触れざる演算、消滅のブルー
朝のホームルームが終了しても、教壇の脇に立つ後藤教師の視線は多朗の姿を鋭く捉えたまま離れなかった。黒板にチョークが鋭い音を立てて走る音、剛田の呑気な笑い声、風が叩く窓枠の軋み。それらの日常の環境音が、多朗の耳には遠い世界の雑音のように低く遠のいて聞こえていた。後藤の横顔には、昨日の教頭室で見せた軍事教官としての冷徹な眼光がそのまま残されていた。
『上宮くん、顔色が著しく悪いわ』
通路を挟んだ隣の席から、相羽みなみが声を極限までひそめた。彼女の指先は、胸元に置いたノートの端を指白くなるほど強く締め上げている。
『心配いらないよ、大丈夫だ』
多朗はそう応じるのが限度だった。これ以上、彼女たちを大人の不気味な選別の構造に巻き込むわけにはいかない。昨日、相羽が目撃したという鮮烈な赤ファイルの存在感を思い出すたび、胸の奥が冷たい金属片を詰め込まれたように引き締まった。
放課後を告げるチャイムの音が校内へ響き渡ると同時に、後藤教師が教壇の木枠を強く拳で叩いた。
『上宮、そのまま席を立つな。来い』
教室内の空気が一瞬で凍りついた。琴音が反射的に立ち上がりかけたが、多朗は彼女の視線を遮るようにして静かに席を離れた。マナだけは何も言葉を発せず、静かな足取りで多朗の数歩後ろを自然に追従してくる。後藤教師の重い足音に導かれ、多朗は再び特別棟の奥、重厚な防音扉の向こう側へと足を踏み入れた。
地下最深部に位置する特設シミュレーター室は、肌を刺すような高精度の空調冷気に満たされていた。部屋の全周壁面を埋め尽くす大型モニター群が、青白い光を不規則に室内の床面へ振り撒いている。大型換気ブロワーが立てる低い排気音だけが、空間の静寂を不気味に圧迫していた。
部屋の中央に配置された操作卓の前に、屈辱と執念で表情を強張らせた二年・榊が直立していた。昨日の騒動でマナに抑え込まれた手首には、白いテーピングが痛々しく巻き直されている。だが、その瞳の奥に宿っているのは怯えなどではなく、一年生に屈服させられたことに対する剥き出しの敵意と焦燥だった。その背後には、冷ややかな眼鏡の奥で端末の数字を追う石田教頭の姿がある。
『遅かったな、一年生』
榊の声は低く掠れていた。その声には後がない人間の危険な熱が孕まれている。
『準備はすでに完了している。そこのシートに座れ』
石田教頭が、一切の感情を排した抑揚で多朗へ命じた。多朗は指示された重厚な金属製のシートに身を沈めた。目の前の操作盤面には、統制層が用意した軍用の航空管制模擬システムと、幾重もの防御壁で囲まれたネットワークの構造体が青く表示されている。
『規則は極めて単純だ。互いにハックプログラムを流し込み、相手の航空管制領域を百パーセント遮断した方が勝者となる。上宮、お前が先日示した演算能力が偶然の産物か否か、ここで見せてもらう』
石田教頭の合図と同時に、操作画面の背景が不気味な赤色へと変貌した。
演習が開始された直後、画面上のデータ領域が圧倒的な速度で榊の青い識別コードによって浸食され始めた。榊の指先がキーボードの上を猛烈な連打で駆け巡る。正規の防衛教練で叩き込まれた構築手腕と、高負荷の遮断プログラムが、多朗の割り当てられた領域を容赦なく押し潰していく。
『どうした、昨日の威勢はどこへ行った。キーボードも叩けないのか』
榊の嘲笑が、低い排気音に交ざって室内に響く。多朗の操作画面は全体の六割、七割と青いコードに塗り潰され、領域喪失を警告する不快な電子アラームが鳴り響き始めた。防御すら満足に機能せず、多朗の額から冷や汗が静かに滴り落ちる。
その時だった。多朗の右手の神経系に、異様な過熱感とともに高周波の振動が奔り抜けた。昨夜、自室のノートパソコンで展開された立体幾何学の構造式が、網膜の裏側に鮮明な残像として浮かび上がる。
キーボードの上で指を動かそうとした多朗の動作が、ふと停止した。
多朗はキーへの入力を完全に放棄した。ただ、右手のひらを広げ、操作卓の冷たい金属フレームの上へ静かに直接押し当てた。
空間の物理的な振動が一瞬で位相を変えた。多朗の手のひらを介して、高次元の演算波形が操作卓の内部基板へとダイレクトに流出していく。
次の瞬間、室内に響き渡っていたブロワーの重低音がピタリと途絶えた。キーボードを連打していた榊の指が、まるで時間が凍りついたかのように途中で硬直する。
多朗の目の前にある全天周画面上で、猛烈な勢いで点滅していた赤と青の識別コードが、一瞬の物理的ラグもなく完全に消滅した。
代わりに、キーボードの入力履歴にすら存在しない、高次元の緑色プログラムが滝のような速度で画面上を落ち始めた。画面全体のデータ構造が、既存のコード体系を根底から無視した未知の数式によって高速で書き換えられていく。
『な、なんだこれは。キーが一切反応しない。プログラムが勝手に上書きされていく』
榊が錯乱した声を上げ、端末の非常ボタンを狂ったように叩いた。しかし、青い領域は瞬く間に緑色の波に飲み込まれ、パーセンテージの数値が跳ね上がっていく。
八十、九十、そして一気に百パーセント。
全画面が静かな緑色の発光で満たされた瞬間、システム全体が完全な沈黙へと至った。
シミュレーター室の中に、重苦しい静寂が満ちていく。榊は青ざめた顔でモニターを凝視したまま、言葉を失って椅子へへたり込んだ。石田教頭も、後藤も、口を開くことすら忘れたように、画面に表示された異常な演算数値をただ見つめていた。大人の用意した選別の盤面は、多朗の右手が放った不可解な演算波形によって、完逆の形で打ち砕かれていた。
多朗は震える右手を金属フレームからそっと離した。手のひらには、冷ややかな金属の触感と、静かな決意の余韻だけが残されていた。




