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都立 成増航空高等学校  作者: 秋津ネオ


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侵食する暗号と、夜の重低音

 

 重い鉄の扉が、背後で重厚な空気の圧迫とともに閉ざされた。窓が存在しない地下通路には、不快な空調の駆動音と、蛍光灯が発するかすかな磁気雑音だけが充満している。石田教頭から突きつけられた、赤いファイルが示す選別通告。明日の放課後、地下シミュレーター室で行われるという榊との航空管制ハック適性審査の文脈が、多朗の思考を鉛のように重く沈めさせていた。


 多朗が一人で教頭室の前から足を踏み出すと、薄暗い廊下の壁の影から、滑らかな所作で影が揺れた。生徒の立ち入りが厳重に制限されている地下警戒区画であるにもかかわらず、マナが何事もないような佇まいで待機していた。


 『お帰りなさい、多朗くん。お疲れ様でした』


 マナは一切の躊躇もなく多朗の左側に寄り添うと、そのまま自然な動作で腕を抱え込んできた。人間らしい柔らかな体温が、制服の生地越しにじんわりと伝わってくる。


 『マナ、こんな場所まで入ってきて大丈夫だったのか』


 『多朗くんの移動領域を追尾し、最至近距離を維持することは私の基本命令ですので』


 マナはのんびりとした調子で返答しながら、多朗と歩調を合わせて地下階段を上り始めた。階段の半ばで、多朗の右手の感覚が激しく研ぎ澄まされた。過剰な神経活動が手首から先へ一気に流れ込み、指先が強張るような異様な過熱感が奔る。多朗が踏み外しそうになった瞬間、腕を抱いていたマナの指先に静かに力がこもった。


 彼女から伝わる不思議なほど平穏な体熱に触れた途端、右手を支配していた急激な違和感は潮が引くように収まり、いつもの肉体の感覚へと戻っていった。マナは何も語らず、ただ多朗の側面に寄り添い、静謐な眼差しで多朗の横顔を見つめている。


 一階の廊下へ躍り出ると、窓の外では夕立の雨足が一段と強まっていた。校舎のガラス面を打ち叩く膨大な雨滴が、視界の向こうの景観を濁った灰色へと塗り潰している。薄暗い一年A組の教室の引き戸の脇には、相羽みなみと御統琴音の二人が不安を隠せない様子で佇んでいた。


 多朗とマナが並んで歩いてくる姿を捉えると、琴音が弾かれたように駆け寄ってきた。彼女の指先は多朗の右袖を強くつまみ、そのまま離そうとしなかった。その指は微かに震えている。


 『多朗、大丈夫だったの。教頭先生たち、本当は何の話をしていたの。ただの補習や部活の確認なんだよね』


 琴音の瞳には、必死に崩れゆく日常へしがみつこうとする切実な色が浮かんでいた。大人の放つ軍事的な威圧感や選別の冷徹さを察知しながらも、多朗が普通の高校生から遠ざかってしまうことを、全身で拒んでいるかのようだった。


 『大丈夫だよ、琴音。明日の活動についての簡単な確認を受けただけだ』


 多朗は作り笑いを浮かべ、努めて落ち着いた声で返した。彼女を安心させるための偽りだと自覚しながらも、今はそう答えるしかなかった。その横で、相羽みなみが眼鏡の奥の瞳を冷ややかに細めた。彼女は胸元で抱えたノートを一層強く抱え込み、声を潜めた。


 『上宮くん、その場しのぎの嘘は不毛だわ。あの赤ファイルは、父の書斎で目撃した有事の際の実戦招集令状と全く同じ不穏な気配を纏っていたの。あなたが何を背負わされようとしているにせよ、大人が押し付ける冷酷な枠組みを、私は到底受け入れられない』


 相羽の言葉には、政治家の家系で培われた鋭敏な洞察力と、多朗を真剣に案じる熱量が宿っていた。多朗の左腕を抱えたまま静かに佇んでいたマナは、二人の切迫した視線を受け止めながら、かすかに口元を緩めた。


