朝の通学路と、書き換えられたノート
六月の湿った朝の空気が、制服の薄い生地を通して肌にまとわりついてくる。
朝霞の自宅を出て、成増へと向かう東武東上線の車内から下車し、校門へ続く道へと向かう。せわしなくローファーの音を響かせながら歩く御統琴音は、ふと立ち止まって俺の顔を覗き込んできた。
『ちょっと多朗、歩くのが遅いわよ。心ここにあらずって顔だけど、昨日の夕食のメニューでも考えているわけ』
『いや、そんなことないよ。ちゃんと歩いてるって。琴音こそ、朝から随分とシャキシャキ歩くなあと思ってさ』
俺は苦笑いを浮かべながら、通学カバンの紐を握り直した。昨夜、一馬兄ちゃんと悠人兄ちゃんが食卓で見せた、あの一瞬の不自然な静止。そして、何事もなかったかのように俺の違和感をはぐらかした、あの滑らかな正論の数々。胸の奥に冷たく居座る不気味な感触は、一夜明けても消えてはくれない。だけど、隣でポニーテールを静かに揺らして歩く琴音の落ち着いた声を聞いていると、すべては俺の考えすぎだったのではないかという錯覚すら覚えてしまう。
『あんたがそうやって眉の間にシワを寄せているときは、大抵ろくでもないメカの改造計算をしているか、兄さんたちへの献立で悩んでいるときなんだから』
『どっちも外れだよ。ただ、琴音は朝から相変わらずしっかりしてるなと思ってさ』
『しっかりしないと、あの長い通学路を歩ききれないでしょう。ほら、遅刻するわよ。早く行きましょう』
琴音は軽く息をついて歩幅を合わせた。言葉ではいつも通り落ち着いて振る舞っている彼女の横顔を見ながら、俺たちは並んで坂道を上っていく。
地下鉄成増駅の出口から光が丘公園の横を通り抜け、校門へと続く並木道に差し掛かったところで、背後から音もなく滑らかな気配が近づいてきた。
気がつくと、転校生のマナが当然のように左隣に並び、俺の腕に触れていた。彼女は大きな瞳を瞬かせながら俺の顔を見つめると、琴音の視線に気づき、静かに優先権を主張するように寄り添ってきた。
『おはようございます、多朗さん。今日も一番近くで観察させていただきますね』
『うわ、マナ。朝から急にくっつくなよ。みんな見ているから少し離れろって』
『嫌です。多朗さんの体温と生体反応を近くで感知することが、私の朝の最優先事項に設定されていますから』
『設定ってなんだよ。相変わらず極端だな、お前は』
すぐ右側から、琴音の深く静かな溜息が聞こえてきた。
『マナさん。公道でベタベタくっつかないでくれるかしら。見ていて暑苦しいし、多朗も困っているでしょう』
顔色ひとつ変えずに俺の左腕をキープし続けるマナと、落ち着いたトーンながらも絶対に引かない視線を送る琴音。二人の板挟みになりながら、俺は困惑の苦笑いを浮かべて校門をくぐるしかなかった。
なんとか一年生の教室に滑り込むと、そこにはいつも通りの騒がしい日常の雑音が満ちていた。まだ一限目のチャイムは鳴っておらず、男子生徒たちのくだらない笑い声が響いている。
『よぉ多朗。お前、今朝も実家のカツサンド争奪戦、不参加だったろ。俺なんか命がけでばあちゃんから一本分もぎ取ってきたぜ』
前の席から、大柄で豪快な剛田猛が机をガタつかせて振り返った。手にはずっしりと重そうな特大のカツサンドが握られている。剛田の実家は赤塚新町にある定食屋さわやで、店を切り盛りしている規久子ばあちゃんがつくる料理はどれも山盛りで絶品だ。
『剛田、朝からそんな油っこい肉の塊を机に置かないでよ。匂いがこっちまで来るじゃない』
通路を挟んだ隣の席から、相羽みなみが冷ややかな視線を剛田の手に向けた。いつも通り、眼鏡の奥の瞳でクラスの男たちをばっさりと切り捨てるスタイルだ。
『なんだよ相羽、さわやのカツサンドは男のロマンだぞ。多朗だってそう思うだろ』
『いや、俺は朝からその量は無理かな。それより相羽、これ、昨日借りたノート。ありがとうな。計算がすごくきれいに整理されていて、見てるだけで勉強になったよ』
