消去される日常
秋津神社の神域を包む樹林帯の奥で、紫色の電光が爆ぜた。
パチパチという鋭い放電音が、引き裂かれた大気から漏れ出して参道を震わせる。四條蓮から通信越しに突きつけられた真実の重圧に、上宮多朗たちの思考は完全に凍りついていた。
高度知的地球外生命体、位相蚕食体。自分たちが守ってきた日常の裏側に潜んでいたあまりにも巨大な惨劇の兆候が、目の前の空間を不気味に歪ませていく。
『全員、そこを動くな』
低く尾を引く命令声とともに、境内の砂利を踏み荒らして黒塗りの特務装甲車が滑り込んできた。
車体から降り立ったのは、普段のジャージ姿とはかけ離れた、高分子アラミド繊維の漆黒の戦闘服に身を包んだ男だった。数学の授業で汗を散らしながらチョークを折っていた後藤和明の面影はどこにもない。その胸元には、五界防衛隊の地上部隊を統括する冷酷な紋章が刻まれていた。
後藤は多朗たちの惨状を一瞥すると、胸元の無線機に向かって短く指示を出した。
『第三班の回収を完了した。秋津外縁の位相歪みを抑圧格子で仮留めしろ。これより本校地下の暫定統制エリアへ全機移動する』
多朗たちは言葉を失ったまま、後藤の放つ圧迫感に押されるようにして装甲車の後部兵員室になだれ込んだ。重い金属扉が不気味な音を立てて閉まり、激しいエンジン音が密閉された室内に響き渡る。
車内を支配するのは、重油と薬品、そして微かなオゾン臭が混ざり合った異質な匂いだった。
都立成増航空高等学校の敷地内、通常は大型機材の搬入に使われている地下スロープを降りた先に、その空間は存在していた。
コンクリートの打ちっぱなしの壁面、天井を這う巨大な配管群、そして不規則に明滅する高圧ナトリウム灯。これまで通っていた学校の皮を剥ぎ取った、防衛隊の前哨基地としての冷酷な実相がそこにあった。
整列させられた生徒たちの前に、後藤がゆっくりと立ち塞がった。その眼光は、教壇に立っていた頃の熱気など欠片もなく、数々の死線をくぐり抜けてきた軍人のそれだった。
『ようこそ、虚構の終わりへ』
後藤は感情を殺した声で吐き捨てた。
『四條から聞いた通りだ。お前たちが過ごしてきた穏やかな高校生活は、すべて特定遺伝子と高次元適性者を回収、育成するために用意された舞台装置に過ぎん。だが、我々は命令で兵士を作るわけではない。ここで最後の選択を与える』
後藤は背後の重厚な鉄扉を指し示した。
『防衛隊に残り、過酷な真実とともに地球の命脈を繋ぐか。あるいは今すぐここを去り、元の何も知らない愚か者としての生活に戻るか。後者を選ぶ者には、相応の処置を施した上で地上へ送り返す』
『戻れるなら、戻してくれ』
後方の列から、ひとりの男子生徒が震える声を上げた。極限状態の恐怖に耐えかね、その場に膝をつきそうになりながら訴える。
『俺はただ、飛行機の整備を習って、普通の会社に就職したかっただけなんだ。宇宙人だの地球の滅亡だの、そんなの受け入れられるわけがない』
彼につられるようにして、さらに四名の生徒が列を離れ、差し出された扉へと歩み寄った。
『引き留めはしない』
後藤の冷ややかな呟きとともに、去っていく生徒たちが灰色の廊下へと誘導された。
陣内竜太郎が手元の情報端末を操作し、廊下の映像を壁面の大型モニターへ転送した。多朗、御統琴音、相羽みなみ、そして剛田猛は、固唾をのんでその光景を見つめた。
廊下に滑り込んできたのは、特殊な円環状の照射器を天井に備えた特務車両だった。
音もなく旋回を始めたリングから、青白色の光芒が放射される。電磁パルスと精神干渉波の複合照射だ。
叫び声すら上がらなかった。去っていった生徒たちの身体が一瞬だけ硬直したかと思うと、その瞳から恐怖や焦燥といった感情の色彩が、まるで水で洗い流されるように消失していった。
『記憶情報の消去、並びに認識情報の改変処理を開始』
車載スピーカーから無機質なアナウンスが響く。