 『多朗くんがどの領域へ選別されようと、私の適合率に変動はありません。私は多朗くんの選択のすべてを肯定します』


 マナの涼やかな声が、雨音の響く廊下に落ちた。その穏やかな表情の奥には、これから訪れる事態を見通しているかのような、底知れない冷徹さが潜んでいた。


 その時、教室の引き戸が静かに開き、鞄を手にした四條蓮が廊下へ出てきた。彼は下校の手を止め、手帳をポケットに収めながら、多朗の脇を通り過ぎる瞬間に低く呟いた。


 『榊はプライドを打ち砕かれて後がない。明日のシミュレーター演習はただの試験ではないぞ、上宮。お前の右手が示す演算数値を、統制層が直接解剖するための仕掛けだ』


 四條がそのまま濡れた階段の方へ去っていくと、今度は特別棟の連絡通路の影から、作業着を崩した白衣姿の鳴海先輩がだるそうに歩いてきた。彼女は壁に背を預け、工具ケースを揺らしながら多朗を見やる。


 『気をつけて臨みなさい、上宮くん。あの地下のシミュレーターは、脳の処理速度が限界を超えた際、負荷によって操縦者の意識を焼き切る設計になっているわ。まあ、あなたのその右手なら、システムそのものを上書きしてしまうかもしれないけれど』


 鳴海先輩はそれだけ言い残すと、短く手を振って特別棟の暗がりへと消えていった。


 雨の強まる中を琴音とともに下校し、多朗は朝霞の自宅の門をくぐった。夕食の食卓では、長男の一馬と次男の悠人が、いつものように穏やかな手つきで箸を動かしていた。しかし、多朗の直感は、二人の会話の合間に生じるわずかな間や、視線の交錯から、市ヶ谷や朝霞の情勢が急速に緊迫していることを感じ取っていた。二人は多朗を渦中に巻き込まぬよう、徹底して完璧な家族の日常を演じ続けているのだ。


 二階の自室に戻り、多朗は机の前に腰を下ろした。窓の外では、まだ激しい雨粒が道路を叩き続けている。武蔵野の夜闇の向こう側、朝霞駐屯地の方向からは、昨夜と同じ重苦しい低周波の振動が、微かに家屋を揺らしていた。


 多朗は息を吐き出し、作業用のノートパソコンの電源を入れた。画面が起動し、青白い光が部屋を照らし出した、まさにその瞬間だった。


 意識の奥底で鋭い警鐘が鳴り響き、右手の感覚が一気に激化させた。多朗は左手で右手首を固く抑え込んだが、指先はすでに自らの意志を離れていた。


 キーボードに直接触れてすらいないにもかかわらず、画面上でカーソルが恐ろしい速度で自動移動を開始した。幾つものウィンドウが次々と立ち上がり、暗い背景の上に、膨大な量の緑色のプログラムコードが爆発的な勢いで流れ落ちていく。


 それは、昼間に技術室で見た工具箱の立体基板や、ドローン小隊の飛行制御式を遥かに凌駕する、高次元の軍事プログラムだった。空間の歪みを固定するための補正解析、航空管制の通信周波数を強制的に書き換える暗号解読式。多朗の右手が発する目に見えない高周波の信号が、パソコンの内部構造を直接再構築していく。


 脳の奥深くに、記憶にない広大な空の光景が直接流入してきた。見知らぬ無数の冷たい鉄の群れが、明滅する雲間を滑空し、見知らぬ少年少女たちが悲鳴を上げながら通信機へ叫んでいる、幾つもの重なった戦場の残酷な断片。


 多朗は奥歯を噛み締め、冷や汗を流しながら画面を見つめた。右手を襲う異様な過熱感は、単なる能力の表出ではなかった。これから訪れる戦場の光景が、あるいは別のタイムラインで自分が辿った過酷な軌跡が、身体の奥から肉体を侵食し始めている兆候だった。


 どれほどの時間が経過しただろうか。画面上の緑色のプログラムが最後のコードを打ち込み、パソコンの冷却ファンが激しい音を立てて静まり返った。ディスプレイには、明日の地下特設シミュレーター室で運用されている軍用の航空管制模擬システムと、榊が演習で展開する防衛セキュリティプログラムの全構造が、詳細な解析図として表示されていた。


 多朗の手から過剰な負荷が引き、震える指先が制御を取り戻す。多朗は荒い呼吸を整えながら、窓枠に手を置いた。雨足はしだいに弱まっていたが、夜空の奥に滲む不気味な赤黒い混濁は消えていなかった。


 大人が用意した選別の舞台。自分を不用品として排除しようとする圧力と、プライドを打ち砕かれて歪む榊。そして、自分を必死に日常へ繋ぎ止めようとする琴音や相羽の感情。


 逃げ出す道はない。この右手で起きている異常から目を背けたままでは、守るべき日常そのものが破綻してしまう。多朗は静かに奥歯を噛み締め、覚悟を固めた。手のひらの中には、次の局面に備えるかのような静かな確信だけが残されていた。


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