赤いファイルと地下の静寂
乱暴に閉められた引き戸の重い残響が、技術室の古い床板を振動させ、多朗の足元へとしだいに吸い込まれて消えていった。二年生の榊が一派を率いて逃走した後の室内には、夕闇の濃い陰影と、解剖された工具箱の基板から連続して漏れ出す細い電子の雑音だけが残されていた。
作業台の前に立つ鳴海先輩は、液晶端末の画面に表示されていた通信ログを、指先の冷たい動作で迷いなく消去していた。榊を腕力で抑え込んだ際の鋭い眼光はすでに潜められ、代わりに底の知れない冷徹な諦念のような表情が浮かんでいる。多朗の隣で制服の袖をつかむ琴音の指先にはかすかな震えが残っており、窓の外から差し込む赤黒い西日が、彼女の固くなった横顔を赤く染めていた。
『航空基地、ここは今もって、榊先輩は何を言いかけたの。光が丘って、私たちはただの緑が多い大きな公園だと思ってたのに。ねえ、鳴海先輩』
琴音の詰まったような問いかけに対し、鳴海先輩は端末から視線を切らないまま、低く短い声で応じた。
『あいつの端末に強制的な警告を叩き込んだのは、学校の基幹監視網、オテントサマの端末管理システムよ。榊が口にしかけたのは、この地域一帯に深く刻み込まれた本物の歴史の断片。光が丘の地下には、戦前から今に至るまで、この街のインフラを水面下で縛り続ける巨大な防衛拠点が稼働している。弾き出された数値を追う限り、そのシステムは今、明確に一年生である上宮多朗をロックオンしているわ』
鳴海先輩が告げた直後、多朗の制服のポケットの中でスマートフォンが不気味な挙動を見せた。画面の着信ランプも点滅せず、バイブレーションの機械音すら鳴っていないにもかかわらず、本体が手元で不自然に重く、高い周波数でかすかに揺れていた。
それと連動するように、多朗の右手の先には、感覚が鋭利に研ぎ澄まされていくような強烈な違和感が走った。耳の奥で、異質な金属粒子が高速で摩擦するような不快な高周波が聞こえる。それは単なる機械的な通信ノイズではなかった。まるで重なり合った多重タイムラインの戦場で、見知らぬ無数の人間が通信機越しに叫んでいるかのような、薄暗い残響として多朗の意識に直接伝わってきた。
多朗が呼吸を乱しかけたその時、すぐ隣にいたマナが、迷いのない動作で多朗の左腕を自らの両手で抱え込んできた。
マナの視線には、多朗の右手に起きた現象に対する動揺など微塵もなかった。ただ、その異変を事前に織り込んでいたかのような、静かで深い微笑みを浮かべている。不思議なことに、彼女の滑らかな体温に触れているだけで、右手の異様な過熱感がしだいに収まり、感覚が穏やかな現実へと引き戻されていった。だが、その圧倒的な保護の背後にある底知れない非人間性に、多朗自身はまだ気づいていなかった。
『荷物をまとめて、一度教室へ戻りましょう。これ以上ここに長居すると、統制層の記録に無駄なノイズを残すことになるわ』
鳴海先輩の短い促しに、多朗たちは弾かれたように頷いた。
特別棟から中庭の連絡通路を渡り、一年A組の教室へと向かう途中で、外の世界は急激にその色彩を失っていった。いつの間にか上空は厚い黒雲に覆われ、窓の外では激しい夕立が始まっていた。大粒の雨が校舎の窓ガラスを激しく叩きつけ、遠雷の低い重低音が地面を揺らしている。その容赦のない雨音は、多朗たちがいる学校という空間を、日常の街並みから完全に切断された異空間へと変えていくようだった。
薄暗い教室に入ると、そこには自分のノートを胸に抱えた相羽みなみが、一人静かに残っていた。
多朗たちの姿を視界に捉えるやいなや、相羽みなみは椅子から立ち上がり、眼鏡の奥の鋭い瞳をこれまでにないほど深刻に光らせて足早に近づいてきた。
『上宮くん、無事だったのね。技術室の方で二年の榊たちが騒いでいたって噂を聞いたから、ずっと待っていたのよ』
『相羽さん、どうしてまだ教室に』
多朗が尋ねると、相羽みなみは周囲の廊下を警戒するように声を極限まで小さくした。政治家の娘として育てられ、大人の世界の権力構造や情報の裏側を日常的に察知してきた彼女の直感は、この学校の異常性を誰よりも早く見抜いていた。
