早朝のクマと、作られた公式発表
一睡もできないまま迎えた朝の空気は、重く湿っていた。
まぶたの裏側に焼き付いた、あの深夜の朝霞駐屯地上空を静かに旋回していた黒い影の群れ。そして、自室のドア越しに聞こえてきた一馬兄ちゃんと悠人兄ちゃんの、焦燥を孕んだ低い密談の声。それらが頭の中で何度も繰り返し再生され、俺の神経を少しずつ削り取っていく。鏡で見た自分の顔には、驚くほど濃いクマが刻まれていた。
『ちょっと、多朗。あんたその顔、一体どうしたのよ』
いつもの住宅街の緩やかな坂道で合流した御統琴音は、俺の顔を見るなり、驚いたように足を止めた。彼女の声をいつもの小言だと思って受け流そうとしたが、琴音の瞳もまた、微かに赤く充血しているのを俺は見逃さなかった。
『いや、ちょっと夜中に目が冴えちゃってさ。琴音こそ、なんだか眠そうな顔をしているじゃないか』
『眠れるわけないじゃない。あんたも気づかなかったの。私たちの家のすぐ近くにある、あの駐屯地のほうからさ、夜中に不気味な音が響いていたのよ』
琴音は制服のカバンを胸元で抱え、小さな声で言った。彼女の指先は、木々の向こうに広がる自衛隊の敷地を指差している。
『いつものヘリコプターの音なら聞き慣れているわよ。でも、昨日の夜中のは全然違った。地面の下から直接響いてくるような、冷たい機械が回っているような重低音。怖くて朝まで眠れなかったんだから』
琴音は俺の制服の袖をそっと掴み、不安そうな視線を向けてきた。いつもは強気な幼馴染が、見知らぬ異常に対して確かな恐怖を感じている。俺は胸の奥を強く締め付けられるような感覚を覚えながらも、努めて平然とした顔を作った。
『気のせいだよ、琴音。きっと、大型のトラックか何かが資材でも運んでいたんじゃないか。ほら、そんな顔をしてたら後藤先生に遅刻証明書を突きつけられるぞ。早く行こう』
『もう、多朗は能天気なんだから。人が本気で気にしているのに』
琴音は息をついて手を放すと、いつもの歩幅を取り戻して歩き始めた。だけど、その背中に微かな強張りが残っているのを、俺は静かに感じ取っていた。
東武東上線の電車に揺られ、成増駅から坂道を上って都立成増航空高校の教室へと入る。教室内は、一限目のチャイム前の賑やかな雑音で満ちていた。
『あら、上宮くん。ずいぶんと酷い顔をしているじゃない』
自分の席についた瞬間、左斜め前の席から相羽みなみが教科書を手に、眼鏡の奥の瞳を光らせてこちらを振り返った。
『あはは、相羽。おはよう。ちょっと昨日の夜、寝付けなくてさ』
『どうだか。今朝の私の質問から逃げるために、一晩中くだらない言い訳でも考えていたんじゃないの。あなたの体調が低下していないか、私は観察者として気になっているんだからね』
相羽はツンとした口調で言い放ったが、その瞳は俺の表情を細部まで確かめていた。疑問を追及しようとする姿勢の裏に、不器用な気遣いが混ざっているのが分かる。
『心配してくれてありがとうな、相羽』
『別に心配なんてしていないわよ。単なる事実の確認よ』
相羽が顔をそらしたその瞬間、ガラガラと椅子の脚を引きずる音が響き、左側の席に自然な動作でマナが腰を下ろした。
彼女は澄んだ瞳で俺の顔を見つめると、周りに聞こえないほどの小さな声で、そっと囁いてきた。
『昨日の夜、多朗さんのご自宅の近くが少しだけ賑やかでしたね。でも、安心してください。多朗さんの右手が組み上げたあの立体回路のおかげで、最初の配置はとても綺麗に整いましたから』
マナの言葉に、俺の背筋が冷たく冷やされた。
彼女は知っているのだ。昨夜、朝霞駐屯地の上空を舞ったあの影の正体を。そして、それが俺の右手の動きと重なっていたという現実を。マナは穏やかな表情を浮かべたまま、静かに俺の左側に寄り添っていた。
『ちょっとマナさん、朝から多朗に何をこそこそ話しているのよ』
真前の席から振り向いた琴音が注意を促したその瞬間、右前の席で剛田猛がスマートフォンを片手に声を上げた。
『おい、お前ら、これ見ろよ。昨日の夜中の音の正体、ニュースに出てるぞ。朝霞駐屯地で新型輸送ヘリの夜間テスト演習があったんだってさ。最新の消音ローターの試験だから、普段とは違う重低音が響いたらしいぜ』
剛田の言葉に、周りの男子生徒たちが口々に頷き、教室内の緊張感は一瞬で日常の雑談へと溶けていった。琴音もそのニュースを聞いて、胸を撫で下ろすように息を吐いた。
キーンコーンカーンコーン。
朝のホームルームを告げるチャイムが響き、前壇の扉が開いた。入ってきたのは、担任の後藤和明先生だった。彼はがっしりとした体躯を揺らして教壇に立つと、手元にあった新品のチョークを指先で握り、バキッと音を立ててそれを半分に折った。
『席につけ。朝から剛田のデカい声が廊下まで響いているぞ。何が新型ヘリの演習だ、くだらん』
後藤先生は折れたチョークの破片を教卓に置くと、生徒たちを鋭い眼光で見据えながら、雑に一蹴した。
『いいか、お前たちは夜中はおとなしく寝ていろ。ただの定期的な演習だ。そんなことに気を取られている暇があったら、一限目の応用数学の数式を一つでも多く頭に叩き込め。お前たちの学校生活には一ミリも関係のない話だ』
後藤先生の豪快な言葉に、クラスの連中は苦笑いを浮かべ、普通の先生の叱責として受け入れていた。
しかし、俺の頭脳は全く違う違和感を捉えていた。
後藤先生の今の言葉。そのあまりにも自然で、完璧すぎる一蹴の仕方。それは昨夜、自宅の食卓で一馬兄ちゃんと悠人兄ちゃんが俺の疑問を打ち消すために並べ立てた言葉の運びと、全く同じ手口だった。
先生は、ただの頑固な大人として俺たちを叱っているのではない。
兄たちが俺を真実から遠ざけるために作っている防衛線と同じように、この学校の大人たちもまた、俺たち一年生を何も知らない生徒という枠組みの中に留めるため、完璧な説明を用意しているのだ。
俺は背中に冷たいものを感じながら、教壇で黒板に向かい直す後藤先生の背中を見つめることしかできなかった。
ホームルームが終わり、教師が教室を出て行った直後だった。
窓際の席から歩き出した四條蓮が、俺の机の横を通り過ぎる瞬間、手元の手帳をポケットに仕舞い込みながら、俺にだけ聞こえる低い声で囁いた。
『朝霞のノイズは、綺麗にヘリのニュースで処理されたな。この街を管理している統制層の手際は見事だよ。上宮、お前はいつまで、大人たちが用意してくれた綺麗な説明の中にいるつもりだ』
四條の言葉が、耳の奥に冷たく残る。
誰もが普通の高校生として、他愛のない会話を交わしているこの教室。しかし、俺の右手のひらは、皮膚の裏側で静かな痺れを伴って脈打っていた。日常という名の防衛線に小さな亀裂が入っていくのを、俺は一人で静かに感じ取っていた。




