偽りの選別
位相散逸格子によって空間の崩落が地盤へと受け流された後、緑地外縁部を覆っていた激しい重圧は音もなく引いていった。
上空で静かにローターを回転させるドローン小隊の微小な稼働音だけが、張り詰めた大気を揺らしている。多朗は操作端末の画面に表示された膨大な計算ログを見つめたまま、指先を硬直させていた。液晶に流れる数式群は、自分自身が打ち込んだはずなのに、まるで他人の手による高度な論文を見せられているかのようだった。
相羽みなみが手帳型の端末を閉じ、どこか冷めた視線を多朗へ向けた。彼女の美しい立ち姿には、先ほどまでの激しい幾何学解析の鋭気と、それを打ち消すような深い困惑が影を落としていた。
『ねえ、上宮くん。あなた、今自分が何をしたのか、本当に自分の力として理解して操作していたの』
『何をしたかって、山口先生の指示通りにシールドのパラメータを書き換えて、衝撃波のベクトルを逃がしただけだ』
『いいえ、違うわ』
相羽は首を横に振り、切れ長な瞳で多朗を射抜くように見つめた。
『流体力学と電磁場の高次元パラメータを、あんな一瞬で、しかも暗算で完璧に補正して機体群へ同期させるなんて、いくらメカいじりが得意な高校生でも絶対に不可能なのよ。あなたの右手が叩き出した処理能力は、明らかに人間の学習領域を逸脱しているわ』
多朗は答えに詰まった。
言われるまでもなく、自分でも気味の悪い違和感を抱いていた。非常事態に直面した瞬間、頭の中へ勝手に浮かんできた立体的な数式と、それに吸い寄せられるように動いた指先。まるで自分の右手に、自分以外の何者かの膨大な記憶と計算回路が最初から埋め込まれていたかのような感触だった。
琴音が多朗の肩にそっと触れ、落ち着いた静かなトーンで言葉を重ねた。
『多朗だけじゃないよ。あたしだって、さっきから風の動きが手にとるように分かるの。どこで空気が捻じれていて、どこを押せば風が跳ね返ってくるのか、教わったこともないのに身体が最初から知ってるみたいで、すごく恐ろしい』
琴音の周囲では、まだ微かな大気が小さな渦を描いて彼女のポニーテールを揺らしていた。彼女自身が持つ精霊との異常な同調傾向。それは普通の高校生として育ってきた少女の領域を遥かに超えていた。
胸元の通信インカムから、神社境内の中継端末を守っている陣内竜太郎の重苦しい声が漏れ聞こえてきた。
『実を言えば、俺もずっと疑問だったんだ』
『陣内、聞こえていたのか』
『ああ。境内の通信回線はすべて同期しているからな。相羽の言う通りだ。俺たちのスキルの高さは、単なる努力や偶然の才能で説明がつくレベルじゃない。俺だってそうだ。先ほどの激しい電波障害の中で、無意識に最適なバイパス経路を割り出し、機材の過負荷を極限まで計算して制御していた。まるで、最初からそういう訓練を叩き込まれていたかのように手が動いた』
陣内の言葉に続いて、剛田猛の太いダミ声がノイズ混じりに割り込んできた。
『俺なんか、もっとわけが分からねえぞ。あの巨大なハンマーを何時間振っても腕が疲れねえし、地底の底から響く気味の悪い振動の質まで肌で感じ取れる。赤塚の定食屋の倅が持っていていい力じゃねえ』
通信回線を通じて、第三班のメンバー全員の間に重苦しい沈黙が広がった。
全員が16歳の高校一年生だ。本来であれば、都立成増航空高等学校という専門校で、飛行機の構造や航空座学を学び、部活動や放課後の買い出しを楽しむ日常を送っているはずだった。
だが、今ここで自分たちが発揮している力は、あまりにも実戦的であり、あまりにも異質だった。
相羽が息を吐き、静かに語り始めた。
『一年前のスカウトと入学試験のことを覚えているかしら』
『スカウト?普通に一般入試を受けて入ったんじゃないのか』
多朗が聞き返すと、相羽は冷たい首振りで応じた。
『表向きはね。でも私は知っているわ。政治家である私の父のコネでも何でもなく、私は願書を出す前から、防衛省の極秘データベースに登録されていた特定の適性リストによって直接この学校へ誘導されたの。試験問題の傾向も、私の解析能力を測るための特殊なパズルばかりだった』
『俺もそうだ』
陣内が通信の向こうで低く応じた。
『父親から成増航空高校のこの学科以外は認めないと強く指定された。当時は生真面目な父親のこだわりだと思っていたが、あの願書自体が、統制層から直接親父へ下ろされた指定枠だったんだ』
『俺の場合は、もっと酷いぜ』
剛田が自嘲気味に鼻を鳴らした。
『中学の時に近所の不良と殴り合いになって、警察沙汰になりかけたんだ。その時、なぜかサイボーグ石田教頭が警察署に現れてな。示談金を全部学校側が立て替える代わりに、この学校へ特命推薦で入学させられた。最初から仕組まれていたんだよ』