俺がカバンから丁寧に取り出したノートを差し出すと、相羽のペンの動きがピタリと止まった。彼女は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの涼しい表情に戻り、眼鏡の位置を指先で直しつつノートを受け取った。
『え、あ、うん。別に大したこと書いてないし。ただの空間計算のメモだから、上宮くんに理解できたかどうかは怪しいと思うけど』
ぶっきらぼうに返す相羽の言葉はいつも通りツンとしていた。だけど、ふいと俺からそらした彼女の視線は少し泳いでいて、耳の付け根がかすかに赤くなっている。
『上宮くん、相羽さんの生体データに興味深い反応が出ているようですね』
隣の席で、マナが顎に手を当てて、静かに楽しそうな笑みを浮かべていた。
『マナ、余計な観察をするなって。それより相羽、ノートの最後のページにあったあの補正数式だけどさ』
俺が何気なく口にした言葉に、前を向いていた相羽の背中がびくりと跳ね上がった。
『え、何のこと』
『ほら、マトリックス展開の隅に小さく書かれていた、ドローンの姿勢制御のための座標補正式だよ。あそこ、変数が干渉し合って計算が複雑になりかけていただろ。だから俺、昨夜の自習中に勝手に手元で検算して、最適化した数値をノートの端の余白に鉛筆で書き加えておいたんだ。もし良かったら確認してみてくれよ』
相羽は慌てて受け取ったばかりのノートを開き、最後のページを血相を変えてめくった。そこには、俺の右手が無自覚のまま滑らせた、極めて緻密で無駄のない修正数式が並んでいる。
『これ、上宮くんが書いたの』
相羽の声は、先ほどまでの照れ隠しのトーンとは完全に異なっていた。驚愕と、信じられないものを見るような戦慄が混ざった鋭い声だ。
『うん。なんか、見てたら勝手に頭の中に答えのパターンが浮かんできてさ。部室でジャンクパーツを直しているときと同じ感覚というか。間違っていたらごめんな』
『間違ってるわけないじゃない。これ、私が何日もかけて解けなかった、空間の歪みを補正するための高度な演算式の完全解よ。どうして専門の教育を受けていないはずのあなたが、一晩でこんな数式を組み立てられるの』
相羽は眼鏡の奥の瞳を限界まで見開き、俺を凝視した。いつもは冷徹に周囲を観察している彼女が、完全に余裕を失って取り乱している。
『そこまでにしな!』
遮るように冷たい声が響いたのは、窓際の席からだった。
皇室関係者であり、この教室の観察者である四條蓮が、シャープペンシルをスマートに指先で回しながら、凍りつくような冷めた目で俺たちを見つめていた。その手元にある革表紙の手帳には、多朗の異常な演算速度と同期率についてのデータが、すでに静かに書き込まれている。
『上宮のその右手の感覚は、今に始まったことじゃないだろう、相羽。無駄な追及で教室のノイズを大きくするな。もうすぐ一限目のチャイムが鳴る』
四條の冷徹な言葉に、相羽はハッと我に返ったように手を引き、悔しそうに唇を噛んでノートを強く閉じた。
『多朗さん、あなたの脳の演算速度、いよいよ同期率が上がってきましたね』
隣の席で、マナだけがいつものように穏やかな笑みを浮かべ、俺の制服の裾をそっと握りしめていた。
キーンコーンカーンコーン。
一限目の始まりを告げる重々しいチャイムが学校中に鳴り響く。同時に、廊下の向こうから、数学教師の後藤和明の、地響きのようなガサツな足音が近づいてくるのが聞こえた。
誰もが普通の高校生として、他愛のない会話を楽しんでいるこの教室。だけど、俺は自分の右手のひらをそっと机の下で握りしめた。皮膚の裏側で、あの数式を弾き出したときの冷たい痺れが、かつてないほど激しく疼いている。
日常という名の防衛線のすぐ裏側で、確実に世界の歯車が回り始めている。迫り来る激変の足音を、俺はただ一人、この賑やかな座席の中で静かに噛み締めていた。




