一限目の視線と、マナのおばんざい
一限目の応用数学の時間は、俺にとって肉体的にも精神的にも過酷な試練の場となった。
教壇に立つ後藤和明先生は、黒板が悲鳴を上げるほどの猛烈な速度で流体力学の複雑な補正数式を書き殴っている。チョークが激しく擦れる音が静かな教室に響き渡り、白い粉が容赦なく教卓の周囲に舞い散る。いつも通りの熱血全開な講義だが、今日の俺は別の圧力に押し潰されそうになっていた。
斜め前の席から、突き刺さるような強烈な視線を感じる。
声こそ出さないものの、左斜め前の席に座る相羽みなみが完全に上半身をこちら側へとひねり、眼鏡の奥の鋭い瞳で俺の顔を凝視し続けていた。手元の教科書は開いたまま放置されており、彼女のペンは一文字も進んでいない。今朝、彼女が何日もかけて解けなかった空間演算の完全解を、俺がノートの余白にあっさりと書き加えて返した件が、天才才女のプライドと頭脳を激しく掻き乱しているのは明白だった。
そのレーザービームのような視線があまりにも痛すぎて、俺は黒板と自分のノートの間で何度も視線を泳がせる。
気がつくと、俺の無自覚な右手は、後藤先生が黒板に次の式を書くよりも早く、最適化された計算結果を自動的にペン先から弾き出していた。止めたいのに勝手に指が動く。その異常な光景を、相羽の瞳は一瞬たりとも見逃さなかった。彼女の呼吸がわずかに乱れるのが、通路を挟んだこちらの席まで伝わってくる。
『ちょっと、多朗』
真前の席から、振り向いた御統琴音の静かな低音の声が届いた。彼女は自分の筆箱を机の上でトントンと軽く叩き、落ち着いたトーンで話しかけてくる。
『あんた、さっきから相羽さんと何を目で会話しているわけ。授業中に視線を交わし合って、ずいぶん集中しているじゃない』
『違うって、琴音。俺は何もしてないよ。ただ視線が飛んでくるだけでさ』
『言い訳は見苦しいわよ。相羽さんのあの顔、完全に普通のクラスメイトを見る目じゃないわ。あんた、私の知らないところで何をしたのよ』
琴音の冷静ながらも鋭く追及する声に、俺は冷や汗を流しながら前を向き直るしかなかった。
さらに教室の窓際の席では、皇室関係者であり観察者の四條蓮が、シャープペンシルを指先でスマートに回転させながら、俺と相羽、そして琴音の反応を冷徹な目で見つめていた。彼の革表紙の手帳には、俺たちの視線の交差や、俺の右手が滑らせた演算速度の数値が淡々と書き込まれている。
そんな針のむしろのような授業時間がようやく終わり、四限目のチャイムが鳴り響いた。昼休みを告げる賑やかな雑音が教室を満たした瞬間、俺は大きく息を吐いて椅子の背もたれに体を預けた。
『よっしゃあ、昼飯だ、昼飯。多朗、相羽、さっさと机をくっつけようぜ』
右前の席から、大柄で豪快な剛田猛が勢いよく振り返った。その手には、朝のうちに確保していたという、実家の『さわや』の特大カツサンドが重そうに握られている。
剛田の呑気な声に合わせるように、相羽が手元に自分のノートをしっかりと抱えたまま、俺の席へと歩み寄ってきた。眼鏡の位置を正す彼女の表情は、疑問を追及する研究者そのものだった。
『上宮くん。今度こそ、さっきの数式の種明かしをしてもらうわよ。あなたがどうやってあの高度な補正係数を導き出したのか、私の論理が納得するまで徹底的に説明してもらうから』
『あはは、相羽、だから本当にただの勘というか、ジャンク部品を弄っているときの延長線なんだってば』
俺が困り顔で頭を掻いていると、ガラガラと椅子の脚を引きずる高い音が響いた。
『お待たせしました、多朗さん。今日のランチタイムも、私は多朗さんの隣を完璧に死守します』
いつの間にか自分の丸椅子を両手で抱えて持ってきたマナが、当然のような顔をして俺の左側に滑り込んできた。彼女は長い髪を揺らし、吸い込まれるような白い肌と透明感のある瞳を俺に向けながら、迷いなく左腕に寄り添ってくる。
マナは楽しそうに微笑みながら、俺の机の端に古風な紺色の布で包まれた小包を置いた。結び目を解いて現れたのは、二段重ねの小さくて渋い漆塗りの弁当箱だ。蓋を開けると、ふわりと上品で香ばしい出汁の香りが広がった。
