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都立 成増航空高等学校  作者: 秋津ネオ


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青いノイズと、観察者の視線

 

 山口先生からの届け物だという古い鉄製の工具箱に、俺の右手の指先が触れた瞬間、周囲の雑音がすうっと遠のいていくような錯覚に陥った。


 皮膚の裏側に居座り続けていた冷たい痺れが、猛烈な勢いで工具箱の鉄の分子へと流れ込み、同時に未知のデータのような冷たい熱が腕を伝って脳へと逆流してきた。俺の右手は、工具箱の表面に吸い付いたかのように固定され、指一本すら動かすことができなくなった。


 『ちょっと、多朗。何よこれ、この工具箱、変な光が走っているじゃない』


 すぐ横にいた御統琴音が、驚きを孕んだ声で俺の顔を覗き込んできた。


 彼女の言う通りだった。ヤイジ先生が置いていった古びた鉄の箱の、錆びついた接合部の隙間から、液晶画面のノイズのような微弱な青白い光のラインがパチパチと細かく走り始めていた。まるで、俺の右手の駆動を鍵として、内部に隠されていた電子回路が起動したかのような不気味な明滅だった。


 『素晴らしいわ、上宮くん。やっぱり私の目に狂いはなかったわね』


 パーテーションの影から進み出てきた鳴海先輩は、手元の端末を操作しながら、息をのむような集中力で俺の手元を観察していた。


 『先輩、これ、一体何なんですか。手が離れないんです』


 『私にも全容は分からないわ。でも、測定データが示しているの。この古い鉄の塊が放っている特殊な周波数、校舎の地下の奥にある、開かずの区画から漏れ出している波形と完全に一致しているわ。上宮くん、あなたのその右手の駆動、物質的なロックを内側から解除するキーの役割を果たしているんじゃないかしら』


 鳴海先輩は白衣のポケットに手を突っ込み、眼光を鋭くさせて手元を凝視している。


 『先輩、そんな不吉な分析はいいから、多朗の手を離す方法を考えてよ。多朗、顔色が悪いわよ』


 琴音が落ち着いたトーンながらも強い懸念を込めて、俺の肩に手を添えてくれた。しかし、俺の手は強固な磁石で溶接されたかのように、冷たい鉄の表面から一ミリも剥がれなかった。


 『大丈夫ですよ、琴音さん。多朗さんの同期はとても円滑に行われています。不完全な制御システムを、多朗さんの右手が上書きしている最中ですからね』


 俺の左側に自然に並んだマナが、どこまでも淡々とした、しかし絶対的な確信を込めて言った。吸い込まれるような白い肌と澄んだ瞳を向け、迷いなく俺の左腕に寄り添ってくる。彼女が触れている左腕からは、不思議と温かい感覚が流れ込んできて、右手の激しい熱を抑え込んでくれていた。


 『上書きって何のことよ。マナさん、さっきから多朗の異常事態を分かったような顔で見ないでくれるかしら。それに、作業の邪魔だから多朗の腕から離れなさい』


 『離れません。多朗さんの状態を近くでサポートすることは、私の優先事項に含まれています。琴音さんこそ、多朗さんの集中を乱すような声をかけないでください』


 琴音とマナの間で、静かながらも譲らない視線の交差が生まれた。女子二人の緊張感が漂う中、カチリと工具箱の内側で何かが噛み合わさるような金属音が響いた。


 同時に、俺の右手を縛り付けていた凄まじい吸着力が嘘のように消え去り、俺の身体は後ろへとわずかに引き戻された。


 『っと、危ない』


 俺は冷や汗を拭いながら自分の右手を見つめた。指先はまだ細かく震えていたが、工具箱の青白い明滅は静かに収まり、元の古びた鉄の質感へと戻っていた。


 『やはり、ここに高エネルギーの異常波形が集束したか。お前たちの動向は本当に予測がしやすいな』


 不意に、部室の入り口の引き戸の影から、感情の抑えられた低い声が響いた。


 全員が視線を向けると、そこには同じクラスの四條蓮が立っていた。彼はブレザーのポケットに片手を突っ込み、もう片方の手でシャープペンシルを指先でスマートに回転させながら、冷めた目で俺たちを捉えていた。


