帰路の静寂と、兄たちの防衛線
成増駅から準急電車に揺られ、わずか数駅。東武東上線の朝霞駅に降り立った上宮多朗は、すっかり夜の帳が下りた街路を一人、自宅へと向かって歩いていた。
ふと視線を上げると、武蔵野の広大な敷地に広がる陸上自衛隊朝霞駐屯地の夜間照明が、遠くの夜空を白く不気味に染め上げている。首都圏防衛の要と呼ばれる巨大な基地の気配は、幼い頃から多朗にとって空気のように当たり前の風景だった。
歩きながら多朗の脳裏を過っていたのは、放課後の帰り道に立ち寄ったコメダ珈琲店での出来事だった。そこで転校生のマナから『『その直感を信じた方がいい』』と言われた言葉が、耳の奥に心地よい重みを持って残っている。そして、今日の歴史の授業で森先生が語っていた、テレビやメディアを通じた都合のいい思考の誘導やコントロールについての不気味な講義の内容だった。
多朗自身は生まれてから一度も海外へ出たことがなく、パスポートすら持っていない。だが、父親はかつて自衛隊から駐在武官として単身ロンドンへ派遣され、NATO各国との交流や情報共有、日英の防衛協力という、国際政治と国防の最前線に身を置く立場だった。六十代になった現在は退官し、ロンドンを拠点とする軍事リサーチ専門財団の理事に就任して地球規模で多忙な日々を送っている。当然、今も日本にはおらず、この朝霞の家を留守にしていた。
『ただいま』
重い玄関の扉を開けると、家の中はしんと静まり返り、濃密な暗闇が広がっていた。それが上宮家のいつもの平日の光景だった。
二十歳の三男である海斗は、神奈川県横須賀市にある防衛大学校の完全な全寮制生活を送っており、平日の夜にこの家にいるはずがない。三十代半ばの長男の一馬は市ヶ谷の防衛省情報本部でインテリジェンスの最前線に立ち、毎日のように深夜まで情報戦に追われ、翌朝には出勤していく超激務の身だ。二十代半ばの次男の悠人も同様で、東大大学院の大学院生として深夜まで研究室に籠もり、国際政治と情報工学の相関という国の根幹に関わる研究に没頭していた。
そんな限界まで神経をすり減らして帰ってくる兄たちのために、毎日夕飯を作って待つことこそが、高校一年生である多朗のこの家での大切な役割だった。
多朗はリビングの明かりを点けると、手慣れた様子で制服の上着を脱ぎ、キッチンへと向かった。
多朗自身は大の納豆好きで、自分の夜食には納豆ご飯さえあれば十分だったが、深夜に帰ってくる兄たちのために、温め直せばすぐにガッツリと食べられる豪快な男飯を用意する。手際よく大ぶりの豚肉を切り、タマネギとともに甘辛いタレで炒め合わせる。香ばしい醤油と生姜の香りが、誰もいない広いキッチンに広がっていく。
トントンと小気味よく包丁がまな板を叩く音だけが、静まり返った一軒家に響く。コメダでマナに直感を肯定されたばかりの多朗の感覚は、この相手のない静寂の中で、まるで研ぎ澄まされた刃物のように冴え渡っていくのを感じていた。
日付が変わる頃、ようやく玄関の鍵が静かに回る音がした。
『ふう、死ぬかと思った。今日も市ヶ谷は完全に戦場だったな』
ネクタイを緩め、心身ともに消耗しきった表情でリビングに現れたのは、長男の一馬だった。そのすぐ後ろから、大きなリュックを肩にかけた次男の悠人も、疲弊した顔で眼鏡の位置を直しながら入ってくる。
『おかえり、一馬兄ちゃん、悠人兄ちゃん。飯、できてるよ』
多朗が炒め物の大皿をテーブルに出すと、疲れ果てていた兄たちの顔が、一瞬でふっと和らいだ。
『ありがたい。多朗の作る飯の匂いを嗅ぐと、ようやく脳のスイッチが切れる』
一馬が短く刈り込んだ頭を掻きながら食卓につき、悠人も『助かるよ』と呟いて椅子を引いた。二人きりの兄たちは多朗が用意した大盛りの豚生姜焼きを、美味そうに次々と口へと運んでいく。
『そういえば多朗、海斗から連絡はあったか』
悠人が麦茶を飲みながら、ふと思い出したように訊ねてきた。
