刺青銭湯と、湯煙の中の密約
旭町の社でお姉さんから投げかけられた不気味な言葉の余韻が、一日が過ぎても多朗の胸の奥に重く澱んでいた。
放課後、下駄箱の前でカバンを肩に掛け直していると、大きな影が多朗の頭上を覆った。クラスメイトの剛田猛が、豪快に破顔しながら多朗の背中をバシリと叩いてきた。
『おう、多朗。ここ最近ずっと難しい顔してんな。頭のネジが焼き切れる前に、ひと風呂浴びてさっぱりしに行くぞ』
『風呂って、剛田の実家の近所か』
『そうだ。赤塚の路地裏にある古い銭湯だよ。あそこの熱い湯に入れば、どんな悩みも吹っ飛ぶからな』
剛田の半ば強引な誘いに引っ張られる形で、多朗は校門を後にした。マナはいつものように静かな足取りで多朗の後ろをついてきていたが、途中の商店街の角で『私は一度、下宿へ戻り夜の通信環境を整えます』と言い残し、深々と一礼して旭町方面へと離れて行った。
夕闇が迫る下赤塚の路地裏を抜けると、昭和の面影をそのまま残した木造唐破風造りの古い銭湯が見えてきた。頭上の煙突から立ち上る薪の匂いと、濡れたタイルの気配が、街道の排気ガスの匂いに混ざり合って鼻腔を刺激する。
暖簾をくぐり、番台に小銭を払って脱衣所へと進む。脱衣所の床板は長年の掃除で磨き上げられており、高い天井からは古いシーリングファンが静かな音を立てて回っていた。
服を脱ぎ、重い木製引き戸を押して浴室へと足を踏み入れた。
白い蒸気がもうもうと立ち込める浴室の奥、富士山のペンキ絵が描かれた壁の下にある巨大な浴槽に、一人の男がどっしりと湯を張っていた。
男が振り向いた瞬間、多朗は思わず足がすくんだ。
湯船から覗く分厚い肩から背中一面にかけて、見事な般若と龍の刺青が鮮烈に彫り込まれていたのだ。彫り物の朱と黒の墨が、湯気の中で異様な威圧感を放っている。赤塚の街の不良やヤクザから絶対的に恐れられている極道の親父、鉄山だった。
『おう、猛か。それにそっちのボウズは、学校の連れか』
鉄山は太い腕を浴槽の縁に預け、豪快なダミ声で笑った。背中の刺青が、湯気を受けてヌラリと光っている。
『へい、組長。同じクラスの上宮多朗です。ちょっと頭使って疲れ切ってたんで、連れてきました』
剛田が慣れた手つきで桶と石鹸を取りながら応えると、鉄山は眼光の鋭い目で多朗をじろりと見つめた。
『上宮のボウズか。ほら、突っ立ってねえでさっさと体を洗って湯に入れ。若い奴がシケたツラしてると、街の運気が下がるんだよ』
見た目の恐ろしさとは裏腹に、その声には不思議と妙な愛嬌があった。多朗は剛田と並んで体を洗い、熱気の充満する浴槽の端へと身を沈めた。
熱い湯が全身の強張った筋肉を解きほぐしていく。だが、湯船の中で鉄山がふと口にした言葉に、多朗は自分の耳を疑った。
『ボウズ、お前さんが通っているあの学校も、急にきな臭くなってきただろ』
『えっ』
多朗が顔を上げると、鉄山は腕を組み、壁の富士山を見上げながら低く呟いた。
『この成増や赤塚の土の下ってのはな、何百年も前から色んな奴らが蠢いている場所なんだよ。先住のトカゲ頭の連中もいれば、俺たちみたいな怪異の生き残りもいる。そして今、空の向こうから鉄の虫ケラどもが落ちてこようとしている』
多朗は開いた口が塞がらなかった。
(トカゲ頭? 怪異? 鉄の虫ケラ? この親分、一体何を言っているんだ。長湯しすぎて頭のネジが緩んだのか、それとも本物の怪しい都市伝説マニアなのか)
銭湯の湯気の中で、あまりにも堂々と奇怪なオカルトのような話を語る刺青の男に、多朗は強烈な不気味さとドン引きの感情を抱いた。剛田は隣でフンフンと頷いているが、多朗からすればただの支離滅裂な電波発言にしか聞こえない。
多朗が言葉を失って引きつった顔をしていると、浴室の引き戸がガラリと勢いよく開いた。
『おいおい、組長。生徒相手に変な講釈を垂れるのはそれくらいにしておけ』
入ってきた人物を見て、多朗は今度こそ目を見開いた。
脱衣所でガサツにジャージを脱ぎ捨て、白いタオルを頭に乗せた担任の後藤和明だった。後藤は引き締まった太い体躯を丸出しにし、手桶を片手にガシガシと足を運んでくると、そのまま鉄山のすぐ隣の湯船へドカッと勢いよく飛び込んできた。
ザバーンと激しい湯の音が浴室内に響き渡る。
『後藤先生? どうしてここに』
多朗が驚いて尋ねると、後藤は頭の手ぬぐいを絞りながら、ガサツな笑みを浮かべた。
『どうしても何も、俺と組長は昔からの湯仲間だ。学校のデスクの上じゃ話せねえ打合せは、いつもここでやってるんだよ』
後藤はそう言うと、鉄山に向かって湯を豪快に撥ね飛ばした。
『組長、地上小隊の配置と、そっちの部隊の動きのすり合わせだ。例の特別防災ボランティア名義の適性訓練、明日から本格稼働させるぞ』
『あいよ、後藤の旦那。うちの連中はもう爪を研いで待ってるぜ。だが、あのガキ共をいきなり前線に放り込む気じゃねえだろうな』
『当たり前だ。あいつらを危険に晒さないために、俺たちが防犯訓練という体裁で体にノイズを叩き込むんだよ。上宮たちの数値はすでに上の領域に達している。いつ空がおかしくなっても動けるようにしておかなきゃならん』
大人二人が、全裸のまま熱い湯の中で繰り広げる怪しすぎる会話。
(防災ボランティア? 適性訓練? 妖怪部隊? 先生まで一体何の話をしているんだ。学校の訓練って、ただの防災の行事じゃないのか)
多朗の頭の中は完全にパニックを起こしていた。二人が交わしている単語の意味は一向に理解できない。だが、豪快に笑いながらも、その奥にある後藤と鉄山の瞳が、恐ろしいほど真剣であり、一切の冗談を含んでいないことだけは肌で伝わってきた。
後藤は湯船から太い腕を伸ばし、多朗の肩をガシと掴んだ。
『上宮、何が起きているか分からなくて困惑しているツラだな。だがな、お前たちが何も知らずに平和に過ごせるように、裏で泥を被るのが俺たち大人の仕事だ。くだらん妄想して頭こんがらがらせてねえで、今日は湯上がりに牛乳でも飲んで家帰ってさっさと寝ろ!』
言葉の意味はまったく分からない。けれど、学校のガサツな数学教師であるはずの後藤の腕の強さと、その背後に漂う圧倒的な切迫感に、多朗は背筋が寒くなるような不気味な感覚を覚えた。
(俺たちの知らないところで、この大人たちは一体何と戦おうとしているんだ?)
銭湯を出ると、赤塚の夜風が濡れた肌を冷たく撫でていった。街道の街灯の下、多朗は剛田と並んで歩きながら、大人たちが口にした理解不能な言葉の数々と、胸に迫る不気味な予感に唇を噛み締めていた。




