旭町の社と、煙管の美女
昨日の地下シミュレーター室での騒動から一夜が明け、一年A組の教室は一見すると何事もなかったかのような朝を迎えていた。
登校時からどことなく落ち着きのない琴音は、何度も後ろを振り返っては多朗の様子を窺っている。教室の一角では剛田猛が昨夜のテレビ番組の話題で豪快に笑い声を上げ、女子生徒たちは購買のパンの話題で呑気に言葉を交わしていた。しかし、登校時に二年生の校舎や特別棟の周辺を探っても、昨日まで嫌がらせのように付き纏っていた二年の榊の姿も、その仲間たちの気配もどこにもなかった。
多朗は自分の席に腰を下ろし、静かに周囲の空気を探った。
廊下を足早に行き交う教師たちの硬直した表情、天井のコーナーに設置された防犯カメラがかすかな駆動音を立てて多朗の座席へ微妙に角度を変える気配。目に見える風景は普段通りだったが、校内全体を覆う監視の網目が、昨日までとは比べものにならないほど緻密に張り巡らされているのを、多朗の感覚が過敏に拾い上げていた。
『上宮くん、ちょっといいかしら』
相羽みなみが声を潜めて振り返り、手帳を開いて多朗のデスクへ滑らせてきた。
『昨日の夕方、学校の共有サーバーに記録されたアクセスログの解析結果よ。端末からのキー入力履歴は完全に遮断されているのに、領域のデータだけが外部からの高周波によって一瞬で書き換えられている。物理的に端末へ触れていないのにシステムが侵食されたとしか考えられない波形よ。あなた、あの地下で一体何を引き起こしたの』
相羽の眼鏡の奥の瞳には、論理的な追及の鋭さと、多朗の身に起きている異常に対する隠しきれない懸念が同居していた。直接現場を見ていないにもかかわらず、残された通信ログだけで異変の本質に辿り着く彼女の聡明さに、多朗は冷や汗を覚えた。
『相羽さん、それは』
『誤魔化そうとしても無意味よ。あたしの父の端末にも、似たような異常通信のアラートが届いていたわ。あなたが何か常識外れな渦に巻き込まれているのだとしたら、あたしは放置できない』
相羽はそう告げると、過剰な追及を自制するように手帳を閉じ、視線を窓の外へ移した。不器用な彼女なりの警告と懸念であることは、多朗にも十分に伝わってきた。
『もう、相羽さんったら、朝からまた小難しいノートを見せて多朗を困らせないでよ』
琴音がくるりと振り返り、多朗のデスクに身を乗り出すと、必死に明るい調子を装って声を張った。
『多朗はただの工作マニアなんだから、そんな怪しい通信データなんて分かるわけないでしょ。ほら、多朗、今日の放課後は秋葉原か成増のドンキに付き合いなさいよ。部室のパーツも足りなくなってるんだから』
琴音の強がりな態度と、多朗を日常の側へ引き戻そうとする指先のかすかな緊張。二人の少女がそれぞれのやり方で自分を守ろうとしてくれていることが痛いほど伝わり、多朗は胸の奥に重い不甲斐なさを感じていた。
多朗の隣に座るマナは、二人のやり取りをどこまでも澄んだ瞳で見つめながら、静かに多朗の左腕に触れた。
『多朗くんの演算領域は、すでに防衛の核心として固定されています。周囲の警戒を過剰に意識する必要はありません』
マナの淡々とした声が落ちる中、朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り響いた。
放課後、多朗は琴音とともに買い出しを終え、校門を出たところで並んで歩いていたマナから静かに声をかけられた。
『多朗くん、琴音さん。よかったら、うちに来ませんか』
マナのシンプルな誘いに、多朗と琴音は顔を見合わせた。ここ最近の校内の重苦しい空気から少し距離を置きたかったこともあり、二人はマナの案内に従って散策がてら旭町方面へと足を向けた。
濡れたアスファルトが夕日に照らされる街道を進み、住宅街の奥深くに鎮座する鳥居をくぐると、周囲の都市ノイズが一瞬にして遮断された。境内に一歩足を踏み入れた途端、静寂の密度が急激に跳ね上がる。巨大な楠や杉の木々が頭上を覆い繁り、外部の喧騒を完全に遮っていた。
『ここ、なんだかすごく静かすぎて、不思議な感じがするわね』
琴音が少し肩をすくめ、多朗の袖の近くへ身を寄せる。
本殿の脇に立つ木造の社務所兼住宅の軒先へ進むと、どこか甘く妖しい煙草の香りが鼻腔をくすぐった。
帳場のような低い文机の前に腰掛け、長管の煙管から悠然と紫煙をくゆらせている女性がいた。着物姿の美女、応為である。下赤塚の古い古本屋の店主でもあり、マナの親戚のお姉さんとしてこの社に暮らしている人物だ。
『おや、上宮のボウズに琴音ちゃんじゃないか。マナちゃんと一緒に揃って、こんな静かな境内に何の用だい』
応為は艶やかな声で微笑み、煙管の先から細い煙をくゆらせた。朱色の口紅が、薄暗い軒先で異様なほど鮮やかに浮き立っている。
『お姉さん、こんにちは。買い出しの帰りに、マナに誘われて遊びに来たんだ』
多朗が応対すると、応為は煙管を指先で軽く揺らし、多朗の右手にチラリと視線を走らせた。その瞳の奥には、すべてを察しているかのような悪戯っぽい光が宿っている。
『ふうん、マナちゃんも粋なことかい。だがねえ、上宮のボウズ。顔色が少し冴えないじゃないか。また部室の機械に触れて、右手でも痺れさせていたんじゃないかい?』
多朗はヒヤリとしたものを感じた。昨日、地下シミュレーター室で非接触ハックを引き起こしたことを、この人は遠回しに見抜いているのだ。
『この成増や赤塚の街ってのはね、昔から見えねえ糸や網がたくさん張り巡らされているのさ。普通に暮らしているつもりでも、ちょっとした拍子にその網に引っかかって、厄介な渦に巻き込まれちまう。ボウズ、あんたも余計なことに深入りして、手痛い目に遭わないよう気をつけな』
応為の言葉は軽い軽口のようでありながら、どこか不穏な告白を含んでいた。
(この街の見えない網……お姉さんは、学校の地下の監視網や、俺の右手のバグのことをどこまで知っているんだ?)
多朗が息を呑んで返答に迷っていると、隣に立った琴音が前に一歩躍り出た。
『ちょっと、お姉さん! 縁起でもない脅かすようなこと言わないでよ。多朗はただのメカ好きで、変なトラブルになんて巻き込まれてないわ!』
琴音が多朗を庇うように声を張り上げた、その瞬間だった。
風など一切吹いていない静寂の境内において、周囲の巨大な楠の枝葉が、突如としてバリバリと重い音を立てて激しく揺れ始めた。
多朗の肌に、局所的な大気圧の急激な変化が伝わってくる。琴音の頭上の空間が、光の屈折を起こしたかのようにかすかに歪み、周囲の温度が一時的に急降下した。
『ほう』
応為は煙管を口元から離し、感心したような眼差しで琴音を見つめた。
『この娘も、なかなか威勢がいいねえ。大気の波長を直接動かすとは』
琴音自身は自分が引き起こした大気の揺らぎに気づいておらず、ただ多朗を守るように肩を怒らせて立ち尽くしている。琴音の内に眠る精霊界との同調適性が、応為の異質な雰囲気に反応して、ごく自然に表面化し始めていた。
沈みゆく夕日が境内の影を長く伸ばし、風の止んだ樹々の隙間から、紫煙の香りだけが静かに漂い続けていた。