『ううん、今週は一度もないよ』
『だろうな。防大の規律としごきは今が一番厳しい時期だ。あいつは今頃、寮のベッドの中で泥のように眠っているさ。上宮の男としては少しお調子者が過ぎるから、横須賀で徹底的に叩き直されるのがちょうどいい』
一馬がガハハと短く笑い、グラスを傾ける。父親がロンドン、海斗が横須賀、国防と学術の最前線で激務をこなす兄二人と多朗。この朝霞の家で交わされる短い夜の会話だけが、上宮家の唯一の日常のオアシスだった。
多朗は自分の納豆ご飯を少しずつ口に運びながら、胸の奥でずっと燻っていた疑問を、何気なさを装って切り出してみた。
『あのさ、一馬兄ちゃん、悠人兄ちゃん』
『ん、なんだ』
一馬が肉をご飯ごと掻き込みながら応じる。
『今日の歴史の授業で森先生が変な話をしたんだ。テレビを観ていると、画面の向こうから都合よく自分の考えをコントロールされている気がする、って。クラスの連中はみんな大爆笑してたんだけどさ。帰り道にコメダでマナともそんな話をしててさ。俺、実は家でひとりでテレビをつけているとき、本当にその感覚があって怖くなることがよくあるんだよね。なんか、自分の脳みそを直接、別の誰かにいじられているような、変なゾクゾクする感じがして』
多朗がそこまで言い終えた、まさにその瞬間だった。
一馬の箸を持つ手が、信じられないほどの正確さでピタリと止まった。悠人が次の肉を掴もうとした瞬間、眼鏡の奥の瞳がほんの一瞬だけ、鋭く冷たい光を放った。
部屋の中の空気が、まるで見えない壁で一瞬にして遮断されたかのように、異様な緊張感で張り詰める。それは市ヶ谷のインテリジェンスや東大の最先端研究室で、彼らが国家の重大機密に直面したときに見せる、プロの顔そのものだった。
しかし、その硬直は本当に一瞬だった。一馬は何事もなかったかのように肉を咀嚼すると、ふっといつもの優しい兄の顔に戻って笑ってみせた。
『多朗、テレビなんてものはな、ただの電波を使った娯楽だ。お前は高校に入ったばかりで環境の変化に少し疲れているだけだよ。そんなオカルトじみた話に脳のメモリを割くのは時間の無駄だ』
『そうだよ、多朗』
悠人もまた、不自然なほど滑らかな口調で、いつもの学問的な正論を並べ始めた。
『情報工学の観点から言えば、テレビの急速な画面の切り替わりや特定の周波数は、人間の脳波を一時的に緊張状態にさせる視覚効果があるんだ。それを思考の誘導だなんて飛躍させるのは、ただのメディア論の誤用さ。気にする必要はない。お前は普通の高校生なんだから、美味い飯でも作って、そういう文民の日常を全力で楽しんでいろ』
悠人は静かに笑い、多朗の皿にサラダを小分けにした。
年の離れた弟を優しく諭し、安心させるための、兄たちの思いやりに満ちた言葉。
しかし、今の多朗は騙されなかった。マナに直感を肯定された多朗の脳は、今のやり取りのなかに隠された、決定的な防衛線を完全に見逃さなかった。
一馬のあのプロの軍人としての鋭すぎる静止。悠人の、あえて正論を並べてこれ以上の追及を打ち切ろうとした不自然なほどの滑らかさ。
兄たちは、多朗の感じた恐怖を笑い飛ばしたのではない。
父親がロンドンで向き合い、一馬や悠人がこの国の国防の中枢で触れている、世界のシステムを都合よく誘導している巨大な最高機密の領域に、末っ子の多朗が偶然にも指を触れそうになったから、全力ではぐらかし、隠蔽したのだ。多朗を、何も知らなくていい普通の日常の枠の中に、必死に押し込めようとしていた。
多朗の直感が、兄たちの優しい隠し事の裏にある、底知れない闇と防衛線の輪郭をカチリと捉えていた。
夜、兄たちがそれぞれの部屋へと引き上げ、再び静まり返ったリビングで、多朗はひとりリモコンを握ってテレビを消した。真っ暗になった画面に映る自分の顔をじっと見つめながら、上宮という血筋が背負う本当の役目が、すぐ近くまで迫っていることを多朗は静かに確信していた。




