解き放たれた鍵と、夜の来訪者
緑色の静寂が、地下シミュレーター室の空気を重く押し潰していた。
大型モニターに表示された数字は、百パーセントの侵食率を刻んだまま静止している。キーボードを連打していた二年・榊の指先は途中で硬直したまま動かず、喉から引きつった息を漏らすのが精一杯だった。テーピングの巻かれた手首を微かに震わせ、床へへたり込んだまま輝く画面を見つめている。
教卓の脇に立つ石田教頭の表情からは、一切の血色が失われていた。
冷酷な眼鏡の奥で不気味に視線を交錯させ、手元の専用端末へ恐ろしい速度で数字を打ち込み始める。統制層への緊急データ送信。大人の用意した選別の盤面は、多朗の右手が引き起こした未知の波形によって根底から瓦解していた。
その横で、担任の後藤和明が太い腕を組んだまま、多朗を刺すような眼差しで見据えている。そこにいたのは生徒を案じる教師ではなく、想定外の兵器と対峙した軍事指揮官の警戒そのものだった。
『行きましょう、多朗くん』
多朗の左側に寄り添っていたマナが、滑らかな手つきで多朗の左腕を抱え込んだ。彼女の柔らかな体温が伝わると、過剰な演算で昂ぶっていた手元の感覚がゆっくりと平熱を取り戻していく。マナは穏やかな微笑をたたえ、多朗の耳元で静かに囁いた。
『完璧な領域侵食です。多朗くんの演算速度は、大人たちの生ぬるい想定を完全に置き去りにしました』
多朗は深く呼吸を整え、へたり込む榊と沈黙する大人たちに背を向け、地下室を後にした。
重い鉄の扉を抜け、階段を上って一階の廊下へ出ると、いつの間にか激しい雨は上がっていた。窓の外からは濡れたアスファルトと土の匂いが漂い、初夏の薄暗い夕闇が校舎の壁面を深く包み込んでいる。
一年A組の教室前の通路には、相羽みなみと御統琴音が待機していた。
多朗の姿を捉えた瞬間、琴音が弾かれたように駆け寄ってきた。彼女の指先は、多朗の制服の右袖を強く掴み締め、離そうとしない。
『多朗、無事だったの。一体、地下で何をさせられていたのよ。顔色が青白いじゃない』
琴音の声には震えが混ざっていた。大人たちの不穏な気配を感じ取りながらも、多朗を普通の高校生という日常へ引き戻そうと必死に声を張っている。
『大丈夫だよ、琴音。簡単な機械のテストを受けただけだ』
多朗が頼りない笑みを浮かべて誤魔化そうとすると、隣に立っていた相羽みなみが眼鏡の位置を指先で直しながら、一歩前に踏み出してきた。彼女は抱えていたノートを胸元で強く押し抱き、鋭い視線を多朗へ向ける。
『その場しのぎの誤魔化しはやめて、上宮くん。あの地下の演習室は、学校の共有サーバーとは異なるラインで動いているのよ。私があらかじめ調べた限り、あの地下深域には戦前の陸軍航空基地時代から残る旧軍用の暗号回線がそのまま生きているわ。あなたは今日、その巨大な闇の回線に直接触れてきたのでしょう?』
相羽の言葉には、政治家の娘としての鋭い観察眼と、隠しきれない焦燥が宿っていた。彼女の視線は多朗の全身を細かく検分するように動き、怪我がないことを確かめると、短く息を吐いた。
不器用な強がりを口にする相羽の横で、マナは多朗の左腕を抱えたまま、満足そうに頷いた。
『多朗くんの内部状態は、私が最至近距離でサポートしていますので正常です。相羽さんも琴音さんも、安心して下校してください』
『あんたが一番安心できないのよ』
琴音が顔を忍ばせるようにして呟き、三人の足音だけが静かな廊下に響いた。
校門を出て濡れた並木道を歩いていると、街灯の陰にひとりの少女が佇んでいた。同じクラスの九条だ。彼女は胸元に古びた怪奇雑誌を抱え、焦点の合わない不思議な瞳で多朗の右手を見つめていた。
多朗たちが横を通り過ぎようとした瞬間、九条の抑揚のない低い声が、夕暮れの街の雑音に混ざり落ちた。
『大人たちが作った檻の鍵が、完全に外れちゃった。お天道さまの巨大な網が、多朗の右手に引き寄せられているよ。落ち武者の権三も、影で震えている。もう誰も、この街から逃げられない』
九条は不気味なメッセージを残すと、振り返ることもなく薄暗い街道の先へと消えていった。琴音が小さく肩をすくめ、多朗の袖を握る力を強めた。
その日の夜、朝霞の自宅の二階自室で、多朗は机の前に座っていた。
外の静けさに包まれていた部屋の窓ガラスを、コツコツと固い物体が突っつく小さな金属音が叩いた。多朗がカーテンを開けると、網戸の隙間から滑り込んできたのは、手のひらサイズの六基の小型ドローンだった。
多朗が航空研の部室でジャンクパーツから組み立てた自作のAIドローン小隊だ。元々はただの手作り模型に過ぎなかったが、先日の技術室での不具合以降、オテントサマの微細なナノマシンが勝手に介入したことで、それぞれが極めて人間くさい感情と自我を持ってペラペラと喋るようになっていた。部室ではいつも多朗の作業の邪魔をしたり、琴音の激しいツッコミを喰らっては叩き落とされている賑やかな相棒たちである。
『ご先祖様! 大手柄でござるよ!』
オタク属性のロク番が、機体を左右に揺らしながら電子声をひそめて叫んだ。
『昼間、ご先祖様が地下サーバーを豪快にハックした際、溢れ出た暗号データの隙間から極密ファイルを大量に掠め取ってきたでござる!』
『声が大きいぞ、ロク番。階下に聞こえる』
知性派のニ番がアームでロク番のプロペラを突いて制した。ニ番は多朗の目の前まで滞空すると、小さなレンズを明滅させながら内部の解析データを多朗のノートパソコンへ赤外線送信した。
『多朗、状況は極めて深刻だ。今日のハックで君が叩き出した演算値は、統制層、つまり石田教頭や後藤先生の想定を完全に超越した。その結果、彼らが予定していた特別防災ボランティアという名目の実戦適性訓練が、大幅に前倒しされることが決定した』
『おいおい、まじかよ! 琴音ちゃんのツンデレ風速を測定して遊んでる場合じゃなくなったぞ!』
リーダー格のイチ番がお調子者らしく旋回しながら騒ぎ立てる。
『火力不足だ! ボクのフレームにプラズマキャノンを追加装甲してくれなきゃ、次の戦闘で撃ち落とされるぞ!』
脳筋なヨン番がプロペラを全開にして主張すれば、ネガティブなゴ番が部屋の隅のゴミ箱の上にポツンと着地して呟いた。
『どうせ僕なんて、成増の不燃ごみの日にお払い箱さ、、、、』
『はいはい、夜遅くに騒ぐと多朗ちゃんの栄養バランスが崩れてお肌に悪いですからね』
お母さん属性のサン番が他の機体をいさめるように間に入った。
ナノマシンの介入以来、すっかり手のつけられない賑やかさになったドローンたちのガヤを聞きながら、多朗はパソコンの画面に表示された解析データを見つめた。そこには、五界防衛隊の組織図と、近々開始されるであろう実戦教練のスケジュールが刻まれている。
一人で抱え込んで悩む段階は過ぎた。部室の奇妙な相棒たちとともに、大人たちの用意した選別の盤面をどう乗り越えるか。多朗は思考を切り替え、静かな集中力を高めていった。