『さっき、荷物を持って職員室の前を通りかかったの。その時、担任の後藤先生のデスクの上に、あなたの名前が大きな太字で印刷された、見たこともない鮮やかな赤色のファイルが置かれているのが見えたわ。私、嫌な予感がして足を止めて中を確かめようとしたけれど、すぐに教頭の石田先生に見つかって追いやられた。あれは普通の学校の書類なんかじゃない。私の父の書斎で見かけたことがある、上層部から直々に降りてくる有事の際の実戦招集令状と、全く同じ質感を放っていたわ』
相羽みなみの言葉には、多朗を真剣に案じる少女としての感情と、隠しきれない焦燥が混ざり合っていた。その切迫した様子を見て、琴音が小さく唇を噛み、多朗の右側に立つようにして一歩前に出た。普段であれば、二人の女子生徒が自分を巡って視線を交わすような他愛のない学園生活の一コマに見えたかもしれない。
しかし、榊の一派から向けられた生々しい敵意と、マナが見せた圧倒的な戦闘スペックを目の当たりにした今、この教室の日常景観すらも、いつ過酷な現実に砕かれてもおかしくない壊れやすいガラス細工のように感じられた。
『上宮、ここにいたか』
激しい雨の匂いと、ずぶ濡れになったナイロン製ブルゾンの擦れる音を漂わせながら、担任の後藤和明が教室の扉を急激に開けて入ってきた。
普段のガサツで大雑把な教師の態度を装ってはいるが、その双眸の奥にある光は、完全に生徒の能力値を測る軍事教官のそれだった。後藤は多朗を太い指先でまっすぐに指し示した。
『荷物を持って、今すぐ俺についてこい。特別棟の地下にある教頭オフィスでお呼びだ。石田教頭が、お前を直々に面談すると言っている』
『後藤先生、上宮くんに何かご用なんですか。もう放課後の下校時刻を過ぎています。行政上の権限のない学校側が、生徒を不当に拘束する法的な根拠はないはずです』
相羽みなみが毅然とした態度で後藤の前に立ちはだかり、琴音も多朗の背中を庇うようにして教師を強く睨みつけた。だが、後藤はそんな女子生徒たちの反発を、冷ややかに一蹴した。
『相羽、お前の父親の権力が及ぶのは、あくまで表の綺麗な法律の世界だけだ。この学校の敷地内においては、統制層の命令が絶対の規則だ。民間人は黙って大人しく家に帰れ。これ以上首を突っ込むと、お前たちの家庭の平穏すら保証できなくなるぞ』
後藤の放った圧迫感に、相羽みなみも琴音も息を呑み、言葉を失って一歩後退した。大人の用意した安全な保護壁が、今この瞬間にも完全に機能を停止していることを突きつけられていた。
多朗が覚悟を決めて一歩を踏み出そうとした時、マナが多朗の左腕にそっと手を添え、耳元で滑らかに囁いた。
『多朗くん、何も恐れる必要はありません。あなたがどのような深淵へ足を踏み入れようとも、私の存在確率と適合率は変動しません。私はいつでも、あなたの最至近距離に配置されていますから』
多朗は深く呼吸を整えて頷き、後藤の重い背中を追って教室を後にした。
激しい夕立の雨音が響く校舎を抜け、特別棟の最奥へと進む。階段を下り、普段は生徒の立ち入りが厳重に禁止されている、厚い防音扉に守られた地下の教頭室へと足を踏み込んだ。
重い鉄の扉が不快な風圧を伴って開くと、そこは窓が一つもなく、大型液晶モニターの青白い光だけが室内に充満する空間だった。
部屋の中央には、さきほど技術室で叩きのめされ、プライドを打ち砕かれたはずの二年の榊が、青ざめた顔で直立不動のまま立たされていた。その隣には、デスクの後ろで冷酷な光を放つ眼鏡を指先で押し上げる、石田教頭の姿があった。
石田教頭は、デスクの上に置かれた鮮烈な赤色のファイルを、プラスチックの定規でトントンと無機質な音を立てて叩きながら、多朗を刺すような視線で見据えた。
『よく来たな、上宮多朗。お前がさっき、技術室の共有サーバーを介して叩き出したハッキングの演算数値、および脳の処理スペックは、すでに一介の生徒として隠蔽できる枠を超えている。大国の上層部も、お前のその右手が示す挙動を極めて深刻に注視し始めた』
石田教頭はファイルをめくり、感情の失せた声で告げた。
『明日の放課後、この地下の特設シミュレーター室にて、二年との合同演習、航空管制ハックの適性審査を行う。お前を対戦相手として指名したのは、そこにいる榊だ。上宮、お前の中にある血脈が本物かどうか、明日の演習で我々に証明してもらう。もし使えぬゴミだと判断されれば、お前は即座に間引きの対象となる』
突きつけられたのは、拒絶の許されない選別であり、実戦教練の始まりだった。多朗の右手の先は、石田教頭の冷酷な宣告に反応するように、過剰な神経伝達に伴う熱を静かに帯び始めていた。




