目くらましの日常と泥臭い防衛線
昨夜、下赤塚の路地裏にある古い銭湯『赤塚湯』で目撃した光景が、頭から離れなかった。
白く立ち込める湯気の中、背中一面に壮絶な般若と龍の刺青を背負った極道の親分である鉄山と、我が1年A組の担任である後藤和明。二人が全裸で湯船に浸かりながら交わしていた、あまりにも生々しく奇怪な密談。
『トカゲ頭』や『鉄の虫ケラ』といった理解不能な単語。そして、明日から特別防災ボランティアという名目で適性訓練を本格稼働させるという後藤先生の言葉。
学校が提示する防災行事という体裁の裏で、大人たちが何かもっと恐ろしい何者かと戦うための準備を進めている。その不気味な予感が、朝の湿った空気とともに多朗の胸の奥へ重く重く沈み込んでいた。
登校して靴箱で上履きに履き替え、二年生の教室があるフロアを通過する際、多朗は周囲の不穏な空気に気づいて足を止めた。
いつもなら威圧的な存在感を放っていた二年の榊の姿が、今朝はどこにもなかったからだ。
『榊のやつ、地下の過酷な施設へ送られたらしいぞ』
『実地教練の選別で脱落して、処分されたんじゃないか』
廊下の壁際に集まった上級生たちが、声を潜めてそんな不気味な噂話を交わしていた。昨日の地下演習室で多朗の右手が叩き出した規格外の数値、そして大人たちが推し進める冷酷な選別システムが、校内に確かな波紋を広げている。榊が姿を消したという事実が、多朗の胸に冷たい不快感をくすぶらせた。
一年の教室に入り、自分の席にカバンを置くと、滑らかな気配がすぐ隣に静かに寄り添ってきた。転校生のマナだった。
『おはようございます、上宮くん』
マナはいつも通り透き通るような声で挨拶を口にした。しかし、彼女のどこか浮世離れした瞳は、多朗の表情に浮かぶ色濃い疲弊と困惑を正確に読み取っているようだった。多朗が昨夜の銭湯での出来事を反芻し、引きつったような笑みを返すのを見ると、マナはそれ以上踏み込むことなく、静かに多朗の傍らに控えた。
昼休みになり、購買から戻ってきた琴音が、焼きそばパンの入った袋を抱えて多朗の机の前にやってきた。
『ちょっと多朗、今朝からずっと顔色が悪いじゃない。昨日の教練で疲れてるのは分かるけど、ちゃんと食べないと午後の授業で本当に倒れるわよ』
焼きそばパンのビニール包装を破ろうとする琴音の手元が、かすかに狂って袋の端がちぎれた。周りの不穏な噂話から多朗の意識を力ずくで引き剥がすように、彼女はあえて購買の混雑ぶりをガミガミとまくしたてている。だが、多朗の手にパンを押し付けるその指先は、隠しきれない硬さで強張っていた。
『サンキュー、琴音。いただくよ』
多朗がそれを受け取って一口かじると、琴音は小さく息を吐き、自分の席へと戻っていった。
そのやり取りを、正面の席から見つめていた相羽みなみが、手元の手帳を開いたまま静かに身体を寄せてきた。彼女は周囲に声が漏れないよう声量を極限まで落とし、眼鏡の奥の鋭い瞳を多朗に向けた。
『上宮くん。昨夜から校内ネットワークの裏側で、不穏な暗号通信が急増しているわ。今日から全校で始まるっていう特別防災ボランティアの件だけど、警察や防衛省のパイプを通じて流れている事前手配のログと形式が完全に一致しているの』
政治家の娘としての深い観察眼を持つ相羽みなみは、手帳の端に記された細かな数式やコードを指で示した。
『単なる地域の避難訓練やボランティア活動じゃない。街全体に通信中継点や警戒線を配置するための、実戦を想定した前動よ。あなた、何か知っているの』
