赤塚新町の夜
成増航空高校の東側に位置する地下搬入路の重厚な鉄扉が引き絞られると、夕闇の迫る地上から冷ややかな空気が滑り込んできた。
校舎の西側に広がる光が丘公園の巨大な樹林帯から、青くささと湿り気を帯びた夜風が吹き抜けていく。公園の境界沿いを進む六人の足取りは、鉛のように重かった。
目の前で繰り広げられた同級生たちの記憶消去。青白色の照射光を浴び、思い出も感情の色彩も剥ぎ取られて人形のように立ち去った仲間たちの姿が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
上宮多朗は、自らの右手を静かに見つめた。
掌の奥で熱を帯びる異質な演算の感触。逃げ出せば、自分もあの照射装置の前で頭脳を焼き切られ、何も知らん顔で平穏な日々へ送り返されていたはずだ。だが、それは己の血脈と存在理由を偽ることに他ならなかった。
『おい、お前たち。そんなシケた面をして歩くな』
先頭を進む剛田猛が、振り返って大きな肩を揺らした。
『まずはうちに来て、飯を食おう。あの地下で冷え切った体じゃ、考えることも満足にできねえ』
剛田の案内に従い、一同は夜の静けさに包まれた道を歩いた。角を折れた先で、見慣れた古びた藍色の暖簾が揺れている。
定食『さわや』だ。暖簾をくぐる手前で、油の弾ける音と醤油の焦げた匂いが漂い、わずかに張詰めていた喉の奥が緩んだ。
『ばあちゃん、帰ったぞ』
剛田が引き戸を引くと、厨房の奥から拭き巾を肩にかけた店主のきっこばあちゃんが顔を出した。
『なんだい猛、みんな揃って。そんな情けない面をして、学校でいじめられでもしたのかい』
きっこばあちゃんは多朗たちの青ざめた顔を一巡り見つめた。その瞳の奥に、一瞬だけすべてを見通すような鋭い光が宿るのを多朗は見逃さなかった。
『ばあちゃん、余計なことを言うな。みんな腹が減ってるんだ。とびきり重いやつを頼む』
『分かってるよ。多朗も琴音ちゃんも、奥の畳に上がりな。今、山盛り揚げてやるからね』
小上がりの座卓に腰を下ろすと、いつもの古い畳と藺草の匂いが鼻腔をくすぐった。放課後に何度もここでポテトを突っついた記憶が蘇り、冷え切っていた足先から少しずつ生きた人間の心地が戻ってくる。
間もなくして、木製のトレーに乗せられた料理が卓狭しと並べられた。
山盛りに盛られた茶碗の白飯、湯気を立てる濃い目の豚汁、黄金色に揚げられた鶏の唐揚げ、そして多朗たちが大好物の山盛りポテトだ。
『さあ、残さず食い尽くしな。若いもんがシケた顔をしてちゃ、オテントサマに笑われるよ』
きっこばあちゃんは多朗の背中をポンと力強く叩くと、威勢よく厨房へ戻っていった。
多朗は箸を取り、揚げたての唐揚げを口に運んだ。サクッとした衣の中からジューシーな肉汁が溢れ出し、食道を通り抜けて胃袋へと収まる。
その瞬間、多朗の体内で劇的な変化が起きた。
身体の深部から沸き立つような熱が生まれ、全身の血液が一気に巡り始める。頭の奥底で重く沈んでいた記憶計算回路が、潤滑油を与えられた精密機械のように滑らかに、そして恐ろしいほどの鮮明さで回転を始めた。
(これは、いつもの飯だけど、ただの料理じゃない)
多朗は向かいに座る相羽みなみと陣内竜太郎を見た。
ふたりもまた、箸を止めて驚愕の眼差しで己の手を見つめていた。みなみの蒼白だった頬には豊かな血色が差し、陣内の眼鏡の奥の瞳は、まるで高度な光学レンズのように鋭い光を取り戻している。
この定食屋で日常的に出されていた料理には、地底人レプティリアンの生化学技術と精霊の加護が秘かに組み込まれていた。自分たちが気づかないうちに、体内に眠る細胞を活性化させ、高次元適性を底上げされていたのだ。きっこばあちゃんは、五界防衛隊の兵站を支える極秘の重鎮として、この街角から多朗たちを食で支え続けていた。
