さわや 規久子ばあちゃんの大盛りと、夜の羽音
川越街道を賑やかな声で満たしながら、俺たちは赤塚新町にある定食屋さわやの藍色の暖簾をくぐった。
学校からほど近く、街道沿いに位置するその店は、夕暮れ時の心地よい熱気と、香ばしい醤油や出汁の匂いで俺たちの胃袋を心地よく刺激してきた。使い込まれた木製の長机が並ぶ店内は、いつ来ても昭和の温かい雰囲気に満ちていて、張り詰めていた俺の頭の緊張を少しだけ和らげてくれる。
『遅いぞお前ら。俺なんかもう、から揚げの匂いだけで白米が何杯でも食えそうな状態だぜ』
奥の長机に陣取っていた剛田猛が、大きな身体を揺らして手招きした。ここは剛田の実家であり、店先にはいつもの安心感が漂っている。
『剛田くん、店に入るなり相変わらずの騒々しさね。少しは席の静寂を考えなさいよ』
相羽みなみが手元に自分のノートをしっかりと抱えたまま、眼鏡の位置を正して剛田の向かいの席へと腰を下ろした。彼女は放課後のノートの件から、ずっと俺のことを解明すべき謎のように観察し続けている。
『いいじゃないか相羽。飯のときくらいガツガツいこうぜ。ばあちゃん、俺はいつもの特盛りから揚げ定食な』
『はいはい、今日も随分と賑やかだねえ。上宮くんはいつもの大盛り納豆定食でいいかい』
厨房の奥から白い割烹着を着た規久子ばあちゃんが、丸い笑みを浮かべて顔を出した。その温かい視線が、一瞬だけ俺の右手の様子を気遣うように動いた気がしたが、すぐに優しいおばあちゃんの顔に戻った。
『うん、ばあちゃん、大盛り納豆でお願い』
『上宮くん、良い選択です。身体に良いものを食べることは、脳の働きを保つためにも大切なことですからね。今日も私が手際よくお醤油を混ぜてあげます』
俺が席に着いた瞬間、当然のようにマナが左側の席へ腰を下ろした。吸い込まれるような白い肌と落ち着いた瞳を向けながら、ごく自然な様子で俺の左腕に触れてくる。彼女の温もりは、右手に残る不気味な痺れを和らげてくれるようだった。
『ちょっとマナさん、店に入った途端にまた近くに寄って。多朗の納豆は多朗が自分で混ぜるわよ』
右側の席に着いた琴音は、落ち着いたトーンながらも、どこか諦めきれない様子で静かに注意を促した。
『これは多朗さんの状態を観察し、日常の生活を支えるための行動です。遠慮する必要はありません』
『相変わらず意味の分からない理由ね。多朗、あんたも黙っていないで、少しは自分で言いなさいよ』
『俺に言われても困るよ。みんな、大きな声を出すなよ。ばあちゃんが心配するだろ』
俺は女子二人のやり取りの間で苦笑いを浮かべ、タジタジになるしかなかった。長机の一番端の席では、九条が怪奇雑誌を胸に抱えたまま静かに座り、運ばれてきた料理を小さな一口で運んでいる。
運ばれてきた大盛り納豆定食に箸をつけ、温かいご飯とともに口へと運ぶ。一口食べるごとに、夕方に右手が感じた冷たい感覚が、静かに身体の内側から解きほぐされていくような心地がした。
『ねえ、上宮くん』
正面に座った相羽が、箸を持ったまま眼鏡の奥の瞳をまっすぐこちらに向けてきた。
『今朝のあの最後の補正数式、やっぱり考えても不思議なのよ。あなたが書き加えたあの完全解、私が何日もかけて整理できなかった空間の干渉を完璧に回避しているの。ただの工作の勘で片付けられるような内容じゃないわ。あなたがどうやってあの解に辿り着いたのか、私は論理的に納得したいの』
相羽はわずかに表情を強張らせながらも、自分の知識と疑問に向き合う真っ直ぐな瞳で俺を問い詰めてくる。
『相羽さん、多朗のご飯の時間にまで難しい理屈で問い詰めるのはやめてあげて。多朗は昔から工作が得意なだけだし、奇跡的に計算が噛み合っただけでしょ』
琴音がすかさず俺の前に立ち、落ち着いた言葉で相羽を制した。彼女は幼馴染として俺を守ろうとすることで、この学校に漂い始めた不気味な気配から、必死に日常の枠組みを守ろうとしているようだった。
みんなで温かい夕食を囲み、賑やかな会話が交わされる定食屋。誰もが普通の高校生として、穏やかな日常の時間を分かち合っているように見えた。
食事が終わり、お店の外へ出ると、夜の帳が赤塚新町の街並みを完全に包み込んでいた。
『おう、気をつけて帰れよ。また明日学校でな』
実家である『さわや』の店先に立ち、剛田が手を振って俺たちを見送ってくれた。九条も「お邪魔しました」と小さくお辞儀をすると、影のように薄い足取りで自分の自宅の方角へと静かに去っていった。
『じゃあ、私はこちらに行きますね』
川越街道の分岐点に差し掛かったところで、マナが足を止めた。ここから成増駅へ向かう俺たちと、旭町へと向かうマナとで道が分かれる。