相羽みなみの真摯な問いかけに、多朗は昨夜の銭湯での後藤先生たちの言葉を思い出して言葉を詰まらせた。知っているどころか、大人たちが本気で何かの準備をしていることしか分からない。
その時、少し離れた席から、冷ややかな足音が近づいてきた。
四條蓮だった。教室の隅でいつも冷めた視線を投げている彼は、相羽みなみの手帳を一瞥すると、抑えた声で静かに鼻を鳴らした。
『相羽、大臣や官僚の端切れデータに振り回されて、分かった気になっているのか』
相羽みなみが不快そうに眉をひそめた。
『何が言いたいの、四條くん』
『表の政府や警察が用意した防災訓練なんて、ただの目くらましだ。民衆に真実を悟らせず、集団パニックを起こさせないための安全弁に過ぎん。本物の防衛線は、お前たちの知らないもっと泥臭い場所で、とっくに始まっている』
四條はそれ以上何も語らず、多朗の右手に一瞬だけ重い視線を走らせると、そのまま己の席へと戻っていった。
多朗は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
多朗たちは四條の詳しい素性など何も知らない。だが、いま四條が吐き捨てた言葉は、昨夜『赤塚湯』で後藤先生が言っていた言葉と恐ろしいほどに重なっていた。
防災訓練という体裁。裏で泥を被る大人の仕事。
なぜ四條がそんなことを知っているのか。この学校、新聞やテレビが報じる現実の裏側には、一体どれほどの深淵が隠されているのか。多朗の頭の中は、底知れない不気味さで一杯になった。
放課後、多朗は胸のモヤモヤを抱えたまま、一人で特別棟最上階の技術室へと向かった。
重い引き戸を開けると、室内には機械油とハンダの焦げつく匂いが漂っていた。作業台の前では、黒髪ロングの鳴海先輩が一人でハンダゴテを握り、基板と向き合っていた。
『来たわね、上宮くん。榊の件なら、余計な心配は無用よ』
鳴海先輩はハンダゴテを作業台に置くと、白衣のポケットから薄型の液晶端末を取り出し、多朗の前に画面を向けた。そこには、昨夜遅くに更新された校内秘密ネットワークの申請ログが表示されていた。
『榊は上層部に消されたわけじゃないわ。あいつ、自分の未熟さを認めて、自ら地下の過酷な再教育プログラムへ志願して入ったのよ。あなたのあの非接触ハックを見せつけられて、完全に鼻をへし折られたみたいね』
画面に残された榊の通信ログには、一年生への恨み言などは一切なかった。ただ自らの無力さを恥じ、前線の兵士として使い物になるよう鍛え直すことを乞う、無骨で真摯な文章が打ち込まれていた。
ただの嫌な上級生だと思っていた榊もまた、この学校の裏にある本物の戦場と向き合い、泥を啜ってでも這い上がろうと必死に足掻いている。多朗はその事実に強い衝撃を受けた。
『あの男も、それなりに腹を括ったということね。まあ、地下の過酷な再教育を生き残れればの話だけれど』
鳴海先輩は気だるそうに息を吐き、再びハンダゴテを手にした。
特別棟を出ると、夕暮れの赤い光が長い廊下に斜めに差し込んでいた。
昨夜の銭湯で聞いた後藤先生と鉄山の密談。四條蓮が口にした目くらましという言葉。琴音や相羽みなみの表情。そして、挫折から這い上がろうとする榊の泥臭い覚悟。
すべての点が、今日から始まる『特別防災ボランティア』という名の巨大な渦へと繋がっていく。
大人たちも、上級生も、同級生たちも、誰もがこの狂った現実の中で必死に生きていた。多朗は沈む夕日を見つめ、静かに息を吐き出した。迫りくる不気味な戦場に対し、もはや背を向けることなどできない。自分自身の足で前を向くための覚悟が、腹の底へとしみ込んでいった。