『すごいな。身体の重さが吹き飛んでいく』
陣内が豚汁の椀を飲み干し、感嘆の声を漏らした。
『あたりまえだ』
剛田が豪快に笑い、白飯を口一杯に頬張った。
『うちのばあちゃんの飯は、この界隈で一番精がつくんだよ』
温かい料理が胃を満たすにつれ、地下基地で味わった絶望的な恐怖は、生きるための力強い意志へと昇華されていった。16歳の若き肉体に、生命の奔流が満ちていく。
店を出ると、冷ややかな夜風が心地よく火照った頬を撫でた。
『俺さ』
剛田が足を止め、夜空を見上げた。
『あの地下で記憶を消されて去っていった奴らのこと、見下す気にはなれねえよ。あいつらは普通の高校生として正しい選択をしたんだ。でもな、俺はこの街が好きなんだ。ばあちゃんの定食屋もな。誰かが戦わなきゃ、全部あの異次元の化物どもに食われちまうんだろ』
剛田は太い拳を握りしめ、自分の胸を強く叩いた。
『なら、俺が殴り倒す側に回る。それだけだ』
『私も同感です』
相羽みなみが凛とした立ち姿で言葉を重ねた。
『政治家である私の父は、保身のために防衛隊の存在から目を背けています。ですが、数式は嘘をつきません。私たちが立ち上がらなければ、この地球の歴史そのものが消去される。誰かの犠牲の上に立つ平穏など、私は認めない。相羽みなみという一人の人間として、この解を証明してみせます』
琴音が多朗の隣に寄り添い、静かに、だが確かな強度を込めて頷いた。
『あたしも逃げないよ。風が教えてくれるの。多朗の側にいて、この街を守れって。あたしたちの力は、そのためにあるんだと思う』
多朗は仲間たちの顔を見渡した。過酷な現実を突きつけられながらも、誰ひとりとして目を背けていない。それぞれの胸の中に、守るべき日常への強い執着が宿っていた。
『みんな、ありがとう』
多朗が呟くと、後ろに佇んでいたマナが静かに一歩前へ出た。
『私は、どこまでもあなたとともに歩みます』
マナの透明感のある声が夜の中に美しく響き渡った。
自分たちは、もはや保護されるだけの子供ではない。特定遺伝子と高次元適性を受け継ぎ、地球の存続を賭けた最前線に立つ兵士なのだ。明日になれば制服を脱ぎ捨て、光が丘の地下深くに広がる五つの界域の要塞へ足を踏み入れなければならない。
『明朝0500時、だな』
陣内が眼鏡のフチを指で押し上げながら確認した。
『遅刻すれば、あの後藤教官のことだ。どんな惨劇が待っているか分からんぞ』
『へっ、あの鬼教官の怒号を聞く前に、しっかり泥のように眠るとするさ』
剛田が不敵に笑い、自分たちの住まいへと向かうため路地を曲がっていった。陣内とみなみも静かに頭を下げ、夜の中に姿を消していく。
残された多朗と琴音、そしてマナの三人は、そのまま川越街道へ出た。
トラックが行き交う街道沿いを和光市方面へ歩き、成増南口入口交差点へ差し掛かる。
『多朗、ここで渡ろう』
琴音が交差点を指差した。多朗と琴音は成増駅南口方面へ向かうため、横断歩道を渡る。
『じゃあな、マナ』
多朗が声をかけると、和光市方面へ直進するマナが足を止めた。
『お気をつけて。また明朝』
マナは短く告げると、そのまま直進して去っていった。
多朗と琴音は信号を渡り、南口側の道を駅方面へ進んだ。足裏からは、光が丘の地下深くに眠るオテントサマの量子コアが発する微かな鼓動が伝わってくる。
日常という名の偽装は剥がれ落ちた。だが、胸の中に宿る熱い覚悟だけは、どのような侵略者であっても決して消去することはできない。多朗は夜空を見上げ、明日から始まる壮絶な生存闘争に向けて深く息を吸い込んだ。