 『四條。お前、いつからそこにいたんだよ』


 俺が呼吸を整えながら尋ねると、四條は眼鏡の位置を指先で直しつつ、淡々とした足取りで作業台へと近づいてきた。


 『最初からだよ、上宮。ヤイジがここへ向かうのを見て、何か面白いデータが取れると思ってね。今朝の相羽のノートの件といい、さっきの工具箱の明滅といい、お前の周辺の数値はいよいよ一般クラスの枠組みを逸脱し始めている。お前、自分がこの学校の防衛線の数値を書き換えている自覚はあるのか』


 四條の冷徹な問いかけに、琴音が静かに一歩前に出た。


 『四條くん、多朗を不気味な実験対象みたいに言うのはやめてくれる。多朗はただの工作好きな、普通の高校生なんだから』


 『普通の高校生は、複雑な立体回路を幾何学的に最適化したり、開かずの区画の鍵を開けたりはしないさ、御統。だが、まあいい。今日のところは私の手帳にこの数値を記録しておくだけに留めておくよ。上の人たちにこのデータが同期される前にね』


 四條は静かにそう呟くと、手帳をポケットに収めた。


 『上宮くん、その工具箱は部室で預かっておくわ。うちの技術班の設備を使って、内部の構造を徹底的に解析してみる。だから安心して下校しなさい』


 鳴海先輩が冷静な手つきで工具箱を引き取り、パーテーションの奥へと運んでいった。先輩の技術的追及のおかげで、ひとまずその場の混乱は収まったが、胸の奥のざわめきは少しも消えなかった。


 校舎の時計を見ると、すでに完全下校時間を迎えていた。俺たちは片付けを終え、特別棟を後にして、剛田猛が待っているという定食屋さわやへと向かうことにした。


 夕暮れの光が成増の街並みを赤く染め上げる中、地下鉄成増駅から川越街道沿いの歩道を歩いていると、前方の街灯の影から、短い髪を揺らした相羽みなみがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。


 『あ、上宮くん。ちょうど良かったわ。昼休みの続きをさせてもらうからね』


 相羽は手元に自分のノートをしっかりと抱え、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせて俺の前に立ち塞がった。


 『相羽、まだノートの補正計算の件を気にしているのかよ』


 『当たり前じゃない。あなたが余白に書き加えたあの完全解、私の論理的な思考の限界を完全に超えているのよ。どうしてあなたがそんな演算を行えたのか、その頭脳の仕組みも含めて、私に徹底的に説明する義務があるわ』


 相羽はわずかに頬を染めながらも、理理直面した疑問を解き明かそうとする頑なな口調で俺を問い詰めてくる。


 『相羽さん、放課後まで多朗を待ち伏せして問い詰めるのはやめてあげて。多朗はこれから私達と一緒にさわやのご飯を食べるんだから、邪魔しないで』


 琴音がすかさず俺の前に立ち、相羽と向き合う。


 『別に待ち伏せなんてしていないわよ。私はただ、科学的な真実を追究しているだけだし、上宮くんの行動についてあなたに制約される筋合いはないわ』


 『私は多朗さんの隣の位置を維持していますから、相羽さんの割り込みは不可能です。多朗さんの右腕への接触感も、私の数値が最も適しています』


 マナが俺の左腕にそっと触れながら、落ち着いた声で言った。琴音と相羽、そしてマナの三人がそれぞれの立ち位置で言葉を交わし、夕暮れの川越街道沿いに小さな緊張感が生まれた。俺は三人の間でタジタジになりながら、苦笑いを浮かべて歩くしかなかった。


 誰もが普通の高校生として、他愛のない賑やかな放課後を過ごしているように見えた。


 しかし、俺たちの数歩後ろを、怪奇雑誌を胸に抱えたまま影のように薄い足取りで歩いていた九条が、ふと足を止めた。


 彼女は焦点の合わない不思議な瞳を、真っ赤に燃え上がる西の空へと向けた。その抑揚のない低い声が、街道の雑音の中に静かに混ざり合う。


 『お天道さまが、今夜、最初のドローンたちのエンジンに火を入れるよ。多朗の家のすぐ近くにある、あの大きな駐屯地が、夜中に少しだけ騒がしくなる。冷たい鉄の小隊が、空を飛ぶための準備を始めちゃうの』


 九条のその唐突で不穏な呟きに、俺の胸の奥が冷たく締め付けられた。


 日常の皮を被った学校生活の裏側で、確実に何かが動き出している。俺は自分の右手のひらに残る、あの工具箱と共鳴した冷たい痺れを握り締めながら、忍び寄る激変の足音を静かに感じていた。


 


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