放課後のコメダでマナに打ち明けた本音と、夕闇の境内で交わされた不穏な予感
歴史の授業が終わり、森先生が分厚い教科書を脇に抱えて教室を出ていくと、すぐに次の休み時間の騒がしさが戻ってきた。前の席の剛田が、大きな背中をこちらに向けてゲラゲラと笑う。
『いやあ、今日の森爺の東スポ節もキレキレだったな! 新聞は東スポだけでいいって、授業で言うセリフじゃねえよな』
『あ、ああ、そうだな』
多朗は引きつった笑いを浮かべながら、曖昧に頷いた。頭の奥では、さっき森先生が言っていたテレビの思考誘導という言葉が、まだ冷たいトゲのように刺さったままだ。
斜め前の席に座る相羽の方を何気なく見ると、彼女は手元の筆箱を無意味に開け閉めしていた。さっき多朗にだけ父親への不信感を漏らした時の真剣な表情は消え、今はどこか決まり悪そうに、頑なに多朗と目を合わせようとしない。
そんな少しぎこちない空気の中、隣の席からマナがひょこっと顔を覗かせてきた。大きな瞳を輝かせながら、おっとりとした口調で多朗に話しかける。
『上宮くん。今日の放課後なんですけれど、成増の駅前にあるコメダに行きませんか?』
『え、コメダ? 購買のパンじゃなくて?』
『はい。なんだか無性に、あそこのおっきなカツサンドが食べたくなってしまいまして。剛田くんもどうですか?』
誘われた剛田は、あからさまに残念そうな顔をして頭を掻いた。
『うわ、マジかよマナ。めちゃくちゃ行きたいけど、俺、今日の放課後は部活の居残り練習があるんだよ。多朗、俺の分まで食ってきてくれ』
『ふふ、分かりました。剛田くんの分までしっかり味わってきますね』
マナは嬉しそうに微笑み、多朗を振り返った。多朗は胸の中のモヤモヤをマナに聞いてもらいたいような気持ちもあり、『分かった、行こう』と頷いた。
夕方、成増駅前のコメダ珈琲店は、学校帰りの学生や近所の買い物客でそれなりに賑わっていた。木目調の落ち着いた店内のボックス席に腰を下ろすと、マナは迷うことなくメニューを開き、楽しそうに注文を決めていく。
しばらくして、テーブルの上に注文したものが運ばれてきた。
『お待たせいたしました。カツパンと、肉厚ハンバーガーです』
店員が置いた皿を見て、多朗は思わず目を見張った。メニューの写真で見るよりも明らかに一回り以上大きい、巨大なカツサンドと分厚いハンバーガーが湯気を立てている。お皿からはみ出しそうなカツのボリュームは圧巻だった。
『わあ、やっぱりすごく大きいです! 幸せですね、上宮くん』
マナは子供のように目を輝かせると、小さな両手で大きなカツサンドを器用に持ち上げ、小気味いい音を立てて頬張った。ソースを少し口元につけながら、本当に美味しそうに咀嚼している。
多朗もハンバーガーにかじりつきながら、しばらくはマナの食べっぷりを眺めていた。だが、コーヒーを一口飲んで一息ついたところで、ずっと胸の中に溜まっていた疑問を静かに口に出した。
『なあ、マナ。さっきの三限目の歴史の話なんだけどさ』
『森先生の、東スポのお話ですか?』
マナはカツサンドを一度皿に置き、首を少し傾げた。
『いや、東スポは笑ったんだけどさ、その後の話だよ。テレビを観ている時に、何気なく画面の言葉を浴びているうちに、なぜか自分の思考を都合よく誘導されているような感覚があるって言ってただろ』
多朗は周りに聞こえないよう、声を潜めて言葉を続ける。
『俺、実はさ、家でひとりでテレビをつけている時、たまにすごく嫌な気持ちになるんだ。流れているニュースも、みんなが笑っているバラエティも、なんだか全部、誰かが決めた台本通りに俺たちの感情を動かそうとしているんじゃないかって。そう思ったら急に気味が悪くなって、思わずリモコンで電源を消しちゃうことがよくあったんだよ。相羽も、あながち笑えないって言ってたし。やっぱり俺、考えすぎなのかな』