『成増航空高校への入学事実をデータベースから削除。他県への転校記憶を脳幹へ定着させます』
つい数十秒前まで、世界の危機に脅え、生きたいと叫んでいた同級生たちが、感情の失われた人形ででもあるかのように無表情で頷き、兵士の誘導に従って歩き出した。自分たちの存在も、この地下基地の記憶も、すべてが彼らの頭脳から綺麗さっぱり削ぎ落とされたのだ。
『こんなの、あんまりだよ』
琴音が絞り出すような声で呟いた。彼女の足元で、動揺に反応した微かな気の流れが小さな砂塵を舞わせている。
多朗は自分の右手を固く握りしめた。
掌の奥で疼く、記憶計算回路の感触。古代から受け継ぐ自分の肉体。もしここで逃げ出せば、自分もあの車両の前で記憶を焼き切られ、何も知らない平穏な日々へ戻れるのかもしれない。
だが、それは己の存在理由をドブに捨てることと同じだった。
多朗のすぐ後ろで、マナが静かに佇んでいた。未来から派遣されたアバターアンドロイドである彼女は、ただ澄んだ瞳で多朗の背中に熱い視線を注いでいる。多朗がどの道を選ぼうとも全肯定する覚悟が、彼女の佇まいから溢れていた。
(俺は、逃げない)
多朗は胸の中で静かに、だが確実に言葉を刻んだ。
『俺は残るぜ』
剛田猛が、太い腕を組んだまま地鳴りのような低音で言い放った。
『あんな風に頭の中を勝手に書き換えられて、ヘラヘラ生きていくなんて反吐が出る。親父や、銭湯の組長に顔向けできねえ。俺の身体に野蛮な血が混ざってるんなら、暴れられるだけ暴れてやる』
『私も解を導き出しました』
相羽みなみが透き通った眼光で前を見据えた。
『逃げ出したところで、この地球の生存確率は数か月以内にゼロに収束します。政治家である父の保身には興味はありませんが、私は私自身の意思でこの数式を証明してみせます』
『多朗が行くなら、あたしも行く』
琴音が多朗の隣に一歩踏み出し、強く頷いた。
通信モニターの向こうから、遠隔で監視していた四條蓮の冷静な声が割り込んできた。
『オレの役目は観察だ。だが、この血脈のオリジネイターがここで潰れるのを見るわけにはいかないからな。オレも付き合ってやる』
残ったのは、多朗、マナ、琴音、みなみ、陣内、剛田、そして四條をはじめとする、わずか数名の生徒たちだった。
高台の上の後藤が、残された生徒たちをゆっくりと見渡した。
『残ったのは、根性のあるツラをした奴らだけか』
後藤は胸ポケットから軍用の黒いアラミド手袋を取り出し、滑り止めを噛み合わせるようにして手にはめた。
『いい度胸だ。だが勘違いするな。お前たちが選んだのは英雄の道ではない。地獄の入口だ』
後藤の声が、コンクリートの壁面に反響して重低音となって轟いた。
『明日この瞬間から、お前たちの甘っちょろい高校生活は完全に終了する。制服を脱ぎ捨て、防衛隊の訓練兵としての識別番号を受け取れ。明朝0500時、光が丘地下要塞基地の第1層へ集合だ』
後藤の冷徹な眼光が多朗へ突き刺さる。
『光が丘の地下には5つの階層が存在する。人間だけではない。地底人、精霊、あやかし、そしてオテントサマの量子コア。五つの界域が交差するその要塞で、お前たちを死の一歩手前まで叩き直す。ついて来られない者は、その場で脱落し、先ほどの連中と同じように脳を焼き切られて棄てられると思え』
言葉を失う生徒たちに対し、後藤は容赦なく宣告を締めくくった。
『以上だ。今夜は最後の温かい飯を食って、泥のように眠れ』
後藤は素気無く背を向け、通路の暗がりへと消えていった。
日常という名の精巧な偽装は、完全に崩れ去った。明日から始まるのは、光が丘の地下深くに広がる地獄での血みどろの訓練だ。
多朗は握りしめた拳に力を込め、成増の地下天井を見上げた。どんな過酷な運命が待ち受けていようとも、この胸に宿る記憶と意志だけは、決して消去させはしないと固く誓いながら。