『へえ、マナさん、今日もその京都の香りがするお弁当なの。成増の駅前じゃ絶対に見かけない料理よね』
相羽が鋭い目をマナの弁当箱へと向けた。上段には海苔が綺麗に巻かれた小ぶりの塩むすび、下段には万願寺唐唐辛子とお雑魚の炊いたん、すぐきや柴漬け、茄子のオランダ煮が美しく敷き詰められている。
『はい。私の住んでいる旭町の近所の方が、毎朝心を込めて持たせてくれるのです。とても温かくて美味しいですよ』
マナは細い箸を上品に動かし、炊いたんを口に運んだ。相羽は少しだけ眉をひそめながら、お弁当の中身を観察するように覗き込んだ。
『旭町って古い住宅街でしょ。駅前のスーパーにもそんな珍しい京野菜なんて売っていないわよ。一体どこで手に入れたのよ。それに、毎日そんな手の込んだおばんざいをマナさんに持たせるなんて、その近所の人って何者なの。上宮くんの毎朝の納豆大量摂取といい、マナさんのこの伝統食といい、この席の周りだけやたらと健康管理が行き届きすぎていて、なんだか変な意図を感じるわね』
相羽の鋭い観察眼から純粋な不審点が飛び出す中、真前の席から立ち上がった琴音が歩み寄ってきた。
『相羽さん、あまり多朗を追い詰めないであげて。ノートの計算が気になるのはわかるけれど、多朗本人も無意識でやっているみたいだし。それとマナさん、公道だけじゃなくて教室でもあまり多朗にくっつかないでくれるかしら。多朗がご飯を食べにくそうにしているわ』
琴音は落ち着いたトーンながらも、明確な線を引くようにマナと多朗の間に入り込んで注意を促した。
『これは多朗さんの生体データの計測です。好物の大盛り納豆定食を食べられない日は、私がこうしてお弁当の栄養と体温を間接的に共有する必要があるのです』
『共有って何よ。相変わらず意味が分からない理由ね。多朗、あんたも言われっぱなしになっていないで、何か言いなさいよ』
『俺に言われても困るよ。みんな、大きな声を出すなよ。他のクラスの奴らが見てるだろ』
俺は女子たちの間でタジタジになり、苦笑いを浮かべるしかなかった。剛田がカツサンドを大口で噛み締めながら、美味すぎる、と満足そうに笑っている。
『がはは。相羽も琴音も、昼飯のときくらい仲良くやれよ。多朗の体が丈夫なのは毎朝の納豆のおかげなんだからさ』
剛田の呑気なツッコミに、相羽はふんと息を漏らして顔を背けたが、その耳の付け根がまだほんのりと赤くなっているのを、俺の直感は見逃さなかった。彼女は俺が裏表のない言葉でお礼を言ったあの瞬間から、どこか俺のことを意識し始めている。
そんな賑やかなランチタイムの最中。
クラスの最果て、古い工具棚の影に置かれた席で、一人の少女が静かに怪奇雑誌を閉じた。1年A組のクラスメイト、九条だ。
彼女は焦点の合わない不思議な瞳をゆっくりと動かし、俺たちの賑やかな食卓をじっと見つめていた。その抑揚のない、地面に染み込むような低い声が、静かに教室の片隅から響く。
『お天道さまの大きな網の目が、みんなのトゲトゲした温かさで、少しだけ緩んでいる。タイムラインの細い糸が、今だけは真っ赤に燃えずに繋がっているね』
九条の言葉に、琴音が小さく肩を揺らして振り返った。
『ちょっと九条さん、また不思議なことを言わないでよ』
九条は琴音の問いかけに直接答えることなく、天井の一点を見つめたまま、ぽつりと不穏な呟きを付け足した。
『でも、急がないと。冷たい鉄の塊が空を覆う日が、すぐそこまで来ているの。みんなで光の中を飛ぶ日が、もう間近に迫っているのよ』
九条が地面に染み込むような声で呟き終えると、教室の空気は一瞬だけ、物理的に冷やされたように静まり返った。
誰もが首をかしげる電波な呟き。だけど、俺は自分の右手のひらに残る、あの冷たい痺れを強く握りしめた。俺の覚醒しかけた直感は、その言葉の裏にある確実な現実の足音が、すぐ目の前まで迫っていることを確かに察知していた。
初夏の眩しい光が差し込む教室の中で、俺たちの瑞々しい日常の皮は、今にも内側から静かに弾け飛ばんばかりの緊張感を孕んでいた。