自分たちがたまたま同じクラスになったクラスメイトなどではないという事実。
全国から、あるいはこの成増と赤塚の土地から、特定の遺伝子や異常な適性を持つ子供たちだけが意図的に抽出され、この都立成増航空高等学校という器の中に集められていた。
日常の延長だと思っていた学校生活そのものが、精巧に作られた偽りの舞台装置だったという現実に、多朗の背筋を冷や汗が伝った。
『俺たちは何のために集められたんだ。一体、何と戦わされているんだ!』
多朗の抑えきれない怒りと困惑の叫びが、静まり返った大気に消えていく。
その時、通信回線に割り込む電子音が鳴り、低く冷徹な声が聞こえてきた。校内の観測室にいる同級生、四條蓮だった。
『相変わらず青くさいな、上宮』
『四條!お前、ずっと聞いていたのか!』
陣内が無線越しに怒りを露わにして問い詰めた。
『四條、お前はなぜそんなに冷めていられる!一体何をどこまで知っているんだ!お前は一体何者なんだ!』
静寂の後、四條蓮の感情を削ぎ落とした静かな声が返ってきた。
『オレが何者か、か。教えてやろう。オレの四條家は、古来よりこの国の國體と皇室の裏側を守り続けてきた八咫烏の一族だ。そしてオレ自身は、統制層からこの学校へ派遣されている直接の観察者だ』
『八咫烏、観察者だと?』
陣内が言葉を失う中、四條の説明は淡々と続いた。
『だからこそオレは、この学校の成り立ちも、オレ達が集められた理由も、すべて把握した上でここにいる。お前たちが抱いている不信感は当然のものだ。この都立成増航空高等学校という名称は、単なる偽装に過ぎない。ここは特定遺伝子、血脈の記憶、そして高次元適性を持つ人間を極秘裏に集積した選別要塞であり、五界防衛隊の前哨基地だ』
『選別要塞、じゃあ、オレたちは最初から兵士として集められたっていうのか!』
『そうだ。そして、オレ達が何と戦わされているかという問いに対する答えも示しておこう』
四條の声が一段と低く重くなった。
『自然災害でもなければ、他国の軍隊でもない。オレたちが今、目の前で対峙している空間の歪みや高周波ノイズの正体。それは、この地球を密かに侵略し、環境と歴史のすべてを解体しようと画策する、高度知的地球外生命体による侵食行動だ』
高度知的地球外生命体。
四條の口から飛び出したその言葉に、多朗たちは絶句した。しかし、先ほど目の当たりにした過去の滑走路の残影や、ドローンのシールドを破ろうとした時間の位相崩落の凄まじさを思い返せば、それが荒唐無稽な作り話ではないことが嫌というほど理解できた。
『奴らはこの地球の環境を書き換え、人類の歴史そのものを消し去ろうとしている』
四條の告白は容赦なく続いた。
『もしオレたちがここで挫け、境界線を突破されれば、人類は一瞬で滅亡する。それだけではない。この地球が辿ってきたすべての歴史と命の営みが消滅し、無の世界へと上書きされる。それが、オレ達の前に立ちはだかっている敵の正体であり、現実だ』
人類の滅亡。地球の歴史の消滅。
あまりにも壮大で絶望的なスケールの真実が、16歳の生徒たちの肩に重く圧しかかってきた。自分たちがこれまで普通の高校生として守ろうとしていた日常は、その巨大な生存闘争の上に薄氷のように乗っかっていただけに過ぎなかったのだ。
多朗は無言のまま自分の横に佇むマナを見つめた。
マナは透明感のある美しい瞳で多朗を見返し、静かに、だが揺るぎない確信を込めて頷いた。彼女の凛とした佇まいは、どれほど残酷な真実を突きつけられようとも、多朗の選択を全肯定する強さを秘めていた。
『上宮、そして第三班の全員』
四條の冷ややかな声が通信を締めくくる。
『大人たちがオレたちに真実を隠してきたのは、普通の日常に繋ぎ止めておくための精神の防衛線だったからだ。だが、既に境界の皮膜は破られた。お前たちが持つその異常なスキルは、人類の滅亡を阻止するために、最初からお前たちの血と遺伝子に刻み込まれていた宿命だ』
通信が途絶えた。
参道を吹き抜ける風が、急激に冷たさを増していく。
自分たちが何者であり、なぜこの学校に集められ、そして何のために戦わされているのか。不都合で圧倒的な真実を突きつけられた多朗たちは、ただ息を呑んで立ち尽くすしかなかった。
その時、緑地の深い樹林帯の奥で、先ほど消えたはずの紫色の放電が、再びパチパチと空間を切り裂くように激しく弾けた。
現実の皮膜を食い破り、高度知的地球外生命体の侵略の波が、次の牙を剥こうとしていた。日常という名の偽りの舞台装置は完全に崩れ去り、多朗たちは地球と人類の存続を賭けた本当の戦場の入口に立たされていた。




