は巨大な丸太のような腕を浴槽の縁に載せ、ふたりを見下ろした。
『明日から光が丘の地下へ潜るんだろうが。あそこは甘っちょろい学校じゃねえぞ。死と隣り合わせの地獄だ。そこへガキが足を踏み入れようってんだ』
『俺たちは逃げません』
陣内が、静かだが固い声で応えた。
『自分たちが集められた理由を知りました。この地球とこの街の歴史を守るために、俺は俺の能力で戦います』
鉄山は鼻でフンと重い息を吐き出した。湯面が大きく揺れる。
『威勢だけは一人前だな。だが、それでいい。男なら自分が惚れた街と、そこで生きる人間どもを死んでも守り抜け。俺たちの刺青はな、ただの飾りじゃねえ。この土地の覚悟の印だ。お前たちも腹を括って挑めよ』
鉄山はそう言い捨てると、豪快に湯を頭からかぶり、一度も振り返ることなく立ち上がって上がっていった。その背中に踊る般若の顔が、最後に一瞬だけ不敵に笑ったように見えた。
『強烈な圧力だったな』
陣内が深く息を吐き出し、浴槽の縁に頭を預けた。
『だろ。あの組長に負けてられねえ。俺たちも遅れをとるわけにはいかねえぞ』
剛田が不敵に口元を歪め、湯船の中で拳を固く握りしめた。
翌朝、0450時。
光が丘公園の北端、緑地帯の奥深くに隠された高圧電流のフェンスの向こう側に、影がひとつ、またひとつと集まっていた。
朝霞から始発前の静まり返った道を駆け抜けてきた多朗。旭町の成増神社から姿を現したマナ。成増から歩いてきた琴音。相羽みなみ、陣内竜太郎、そして剛田猛。
全員が、制服ではなく、五界防衛隊から支給された漆黒の高分子アラミド訓練服に身を包んでいた。
まだ東の空すら白んでいない。深い朝靄が公園の樹々を濡らし、立ち尽くす六人の吐く息が白く揺れていた。
0500時ちょうど。
足下のコンクリートが突如として重低音を響かせ、地面の一部が音もなくスライドした。闇の開口部から現れたのは、巨大な装甲で覆われた垂直昇降機、大型重力エレベーターの昇降口だった。
扉が左右に開き、そこから歩み出てきたのは、全身を作戦用装甲で固めた後藤教官だった。その背後には、冷酷な眼光を走らせるサイボーグ石田教頭、特攻服のような重装甲を纏った稲葉先生、そして白衣の代わりにパイロットスーツを着用した山口先生がズラリと居並んでいた。
離れた位置の樹の影には、八咫烏の観察者である四條蓮が、冷ややかにその光景を見つめて立ち尽くしている。
『時刻通りだな、クソガキども』
後藤教官の声が、朝靄を切り裂いて響いた。
『これよりお前たちを、光が丘地下要塞基地へ移送する。地上でのぬるま湯のような日常は、すべてここに置いていけ』
後藤の誘導に従い、多朗たちは重力エレベーターの金属格子状の床へと足を踏み入れた。
重厚な扉が頭上で放電音とともに閉じられ、外の景色が完全に遮断される。次の瞬間、臓器が浮き上がるような強烈な重力加速度が襲いかかり、エレベーターは光が丘の地下深くに広がる巨大な空間へと一気に下降を開始した。
耳の奥で鼓膜が歪む音がする。
未知の領域へと猛スピードで落ちていく暗闇の中で、後藤教官の地鳴りのような怒号が頭上から降ってきた。
『腹を括れ!これよりお前たちを地獄の兵士へ叩き直す!』
多朗は下降する重圧に耐えながら、胸の奥で鼓動する記憶計算回路の熱を感じ取っていた。どんな壮絶な訓練が待っていようとも、仲間たちとともにこの命脈を繋ぎ抜く。光が丘の深遠なる闇の中へ、六人の決意を乗せたエレベーターはどこまでも沈んでいった。