『うん。気をつけてな、マナ』
『はい。また明日、多朗さん』
マナは小さく頭を下げると、街灯の光が届かない静かな夜道の先へと、滑らかな足取りで歩み去っていった。その姿が暗闇に溶け込むまで、俺はなんとなく見送っていた。
『ちょっと多朗、いつまで見送っているのよ。置いていっちゃうわよ』
隣を歩く琴音が、俺の制服の袖を軽く引っ張った。
地下鉄成増駅の近くで相羽とも「また明日」と言葉を交わして別れ、俺と琴音は東武東上線の成増駅へと向かった。ホームに滑り込んできた各駅停車に乗り込むと、車内は比較的空いていて、二人は並んでベンチシートに腰を下ろした。
ガタゴトと揺れる電車の窓ガラスに、自分の冴えない顔が映っている。頭の中では、放課後に部室で触れたあの試作ドローンの構造と、ヤイジ先生が持ってきた古い工具箱に触れた瞬間の冷たい痺れが、重い違和感となって残っていた。
電車が朝霞駅に滑り込み、静かに扉が開く。改札を出て駅前空間に出ると、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
駅から二人の自宅がある住宅街までは、緩やかな道をしばらく上っていくことになる。等間隔に配置された街灯が、舗装された道に白い光の輪を作っていた。
すぐ近くには、俺たちの住宅街の真横に広がる、陸上自衛隊朝霞駐屯地の巨大な敷地が存在している。いつもなら見慣れているはずの夜間照明の光が、今夜は不気味に静まり返っていて、夜空を重苦しく照らし出していた。
『ねえ、多朗』
静かな夜道を並んで歩いていると、琴音が歩幅を緩め、俺の制服の袖をそっと引いた。
『どうしたの、琴音』
『明日も、いつも通り普通の学校があるよね。後藤先生が熱血授業をして、剛田くんが賑やかに騒いで、みんなでさわやのご飯を食べに行くような、そんな当たり前の毎日が、明日もちゃんと続くわよね』
琴音は静かな声で言った。袖を握りしめる彼女の指先に、かすかな不安が滲んでいるのが伝わってきた。
『当たり前だろ。明日も普通に授業はあるし、俺が一緒登校してやるよ』
俺は努めて軽い調子を作り、彼女を安心させるための言葉を口にした。それは自分自身に言い聞かせるための言葉でもあった。だが、頭の奥では、夕方に九条が放った不穏な呟きが、静かな刺となって残ったままだ。
(駐屯地が夜中に少しだけ騒がしくなる。鉄の小隊が空を飛ぶ準備を始める)
『うん。多朗がそう言うなら、安心したわ』
琴音は小さく頷き、うっすらと笑みを浮かべた。二人は隣り合ったそれぞれの家の門扉の前へと辿り着き、「また明日」と言葉を交わしてそれぞれの自宅へと入っていった。
深夜。自室のベッドに横たわった俺は、静まり返った部屋の中で天井を見つめていた。
時計の針は午前二時を回ろうとしている。リビングの方からは、市ヶ谷での緊急対応から戻ってきた一馬兄ちゃんと悠人兄ちゃんが、深夜にもかかわらず足音を殺して動き回る気配が届いていた。
その瞬間だった。
耳の奥を、低い駆動音が静かに貫いていった。
ズズズ、という、地面を直接かすかに震わせるような微小な振動。気のせいではない。俺の研ぎ澄まされた直感が、すぐ近くの朝霞駐屯地の敷地内から沸き起こっている異常な気配を、明確に捉えていた。普段の夜間訓練のヘリコプターの音とは明らかに異なる、無機質で静かな機械の回転音だ。
俺はたまらずベッドから起き上がり、窓のカーテンを静かに開けて外を見上げた。
住宅街の真横に広がる駐屯地の上空。暗闇に紛れるようにして、無数の冷たい影が、驚くべき静粛性を保ちながら、整然とした群れをなして静かに旋回していた。その形状は、放課後に部室の作業台の上で、俺の右手が調整を施したあの新型ドローンのシルエットと重なっていた。
九条の言葉通り、最初の小隊が動き出したのだ。
『境界線の数値に乱れが生じている。今夜の動きは想定より早いな』
ドアの隙間から、リビングにいる長男の一馬兄ちゃんの、低く冷徹な声が漏れ聞こえてきた。
『市ヶ谷からのデータ同期が追いついていない。このまま影響が広がれば、この地域の日常を維持するのも容易ではないぞ』
次男の悠人兄ちゃんも、いつもの滑らかさを欠いた、緊張の混ざった声で言葉を交わしている。
俺は自室の窓枠を静かに掴み、冷や汗を拭った。
一馬兄ちゃんや悠人兄ちゃんが関わっている触れてはならない領域。そして、九条が呟いていた言葉。それらはすべて、俺の右手に残る冷たい痺れを通して、この静かな朝霞の夜の真下で、一つの現実として繋がり始めていた。
窓の外で旋回を続ける静かな翼の音を聞きながら、俺はこれから訪れるであろう激変の足音を、一人で深く噛み締め続けていた。