多朗は自嘲気味に苦笑した。クラスの連中があれほど大爆笑していた話を、真に受けて真剣に悩んでいる自分がどこか恥ずかしくもあった。
マナは多朗の言葉を笑うことも茶化すこともなかった。口元を紙ナプキンで丁寧に拭うと、その大きな瞳で真っ直ぐに多朗の目を見つめてきた。いつものおっとりとした雰囲気とは違う、どこか全てを見通しているかのような、静かで温かい眼差しだった。
『上宮くん』
マナは優しく、しかしはっきりとした口調で言った。
『上宮くんは、その直感を信じた方がいいですよ』
『え?』
『みんなは笑っていましたけれど、自分の頭の中で感じる違和感や、何かがおかしいって思う気持ちはとても大切なものです。世間の常識やテレビが言っていることよりも、上宮くん自身が感じたその感覚の方が、ずっと本物に近いことだってありますから』
マナはそう言うと、いつものおっとりとした笑顔に戻り、ストローでジュースをちゅっと吸った。
『だから、考えすぎなんて思わなくて大丈夫です。私は、上宮くんのその感覚、すごく素敵だと思いますよ』
マナのその言葉は、多朗の胸の中に冷たく滞っていた塊を、すっと溶かしていくような不思議な安心感があった。
『さあ、上宮くんも冷めないうちに食べてください。残したら剛田くに怒られちゃいますよ』
『あ、ああ。そうだな』
多朗は目の前のハンバーガーをもう一度手に取り、大きく口を開けてかじりついた。マナに直感を肯定されたことで救われた気持ちになると同時に、この平和な日常のすぐ裏側に本当に何かが潜んでいるのではないかという確信が、静かに多朗の心に根を張っていった。
コメダを出て駅前で多朗と別れたマナは、成増の駅前を完全に通り過ぎ、旭町の静まり返った住宅街へと足を進めていた。
街道から一本入った場所にある古い敷地へ滑り込む。石の鳥居をくぐった瞬間、周囲の喧騒がふっと綺麗に消え去った。認識阻害の結界が、外部の空間を遮断している証拠だった。
社殿の重い引き戸をガラガラと開けると、居間では私服姿の白金校長が静かにお茶を啜っていた。
『おかえり、マナ。多朗の様子はどうだ』
白金の静かな問いかけに、マナは丁寧にお辞儀をした。
『ただいま戻りました、校長先生。今日の歴史の授業で、森先生が思考誘導のお話をしたんです。そうしたら上宮くん、自分も家でテレビを観ている時に全く同じ違和感を持っていたと教えてくれました。怖かったと言っていました』
白金が深く頷いたその時、奥の土間から作業服を着たガタイのいい男、ザルクス技術長が顔を出した。
『フン、相変わらずあの小僧に甘い顔をしているようだな。おいマナ、機体の量子同期エラーは出ておらんのだろうな』
『はい、ザルクスさん。問題ありません。今日も美味しくカツサンドを食べてきました』
『勘違いするな。お前の生体アバターとしての適応力を維持するための栄養補給だ。明日のおばんざいも仕込んでおいたから、残さず食えよ』
ザルクスが不機嫌そうに鼻を鳴らして奥へ戻っていくと、マナはさらに奥の小上がりへと進んだ。
長火鉢の脇で煙管をくゆらせていたのは、艶やかな着物姿の女性、応為であった。肉体を持たぬ霊体でありながら、その佇まいには圧倒的な気品と温もりが宿っている。
『お帰り、マナ。今日もよく頑張ったねえ』
応為は煙管を置くと、マナを膝元へ優しく引き寄せ、その頭を撫でた。マナは応為の膝にそっと頭を預け、安らぎの表情を浮かべた。
『お姉さん、上宮くんは自分の直感で、この街や世界の歪みに気づき始めています』
『そうかい。あの子の無邪気な笑顔の裏にある血脈と宿命を思うと心が痛むけれど、多朗ちゃんが自分の足で歩み始めた証拠だね』
『はい。上宮くんがどんな運命を選ぼうとも、私は最後まで上宮くんを守り抜きます』
『強い子だね。辛くなったら、いつでも甘えなさい』
応為は柔らかな手つきでマナの髪を撫で続けた。外の夕闇は深く沈み、静寂に包まれた旭町の社に、かすかな通信ノイズが低く響いていた。




