トランプが言った「彼らはいる」と。
朝のホームルーム前、1年の教室には、いつもと変わらない能天気で呑気な笑い声が響き渡っていた。
教卓のすぐ前の席で、大柄な体の剛田猛がクラスメイト数人とスマホの画面を覗き込み、身を乗り出して腹を抱えている。
『おい見ろよこれ!トランプ元大統領がまた記者会見で『彼らはすでに地球に来ている』なんて言い出したぞ。おまけにネットに流れたこのUFO動画、めちゃくちゃ高画質じゃんか』
剛田が掲げた端末の画面には、南米の上空で銀色の小舟のような物体が物理法則を無視して急旋回する映像が映し出されていた。しかし、画面を覗き込んでいる生徒たちに危機感は微塵もなかった。
『どうせハリウッドの新作映画の宣伝だろ』
『テレビのワイドショーでも専門家が言ってたぜ。最新の画像生成AIを使った精巧なコラージュか、ただの観測用気球の誤認だってさ』
テレビやネットが差し出す分かりやすい解説を疑いもせず呑み込み、真実から目を背けて笑い飛ばす。日本中の人々がパニックを起こさないよう、完璧な報道規制とメディアの誘導によって思考停止させられている姿が、まさにこの教室の中にあった。
多朗は窓枠に肘をつき、初夏の湿った空気が残る校庭をぼんやりと眺めていた。
昨夜、下赤塚の銭湯『赤塚湯』で目撃した後藤先生と刺青の鉄山の密談。そして昨日、四條蓮が口にした『表の政府がやる防災訓練なんてただの目くらましだ』という一言。
自分たちも地下演習室での実地教練や大人たちの裏側を経験していなければ、剛田たちと一緒にあの動画をネタにして笑っていたのかもしれない。そう思うと、背筋に冷たいものが走った。
『上宮くん、これを見なさい』
低い声とともに、隣の席から相羽みなみが近づいてきた。彼女は周囲の視線を遮るように自分の手帳を開き、その内側に隠した薄型端末の画面を多朗だけに提示した。
画面に表示されていたのは、一般には絶対に流通しない英文の極秘通信ログと、高高度衛星が捉えた不穏な画像だった。
『あたしの父親のルートから入手した一次情報よ。ロシアやアメリカの防衛線上空では、すでに未確認物体との局地的な交戦が始まっているわ。トランプの発言は事故のような本音であって、各国の首脳陣はすでに防衛線を維持するだけで手一杯なのよ』
相羽みなみの指先が、緊張でかすかに震えていた。彼女の言葉には、政治家の娘として見知った大人の裏社会の冷酷さと、データに基づいた真実の恐怖が宿っていた。
『日本政府はパニックを防ぐという名目で、テレビやネットの主要媒体に強力な報道規制を敷いているわ。国民を思考停止させておけば社会のインフラは崩壊しないけれど、現実はもう目と鼻の先まで来ているの』
多朗が息を呑んで画面を見つめていると、不意に冷ややかな足音が横で止まった。四條蓮だ。相羽みなみの手帳を横目で見下ろし、短く鼻で笑った。
『相羽、相変わらず表の政治家どもの通信ログに固執しているのか。表の政府が把握している防衛線など、とっくに破綻しかけている。我が一族に伝わる古記録や國體の裏の観測網においては、すでに外の侵入による本質の崩壊が始まっている段階だ』
『四條くん、あなた、一体何を知っているの』
相羽みなみが息を詰まらせて問うと、四條はそれ以上答えず、ただ冷めた眼光で多朗の顔を見つめた。
『上宮、お前が昨日の教練で見せた非接触の現象や、街の裏で大人が動かしている泥臭い防衛線。それら全てが、この平和ボケした教室のすぐ外側に存在している。表の政府がどれほど隠蔽工作を図ろうと、崩壊の足音は止められん』
四條はそれだけ言い捨てると、静かな足取りで自分の席へと戻っていった。多朗の頭の中で、銭湯での後藤先生の顔と、四條の意味深な言葉が重なり合い、胸の不快感がさらに色濃くなった。
『情報統制は、知識を持たない個体が集団パニックを起こすのを防ぐための正常なアルゴリズムです』
多朗のすぐ隣に立っていたマナが、滑らかな声で静かに割り込んできた。彼女はいつも通り多朗を『上宮くん』と呼び、透き通るような瞳を相羽みなみや周囲の生徒たちへ向けた。
『上宮くん以外の人間が真実を知ったところで、何ひとつ事態は解決しません。彼らは何も知らずに笑って日常を消費し、そのまま終わるのが最も幸福な選択肢なのです』
マナのどこまでも合理的で冷酷な全肯定に、相羽みなみは言葉を失い、固く唇を噛み締めた。
その時、教室の最奥の陰から、胸元に怪奇雑誌を抱えた九条が足音もなく近づいてきた。彼女は焦点の合わない不思議な瞳で剛田たちをひと瞥し、それから多朗を見つめた。
『テレビの画面が綺麗になればなるほど、空の網の目が破れていくよ。みんな、温かい檻の中で笑いながら煮込まれているんだね』
九条の抑揚のない呟きは、剛田たちの高笑いの中に不気味に溶けて消えた。
昼休みになり、購買から戻ってきた琴音が、パンの袋を手に多朗の机の端に腰かけた。
『ねえ多朗、今日の購買、新商品のメロンパンが秒で売り切れたのよ。あそこ、絶対に入荷数ごまかしてるわ』
矢継ぎ早にどうでもいい日常の愚痴を並べ立てる琴音。彼女は剛田たちが騒ぐスマホの画面や、相羽みなみの真剣な顔を意識的に視界から排除するように、一方的に話し続けていた。
能天気な笑い声を上げるクラスメイトたちと、日常を力ずくで維持しようとする琴音、そして画面の向こう側で確実に進行している世界の崩壊。その圧倒的な落差の真ん中に、自分たちは立たされている。
多朗は静かに息を吐き、窓の外を仰いだ。
青空の向こう側に広がる不穏な気配と、この教室に満ちる呑気な空気。大人たちが裏で泥を被り、榊が地下で這い上がろうとし、四條が冷徹に見つめる理由が、痛いほど理解できた。
たとえこの平穏が大人たちの作った目くらましであろうと、目の前で愚痴をこぼす琴音や、真実に苦しむ相羽みなみたちの日常を守るために、自分は逃げずに立ち向かわなければならない。多朗は深く息を吸い込み、迫りくる崩壊の足音をしっかりと胸に刻みつけた。




